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第六章 公爵夫妻の蜜月

1 公爵夫人の心得

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 翌日、ようやくベルティーユは二日酔いから解放された。
 心配をかけたオリヴィエールたちに旅の予定がずれたことを繰り返し詫びて、なんとか旅行は再開となった。

(新婚激甘夫婦、ねぇ)

 二日酔いによる頭痛は治まったベルティーユだが、アレクサンドリーネの書き付けを眺めていると別の頭痛に襲われる。よく揺れる馬車の中で文字を読んでいるせいだけではないはずだ。

「ベル、それはなに?」

 熱心にベルティーユが紙片を睨んでいることに気付いた向かい側の席のオリヴィエールが、興味深そうに訊ねてくる。

「これは……ラクロワ伯爵夫人からいただいた夫婦の心得ですわ」
「見せてもらってもいい?」
「駄目です。これは殿方に見せるものではありませんもの」

 さっとベルティーユが紙片を両手で挟んで隠すと、オリヴィエールの顔が曇った。

「気になるな。まさか、ラクロワ伯爵夫人の名を語った誰かが貴女に恋文を送ってきていたりしないだろうね。王都を旅立つ日にはそんな物は持っていなかったように思うけど、いつ届いたんだい?」
「え? わたしの荷物のすべてを髪留めのピンの数から紙切れの一枚まですべて把握していらっしゃるわけではないですわよね!?」
「できることならそうしたいと思っているよ? もちろん、貴女も僕の荷物のすべてが見たいというならいつでも確認してくれてかまわない」
「いえ、結構です」
「そこまで僕に興味がないということ?」
「どうしてそういう話になるんですか! あと、この紙切れは本当にラクロワ伯爵夫人からいただいた物です! 彼女から、人妻としてどのように振る舞えば良いかということが書かれているだけです!」
「では、見せてくれないかい?」
「女同士の会話に首を突っ込む殿方は無作法でしてよ!」

 アレクサンドリーネは平民からラクロワ伯爵夫人まで成り上がっただけあって、心得の内容が多少過激で、オリヴィエールには見せられないだけだ。
 もちろん、必ずこれらを実践しなければならないわけではないが、アレクサンドリーネの書きっぷりからすれば『実践あるのみ!』という彼女の意見が行間から漂ってきている。

「じゃあ、どんなことが書かれているかだけでもいいから、教えてくれないかい?」
「これは、新婚夫婦はどのように振る舞えば良いかということが書いてあるのです」
「例えば?」
「例えば……椅子に座るときはひとり掛けではなく長椅子に並んで座るのが良いとか」
「なるほど。じゃあ、さっそく伯爵夫人の指示に従ってみようか」
「は?」

 オリヴィエールは、ベルティーユの右隣に座る侍女のミネットに席を替わるように指示する。
 公爵夫人の宝石箱を膝の上に置いて抱えていたミネットは、重い箱ごと狭い馬車の中で移動する羽目になった。
 ダンビエール公爵夫妻は進行方向に向いた席に夫婦で座る格好となった。

(えっと、まぁ確かに、アレクサンドリーネの指示どおりではあるわね)

 オリヴィエールと肩が触れ合い、さきほどよりも座席が狭く感じるのは、オリヴィエールがミネットより大柄であるせいだけではないはずだ。

「次は?」

 オリヴィエールはベルティーユの手元を覗き込みはしなかったが、なにやら楽しげに続きを読み上げるようさいそくする。

「長椅子に座っているときは……身体を……寄せ合う、とか」

 さすがに身体を密着させると書いてあるとは自分の口からは告げにくい。

「こう、かな?」

 オリヴィエールはベルティーユ側の腕を伸ばすと、妻の腰に手を伸ばして自分の身体に密着させるように力強く引き寄せた。
 ぐいっと引っ張られた勢いと馬車の揺れが激しくなったせいで、思わずベルティーユはオリヴィエールの胸の中に飛び込みかける。

