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番外編1 ある伯爵令嬢の恋愛事情
1 ある伯爵令嬢の失恋
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「ねぇ、サラ。国王陛下が君と結婚しなかったら、僕と結婚してくれる?」
「――いいわよ」
相手が珍しく真剣な表情で訊いてきたので、サラはすこしだけ考えてから首を縦に振った。
「絶対だよ? 約束してね?」
「約束するわ」
相手が小指を目の前に出したので、サラは自分の小指を絡める。
「僕以外の男と結婚したら駄目だよ」
「わたしは陛下と結婚するの」
暗に「あなたとは結婚しない」という意思を込めて、サラは宣言した。
*
「お父様! 陛下がロザージュ王国の王女と婚約ってどういうこと!?」
ソワサント伯爵令嬢サラ・ディセットは自宅に戻るなり荒々しい靴音を立てて喫煙室に乗り込むと、葉巻に火を付けようとしていた父親に向かって叫んだ。
「おや、お帰り。大叔母様の調子はどうだったのかな?」
穏やかな口調で娘を出迎えた伯爵は帰宅の挨拶を省いた彼女をとがめることはしなかったが、サラは自分の質問に父親が答えなかったことに目くじらを立てた。
「宰相閣下の腰巾着のお父様ならずっと前からこの婚約のことはご存じだったんじゃないの!?」
「どうもこうも、この間ようやく戦が終わったロザージュ王国との和睦のための政略結婚だ。私だって知ったのはほんの数日前だよ。あと、私は閣下の腰巾着ではなく、内務副大臣だよ」
娘の暴言に訂正を入れる伯爵の言葉を、サラはほぼ無視した。
「政略結婚!? 陛下と婚約したのが有力視されていたカルサティ侯爵家のベルティーユ様ではなく、ロザージュ王国の王女だなんて納得できないわ! 外国の王女様だかなんだか知らないけれど、突然しゃしゃり出てきて陛下と結婚するなんて!」
「この結婚は王女の意思ではいよ。国同士で決めたことだからね」
「ベルティーユ様やわたしはどうなるのよ!」
「他の殿方と結婚するしかないね」
「えぇ!? 陛下以外の殿方と結婚するなんて考えられないわ!」
額に手を当ててサラは大仰に嘆いてみせる。
「じゃあ、わたしは明日にでも修道院へ入ることにするわ」
「それには私は反対する。陛下と宰相閣下は王妃候補だった令嬢たちには、できるだけ早く良き伴侶を見つけて結婚して欲しいと望まれている。多くの令嬢たちが王妃になれなかったと言って出家するなど、陛下の結婚に反対するような行為は臣民の模範となるべき貴族として望ましくないし、国家としての損失だとおっしゃっている。長年陛下のご婚約がなかなか決まらなかったものだから、王妃候補の十数人が未婚のまま結婚適齢期を過ぎようとしている上、現在、貴族の男性の未婚率は過去最高だ。ということで、お前はヴァンテアン公爵と婚約したからね」
「婚約『した』!? わたしになにも言わず、勝手に婚約成立!?」
「カルサティ侯爵家のご令嬢だっていずれ陛下以外の男と結婚するだろうね」
「横暴よ! 冗談じゃないわ! わたしは結婚なんてしないわ! 修道院に入って失恋の痛手を神に祈って癒やすのよ! ではごきげんよう!」
言いたいことだけ言い散らして父親にくるりと背を向けて喫煙室を出て行こうとしたサラは、開け放したままのはずの扉がある場所でなにかにぶつかった。
「やあ、サラ。久しぶり。相変わらず威勢が良いね」
頭上から涼しげな声が若い男の声が振ってきた。
ぶつかった勢いのまま腰に腕を回されたため身動きがとれなくなったサラは、憮然とした表情で視線を上げる。
「あら、ごきげんよう、マルセル。いらしていたの」
同い年の幼なじみであるヴァンテアン公爵マルセル・ユィイの顔を見ると、サラは丁重だがつっけんどんに挨拶をした。
すらりとした長身で栗色のくせっ毛に緑柱石色の瞳の彼は、全体の容貌はかなり整っているが目尻が少し下がり気味なせいかサラの目には優男に見える。
物腰が柔らかい紳士でかなり資産もあるため、社交界で未婚の貴婦人たちの人気を集めている独身貴族のひとりだ。いつも笑顔を浮かべているのでへらへらしているような印象を受けるが、そこがまた女心をくすぐる点らしい。
