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第二章 婚約
4 侯爵令嬢と伯爵夫人
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「婚約!? あのダンビエール公爵と! まぁ!」
素っ頓狂な声を上げたラクロワ伯爵夫人アレクサンドリーネ・マルは、慌てて手にしていた扇で開けっぱなしになりかけていた口元を隠した。
オリヴィエールとの婚約が内々で決まった二日後、ベルティーユの親友であり三つ年上のラクロワ伯爵夫人がカルサティ侯爵邸を訪ねてきた。
昨年、二十歳年上のラクロワ伯爵と結婚したアレクサンドリーネは、貴族階級の出身ではない。
元は王立歌劇場の歌手だ。
歌手といっても独唱ができるような歌姫ではなく、合唱でも舞台に上がることができないほとんど雑用係のようなものだった。
ベルティーユの母方の叔父の妻の従弟の娘、というほぼ他人同然のアレクサンドリーネがカルサティ侯爵家を訪ねてきたのは、五年前のことだ。
王立歌劇場の劇団員に応募するため、侯爵に推薦状を書いて欲しいと頼みに現れた。
そこでアレクサンドリーネとベルティーユは意気投合し、親友になった。
地方からたったひとりで歌姫を目指して王都にやってきたアレクサンドリーネの熱意に、王妃を目指して昼夜勉強漬けの毎日だったベルティーユは共感したのだ。
もっとも、アレクサンドリーネはその後ラクロワ伯爵という後援者を得ると、あっさりと歌姫の道を諦めて伯爵夫人になった。喉を痛めて歌を続けられなくなった、というのが一応の理由だが、アレクサンドリーネの歌唱力では十年かかっても歌姫の座を獲得するのは難しかったというのが実状だ。
「驚きすぎて、もうちょっとで紅茶を噴き出すところだったわ」
冗談なのか本気なのかよくわからない表情で、アレクサンドリーネはベルティーユを見つめた。
「それにしても、よくまぁベルは陛下を諦めてダンビエール公爵の求婚を受け入れたわね」
「驚いているのはそこ?」
「ダンビエール公爵があなたに求婚したことについては、そう驚かないわ。彼は、目の前の好機を見誤る人ではなさそうだもの」
「好機?」
「えっと――……そうそう、宰相の手持ちの駒を奪う好機ってところよ」
なんだかとってつけたような理由だったが、ベルティーユはあまり深く追求しないことにした。
「陛下を諦めたというか、王妃になるのは諦めざるを得なかったというか……」
「なぁに? その曖昧な言い方。まるで、まだ陛下に未練があるみたいじゃないの」
「だって、突然陛下の花嫁にはなれませんと言われても、『はい、わかりました』とすぐに割り切れるものではないわ。これまでずっと王妃になることだけを目標にしてきたんだもの」
口籠もりながらベルティーユが言い訳をすると、アレクサンドリーネは苦笑いを浮かべた。
「ま、あなたはずっと陛下一筋で、よそ見は一切しなかったものね」
「えぇ! そうなの! 陛下だけを見続けてきて、陛下のことだけを考えてきたわ! 陛下が牡丹の花がお好きだと聞けば牡丹の刺繍をした手巾を贈ってみたり、薔薇の実の砂糖漬けがお好きだと聞けば料理人に作り方を習って作ってみたり、陛下が好まれることをたくさん研鑽してきたの!」
どん、と円卓の上に二百枚以上ある紙束をベルティーユは置いた。
「――それはなに?」
紐で綴られた紙束の量に気圧されたアレクサンドリーネが訊ねる。
「陛下に関する報告書よ」
「なんでそんなものがあなたの手元に届くのよ!? まさかあなた、王宮に諜報員でも送り込んでいるの!?」
またしても紅茶を噴き出し掛けたアレクサンドリーネは、驚きで顔が真っ青になっていた。
