霧と魔眼のファタ・モルガーナ

氷翠

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30話「牙を剥くもの」

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 サウナリアの空は夜になるとよく泣く。空気が重く濁り、路地の隙間には濃霧が這いずるように満ちていく。そんな街の一隅、破れかけた天幕の上から、一人の少年が目を凝らしていた。
 サリエル。年若くして剣の修行を積み、今はただ一人、ある男の行動を追っている。

──シトリー。

 子どもを、女を、ただ己の任務のために狩る冷血の男。その背後には黒き力と、名も知れぬ「渾沌」の存在がある。
 サリエルの視線は、夜の中を彷徨う黒衣の男に釘付けになっていた。フードの奥にのぞく口元は笑っている。なにか、嬉々としたものを隠しきれないでいるように見える。
 それは、今宵また、誰かを“狩る”という確信があるからだ。

「次はどんな音が聞けるかな……泣き声か、叫びか、歯を噛み締める音か……」

 シトリーは口の中で小さく笑う。片手には例の水晶──渾沌の核の分片。すでにいくつかの魂を吸ったそれは、わずかに脈打つような鈍い輝きを放っていた。

「あと三つ……いや、四つは欲しいな。そうすりゃ“実験”も進む」

 狙いはもう定まっている。三日間に渡る張り込みの末、シトリーは“使えそうな魂”を持つ少年を見つけていた。まだ七歳。夜になると近くの井戸に水を汲みに出る。その母親は耳が聞こえず、物音には気づけない。
 完璧な条件だ。

「さて……そろそろ“時間”だ」

 シトリーがゆっくりと歩を進め、目標の家に近づいたそのとき──空気がわずかに揺れた。

「……誰か、いるのかい?」

 振り返るより先に、背後から地を這うような気配が迫る。瞬間、シトリーは煙玉を放り、視界を白く塗り潰した。だが──

「無駄だ」

 低く、静かな声。風を裂くように飛来した蹴りが、煙の中からシトリーの腹に叩き込まれた。

「ぐ……!」

 吹き飛ぶ。体が地面を滑る。コートが裂け、口元から血が滲む。だが、笑っていた。

「おいおい……誰かと思えば、“見習い剣士くん”か。ガキを守りにきたってわけ?」

 シトリーは立ち上がり、口元を拭った。目の奥が狂気に濁っている。今や表面上の仮面すら投げ捨てていた。

「チッ……やっぱ邪魔してくんのか。なら、こっちも“本気”を出すしかねぇな」

 彼の体が、ぶつり、と音を立てて膨らむ。骨が鳴り、皮膚が破れ、背中から異形の肉が噴き出した。数秒のうちにその姿は、熊のように巨大な異形へと変わる。
 だが──その顔には目も鼻もなかった。
 あったのは、ただひとつ。
 頭部全体を裂く、巨大な“口”だけだった。

「おぉぉ……っははははっ!! こいつが俺の“本性”よォ……! どうだ、怖いか!? 逃げねぇのか!?」

 地響きを立てて地面を踏み砕き、シトリーが突進する。サリエルは寸前で飛び退くと、瓦礫の上に軽やかに着地した。

「怖くなんてない。お前が誰を喰おうと、俺は……止めるだけだ」
「カッコつけやがって……その顔を歪ませるのが、一番楽しみなんだよ!!」

 咆哮とともに、巨大な口が開く。中には幾重にも重なる牙の列。その吐息だけで、空気がねじれる。
 だがサリエルは動じない。静かに一歩、また一歩と前に出た。

「喰ってみろよ。俺が“全部”、返してやる」

 次の瞬間、闇が裂けた。
 少年の影が疾駆し、巨大な咢の中心へ斬撃が走る。
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