ヴァンテアン公爵家はサラの母の従姉の嫁ぎ先なので、マルセルとサラは幼い頃から親交があった。
「君が帰ってくるのを待っていたんだ。郊外の大叔母様のお屋敷に泊まりがけで出かけたと聞いていたから、まだ帰宅まで二、三日かかるかと思っていたんだけど、案外早かったね」
「陛下のご婚約についての新聞記事を目にしてすぐ、お父様に事の真偽を確かめなければと、大叔母様のお屋敷からここまで馬車を飛ばしてきたのよ。それでも半日かかってしまったわ」
「御者と馬は走りっぱなしで大変だっただろうね。でも、おかげで僕は君を何日も待ち続けずに済んだから、御者と馬をねぎらうべきだろうな」
サラの左頬に手を当てると、マルセルは慣れた仕草で右頬に軽く口づける。
「せっかくだけど、これで失礼するわね。わたしはいますぐ荷物をまとめて修道院に行く準備をしなければならないの」
「君はお父上の話を聞いてなかったの? 君は僕と婚約したんだよ。僕はすぐにでも君と結婚したいから、挙式は来月の予定でお父上と相談をしていたところだよ。君はもう二十歳になったんだし――」
「嫁き遅れのわたしはすみやかに修道院に入るからお気遣いなく!」
顔をしかめたサラがはしたなく舌を出すと、マルセルは素早く相手の唇を自分の唇で封じた。
「君が陛下と結婚できなかったときは、僕と結婚してくれる約束だよ?」
「そんなの、何年も前の約束じゃないの。とっくに無効よ!」
「あぁ、よかった。ちゃんと覚えてくれていたんだね」
サラの返事にマルセルは相好を崩した。
「約束をしたのは五年前だから十分有効だし、指切りだってしたし、君が陛下と結婚できないのは確定事項だし、君のお父上は僕たちの婚約を認めてくださったし、僕は君を世界で一番愛しているんだから結婚しない理由がないよね」
「わたしは陛下を愛しているの! 陛下に失恋しました、じゃああなたと結婚します、なんて簡単に気持ちの切り替えができるわけがないでしょうが!」
噛みつかんばかりに叫ぶと、サラは相手の手を振り払って喫煙室を出る。
父親の葉巻の煙のにおいが廊下まで漂ってきて、ますます彼女を苛立たせた。
「僕は君の失恋の傷が癒えるまで待てるけど、いつ癒えるかはわからないよね? だったら、ひとまず僕と結婚してしまったらどうかな」
自分の部屋へと向かうサラの背中に向かって、マルセルが声をかける。
「まったく意味がわからないわ」
「生活環境が変わったら、失恋の痛みが薄れるのも早くなるんじゃないかなってことだよ」
「その生活環境を変えるために、わたしは修道院へ行くのよ」
どこまでもついてくるマルセルを振り返ることはせず、サラは自室に入ると羽織っていた外套を脱ぎ、かぶっていた帽子を円卓の上に放り出した。
部屋で旅行鞄の片付けをしていた侍女が慌てて外套と帽子を衣装室へと運んでいく。
「修道院に入る必要はないよ。僕の屋敷に来ればいいじゃないか」
幼なじみの気安さでマルセルは勝手に部屋に入ってきた。
いくら婚約したとはいえ未婚の令嬢の部屋に立ち入るべきではない、と注意をして相手を追い出そうとサラは振り返ったが、そのままマルセルの胸の中に閉じ込められるように抱きしめられた。
侍女が気を利かせてそそくさと部屋を出て行く気配がする。
「君がどうしても修道院に入ると言い張るなら、僕はこのまま君を屋敷に連れて帰って二度と外に出られないようにするよ」
「あなたにそんな権限はないわ」
「あるよ。僕は君の婚約者で、まもなく君の夫になるんだから」
「わたしは結婚しないわ」
身動きができない状態だったが、サラは強情に言い張った。
「君が陛下一筋だったことは承知しているよ。陛下が君以外の女性と結婚することを認めたくない気持ちもあるていど理解しているつもりだ。失恋して気持ちが混乱している状態だってこともね。でも、泣くならひとり部屋に籠もって泣かないで、僕の前で泣いて。僕がいくらでも君を慰めてあげるから」
「泣かないから、慰めは必要ないし、憐れんでくれなくて結構よ!」
相手の胸を両手で押し返しながらサラは言い返したが、予想外にまったく離れることができなかった。
彼はサラが帰宅するまで、喫煙室でソワサント伯爵の話し相手をしていたのだろう。上着の生地からは葉巻のにおいがかすかに漂ってくる。
