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第五話「先輩の涙」
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記憶を辿っていくうちに、ふと別の光景が蘇ってきた。
小学校を卒業して、中学生になった私。新しい環境、新しい友達、新しい生活。小学校での恥ずかしい記憶を背負いながらも、私は中学校で心機一転、頑張ろうと決めていた。
そして、入部したのが陸上部だった。
陸上部に入ったのは、身体を動かすのが好きだったからだ。走るのは得意ではなかったけれど、練習を重ねるうちに少しずつタイムが伸びていくのが楽しかった。
部活には、優しい先輩たちがたくさんいた。
その中でも、清水先輩は特に印象的な人だった。
中学三年生で、副部長を務めていた清水先輩は、いつも凛としていて、後輩たちの面倒見も良い人だった。練習でも誰よりも真剣で、私たち一年生のお手本のような存在だった。。
「瑞稀、フォームはそうじゃなくて、もっと腕を振って」
「はい!」
優しく、でも的確に指導してくれる。憧れの先輩だった。
そんな清水先輩が、あんなことになるなんて。
それは、夏休み前の七月のことだった。
その日の練習は、いつもより長引いていた。監督の機嫌が悪かったのだ。大会が近づいているのに、みんなの動きが良くないと、厳しい言葉が飛び交っていた。
「もっと集中しろ! そんなんじゃ大会で勝てないぞ!」
監督の怒鳴り声が響く。みんな、びくびくしながら練習していた。
ようやく練習が終わって、体育館でのミーティングが始まった。
「今日の練習について、反省点を話し合います」
監督の言葉に、みんなが整列する。一年生は一番後ろ。三年生が一番前。部長が監督の横に立ち、その隣に副部長の清水先輩が立っていた。
ミーティングが始まった時、私はふと先輩の様子がおかしいことに気づいた。
もじもじと身体を動かしている。立っているのに、足を交互に浮かせたり、身体を左右に揺らしたり。顔も少し赤い気がする。
「清水、お前も今日の練習はなってなかったぞ」
監督が先輩に向かって言った。
「すみません……」
先輩が小さな声で答える。でも、その声が少し震えていた。
監督の話が続く。今日の反省点。明日からの練習メニュー。大会に向けての目標。
先輩は、さらにもじもじしていた。身体をくねらせる。太ももを擦り合わせる。内股になって、膝をくっつけている。
あ、と思った。
先輩、トイレに行きたいんだ。
でも、この状況じゃ言い出せない。監督は機嫌が悪いし、ミーティング中に「トイレに行きたい」なんて言ったら、また怒られるかもしれない。
先輩、大丈夫かな。
そう思いながら、私はミーティングを聞いていた。でも、時々先輩の方を見てしまう。
先輩は、もう必死だった。足を交差させて、くねくねと身体を動かしている。片手でお腹を押さえているようにも見える。膝を曲げて、少し前かがみになっている。
監督は気づいていないのか、それとも気づいていても無視しているのか、話を続けていた。
「それから、明日は朝練もあるからな。遅刻するなよ」
「はい」
みんなが答える。でも、先輩は答えていなかった。ただ、じっと耐えているようだった。
その時だった。
「ジュッ」
小さな音が聞こえた。
なんだろう。
周りを見回す。でも、誰も気づいていないようだった。
監督の話は続いている。
「そして、来週の大会だが……」
また、音が聞こえた。
「ジュジュッ」
今度ははっきりと聞こえた。水が何かに当たるような音。
そして、次の瞬間。
「じょろろろろ」
もっと大きな音が聞こえた。水をこぼしたような音。
え、なに?
私は音の方向を見た。
清水先輩の足元だった。
先輩の太ももの辺りから、何かが流れている。ジャージが濡れている。そして、床に水たまりができている。
え。
呆然とした。
清水先輩が……おもらし……?
