紅の牡丹は今宵も散る

ルータ・ラクリマ

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第一話 僕と主任

主任には逆らえない

「おはようございます……」
 我ながら情けない声で朝の挨拶を口にして事務所の扉を開けた。しかし、返ってくる声はない。

「なんだ、誰もいないじゃん……」
 ポツリと呟き、入口近くにあるタイムカードの前に立つ。
 僕が勤めているのは温泉街にあるホテルで、古いながらも味があると常連さんの間では言われている。
 僕の仕事は用度で、館内の備品等を揃えたり管理することだった。

 これから仕事だと思うと自然に溜息が漏れる。昨日はずっとラブホテルにいて眠い。
 もう一度盛大な溜息を漏らし、タイムカードを押そうとした時。

「朝から何大きな溜息吐いてるんだい?」
「……いたんですか」
 背後から声がいて振り返ると、さっきは柱に隠れて見えなかった姿があった。

「いたんだって、冷たいなぁ」
 口を歪めさせながら歩み寄るその人は僕の後ろから手を伸ばす。そして、「入江信彦いりえのぶひこ」と書かれたカードを手にして白い機械に通した。
 目を覆いそうな黒い髪、髪に隠れそうな眠たげな目、特別に大きくはないが、小柄な俺と並ぶと大きく見える体。その体を包んでいるのは淡い青のシャツとゆったりめのジャージで、ホテル内の人間だったら布団敷きや宴会場の設営などを担当する部署の人間だということは一目で分かる。
 入江さんはホテル内で一番仲の良い人ではあるけれど、彼の年や家族構成などは知らない。僕のことはよく聞いてくるのだけれど。

「眠いんですよ」
「また朝帰りかい?」
「またって……」
 内心ムッとしたが、図星なので言い返せない。

「いい加減に止めたほうがいいと思うけどなぁ」
 入江さんは再度手を伸ばすと、「篠原圭司けいじ」と書かれたカードも手にする。

「何をですか」
 何でも話せる兄貴分みたいな存在の人の動作を見ながら、僕はぶっきらぼうに問う。
 ごまかしたってこの人には通用しない。

 それ故に―――。

「主任に体を売ってご機嫌取る事」
 彼は僕と主任の関係を知る、唯一の人だった。

「体売るって……人聞き悪いですよ」
「でも実際そうだろ? それに最近顔色悪いよ」
 そのままだと体壊すよ、と続けながら入江さんは僕のタイムカードを機械に通した。

「勝手に人のタイムカード押さないで下さい」
「話を逸らさないで」
 いつになく真剣な声色の入江さんに多少びくりとしたが、何とか自分を保ち口を開いた。

「大丈夫ですよ。今日中抜けでたっぷり寝ますから」
「そういう問題じゃないでしょ。もしばれたりしたらどうするの」

 入江さんのその言葉に、今度は僕が口の端を歪めた。

「大丈夫ですよ。入江さんが喋らない限りね」
 僕の言葉に入江さんは大きな溜息をついて、

「まぁ、本当に体壊さないようにね。顔色すごく悪いから」
「はい……」
 入江さんの珍しい真剣な言葉に、僕はなんとなく照れ臭くなって襟足を掻いて頷いた。左腕にはめられた時計を見ると就業時間を回っていた。

「あ、そろそろ行かないと。入江さんも早く行かないと木之元さんが怖いでしょ」
 入江さんは軽く笑って何も言わなかった。

「何してるんだ」
 突然背後から声がかかり、僕はびくりと体を震わせた。

「あ、桜井さくらい主任。おはようございます」
 手をひらひらさせながら軽く挨拶をした入江さんを、僕はひやひやしながら見ていた。主任がどんな顔をしていたかは、背中を向けていたから分からない。

 主任は一瞬黙っていたけど静かに言った。

「入江さん、髪が伸びましたね。切って下さいよ」
「えーいいじゃないですか。俺ら裏方なんだし」

 不満気に口を尖らせる入江さんに主任は更に続けた。
「いつどこでお客さんと会うか分からないでしょう。何より見てて鬱陶しい」

 どこまでも冷たい主任に、入江さんは軽く息を吐いて答えた。
「はいはい、分かりましたよ」
「それにいつまでこんなところでお喋りしてるんですか。もう時間は過ぎてるでしょう」
「行きますよ。そんな怖い顔しないでくださいよー」
 にやりと不敵な笑みを浮かべ、明らかに挑発しているのが丸分かりな入江さんに、僕は「行きましょう」と促した。

 踵を返し、下を向いてなるべく目を見ないように主任の傍を通る。

「篠原くん」
 呼び止められて内心溜息がッ漏れる。振り返りたくなかったが、そういうわけにはいかない。

「何でしょうか」
「今日遅れた分、一時間残業ね」
「……」

 正直かなりムッとした。それが顔に出てたのだろう。主任は眉根を寄せた。

「何?」
「……いいえ。何でもありません」
 軽く溜息を吐きながら言ったのが伝わったのかそうでないのかは分からないけど、主任はちょっとまだ不機嫌そうな顔のまま、僕の横をすり抜けて行った。

 どう反応すればいいか分からず立ち尽くす僕に、主任は冷たく言い放った。

「早く行けよ」

 その言葉に僕はやっと足を動かした。なんだか分からないけど、とにかく情けなかった。

 いつまで……こんな生活が続くのだろう。


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