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番外編1 ある伯爵令嬢の恋愛事情

2 ある伯爵令嬢の恋愛

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「それって、『一度目』があったってこと?」
「自分で考えてみなさいな」
「僕は思い当たる節がないんだけど……」
「じゃあ、一度目はないってことよ」

(なによ。昔のことなんてきれいさっぱり忘れているんじゃないの。どうりで、平然とした顔でわたしと結婚するなんて言い出すわけだわ!)

 腹を立てたサラは相手の手を振り払おうとしたが、マルセルは長椅子に彼女を無理矢理座らせると、自分も隣に座ってじっと考え込んだ。

「――やっぱり思い出せないな。サラ、教えて?」
「いやよ」
「教えてくれないとするよ?」

 さきほど喫煙室で口づけをしたことなど忘れたような顔で、マルセルが脅す。
 彼は幼なじみの気安さからか、日頃から挨拶の際には軽く口づけをしてくるし、すぐ手を握ろうとするし、歩いているときは腰に腕を回して密着するくらいに距離が近い。そのなれなれしさは、サラがいくら「もう子供じゃないんだからやめて」と注意をしても一度としてやめてもらえなかった習慣のひとつだ。
 いまは婚約した間柄なのだから、接吻のひとつやふたつしたところでふしだらだと言われることはないが、マルセルは接吻魔だとサラは断言できる。

「い、や」
「本当に思い出せないんだ。ねぇ、教えてよ」

 サラの耳元に唇を寄せると、吐息を吹きかけながらマルセルが囁く。
 普段の穏やかさのかけらもない艶を帯びた声音に、サラは背筋がぞわっ凍るのを感じた。本能が危険を察知して彼女にこれ以上相手をあおるなと警告する。

「ね?」

 懇願するような口ぶりで、マルセルが首筋に強く唇を押し当てる。
 慌てて両手で相手の肩を押し退けようとしたが、いくら力を込めても離れることができなかった。

「じゅ、十年くらい前にわたしはあなたに恋人になってあげるって言ったのに、あなたは『べつにいい』って断ったじゃないの!」

 これ以上黙っているとよくわからないけれどまずいことになる、と状況を見極めたサラは、早口で告白する。

「え? 十年前? どこで?」
「あなたのお屋敷で開かれた園遊会で! あなた、お客様のひとりのカルサティ侯爵家のベルティーユ様に見とれていたじゃないの!」
「そうだっけ?」

 サラの喉元に唇を押し当てていたマルセルは、顔を上げるときょとんとした表情を浮かべた。
 本当にまったく記憶に残っていないらしい。

「わたしが彼女は当時まだ王太子だった陛下のお妃候補なんですって教えたら、とっても残念そうな顔をしたじゃない。だからわたしが、『わたしがあなたの恋人になってあげるから、彼女は諦めなさいな』って言ったら『べつにいい』って即答したの!」

 あぁもうっ、と怒りと羞恥で顔を紅潮させたサラは、ずっと封印していた記憶にもだえた。

「それは……カルサティ侯爵令嬢には最初から興味がないから『べつに』と言っただけで、君の恋人になることを断ったわけでは……え? もしかしてあの頃の君は、僕のこと好きでいてくれたの?」
「好きでもない相手と恋人になるわけないでしょうが! といっても、あなたにあっさりと断られたから新しい恋にすぐさま乗り換えたけどね!」