「え、えっと、そ、そうですね! 多分、こんな感じで良いと思います!」

 なぜかアレクサンドリーネの指示どおりになってしまったので戸惑ったが、ベルティーユはなんとか座席に座り直しながら頷いた。
 ミネットと家令は夫婦の会話が聞こえているはずなのに、涼しい顔をしている。
 使用人の鏡というべきか、場合によっては耳が聞こえない状態になる器用な特技でも習得しているのかもしれない。

「これで終わり?」
「い、いえ、あと、街中を歩く際は腕を組んで歩くとか」
「ふうん。なかなか的確な指示だね。なら、馬車の中では手を繋いでいるというのはどうかな?」

 オリヴィエールの提案に、ベルティーユは目を丸くした。

「手を繋ぐ?」

 そんな必要がどこにあるのか、と思ったが、ベルティーユが戸惑っている間にオリヴィエールは腰に回した手をベルティーユの左手の指に絡ませ、ベルティーユの右手は自分の右手側に引き寄せた。

「――――――この格好、疲れませんか?」
「僕は楽しいよ」

 オリヴィエールは本当に楽しそうに微笑んだ。

「他にもある?」
「あとは、あなたを見る際はう……いえ、これ以上は内緒です。一度に実践できるものではありませんし!」

 いくら馬車の中という密室でも、目の前には使用人がいるのだ。
 ミネットも家令も気心が知れているとは言え、新婚夫婦が道中ひたすら目の前でいちゃいちゃとたわむれているのを見せられてはたまったものではないだろう。

「うん、まぁそれも一理あるね。ところで、馬車の中では夫の膝の上に座るというのは書いてないかい?」
「書いてありませんし、こんなに広い馬車の中ではもっとゆったりとくつろいで座るべきです!」
「貴女が僕の膝の上に座ってくれると、もっとくつろげると思うのだけど?」
「わたしはまったく思いません!」

(これではとてもうっとりと夫を見られる状況にならないわ!)

 顔を紅潮させながらベルティーユは反論する。

「うーん、じゃあ――あ、本当に夫婦の心得が書いてあるだけなんだね」

 オリヴィエールが安心したように呟く。

「え? あっ!」

 ベルティーユがはっと気付いたときには、繋いでいる右手にあったはずの紙片がオリヴィエールの手元にあった。

「僕に視線を向けるときはうっとりした視線を向けること、って書いてあるよ。これならいますぐ実践できるんじゃないかな!」
「読み上げないでくださいませ!」

 恥ずかしさのあまり涙目になりながらベルティーユは訴えた。
 まさか彼が手を繋ぐという手段でベルティーユの手元の紙片を読もうとしていたとは。
 アレクサンドリーネからの指示書が本当に夫婦の心得についてしか書かれていなかったことは都合が良かったが、どうもこの状況が都合が良いとは言い難い。

「ほら、やってみて」
「無理です!」

 明らかにオリヴィエールは面白がっていた。

「誰も見ていないから」
「見ています!」
「見てない、見てない。ほら、そこの二人とも寝てるから。使用人って夜明け前から起きて仕事をしているから、馬車に揺られてると寝てしまうみたいだね」
「たったいま二人とも瞼を閉じましたよね!? 寝たふりしましたよね!?」
「疲れて寝たんだよ」

(そんなわけない!)

 ベルティーユは心の中で叫んだが、かといってこのまま抵抗していてもなにも終わらない。
 それどころか宿場町に着いても、オリヴィエールは馬車から降りようとしないかもしれない。

(う、うっとりと見るって、どうやるわけ!?)

 アレクサンドリーネの指示が大雑把すぎて、ベルティーユには想像ができなかった。

(そういえば、アレクサンドリーネは台本のト書きだけでお芝居ができる女優だったんだっけ……)

 このト書きのような指示書では「うっとり」というのがどのような視線なのか詳しく書かれていない。
 結果として、ベルティーユは涙で潤んだ瞳で、多少恨めしげにオリヴィエールを上目遣いで見つめることとなった。

「――――――わく的過ぎて、理性が崩壊しそうだ……」
「え? どういう意味ですの? なにか変でしたか?」

 謎の言葉を吐いたオリヴィエールは、その後馬車が宿場町で休憩するまでの間、座席の隅で微動だにしなかった。
 もちろん、侍女と家令のふたりも寝たふりはやめなかった。
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