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第八章 公爵夫人の計画
6 公爵夫妻の駆け引き
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「やぁ、シルヴェストル、久しぶり」
端正な容貌のオリヴィエールは、軽く口の端だけ上げるような笑みを浮かべつつ居間に現れた。
祖父の喪が明けた現在も、暗い色の服を好んで着用している。
今日の濃紺色の上着は冬の雪景色の中で見ると、凜とたたずむ姿が彫像のように美しく、誰もが見惚れるほどだ。
まるで夜の貴公子のようだ、と誰かが夜会で囁くのをベルティーユは聞いたことがある。
真っ暗な闇ではないけれど昏い夜空を衣服のようにまとい、眩しくまたたく星々が輝く中で孤独に微笑んでいるようだ、と。
たくさんの薪が暖炉で燃やされ、外套を脱いでも暑いくらいの室内だというのに、ベルティーユは夫の姿に「夜の貴公子」を思い出した。
彼の全身にまとわりつく外の冷たい空気から感じたのかもしれない。
「本当に久しぶりだな。妹がここにいないとなった途端に訪ねて来なくなった薄情な公爵殿」
「ベルがここにいると聞いたから、訪ねてきたんじゃないか」
友人の嫌味を軽くかわすと、オリヴィエールは長椅子のベルティーユの隣に腰を下ろした。
「そろそろ帰る頃かと思って迎えにきたよ、奥様」
オリヴィエールは外套や手袋はそのままで、ベルティーユの片方の手を握る。
山羊革の手袋は馬車の中で冷えたのか、暖まっていたベルティーユの肌にはひんやりと感じられた。
「わたし、自分の馬車で来ているのに」
ベルティーユはダンビエール公爵夫人専用の馬車をオリヴィエールから贈られていた。いつでも好きなときに出かけられるようにとの配慮で、専用の馬、御者がいる。婦人用の小型の箱馬車だが、それがあるだけでベルティーユは自由に行動することができた。
「あぁ、あれは侍女と一緒に先に帰らせたよ」
「帰らせたの? ミネットも?」
侍女のミネットは侯爵邸の古くからの仕事仲間である使用人たちと親交を深めているはずだった。
それがオリヴィエールの命令で先に帰らされたのだとしたら、今頃馬車の中で憤慨していることだろう。
「僕が貴女と一緒に帰りたかったから」
悪びれた様子もなく、オリヴィエールは答える。
「ベル。もう帰りなさい。お前が帰らないと、公爵邸で使用人たちが晩餐を始められなくて困るだろう」
シルヴェストルはオリヴィエールの行動に呆れているのか、ひらひらと手を振って妹を追い払うように帰宅を促す。
侯爵家の執事が、すぐにベルティーユの外套、手袋、帽子などを持ってきた。
「――そうね。お邪魔しましたわ、お兄様」
オリヴィエールはシルヴェストルと雑談をする気はないらしく、「じゃあ、おいとまするよ」と素っ気なく長椅子から立ち上がる。
仕方なく、ベルティーユは帰り支度を始めた。
*
カルサティ侯爵邸の玄関を一歩出た途端、雪で冷やされた空気が肺に滑り込んできた。
ぶるりと身体を震わせながら、ベルティーユはゆっくりとした足取りで車止めの階段を下りて、馬車に乗り込む。
従者や護衛は車内には入らず、御者台と馬車の後ろに乗った。
「寒い?」
白い息を吐いたベルティーユが肩をすくめる姿をめざとく見つけたオリヴィエールは、馬車が走り出すと同時に腕を伸ばすと彼女を抱き寄せた。
「こうしていると、すこしは温かいかな?」
オリヴィエールの胸の中に抱きすくめられるようにすっぽりと収まったベルティーユは、頬に当たる彼の外套の生地の冷たさに目を細めた。
妻の花飾りをたくさん付けた帽子を取り払ったオリヴィエールは、亜麻色の豊かな髪に顔を埋めるように頭を抱え込む。
「そ、そうね」
耳にオリヴィエールの温かい吐息がかかるのでくすぐったいが、ベルティーユは我慢して頷いた。ここでくすぐったいからと逃げれば、彼が面白がってさらに行動を助長することを最近になって学んだばかりだ。
「なにか、あったの?」