信じられなかった。あの、しっかり者の清水先輩が。部長の清水先輩が。中学三年生の先輩が。
「じょろじょろじょろ」
音は続いていた。先輩は両手で顔を覆っている。身体を丸めて、震えている。
でも、おしっこは止まらない。ジャージを濡らし、床に広がっていく。
「ん? どうした?」
監督が気づいた。
「清水? おい、清水!」
監督の声が大きくなる。
みんなも気づき始めた。ざわざわと声が上がる。
「え、なに?」
「先輩、どうしたの?」
「濡れてる……」
「え、まさか……」
ざわざわざわざわ。
先輩は、なんとか止めようとしているようだった。身体を硬くして、必死に力を込めている。
でも、おしっこは止まらなかった。
「じょろじょろじょろ」
まだ出ている。床の水たまりは、どんどん大きくなっていく。
「清水……」
監督が呆然とした声を出した。
先輩は、もう耐えられなくなったのか、その場に座り込んでしまった。体育座りのような姿勢で、顔を膝に埋めて。
「じょろろろろ……」
まだ、出続けている。
私は、ただ見ているしかできなかった。
清水先輩。あの清水先輩が。
耳まで真っ赤になっている。身体が小刻みに震えている。
泣いているんだ。
先輩は泣いていた。
ようやく、音が止んだ。
床には大きな水たまり。濡れたジャージ。びしょびしょの靴下。
体育館は静まり返っていた。誰も何も言えなかった。
「……清水、保健室行け」
監督が、低い声で言った。
先輩は、顔を上げずに頷いた。でも、立ち上がれないようだった。
「誰か、付き添ってやれ」
監督の言葉に、三年生の女子が立ち上がった。
「清水、行こう」
優しい声で言いながら、先輩を支える。
先輩は、よろよろと立ち上がった。顔は伏せたまま。濡れたジャージが、足に張り付いている。
二人が体育館を出ていく。その間、誰も声を出さなかった。
先輩が出て行った後も、しばらく誰も何も言わなかった。
「……今日のミーティングはこれで終わりだ。解散」
監督が短く言って、その場を離れた。
みんなも、静かに立ち上がって、体育館を出て行った。
私も立ち上がった。でも、すぐには動けなかった。
清水先輩の足元にあった水たまりを見つめながら、私は考えていた。
中学生でも、おもらしするんだ。
しっかりしている先輩でも。
我慢できない時は、我慢できないんだ。
---
次の日、清水先輩はいつものように部活に来た。
正直、来ないんじゃないかと思っていた。あんなに恥ずかしい思いをして、みんなの前であんなことになって。
でも、先輩は来た。
いつもと同じユニフォームを着て、いつもと同じように準備体操をして。
「おはよう、瑞稀」
私に声をかけてくれた時、少しだけ顔が赤かったけれど、笑顔だった。
「お、おはようございます」
私は驚きながらも答えた。
練習が始まった。先輩は、いつものように走って、いつものように後輩に声をかけて。
「もっと腕振って! そう、その調子!」
まるで、昨日のことがなかったかのように。
でも、違う。先輩は逃げなかった。恥ずかしくても、辛くても、ちゃんと部活に来た。
さすが先輩だな。
私は心からそう思った。
あの日のことは、誰も口にしなかった。でも、先輩の強さを、みんなが感じていたと思う。
---
それから、中学校の三年間、私は何度か危ない瞬間があった。
授業中にトイレに行きたくなって、でも手を挙げられなくて、必死に耐えたこと。
部活の練習中に、でも監督が厳しくて、トイレに行けなかったこと。
友達と遊んでいる時に、なかなか言い出せなくて、ギリギリまで我慢したこと。
でも、なんとか乗り越えた。少しちびってしまったことも何度かあったけれど、完全におもらしすることはなかった。
中学三年生になった頃、私は少し自信を持っていた。
もう大丈夫。さすがにこの歳になって、おもらしなんてしない。
小学校の時の私とは違う。もう成長したんだ。
そう思っていた。
でも、人生というのは予測できないものだ。
高校生になった私が、まさかまたあの経験をするなんて。
この時の私は、まったく予想していなかった。
小学校を卒業して、中学生になった私。新しい環境、新しい友達、新しい生活。小学校での恥ずかしい記憶を背負いながらも、私は中学校で心機一転、頑張ろうと決めていた。
そして、入部したのが陸上部だった。
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部活には、優しい先輩たちがたくさんいた。
その中でも、清水先輩は特に印象的な人だった。
中学三年生で、副部長を務めていた清水先輩は、いつも凛としていて、後輩たちの面倒見も良い人だった。練習でも誰よりも真剣で、私たち一年生のお手本のような存在だった。。
「瑞稀、フォームはそうじゃなくて、もっと腕を振って」
「はい!」
優しく、でも的確に指導してくれる。憧れの先輩だった。
そんな清水先輩が、あんなことになるなんて。
それは、夏休み前の七月のことだった。
その日の練習は、いつもより長引いていた。監督の機嫌が悪かったのだ。大会が近づいているのに、みんなの動きが良くないと、厳しい言葉が飛び交っていた。
「もっと集中しろ! そんなんじゃ大会で勝てないぞ!」
監督の怒鳴り声が響く。みんな、びくびくしながら練習していた。
ようやく練習が終わって、体育館でのミーティングが始まった。
「今日の練習について、反省点を話し合います」
監督の言葉に、みんなが整列する。一年生は一番後ろ。三年生が一番前。部長が監督の横に立ち、その隣に副部長の清水先輩が立っていた。
ミーティングが始まった時、私はふと先輩の様子がおかしいことに気づいた。
もじもじと身体を動かしている。立っているのに、足を交互に浮かせたり、身体を左右に揺らしたり。顔も少し赤い気がする。
「清水、お前も今日の練習はなってなかったぞ」
監督が先輩に向かって言った。
「すみません……」
先輩が小さな声で答える。でも、その声が少し震えていた。
監督の話が続く。今日の反省点。明日からの練習メニュー。大会に向けての目標。
先輩は、さらにもじもじしていた。身体をくねらせる。太ももを擦り合わせる。内股になって、膝をくっつけている。
あ、と思った。
先輩、トイレに行きたいんだ。
でも、この状況じゃ言い出せない。監督は機嫌が悪いし、ミーティング中に「トイレに行きたい」なんて言ったら、また怒られるかもしれない。
先輩、大丈夫かな。
そう思いながら、私はミーティングを聞いていた。でも、時々先輩の方を見てしまう。
先輩は、もう必死だった。足を交差させて、くねくねと身体を動かしている。片手でお腹を押さえているようにも見える。膝を曲げて、少し前かがみになっている。
監督は気づいていないのか、それとも気づいていても無視しているのか、話を続けていた。
「それから、明日は朝練もあるからな。遅刻するなよ」
「はい」
みんなが答える。でも、先輩は答えていなかった。ただ、じっと耐えているようだった。
その時だった。
「ジュッ」
小さな音が聞こえた。
なんだろう。
周りを見回す。でも、誰も気づいていないようだった。
監督の話は続いている。
「そして、来週の大会だが……」
また、音が聞こえた。
「ジュジュッ」
今度ははっきりと聞こえた。水が何かに当たるような音。
そして、次の瞬間。
「じょろろろろ」
もっと大きな音が聞こえた。水をこぼしたような音。
え、なに?
