幸い(さきはひ)

白木 春織

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第一章

第三話

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 この日も何事もなく診察が終わり、診療所を閉めようと千鶴は表の掃き掃除をしていた。

 すると目の前に、この辺りではあまり見かけない自動車が止まる。

 診療所の周辺は下町の庶民が集まる地域で、自動車を持っている者自体少ない。

 急患の患者であれば、少し離れた大きな病院に行くだろう。

 不思議に思いながら、千鶴が車を見つめていると、運転席からスーツを着た男性が降りてきて、後部座席のドアを開けた。

 出てきたのは、体格のしっかりとした壮年の男性。

 見上げるような背丈に、仕立てのよいスーツをまとい、口ひげをたくわえた顔はいかめしい。

 男性の威圧感に、千鶴はこころともなくほうきの柄を握る手に力を込める。

 それでも勇気を出して、男性に声をかけようとした。

 が、男性は千鶴が声を出す前に、千鶴の目線に合わせていきなり腰を折る。

 眼前に険しい顔が来て動けなくなった千鶴に、男性は厳しい顔から一転、くしゃくしゃなしわができるほどの笑みを浮かべる。

 予想外の笑顔を向けられた千鶴は、あっけにとられ、先ほどとはまた別の意味で動きを止める。

 そんな千鶴の様子を察してか、男性は

「すまない。自動車で来てしまい、少し驚かせてしまったかな」

 と少し的はずれではあるが、低く優しい声をかけてくれる。

 その声に千鶴は、はっとし、いえと言葉を返す。

 男性はそれにほっとしたような顔になると、

西野にしの先生はいらっしゃるかな」

 と千鶴に尋ねた。

 西野先生とは千鶴の父のことだ。

「父はおりますが・・・。失礼ですが、父とはどういったご関係でございましょうか」

 千鶴が恐る恐る尋ねると、

「これは名乗らずに失礼。私は、南山みなみやまという者だ。帝国大学ていこくだいがくで医学の教鞭きょうべんをとっている。

 西野先生は昔、大学で私の助手をしてくれていたんだ。

 その関わりで少し頼みたいことがあり、急で申し訳ないが尋ねさせてもらった」

 南山は穏やかな表情のまま、丁寧に説明してくれる。

 千鶴はそれに納得すると、

「そうだったのですね。大変失礼いたしました。父は奥におりますので、ご案内いたします」

 そう言って南山を家の中に迎え入れた。

 千鶴は応接間に南山を通すと、診察室にいた父に声をかける。

「お父さん。南山様という方がいらっしゃいました」

 診察具の消毒をしていた千鶴の父は、娘が告げた言葉に動きを止める。

「南山・・・」

 そして確認するように千鶴が告げた名前を繰り返すと、持っていたハサミを机に置き、しばしうつむいた。

 唇を少し内側に巻き込むような表情で考え込む父を千鶴はいぶかしみ、再び声をかける。

「お父さん、どうされました」

 その声にはっとした様子で父は、

「なんでもないよ。久しぶりにお会いするから、少し懐かしい気持ちになってね。

応接間にいらっしゃるのだね。すぐに行くよ。

千鶴、すまないがお茶を頼めるかな」

 そう早口で言うと、急ぎ足で部屋を出た。
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