「泣いてない? 僕には君の涙が見えるのだけど」
「幻覚よっ!」
サラの目尻にあふれる涙を唇ですくい上げたマルセルは、しゃくり上げる婚約者の狐色の髪になんども口づける。
「初恋の相手をいきなり政略結婚で奪われて悲しいのはわかるけど、君はカルサティ侯爵令嬢の次の有力候補ってわけではなかったし、そもそも君の恋が成就する見込みは低かったわけだから――」
「うるさいわね。勝ち目が低いことなんて最初からわかっていたわよ。でも、候補に名乗りを上げておけば万が一ってこともあるじゃないの。あなた、わたしの傷口に塩を塗って憐れんで嘲笑いに来たの?」
「悲しみに耽っている君を優しく慰めて、あわよくば君の気持ちを僕に向けようと目論んではいるよ」
あっさりとマルセルは認めた。
「おあいにく様。わたしは二度とあなたに恋をしたりはしないわ。あと、別に陛下が初恋の方ではないわよ」
「――――――え?」
睫を涙で濡らしているサラを見下ろしたマルセルが、動揺を示す。
「陛下は、わたしが四番目に恋した相手よ。――あら、五番目だったかしら」
泣くことを忘れた様子で、サラは指を折りながら考え込んだ。
「初恋では……ない?」
「そうよ! だから、そんな腫れ物を扱うように慰めてくれなくて結構よ! あぁでも、こんな大失恋は初めてで胸が張り裂けそう……」
胸に手を当ててサラは哀れっぽく嘆く。
「僕はずっと、君の初恋の相手は陛下だとばかり思っていたんだけど、教えてくれていなかっただけ!?」
大きく目を見開いたマルセルが、動揺した様子で詰問してくる。
「いちいち、わたしが誰に恋しているかをあなたに報告する義務なんてないじゃないの」
「いや、まぁそうなんだけど……そうなると君の初恋の相手と、残り三人についてもすごく気になるところだけど、まずは『二度と』ってどういう意味……?」
目を腫らしているサラの頬を両手で掴むと、マルセルが詰問する。
じっと瞳を凝視してくるので、サラは視線をそらすことができなかった。
(あぁ、もう、さっきの失言を聞き逃してくれなかったのね)
ちっ、とサラははしたなく胸の中で舌打ちをする。
失恋で悲嘆に暮れるあまり、言わなくてもいいことまで口走ってしまったと反省した。
「――いいわよ」
相手が珍しく真剣な表情で訊いてきたので、サラはすこしだけ考えてから首を縦に振った。
「絶対だよ? 約束してね?」
「約束するわ」
相手が小指を目の前に出したので、サラは自分の小指を絡める。
「僕以外の男と結婚したら駄目だよ」
「わたしは陛下と結婚するの」
暗に「あなたとは結婚しない」という意思を込めて、サラは宣言した。
*
「お父様! 陛下がロザージュ王国の王女と婚約ってどういうこと!?」
ソワサント伯爵令嬢サラ・ディセットは自宅に戻るなり荒々しい靴音を立てて喫煙室に乗り込むと、葉巻に火を付けようとしていた父親に向かって叫んだ。
「おや、お帰り。大叔母様の調子はどうだったのかな?」
穏やかな口調で娘を出迎えた伯爵は帰宅の挨拶を省いた彼女をとがめることはしなかったが、サラは自分の質問に父親が答えなかったことに目くじらを立てた。
「宰相閣下の腰巾着のお父様ならずっと前からこの婚約のことはご存じだったんじゃないの!?」
「どうもこうも、この間ようやく戦が終わったロザージュ王国との和睦のための政略結婚だ。私だって知ったのはほんの数日前だよ。あと、私は閣下の腰巾着ではなく、内務副大臣だよ」
娘の暴言に訂正を入れる伯爵の言葉を、サラはほぼ無視した。
「政略結婚!? 陛下と婚約したのが有力視されていたカルサティ侯爵家のベルティーユ様ではなく、ロザージュ王国の王女だなんて納得できないわ! 外国の王女様だかなんだか知らないけれど、突然しゃしゃり出てきて陛下と結婚するなんて!」
「この結婚は王女の意思ではいよ。国同士で決めたことだからね」
「ベルティーユ様やわたしはどうなるのよ!」
「他の殿方と結婚するしかないね」
「えぇ!? 陛下以外の殿方と結婚するなんて考えられないわ!」
額に手を当ててサラは大仰に嘆いてみせる。
「じゃあ、わたしは明日にでも修道院へ入ることにするわ」