私は音の方向を見た。
清水先輩の足元だった。
先輩の太ももの辺りから、何かが流れている。ジャージが濡れている。そして、床に水たまりができている。
え。
呆然とした。
清水先輩が……おもらし……?
信じられなかった。あの、しっかり者の清水先輩が。部長の清水先輩が。中学三年生の先輩が。
「じょろじょろじょろ」
音は続いていた。先輩は両手で顔を覆っている。身体を丸めて、震えている。
でも、おしっこは止まらない。ジャージを濡らし、床に広がっていく。
「ん? どうした?」
監督が気づいた。
「清水? おい、清水!」
監督の声が大きくなる。
みんなも気づき始めた。ざわざわと声が上がる。
「え、なに?」
「先輩、どうしたの?」
「濡れてる……」
「え、まさか……」
ざわざわざわざわ。
先輩は、なんとか止めようとしているようだった。身体を硬くして、必死に力を込めている。
でも、おしっこは止まらなかった。
「じょろじょろじょろ」
まだ出ている。床の水たまりは、どんどん大きくなっていく。
「清水……」
監督が呆然とした声を出した。
先輩は、もう耐えられなくなったのか、その場に座り込んでしまった。体育座りのような姿勢で、顔を膝に埋めて。
「じょろろろろ……」
まだ、出続けている。
私は、ただ見ているしかできなかった。
清水先輩。あの清水先輩が。
耳まで真っ赤になっている。身体が小刻みに震えている。
泣いているんだ。
先輩は泣いていた。
ようやく、音が止んだ。
床には大きな水たまり。濡れたジャージ。びしょびしょの靴下。
体育館は静まり返っていた。誰も何も言えなかった。
「……清水、保健室行け」
監督が、低い声で言った。
先輩は、顔を上げずに頷いた。でも、立ち上がれないようだった。
「誰か、付き添ってやれ」
監督の言葉に、三年生の女子が立ち上がった。
「清水、行こう」
優しい声で言いながら、先輩を支える。
先輩は、よろよろと立ち上がった。顔は伏せたまま。濡れたジャージが、足に張り付いている。
二人が体育館を出ていく。その間、誰も声を出さなかった。
先輩が出て行った後も、しばらく誰も何も言わなかった。
「……今日のミーティングはこれで終わりだ。解散」
監督が短く言って、その場を離れた。
みんなも、静かに立ち上がって、体育館を出て行った。
私も立ち上がった。でも、すぐには動けなかった。
清水先輩の足元にあった水たまりを見つめながら、私は考えていた。
中学生でも、おもらしするんだ。
しっかりしている先輩でも。
我慢できない時は、我慢できないんだ。
---
次の日、清水先輩はいつものように部活に来た。
正直、来ないんじゃないかと思っていた。あんなに恥ずかしい思いをして、みんなの前であんなことになって。
でも、先輩は来た。
いつもと同じユニフォームを着て、いつもと同じように準備体操をして。
「おはよう、瑞稀」
私に声をかけてくれた時、少しだけ顔が赤かったけれど、笑顔だった。
「お、おはようございます」
私は驚きながらも答えた。
練習が始まった。先輩は、いつものように走って、いつものように後輩に声をかけて。
「もっと腕振って! そう、その調子!」
まるで、昨日のことがなかったかのように。
でも、違う。先輩は逃げなかった。恥ずかしくても、辛くても、ちゃんと部活に来た。
さすが先輩だな。
私は心からそう思った。
あの日のことは、誰も口にしなかった。でも、先輩の強さを、みんなが感じていたと思う。
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それから、中学校の三年間、私は何度か危ない瞬間があった。
授業中にトイレに行きたくなって、でも手を挙げられなくて、必死に耐えたこと。
部活の練習中に、でも監督が厳しくて、トイレに行けなかったこと。
友達と遊んでいる時に、なかなか言い出せなくて、ギリギリまで我慢したこと。
でも、なんとか乗り越えた。少しちびってしまったことも何度かあったけれど、完全におもらしすることはなかった。
中学三年生になった頃、私は少し自信を持っていた。
もう大丈夫。さすがにこの歳になって、おもらしなんてしない。
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