オリヴィエールの腕の中で身じろぎせずにベルティーユは訊ねた。
「なにかって?」
「わざわざあなたが迎えに来てくれるなんて」
「僕が貴女を迎えに来たかったから、来ただけだけだよ」
「でも、夕方には帰るって……」
「夕方になっても帰ってこなかったらどうしようって勝手に心配になって来ただけだよ」
「帰らないなんてことはないわ。それに、実家に行っただけだもの」
「実家だから、だよ。僕に愛想を尽かして帰ったのかもしれないし、実家に帰ってみたらうちに帰りたくなくなったかもしれないしって不安になったんだ」
「そんなことにはならないわよ」
「どうかな。まぁ、そんなことになっても、僕は無理矢理貴女を連れて帰るつもりだったけどね」
ベルティーユの髪に指を絡めながら、オリヴィエールは妻をさらに自分のそばへと引き寄せた。
「貴女の姿が見えないと僕がどれだけ心細くなるか、貴女にはわからないだろうけど」
腕の力を強めたオリヴィエールは、妻の耳朶に口づけると、熱い舌先でゆっくりと味わうようになめた。
ベルティーユが身じろぎしようとするのを腕の力で押さえつけ、強く抱きすくめる。
「そういえば、なぜシルヴェストルは貴女に本を渡したんだい?」
オリヴィエールは妻が感じやすい耳朶をいたぶるように攻めながら、思い出したように訊ねた。
ベルティーユが兄から借りた恋愛小説は、従者がすべて運んでくれた。
「よ、読んでみようと思って。最近は読書をする時間もとれるようになってきたことだし」
さきほどまでの冷えた空気が嘘のように、顔が熱く火照っている。
身体も奥からじんわりと汗ばんでくるのを感じながら、ベルティーユは小声で答えた。
「あれは、シルヴェストルお薦めの恋愛小説だったように思うけど」
「そう、よ。あれですこし勉強をしようと思ったの」
「なにを?」
「恋とか、それにまつわる駆け引き、とか。ほら、陛下と王女様が仲良くなるために――」
「あぁ、なるほど」
王の名が出た途端、オリヴィエールは妻の耳に歯を立てて噛んだ。
「いっ……」
ベルティーユが小さく悲鳴を上げると、「ごめん」とわざとらしくオリヴィエールは謝る。悪びれた様子はなく、彼女が痛がる行為をしたことについて一応口先で詫びたという感じだ。
「結婚した後でも恋が生まれるものかとか、そういうことが本からわかるかもしれないでしょう?」
「小説はあくまでも虚構の世界の出来事だよ。実際に小説のように都合良く物事が進むわけじゃないんだ。どうせ勉強するなら、現実世界で試さないと」
「そうは言っても、既婚のご夫婦に結婚後に恋が生まれましたかなんて聞いて回るわけにはいかないわ」
「じゃあ、僕に聞いてみて」
「……え?」
言われた意味がわからずベルティーユは顔を上げようとしたが、オリヴィエールの押さえ込む力の方が強くてまったく動かせなかった。
オリヴィエールの表情はまったく見えず、艶めいた声だけが耳を震わす。
「ほら、聞いてみて。僕だって既婚者だよ」
「じゃ、じゃあ……あなたは結婚後に……妻との間に恋が生まれましたか?」
「――いいえ」
冷ややかにオリヴィエールは否定した。
「え――――」
思ってもみなかった答えに、ベルティーユは硬直する。
(あぁ、やだ、わたし……なにを期待していたのかしら……。オリヴィエールはわたしの目的のために結婚してくれたのに)
オリヴィエールなら優しい答えをくれるものを勘違いしていた自分を恥じた。
同時に、心臓が寒さで締め上げられるような感覚で頭の中が真っ白になる。
「――結婚後じゃない。僕はずっと以前から恋をしている。無慈悲で残酷な貴女に」
苦しげな吐息とともに、オリヴィエールは囁いた。
「え……?」
まばたきをしてベルティーユは顔を上げようとするが、オリヴィエールはやはり彼女が顔を動かすことを許さなかった。まるで、自分の顔を見られることを拒むように、胸の中に抱え込んだまま蠱惑的な声音でつぶやく。
「今度は僕が質問する番だよ。……ねぇ、僕の愛しい奥様」