 マルセルはカルサティ侯爵令嬢に恋しているのだと納得し、サラは新しい恋を探した。
 やがて王太子妃候補筆頭のカルサティ侯爵令嬢を意識して観察しているうちに、王太子の姿を目にする機会を得て、本物の王子様に恋をした。
 アントワーヌ五世は身分だけでなく中身もまぎれもない王子様だった。
 王位を継いでからは、国王として国を統治し、宰相も父親も彼は立派な王であると褒め称えた。
 自分は身分としてはカルサティ侯爵令嬢に劣るし、容姿も人並みだが、運と機会があればカルサティ侯爵令嬢を出し抜いて王妃になれるかもしれない。
 そうなれば、マルセルはわたしの恋人にならなかったことを後悔するだろう。しかし、いくら彼が悔やんだってもう手遅れだ。
 自分は人生最高の恋を実らせて、王妃として愛する王の隣に立つのだから。
 それからサラは父親のつてのすべてを使って、王妃にふさわしい貴婦人になるための勉学、礼儀作法を教えてくれる家庭教師を探し出し、猛勉強を始めた。
 家庭教師たちの厳しく難解な課題を毎日こなし、運動をして体型と体調を整え、いずれ王の目にとまる機会を得ようと努力した。
 カルサティ侯爵令嬢がどれほど勉強しているかはわからないが、いまは自分ができる限りのことをするしかない、と心が折れそうになるたびに父親にねだって手に入れた王の肖像画を眺めてはまた頑張った。
 恋は盲目とはよく言ったもので、カルサティ侯爵令嬢が王妃になることがほぼ決定したとの噂も聞こえないふりをして勉強に励んだ。
 明日になったらカルサティ侯爵令嬢は陛下以外の男性に恋をして駆け落ちするかもしれない、明後日になったら陛下と偶然会って陛下も自分に恋をしてくれるかもしれない――。
 それがまさか、ロザージュ王国との戦争の影響で恋が無残に打ち砕かれるとは、さすがに想像していなかった。
 そして、十年前にサラの告白をあっさりと断ったマルセルが、五年後にはすべて忘れた顔で求婚してきた上、王の婚約が決まった途端に父親から勝手に自分との婚約の了承を得てしまうとは。

「わたしの恋はどれもこれもひどい失恋だらけだわ!」

 歯がみしてサラが悔しがると、マルセルが唸った。

「僕が十年前に君の恋人になっていたら、君はとっくに僕と結婚していたってことだよね。うわぁ……なんで僕は『べつに』なんて言ってしまったんだろう」
「十年前にあなたと恋人同士になったからと言って、結婚に至っていたかどうかはまた別問題よ。一年と経たずに別れていたかもしれないし」

 十年前といえばまだサラは十歳だ。
 気分屋で幼い子供の恋がそう長続きしたかどうかは怪しい。

「僕はずっと君一筋だよ。ねぇ、十年前のことは君の話をきちんと聞いていなかった僕が悪かったよ。いくらでも謝るから、二度目がないなんて言わないで、もう一度僕に恋してくれないかな」
「二度とないって言ったでしょ!?」
「じゃあ、一度目をやり直そうよ」
「なんでそうなるのよ!? 意味がわからないわ! あなたはわたしを振ったのよ!? そしてわたしは陛下への最後の恋に殉じて修道女になるの!」
「それだけは、修道女になることだけは絶対に許さない。君は僕と結婚するんだ。約束したじゃないか」
「陛下と結婚できなかった場合、あなた以外の殿方とは結婚しないと約束したけれど、必ずあなたと結婚するとは約束していないわ!」
「約束したよ。陛下と結婚できなかったら、僕と結婚してくれるって言った」

 そこからは、言った言わないの応酬で堂堂巡りになった。

「……ねぇ。わたし、大失恋をして失意のどん底にいるの。今夜は涙で枕をぬらしながら眠りたいから、そろそろ帰って」

 気づくと外はすでに日が沈んでおり、いつの間にかカーテンは閉じられ、しょくだいろうそくには灯がともっている。
 どうやら侍女はサラたちが言い争っているのを横目に、仕事をしてくれていたらしい。
 円卓の上には冷えた紅茶と菓子、軽食が置かれている。

「嫌だ。君は目を離すとひとりで修道院に乗り込むくらい行動力があり過ぎる人だから、絶対にひとりでは帰らない。君が僕と一緒に帰ってくれるなら別だけど」
「なぜわたしが結婚もしていないのに、あなたのお屋敷に行かなければいけないのよ。婚約のことだって、わたしは承知していないんですからね」
「約束したのに?」
「だーかーらぁ」
「じゃあ、今夜は泊まっていっていいかな? 一晩でも二晩でも君を慰めてあげるよ。陛下が初恋じゃないなら、そんなに優しくしなくてもいい? 僕がいくらでも愛を囁くし、たくさん接吻をして、もっといろんなことをして、それで、一度目の恋を再開しようよ」
「わたしの気が済むまであなたを殴って良いなら、いくらでも泊まっていってもよくってよ」
「……ごめんなさい。優しくします」
「あぁ! もうお願いだから、本当にこのまますみやかにご自宅に帰ってわたしをひとりにしてください!」

