公爵夫人は国王陛下の愛妾を目指す

友鳥ことり

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第七章 王太后の計画

5 公爵の妬心

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 漆黒の略装姿のオリヴィエールは、ゆっくりとした足取りで立ちすくむベルティーユの前までやってきた。

「帰りが遅いので迎えにきたよ、奥様。あぁ、君は宰相閣下のところに戻るといい。もう案内は必要ないからね」

 次官に目を遣ったオリヴィエールは、ねぎらう様子を見せながら追い払おうとする。

「では、失礼いたします」

 次官は恭しく頭を下げると、わずかに顔を強張らせながら宰相の執務室へと続く廊下へと踵を返した。

(ちょっと! 敵前逃亡するのはやめて!)

 ベルティーユは次官の上着を掴んで引き留めたかったが、さすがにオリヴィエールの前で伯父の部下とはいえ他の男にすがるわけにはいかない。

(なんか、この廊下の温度が急激に下がったような気がするんですけど!?)

 ろうそくの温かな灯りで照らされているはずの廊下で身震いがした。

「ベル、どうしたの? 寒い?」

 妻が震えていることに気付いたオリヴィエールが、手袋をした手でベルティーユの頬にそっと触れる。

「え、えぇ、ここは少々冷えますわね!」

 後ろめたいことなどないと言えばないはずだが、ベルティーユはオリヴィエールが無意識に機嫌を損ねていることを感じていた。

「まさかまで迎えに来てくださるとは思いませんでしたわ! ご足労をおかけしてもうしわけありません」
「別に貴女が謝ることじゃないよ。僕が貴女の帰りを待ちきれずに迎えに来てしまっただけなのだから」

 ベルティーユの横に立つと、オリヴィエールはそっと愛妻の肩を抱く。

「でも、雪が激しくなってきていることだし、屋敷まで馬車を走らせるのは危ないから、今夜は王宮に泊まることにしようか」
「え?」
「僕も王宮に部屋をひとついただいているから」

 王宮内には、宰相や閣僚、有力貴族などが休憩したり寝泊まりするための部屋がいくつかあり、王侯貴族たちは王から宮殿内の部屋を与えられることをひとつの特権としている。
 オリヴィエールは結婚後、一度も王宮に泊まることがなかったのでベルティーユは知らなかったが、ダンビエール公爵のための部屋が宮殿内には用意されているらしい。

「でも、侍女を連れてきていますし……」
「彼女はすでに帰らせているよ。明日は僕の馬車で帰ろう」
「ミネットを帰らせてしまったのですか!?」

 王宮に泊まるとなると、明日の朝の身支度を手伝ってくれる侍女が必要となる。
 深窓の令嬢育ちであるベルティーユは、生まれてからこれまでひとりで着替えや髪を整えるといった身支度をしたことがない。
 王妃候補として教育を受けていた頃は、王宮のしきたりにのっとった身支度ができるように訓練を重ねたことはあるが、ひとりでドレスのぼたんをかけることなど練習でもしたことがないのだ。

「そういえばオリヴィエール、あなたの従僕の姿も見えませんが――」
「部屋のだんに火を入れておくよう命じたからね」

 夜のとばりが下りた王宮内の、人影がほとんどない廊下で万が一刺客が襲ってきたらどうするのだ、とベルティーユは不安になったが、オリヴィエールは命が狙われている自覚がないのか、とんちゃくしている様子はない。

「こちらにおいで、ベル。そろそろ部屋も暖まっている頃だろうから」
「え……えぇ」

 まさか王宮で泊まることになるとは予想していなかったベルティーユは、オリヴィエールに肩を抱かれたまま、薄暗い廊下をぎくしゃくと歩き出した。

     *

 ダンビエール公爵家の紋章が扉にかかった部屋は、居間と寝室の二間があるもののそう広くはない。
 公爵家の屋敷のどの客室よりも狭いくらいだが、王宮内に部屋を与えられていることが名誉である王侯貴族にとって、部屋の広さは問題ではないのだろう。
 居間の小さな暖炉では薪が勢い良く燃やされ、冷えた空気をゆっくりと暖めつつあった。
 居間の円卓には軽食が並び、長椅子は暖炉に向けて配置されている。
 濃緑色の窓幕カーテンには金糸で柊の模様が刺繍されており、朱色に銀糸で刺繍された長椅子や丸椅子などの調度品とよく合っていた。
 花などは飾られておらず、掃除は行き届いているが、ほとんど部屋が使われた形跡はない。

「さぁ、ベル。ここに座って」

 部屋までベルティーユを案内してきたオリヴィエールは、長椅子の中央に愛妻を座らせた。
 公爵付きの侍従の姿はなく、部屋の中ではまきぜる音だけが時折響くのみだ。

(な、なんか緊張するわ……)