いつになく甘やかな声が耳元で響き、ベルティーユは背筋が震えるのを感じた。
「――どうすれば、貴女は僕に恋をしてくれますか?」
端正な容貌のオリヴィエールは、軽く口の端だけ上げるような笑みを浮かべつつ居間に現れた。
祖父の喪が明けた現在も、暗い色の服を好んで着用している。
今日の濃紺色の上着は冬の雪景色の中で見ると、凜とたたずむ姿が彫像のように美しく、誰もが見惚れるほどだ。
まるで夜の貴公子のようだ、と誰かが夜会で囁くのをベルティーユは聞いたことがある。
真っ暗な闇ではないけれど昏い夜空を衣服のようにまとい、眩しくまたたく星々が輝く中で孤独に微笑んでいるようだ、と。
たくさんの薪が暖炉で燃やされ、外套を脱いでも暑いくらいの室内だというのに、ベルティーユは夫の姿に「夜の貴公子」を思い出した。
彼の全身にまとわりつく外の冷たい空気から感じたのかもしれない。
「本当に久しぶりだな。妹がここにいないとなった途端に訪ねて来なくなった薄情な公爵殿」
「ベルがここにいると聞いたから、訪ねてきたんじゃないか」
友人の嫌味を軽くかわすと、オリヴィエールは長椅子のベルティーユの隣に腰を下ろした。
「そろそろ帰る頃かと思って迎えにきたよ、奥様」
オリヴィエールは外套や手袋はそのままで、ベルティーユの片方の手を握る。
山羊革の手袋は馬車の中で冷えたのか、暖まっていたベルティーユの肌にはひんやりと感じられた。
「わたし、自分の馬車で来ているのに」
ベルティーユはダンビエール公爵夫人専用の馬車をオリヴィエールから贈られていた。いつでも好きなときに出かけられるようにとの配慮で、専用の馬、御者がいる。婦人用の小型の箱馬車だが、それがあるだけでベルティーユは自由に行動することができた。
「あぁ、あれは侍女と一緒に先に帰らせたよ」
「帰らせたの? ミネットも?」
侍女のミネットは侯爵邸の古くからの仕事仲間である使用人たちと親交を深めているはずだった。
それがオリヴィエールの命令で先に帰らされたのだとしたら、今頃馬車の中で憤慨していることだろう。
「僕が貴女と一緒に帰りたかったから」
悪びれた様子もなく、オリヴィエールは答える。
「ベル。もう帰りなさい。お前が帰らないと、公爵邸で使用人たちが晩餐を始められなくて困るだろう」
シルヴェストルはオリヴィエールの行動に呆れているのか、ひらひらと手を振って妹を追い払うように帰宅を促す。
侯爵家の執事が、すぐにベルティーユの外套、手袋、帽子などを持ってきた。
「――そうね。お邪魔しましたわ、お兄様」
オリヴィエールはシルヴェストルと雑談をする気はないらしく、「じゃあ、おいとまするよ」と素っ気なく長椅子から立ち上がる。
仕方なく、ベルティーユは帰り支度を始めた。
*
カルサティ侯爵邸の玄関を一歩出た途端、雪で冷やされた空気が肺に滑り込んできた。
ぶるりと身体を震わせながら、ベルティーユはゆっくりとした足取りで車止めの階段を下りて、馬車に乗り込む。
従者や護衛は車内には入らず、御者台と馬車の後ろに乗った。
「寒い?」
白い息を吐いたベルティーユが肩をすくめる姿をめざとく見つけたオリヴィエールは、馬車が走り出すと同時に腕を伸ばすと彼女を抱き寄せた。
「こうしていると、すこしは温かいかな?」
オリヴィエールの胸の中に抱きすくめられるようにすっぽりと収まったベルティーユは、頬に当たる彼の外套の生地の冷たさに目を細めた。
妻の花飾りをたくさん付けた帽子を取り払ったオリヴィエールは、亜麻色の豊かな髪に顔を埋めるように頭を抱え込む。
「そ、そうね」
耳にオリヴィエールの温かい吐息がかかるのでくすぐったいが、ベルティーユは我慢して頷いた。ここでくすぐったいからと逃げれば、彼が面白がってさらに行動を助長することを最近になって学んだばかりだ。
「なにか、あったの?」
オリヴィエールの腕の中で身じろぎせずにベルティーユは訊ねた。
「なにかって?」
「わざわざあなたが迎えに来てくれるなんて」
「僕が貴女を迎えに来たかったから、来ただけだけだよ」
「でも、夕方には帰るって……」