「それには私は反対する。陛下と宰相閣下は王妃候補だった令嬢たちには、できるだけ早く良き伴侶を見つけて結婚して欲しいと望まれている。多くの令嬢たちが王妃になれなかったと言って出家するなど、陛下の結婚に反対するような行為は臣民の模範となるべき貴族として望ましくないし、国家としての損失だとおっしゃっている。長年陛下のご婚約がなかなか決まらなかったものだから、王妃候補の十数人が未婚のまま結婚適齢期を過ぎようとしている上、現在、貴族の男性の未婚率は過去最高だ。ということで、お前はヴァンテアン公爵と婚約したからね」
「婚約『した』!? わたしになにも言わず、勝手に婚約成立!?」
「カルサティ侯爵家のご令嬢だっていずれ陛下以外の男と結婚するだろうね」
「横暴よ! 冗談じゃないわ! わたしは結婚なんてしないわ! 修道院に入って失恋の痛手を神に祈って癒やすのよ! ではごきげんよう!」
言いたいことだけ言い散らして父親にくるりと背を向けて喫煙室を出て行こうとしたサラは、開け放したままのはずの扉がある場所でなにかにぶつかった。
「やあ、サラ。久しぶり。相変わらず威勢が良いね」
頭上から涼しげな声が若い男の声が振ってきた。
ぶつかった勢いのまま腰に腕を回されたため身動きがとれなくなったサラは、憮然とした表情で視線を上げる。
「あら、ごきげんよう、マルセル。いらしていたの」
同い年の幼なじみであるヴァンテアン公爵マルセル・ユィイの顔を見ると、サラは丁重だがつっけんどんに挨拶をした。
すらりとした長身で栗色のくせっ毛に緑柱石色の瞳の彼は、全体の容貌はかなり整っているが目尻が少し下がり気味なせいかサラの目には優男に見える。
物腰が柔らかい紳士でかなり資産もあるため、社交界で未婚の貴婦人たちの人気を集めている独身貴族のひとりだ。いつも笑顔を浮かべているのでへらへらしているような印象を受けるが、そこがまた女心をくすぐる点らしい。
ヴァンテアン公爵家はサラの母の従姉の嫁ぎ先なので、マルセルとサラは幼い頃から親交があった。
「君が帰ってくるのを待っていたんだ。郊外の大叔母様のお屋敷に泊まりがけで出かけたと聞いていたから、まだ帰宅まで二、三日かかるかと思っていたんだけど、案外早かったね」
「陛下のご婚約についての新聞記事を目にしてすぐ、お父様に事の真偽を確かめなければと、大叔母様のお屋敷からここまで馬車を飛ばしてきたのよ。それでも半日かかってしまったわ」
「御者と馬は走りっぱなしで大変だっただろうね。でも、おかげで僕は君を何日も待ち続けずに済んだから、御者と馬をねぎらうべきだろうな」
サラの左頬に手を当てると、マルセルは慣れた仕草で右頬に軽く口づける。
「せっかくだけど、これで失礼するわね。わたしはいますぐ荷物をまとめて修道院に行く準備をしなければならないの」
「君はお父上の話を聞いてなかったの? 君は僕と婚約したんだよ。僕はすぐにでも君と結婚したいから、挙式は来月の予定でお父上と相談をしていたところだよ。君はもう二十歳になったんだし――」
「嫁き遅れのわたしはすみやかに修道院に入るからお気遣いなく!」
顔をしかめたサラがはしたなく舌を出すと、マルセルは素早く相手の唇を自分の唇で封じた。
「君が陛下と結婚できなかったときは、僕と結婚してくれる約束だよ?」
「そんなの、何年も前の約束じゃないの。とっくに無効よ!」
「あぁ、よかった。ちゃんと覚えてくれていたんだね」
サラの返事にマルセルは相好を崩した。
「約束をしたのは五年前だから十分有効だし、指切りだってしたし、君が陛下と結婚できないのは確定事項だし、君のお父上は僕たちの婚約を認めてくださったし、僕は君を世界で一番愛しているんだから結婚しない理由がないよね」
「わたしは陛下を愛しているの! 陛下に失恋しました、じゃああなたと結婚します、なんて簡単に気持ちの切り替えができるわけがないでしょうが!」
噛みつかんばかりに叫ぶと、サラは相手の手を振り払って喫煙室を出る。
父親の葉巻の煙のにおいが廊下まで漂ってきて、ますます彼女を苛立たせた。
「僕は君の失恋の傷が癒えるまで待てるけど、いつ癒えるかはわからないよね? だったら、ひとまず僕と結婚してしまったらどうかな」
自分の部屋へと向かうサラの背中に向かって、マルセルが声をかける。
