霧と魔眼のファタ・モルガーナ

氷翠

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31話「過去から…」

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 破砕音が夜の町に響いた。地を砕き、風を裂く咆哮。石畳が盛り上がり、周囲の建物が震える。
 シトリーの姿はすでに人のものではなかった。熊のように膨れ上がった筋肉質の肉体。毛皮のような黒い皮膚。頭部全体が口と化し、歯列が円形にずらりと並ぶ。
 サリエルは真正面からその怪物と対峙していた。助けはない。背後に市民の影がある。逃げ場はない。
 獣の巨腕が横薙ぎに振るわれた。空気が唸り、地をえぐる音と共に視界が土煙に閉ざされる。だが、サリエルはその隙間をすり抜け、距離を詰めた。

「ッ……!」

 鋭く踏み込み、刃を滑らせるようにして振るう。斬撃はシトリーの左脇腹を抉り、大量の血を吐き出させた。しかし、すぐに肉が蠢いて再生していく。

「クク……さっすが、よく見えてんじゃねぇか……? ま、こっちも“楽しい”しな……!」

 怪物の口が笑った。喉の奥で泡立つ音がする。シトリーの本性は怪物に宿ってもなお変わらない――むしろ、より際立っていた。

「やっと“試せる”ぜ……殺し合いの本能ってやつをなァ!!」

 飛び込んでくる爪。サリエルは後退せず、逆に踏み込んだ。反応の一瞬を見極め、腕の内側に滑り込む。間合いの中、剣が脇下を貫いた。

「グギャアアアッ!!」

 絶叫。暴れる巨体。だが、それでも止まらない。シトリーの身体は本能のまま暴れ、破壊を撒き散らしていく。
 やがて、その巨体が膝をついた。
 サリエルは剣を構えたまま静かに息を吐いた。呼吸を整え、次の一撃に集中しようとした、そのときだった。

「……アリオク……」

 喉の奥から、かすれたような“人の声”が漏れた。
 サリエルの目が見開かれる。

「リリンも……よく泣いたなァ……」

 一瞬、剣が止まった。

「……お前、今……何を……言った?」

 その声は低く、怒気を秘めていた。
 だがシトリーは構わず続ける。再生しながらゆっくりと顔を上げ、獣の口がわずかに歪んだ。

「アリオクとリリン。あいつら、最初の素材だったんだよ。“実験”のな。確か……二人で暴れて、バティム様に刃向かったっけ。無駄だったがな」

 サリエルの視界が揺れた。
 言葉の意味が、直接神経に突き刺さる。全身が軋むような感覚。血が逆流しそうになる。

「それを……お前が……」
「俺だけじゃねぇさ。連中が潰れるとこ、俺はしっかり見てた。“最初の道具”としてな。泣き叫んで、壊れて、骨の砕ける音がまだ耳に残ってる」

 目の奥に、光が走った。

「あとなんだったか…… そうだ、アペプとマダ。あれは面白かった……女の方が先に狂って、男の方が最後まで泣いてた」
「やめろ……」

 サリエルの声が震えた。
 だが、シトリーは止めない。嬉々として続けた。悪意の塊を、そのまま吐き出すように。

「お前もよく似てるよ、アリオクに。あんな目してた。“諦めねぇ”って目。でもな、どんなに強くても、壊れねぇもんなんてねぇんだよ」
「お前……どうして……なぜそんなことを……!」
「知りたいか? 詳細まで教えてやろうか?」

 獣の口が笑う。血に濡れ、歪んで、残忍に歯を見せる。

「“道具”はな、壊すためにあるんだよ。叫ばせるために。泣かせるために。そんだけで、価値がある」

 その瞬間、視界が赤く染まった。
 剣が動いた。理屈ではなかった。
 感情が、怒りが、憎しみが――そのすべてが手を動かした。

「黙れェッ」

 斬撃がシトリーの胸元を貫く。獣の肉が裂け、内側の黒い核が露わになる。
 しかしシトリーはまだ笑っていた。断末魔の中でさえ、あの悪意のままだった。

「そっくりだ……アリオクに……!」

 最後の声が、喉の奥で弾けた。
 そして、崩れ落ちる。
 巨体が沈み、口が閉じる。ようやく、夜に静寂が戻った。
 サリエルはその場に立ち尽くしていた。剣を握る手が震えている。全身から冷たい汗が流れていた。
 両親の名を、知らないはずの敵が知っていた。その最期を語った。

「……アリオク……リリン……」

 闇の中、誰にも届かぬ声がぽつりと落ちた。
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