「夕方になっても帰ってこなかったらどうしようって勝手に心配になって来ただけだよ」
「帰らないなんてことはないわ。それに、実家に行っただけだもの」
「実家だから、だよ。僕に愛想を尽かして帰ったのかもしれないし、実家に帰ってみたらうちに帰りたくなくなったかもしれないしって不安になったんだ」
「そんなことにはならないわよ」
「どうかな。まぁ、そんなことになっても、僕は無理矢理貴女を連れて帰るつもりだったけどね」
ベルティーユの髪に指を絡めながら、オリヴィエールは妻をさらに自分のそばへと引き寄せた。
「貴女の姿が見えないと僕がどれだけ心細くなるか、貴女にはわからないだろうけど」
腕の力を強めたオリヴィエールは、妻の耳朶に口づけると、熱い舌先でゆっくりと味わうようになめた。
ベルティーユが身じろぎしようとするのを腕の力で押さえつけ、強く抱きすくめる。
「そういえば、なぜシルヴェストルは貴女に本を渡したんだい?」
オリヴィエールは妻が感じやすい耳朶をいたぶるように攻めながら、思い出したように訊ねた。
ベルティーユが兄から借りた恋愛小説は、従者がすべて運んでくれた。
「よ、読んでみようと思って。最近は読書をする時間もとれるようになってきたことだし」
さきほどまでの冷えた空気が嘘のように、顔が熱く火照っている。
身体も奥からじんわりと汗ばんでくるのを感じながら、ベルティーユは小声で答えた。
「あれは、シルヴェストルお薦めの恋愛小説だったように思うけど」
「そう、よ。あれですこし勉強をしようと思ったの」
「なにを?」
「恋とか、それにまつわる駆け引き、とか。ほら、陛下と王女様が仲良くなるために――」
「あぁ、なるほど」
王の名が出た途端、オリヴィエールは妻の耳に歯を立てて噛んだ。
「いっ……」
ベルティーユが小さく悲鳴を上げると、「ごめん」とわざとらしくオリヴィエールは謝る。悪びれた様子はなく、彼女が痛がる行為をしたことについて一応口先で詫びたという感じだ。
「結婚した後でも恋が生まれるものかとか、そういうことが本からわかるかもしれないでしょう?」
「小説はあくまでも虚構の世界の出来事だよ。実際に小説のように都合良く物事が進むわけじゃないんだ。どうせ勉強するなら、現実世界で試さないと」
「そうは言っても、既婚のご夫婦に結婚後に恋が生まれましたかなんて聞いて回るわけにはいかないわ」
「じゃあ、僕に聞いてみて」
「……え?」
言われた意味がわからずベルティーユは顔を上げようとしたが、オリヴィエールの押さえ込む力の方が強くてまったく動かせなかった。
オリヴィエールの表情はまったく見えず、艶めいた声だけが耳を震わす。
「ほら、聞いてみて。僕だって既婚者だよ」
「じゃ、じゃあ……あなたは結婚後に……妻との間に恋が生まれましたか?」
「――いいえ」
冷ややかにオリヴィエールは否定した。
「え――――」
思ってもみなかった答えに、ベルティーユは硬直する。
(あぁ、やだ、わたし……なにを期待していたのかしら……。オリヴィエールはわたしの目的のために結婚してくれたのに)
オリヴィエールなら優しい答えをくれるものを勘違いしていた自分を恥じた。
同時に、心臓が寒さで締め上げられるような感覚で頭の中が真っ白になる。
「――結婚後じゃない。僕はずっと以前から恋をしている。無慈悲で残酷な貴女に」
苦しげな吐息とともに、オリヴィエールは囁いた。
「え……?」
まばたきをしてベルティーユは顔を上げようとするが、オリヴィエールはやはり彼女が顔を動かすことを許さなかった。まるで、自分の顔を見られることを拒むように、胸の中に抱え込んだまま蠱惑的な声音でつぶやく。
「今度は僕が質問する番だよ。……ねぇ、僕の愛しい奥様」
いつになく甘やかな声が耳元で響き、ベルティーユは背筋が震えるのを感じた。
「――どうすれば、貴女は僕に恋をしてくれますか?」
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