「まったく意味がわからないわ」
「生活環境が変わったら、失恋の痛みが薄れるのも早くなるんじゃないかなってことだよ」
「その生活環境を変えるために、わたしは修道院へ行くのよ」
どこまでもついてくるマルセルを振り返ることはせず、サラは自室に入ると羽織っていた外套を脱ぎ、かぶっていた帽子を円卓の上に放り出した。
部屋で旅行鞄の片付けをしていた侍女が慌てて外套と帽子を衣装室へと運んでいく。
「修道院に入る必要はないよ。僕の屋敷に来ればいいじゃないか」
幼なじみの気安さでマルセルは勝手に部屋に入ってきた。
いくら婚約したとはいえ未婚の令嬢の部屋に立ち入るべきではない、と注意をして相手を追い出そうとサラは振り返ったが、そのままマルセルの胸の中に閉じ込められるように抱きしめられた。
侍女が気を利かせてそそくさと部屋を出て行く気配がする。
「君がどうしても修道院に入ると言い張るなら、僕はこのまま君を屋敷に連れて帰って二度と外に出られないようにするよ」
「あなたにそんな権限はないわ」
「あるよ。僕は君の婚約者で、まもなく君の夫になるんだから」
「わたしは結婚しないわ」
身動きができない状態だったが、サラは強情に言い張った。
「君が陛下一筋だったことは承知しているよ。陛下が君以外の女性と結婚することを認めたくない気持ちもあるていど理解しているつもりだ。失恋して気持ちが混乱している状態だってこともね。でも、泣くならひとり部屋に籠もって泣かないで、僕の前で泣いて。僕がいくらでも君を慰めてあげるから」
「泣かないから、慰めは必要ないし、憐れんでくれなくて結構よ!」
相手の胸を両手で押し返しながらサラは言い返したが、予想外にまったく離れることができなかった。
彼はサラが帰宅するまで、喫煙室でソワサント伯爵の話し相手をしていたのだろう。上着の生地からは葉巻のにおいがかすかに漂ってくる。
「泣いてない? 僕には君の涙が見えるのだけど」
「幻覚よっ!」
サラの目尻にあふれる涙を唇ですくい上げたマルセルは、しゃくり上げる婚約者の狐色の髪になんども口づける。
「初恋の相手をいきなり政略結婚で奪われて悲しいのはわかるけど、君はカルサティ侯爵令嬢の次の有力候補ってわけではなかったし、そもそも君の恋が成就する見込みは低かったわけだから――」
「うるさいわね。勝ち目が低いことなんて最初からわかっていたわよ。でも、候補に名乗りを上げておけば万が一ってこともあるじゃないの。あなた、わたしの傷口に塩を塗って憐れんで嘲笑いに来たの?」
「悲しみに耽っている君を優しく慰めて、あわよくば君の気持ちを僕に向けようと目論んではいるよ」
あっさりとマルセルは認めた。
「おあいにく様。わたしは二度とあなたに恋をしたりはしないわ。あと、別に陛下が初恋の方ではないわよ」
「――――――え?」
睫を涙で濡らしているサラを見下ろしたマルセルが、動揺を示す。
「陛下は、わたしが四番目に恋した相手よ。――あら、五番目だったかしら」
泣くことを忘れた様子で、サラは指を折りながら考え込んだ。
「初恋では……ない?」
「そうよ! だから、そんな腫れ物を扱うように慰めてくれなくて結構よ! あぁでも、こんな大失恋は初めてで胸が張り裂けそう……」
胸に手を当ててサラは哀れっぽく嘆く。
「僕はずっと、君の初恋の相手は陛下だとばかり思っていたんだけど、教えてくれていなかっただけ!?」
大きく目を見開いたマルセルが、動揺した様子で詰問してくる。
「いちいち、わたしが誰に恋しているかをあなたに報告する義務なんてないじゃないの」
「いや、まぁそうなんだけど……そうなると君の初恋の相手と、残り三人についてもすごく気になるところだけど、まずは『二度と』ってどういう意味……?」
目を腫らしているサラの頬を両手で掴むと、マルセルが詰問する。
じっと瞳を凝視してくるので、サラは視線をそらすことができなかった。
(あぁ、もう、さっきの失言を聞き逃してくれなかったのね)
ちっ、とサラははしたなく胸の中で舌打ちをする。
失恋で悲嘆に暮れるあまり、言わなくてもいいことまで口走ってしまったと反省した。
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