「これは伯父様の秘書から届けられる報告書よ。陛下についてなんでもいいから教えてね、と頼んでおいたら、定期的に陛下のお気に入りの食べ物や服、本、絵画など、私的な情報を教えてくれるの」
「あなた、けっこうしっかりと王宮に情報網を持っていたのね。ただ闇雲に王妃を目指していたわけではないのね」
感心するというよりは半分呆れた様子でアレクサンドリーネは紙束を見つめる。
とはいえ、王の私生活を事細かに書かれた報告書には手も触れなかった。
機密情報ではないが、アレクサンドリーネはベルティーユほど国王に興味がなかったのだ。
「それで、その報告書の山をいずれはロザージュ王国の王女様に差し上げるの?」
「え? それは――ちょっと……」
言い淀んだベルティーユは、紙束を自分のそばに引き寄せた。
「また必要になる日が来る……いえ、陛下に内緒で王女様に陛下の私的な情報を渡すわけにはいかないわ!」
「へー、ふーん。まだ完全に未練を断ち切ったわけではないということかしらねぇ」
胡乱な目つきでアレクサンドリーネはベルティーユを観察した。
「そ、それより、あなたに相談したいことがあったの!」
ミネットに命じて紙束を片付けさせたベルティーユは、無理矢理話題を変えた。
「先日、オリヴィエールから贈り物を貰ったの。それで、お返しになにか欲しいと言われたのだけれど、なにを贈ったらいいのかわからなくて、一緒に考えて欲しいの!」
「贈り物?」
まだ疑わしげな視線をベルティーユに向けつつ、アレクサンドリーネはすこしだけ考えるように眉を動かした。
「――なんでもいいんじゃない?」
アレクサンドリーネはものすごく適当な返事をした。
「オリヴィエールもなんでもいいって言ったけれど、その『なんでも』ってのがとても難しいのよ」
「それこそ、手巾に刺繍でもして渡せばいいじゃないの。公爵が好きな花とか、好きな色とかで」
話題がダンビエール公爵に移った途端、アレクサンドリーネの答えはすべて雑になった。
「好きな花……ってなにかしら」
真顔でベルティーユは首を傾げる。
「本人に聞きなさい」
至極まっとうで簡潔な返事でアレクサンドリーネは話を終わらせた。
素っ頓狂な声を上げたラクロワ伯爵夫人アレクサンドリーネ・マルは、慌てて手にしていた扇で開けっぱなしになりかけていた口元を隠した。
オリヴィエールとの婚約が内々で決まった二日後、ベルティーユの親友であり三つ年上のラクロワ伯爵夫人がカルサティ侯爵邸を訪ねてきた。
昨年、二十歳年上のラクロワ伯爵と結婚したアレクサンドリーネは、貴族階級の出身ではない。
元は王立歌劇場の歌手だ。
歌手といっても独唱ができるような歌姫ではなく、合唱でも舞台に上がることができないほとんど雑用係のようなものだった。
ベルティーユの母方の叔父の妻の従弟の娘、というほぼ他人同然のアレクサンドリーネがカルサティ侯爵家を訪ねてきたのは、五年前のことだ。
王立歌劇場の劇団員に応募するため、侯爵に推薦状を書いて欲しいと頼みに現れた。
そこでアレクサンドリーネとベルティーユは意気投合し、親友になった。
地方からたったひとりで歌姫を目指して王都にやってきたアレクサンドリーネの熱意に、王妃を目指して昼夜勉強漬けの毎日だったベルティーユは共感したのだ。
もっとも、アレクサンドリーネはその後ラクロワ伯爵という後援者を得ると、あっさりと歌姫の道を諦めて伯爵夫人になった。喉を痛めて歌を続けられなくなった、というのが一応の理由だが、アレクサンドリーネの歌唱力では十年かかっても歌姫の座を獲得するのは難しかったというのが実状だ。
「驚きすぎて、もうちょっとで紅茶を噴き出すところだったわ」
冗談なのか本気なのかよくわからない表情で、アレクサンドリーネはベルティーユを見つめた。
「それにしても、よくまぁベルは陛下を諦めてダンビエール公爵の求婚を受け入れたわね」
「驚いているのはそこ?」