 人の気配がない二人きりという状況に動揺しつつ、ベルティーユは背筋を伸ばして長椅子に腰を下ろした。

「どうしたの? もっとくつろいでくれて良いんだよ? ここは王宮内とはいっても、僕たち以外は誰も入れない部屋だからね」
「そ、そうね」

 誰もこないからこそ息が詰まるのだとはベルティーユも言いづらい。
 オリヴィエールと二人だけになることは日常茶飯事だというのに、今日はなぜかいつもとは違う気がした。

「さぁ、温かいでも飲んで」

 耐熱性の硝子の杯に入れた温めた葡萄酒をオリヴィエールは差し出す。

(急にこれだけの物を用意しろと言われた侍従は慌てたでしょうね)

 円卓の上に並んだ軽食を見遣りつつ、ベルティーユは葡萄酒に口を付けた。
 温められた葡萄酒は口当たりが良く、喉から胃に流れ込むと腹の中がふんわりと温もるのを感じる。

「お腹も空いているんじゃないかい? 王太后様とお会いして、疲れただろう?」
「えっと……そ、そう、かもしれないわね」

 王太后の部屋で菓子と紅茶をいただいたし、宰相の執務室でも軽食が出たので、そう腹は空いていなかったが、断るのも悪い気がしてベルティーユは野菜のタルトに手を伸ばした。
 口の中になにか入れていれば、オリヴィエールに質問されてもあまり喋らなくても済むのではないかという考えがあったせいもある。

「――――で」

 オリヴィエールはふたつ目のパイをベルティーユが頬張る様子に目を細めながら、愛妻の隣に腰を下ろした。
 まったくの真横、指一本の隙間もなく、腰を密着させるように座った。

「王太后様は、貴女にどんな話をされたのかな?」
「う゛っ――――」

 突然始まった尋問に、口の中に入っているパイが喉に詰まりそうになった。

「別に、言いたくないのであれば言わなくても良いよ」

 オリヴィエールはパイをなんとか飲み込もうと葡萄酒を飲む妻の髪に手をやると、結い上げた亜麻色の髪に挿してある金のくしに指を伸ばした。

「ん――――――っ」

 まだパイがしゃくしきれていなかったので、ベルティーユは口を閉じたまま抗議をした。
 櫛を髪から外されてしまうと、自分では髪を結い上げ直すことができないからだ。

「王太后様は、貴女が王妃として王宮に上がらなかったことをいまでも惜しんでいるそうだね。今日の貴女の姿を見て、ますますその気持ちを強くされたことだろうね」

 ベルティーユが困る姿を愉しむように、オリヴィエールはゆっくりと櫛を髪から引き抜いた。
 結い上げられていた亜麻色の髪が、流れるようにベルティーユの背中に垂れる。

「オリヴィエール!」

 ようやくパイを飲み込んだベルティーユが苛立った様子で名前を呼ぶと、オリヴィエールは柔らかな笑みを浮かべたまま妻の顔を覗き込んだ。

「久しぶりに陛下にお会いして、どうだった?」
「――――え?」

 オリヴィエールは自分の手袋を外すと、垂れた亜麻色の髪の一房を指に絡め、自分の口元へと持って行った。
 戸惑った表情の妻を凝視したまま、ゆっくりと髪に唇を付ける。
 髪には神経は通っていないはずなのに、髪から夫の唇の熱が伝わってくるような感触がして、ベルティーユは頬が熱を帯びるのを感じた。

「お、お会いできて嬉しかったわ。お声もかけていただいたし。でも――」

 声を震わせながら、ベルティーユは必死で答えた。
 オリヴィエールがなにを言わんとしているのか、わかるようでわからなかったのだ。

「……陛下にお会いできて嬉しいのは、皆、同じでしょう?」

 薪があかあかと燃える暖炉の前だというのに、葡萄酒で身体は温まっているはずなのに、ベルティーユは自分の舌が凍えてうまく言葉を紡げていない気がした。
 返答としては悪くないはずなのに、オリヴィエールの紫紺色の瞳は満足しているように見えない。時折ちらつく炎を映す瞳がなにを期待しているのか、読み取ることは困難だった。

「――――――なるほど」

 ベルティーユの髪を唇に押し付けたまま、オリヴィエールはようやく目を伏せた。
 ようやく呪縛が解けたように、ベルティーユはふっと息を吐く。

「貴女が陛下の熱心な信奉者のひとりであることを甘く見ていた僕が莫迦だったということだね」
「え?」

 俯き掛けた顔をベルティーユが上げると、その視線を避けるようにオリヴィエールは妻の耳元に顔を寄せた。
 に吐息を吹きかけるように、低い声で囁く。

「さきほどの貴女は、まるで陛下に恋い焦がれるような眼差しを向けていたから、僕は妻の浮気現場に出くわした気分だったよ」
「う、わき……なんて……」

 慌てふためくベルティーユを抱きしめるような格好で背中に手を伸ばしたオリヴィエールは、ドレスの背中の釦に指を掛けた。

「そうだね。浮気ではないね。だって貴女の気持ちは――――変わらず陛下に向いているのだから」

 唸るような声で呟くと、オリヴィエールは妻の耳にゆっくりと舌を這わせた。
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