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第四章
第六話
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「彼女と出会ったのは十年以上前、あの庭の桜の花がわずかばかりほころび始めた頃だった。
昔、あの桜の木の下にはベンチがあって、私はそこでよく本を読んでいた」
千鶴は桐秋の言葉に導かれるように、青く茂った木の下のぽっかりと空いた空間に目をうつす。
「当時読んでいたのは、父に買って貰った西洋の本。
季節を司る女神の手伝いをする妖精の話だった。
夢中になって本を読んでいた私がふと、目線を上げると、桜の木の前に、いつのまにか幼い少女が立っていた。
私はいきなり、眼の前に人が現れたことに驚いたと同時に、少女の容姿に目を奪われた。
肌は珠のように白く、唇は桜の果実のように赤く艶めき、緩くウエーブがかかったような薄金の長い髪は、春の陽光を浴びてきらきらと煌めいていた。
どこか不思議なその容姿は、少女が着ていた白いワンピースも相まって、今まさに読んでいた本に出て来る、春を告げる花の妖精にそっくりだった」
少年だった桐秋は、ほんとうに花の精が現れたのだと思った。
妖精と話がしたくて、怖がらせないようゆっくりと近づき、声をかけた。
「だが、彼女は私の存在を認識した瞬間、驚いて、逃げるように去ってしまった。
でもなぜか、私は彼女がもう一度ここに来る気がして、本に書いてあった花の妖精が好きだという木苺ジャムのクッキーを持って、毎日、彼女を桜の木の下で待っていた」
少女のことを思うと新しい本にも身が入らなかった
「一週間ほどたった頃だっただろうか、彼女は再び私の前に現れた。
まるきり中身の入ってこない本から顔を上げ、頭上の桜の花を見つめていると、彼女は突如、満開の桜の雲から、座っていた私の懐へと降ってきた」
端からみると、少女が降ってくるなどおかしな話だが、幼かった桐秋は、妖精であるならば、それも自然なことのようにも思えた。
「頭上に広がる薄紅色の花畑から、妖精がひっそり地上に舞い降りてきたように感じたんだ」
桐秋は当時の自身の想いを恥ずかしそうに、苦く笑いながら吐露する。
けれどもその顔は千鶴が今まで見てきた表情の中で一番穏やかで柔らかい。
「懐に入った彼女と目が合って、当初彼女は何が起こったか分からず、固まっていた。
が、状況を理解すると、再度逃げようとした。私は彼女を引き止めるため、クッキーはいらないかと声をかけた」
花の精ならば、好物の木苺ジャムのクッキーに興味をそそられるだろうと。
「私の言葉に彼女はピタリと止まり、こちらを振り向いた。
私は、ハンカチに包まれた木苺ジャムのクッキーを彼女の前に差し出した」
少女はウグイスが鳴くような愛らしい声で、この真ん中の赤いのはなんだと尋ねてきた。
桐秋が木苺のジャムだと答えると、少女はクッキーを一枚手に摘まんだ。
「彼女は水をすくうように優しく両手にクッキーを包むと、照りのあるジャムの部分を宝石みたいだといった。
それから、クッキーを小さな口で恐る恐る一口頬張った」
未知のものに一噛み、一噛みゆっくりと味わっているようだった。
「慎重に咀嚼したものを飲み込むと、彼女の表情は一変した」
不安気な困り眉が取りのぞかれ、光をちりばめたような瞳が潤み、ふっくらとした頬が淡く染まり、ぷっくりとした唇は柔らかに弧を描いた。
「天色の空に、春の陽光をたっぷりと浴びて咲きこぼれる桜の花のような、晴れやかに、澄みやかに輝く愛くるしい笑みがぱっと咲いた」
一瞬で桐秋の心を満たした表情。桐秋にとって、その瞬間は今も胸に残る大切な宝物だ。
昔、あの桜の木の下にはベンチがあって、私はそこでよく本を読んでいた」
千鶴は桐秋の言葉に導かれるように、青く茂った木の下のぽっかりと空いた空間に目をうつす。
「当時読んでいたのは、父に買って貰った西洋の本。
季節を司る女神の手伝いをする妖精の話だった。
夢中になって本を読んでいた私がふと、目線を上げると、桜の木の前に、いつのまにか幼い少女が立っていた。
私はいきなり、眼の前に人が現れたことに驚いたと同時に、少女の容姿に目を奪われた。
肌は珠のように白く、唇は桜の果実のように赤く艶めき、緩くウエーブがかかったような薄金の長い髪は、春の陽光を浴びてきらきらと煌めいていた。
どこか不思議なその容姿は、少女が着ていた白いワンピースも相まって、今まさに読んでいた本に出て来る、春を告げる花の妖精にそっくりだった」
少年だった桐秋は、ほんとうに花の精が現れたのだと思った。
妖精と話がしたくて、怖がらせないようゆっくりと近づき、声をかけた。
「だが、彼女は私の存在を認識した瞬間、驚いて、逃げるように去ってしまった。
でもなぜか、私は彼女がもう一度ここに来る気がして、本に書いてあった花の妖精が好きだという木苺ジャムのクッキーを持って、毎日、彼女を桜の木の下で待っていた」
少女のことを思うと新しい本にも身が入らなかった
「一週間ほどたった頃だっただろうか、彼女は再び私の前に現れた。
まるきり中身の入ってこない本から顔を上げ、頭上の桜の花を見つめていると、彼女は突如、満開の桜の雲から、座っていた私の懐へと降ってきた」
端からみると、少女が降ってくるなどおかしな話だが、幼かった桐秋は、妖精であるならば、それも自然なことのようにも思えた。
「頭上に広がる薄紅色の花畑から、妖精がひっそり地上に舞い降りてきたように感じたんだ」
桐秋は当時の自身の想いを恥ずかしそうに、苦く笑いながら吐露する。
けれどもその顔は千鶴が今まで見てきた表情の中で一番穏やかで柔らかい。
「懐に入った彼女と目が合って、当初彼女は何が起こったか分からず、固まっていた。
が、状況を理解すると、再度逃げようとした。私は彼女を引き止めるため、クッキーはいらないかと声をかけた」
花の精ならば、好物の木苺ジャムのクッキーに興味をそそられるだろうと。
「私の言葉に彼女はピタリと止まり、こちらを振り向いた。
私は、ハンカチに包まれた木苺ジャムのクッキーを彼女の前に差し出した」
少女はウグイスが鳴くような愛らしい声で、この真ん中の赤いのはなんだと尋ねてきた。
桐秋が木苺のジャムだと答えると、少女はクッキーを一枚手に摘まんだ。
「彼女は水をすくうように優しく両手にクッキーを包むと、照りのあるジャムの部分を宝石みたいだといった。
それから、クッキーを小さな口で恐る恐る一口頬張った」
未知のものに一噛み、一噛みゆっくりと味わっているようだった。
「慎重に咀嚼したものを飲み込むと、彼女の表情は一変した」
不安気な困り眉が取りのぞかれ、光をちりばめたような瞳が潤み、ふっくらとした頬が淡く染まり、ぷっくりとした唇は柔らかに弧を描いた。
「天色の空に、春の陽光をたっぷりと浴びて咲きこぼれる桜の花のような、晴れやかに、澄みやかに輝く愛くるしい笑みがぱっと咲いた」
一瞬で桐秋の心を満たした表情。桐秋にとって、その瞬間は今も胸に残る大切な宝物だ。
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