「ダンビエール公爵があなたに求婚したことについては、そう驚かないわ。彼は、目の前の好機を見誤る人ではなさそうだもの」
「好機?」
「えっと――……そうそう、宰相の手持ちの駒を奪う好機ってところよ」
なんだかとってつけたような理由だったが、ベルティーユはあまり深く追求しないことにした。
「陛下を諦めたというか、王妃になるのは諦めざるを得なかったというか……」
「なぁに? その曖昧な言い方。まるで、まだ陛下に未練があるみたいじゃないの」
「だって、突然陛下の花嫁にはなれませんと言われても、『はい、わかりました』とすぐに割り切れるものではないわ。これまでずっと王妃になることだけを目標にしてきたんだもの」
口籠もりながらベルティーユが言い訳をすると、アレクサンドリーネは苦笑いを浮かべた。
「ま、あなたはずっと陛下一筋で、よそ見は一切しなかったものね」
「えぇ! そうなの! 陛下だけを見続けてきて、陛下のことだけを考えてきたわ! 陛下が牡丹の花がお好きだと聞けば牡丹の刺繍をした手巾を贈ってみたり、薔薇の実の砂糖漬けがお好きだと聞けば料理人に作り方を習って作ってみたり、陛下が好まれることをたくさん研鑽してきたの!」
どん、と円卓の上に二百枚以上ある紙束をベルティーユは置いた。
「――それはなに?」
紐で綴られた紙束の量に気圧されたアレクサンドリーネが訊ねる。
「陛下に関する報告書よ」
「なんでそんなものがあなたの手元に届くのよ!? まさかあなた、王宮に諜報員でも送り込んでいるの!?」
またしても紅茶を噴き出し掛けたアレクサンドリーネは、驚きで顔が真っ青になっていた。
「これは伯父様の秘書から届けられる報告書よ。陛下についてなんでもいいから教えてね、と頼んでおいたら、定期的に陛下のお気に入りの食べ物や服、本、絵画など、私的な情報を教えてくれるの」
「あなた、けっこうしっかりと王宮に情報網を持っていたのね。ただ闇雲に王妃を目指していたわけではないのね」
感心するというよりは半分呆れた様子でアレクサンドリーネは紙束を見つめる。
とはいえ、王の私生活を事細かに書かれた報告書には手も触れなかった。
機密情報ではないが、アレクサンドリーネはベルティーユほど国王に興味がなかったのだ。
「それで、その報告書の山をいずれはロザージュ王国の王女様に差し上げるの?」
「え? それは――ちょっと……」
言い淀んだベルティーユは、紙束を自分のそばに引き寄せた。
「また必要になる日が来る……いえ、陛下に内緒で王女様に陛下の私的な情報を渡すわけにはいかないわ!」
「へー、ふーん。まだ完全に未練を断ち切ったわけではないということかしらねぇ」
胡乱な目つきでアレクサンドリーネはベルティーユを観察した。
「そ、それより、あなたに相談したいことがあったの!」
ミネットに命じて紙束を片付けさせたベルティーユは、無理矢理話題を変えた。
「先日、オリヴィエールから贈り物を貰ったの。それで、お返しになにか欲しいと言われたのだけれど、なにを贈ったらいいのかわからなくて、一緒に考えて欲しいの!」
「贈り物?」
まだ疑わしげな視線をベルティーユに向けつつ、アレクサンドリーネはすこしだけ考えるように眉を動かした。
「――なんでもいいんじゃない?」
アレクサンドリーネはものすごく適当な返事をした。
「オリヴィエールもなんでもいいって言ったけれど、その『なんでも』ってのがとても難しいのよ」
「それこそ、手巾に刺繍でもして渡せばいいじゃないの。公爵が好きな花とか、好きな色とかで」
話題がダンビエール公爵に移った途端、アレクサンドリーネの答えはすべて雑になった。
「好きな花……ってなにかしら」
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