 あまりにも会話が平行線のままなので、サラは頭痛を覚えた。
 このまま二人きり部屋に籠もっていたら、ろくなことにならないことは目に見えていた。
 なぜなら、いつのまにかサラの外出着の襟元は釦が二つほど外れているし、マルセルの前髪がさきほどから肌に触れるくらい近くにある。
 周囲を見回しても部屋に侍女の姿は見えないし、両親が部屋の様子を窺いに来る気配もない。
 両親はマルセルを娘の婚約者として厚遇することにしたのだろうが、それにしても結婚前の娘が婚約者とふたりきりで部屋に籠もっているのを放置しているとはどういうことか、とサラは内心憤慨していた。

「修道院に行かないと約束するから」
「うーん、ちょっと信じられない」
「どうしてよ!?」
「夜中になって、失恋の悲しみにひたっているうちにやっぱり修道院へ行こうって思うかもしれないし、夜道を歩いている途中で出会った男と恋に落ちるかもしれないし」
「真夜中に歩いている殿方って、酔っ払いかけいくらいじゃないかしら?」

 どこに恋が落ちているというのか、とサラは首を傾げた。

「君って結構簡単に恋に落ちやすいんだってことがわかったから、どこで新しい恋を見つけるかわかったもんじゃないってこともよぉくわかったよ。もしかしたら夜中に酔っ払いに絡まれたところを助けてくれた警邏に恋をするかもしれないじゃないか」
「そこまでわたしは尻軽じゃありません」
「うん。でも、僕はすごく不安なんだ。だから、すぐにでも君と結婚したいくらいあせってる」
「焦るって?」
「君が僕以外の男に恋するんじゃないかってことを」
「わたしはもう恋はしないわ。人生最高の恋に破れたんだもの。陛下への恋がわたしの最後の恋だったのよ」

 恋なんて、そう次々とするものではない。
 サラはそう自分に言い聞かせた。
 恋をしている間は楽しいけれど、失った途端に人生が暗転する。
 いつだって失恋は悲しくて、苦しくて、恋する相手に選ばれなかった自分がみじめに思えてくる。
 新たに恋をしなくったって結婚はできるし、生きていける。
 二十歳になるまでいくつも恋をしたし、どれも実らなかったけれど、不幸だと思ったことはない。
 王妃にはなれなかったが、王が恋愛感情だけで妃を選べないことは頭の片隅では理解していた。だから、正確には政略結婚で王女を娶らなければならない王に失恋したというよりは、妃になれなかっただけと言える。

「――あぁ、そっか。わたし、陛下と結婚できなかったけれど、別にふられたわけではないから本当に失恋したわけではないのよね。なら、そんなに悲しむことではないんだわ」

 王は政略結婚をするだけだ。
 なら、まだ諦める必要はない。

「あの……サラ? なんか変なことを考え始めてない?」
「変なこと? なに言ってるの。失恋が確定ではないなら、修道院に入る必要がないって気づいただけよ。修道女になったらなかなか還俗できないらしいから、このまま俗世で恋愛成就を目指して自分磨きを続けなくちゃ!」
「えっと、サラ、君の恋愛観がどういうものかわからなくなってきたんだけど、陛下はロザージュ王国の王女と結婚するんだから、君の陛下に対する片思いは――」
「わたしの最後の恋はまだ終わってないわ!」
「君の最後の恋はひとまず脇に置いておいて、僕との一度目の恋をやり直して、結婚するってのはどうかな。いつまでも陛下に片思いをし続けるのは苦しいと思うよ?」
「わたしは終わった恋は振り返らない主義なの!」

 サラは元気よく宣言した。

「でも、陛下との恋は本当のところは終わっていなかったのよ! 陛下のご結婚報道に動揺して修道女になるだのなんだのと世迷い言を並べてしまったけれど、まだまだ陛下と恋に落ちる可能性は十分にあるんだったわ! わたしとしたことが、気が動転して視野が狭くなってしまっていたわ! 心配かけてごめんなさいね!」
「僕は結婚したら、妻をものすっごく束縛する夫になると思うよ? 他の男が君に近づくなんてまず許さないし、相手が陛下でも認めないよ。僕は愛人をつくったりしないし、一生君だけを愛するっていまから誓うよ? ねぇ、サラ。僕の話を聞いてる? 僕の声、届いてる?」

 不安そうにサラの顔をのぞき込んだマルセルは、急に気力を取り戻して自分の世界に浸ってしまった婚約者に繰り返し呼びかけた。
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