紅の牡丹は今宵も散る

ルータ・ラクリマ

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第一話 僕と主任

嫌な予感

「はい、はい……明日ですね。分かりました」
 僕は会話の最後を軽いお辞儀で締めると、スマホの通話を切ってポケットの中に仕舞った。腕時計を見ると午後五時を回っている。あと二時間で終業だ。

 やるべき仕事は済ませたし、あとは細々とした物を片付ければ良いだけだった。
 もし時間が余ったら倉庫の整理でもしよう。

「さ、もう一踏ん張りしようかな」
 自分に言い聞かせるように背伸びして眼鏡のズレを直した。

 事務所に戻ろうと踵を返したとき、ポケットに戻したばかりのスマホが震えだした。
「……っ!」
 反射的にびくりと体を震わせ、ポケットに手を入れる。
 震える手でスマホを取り出し、表示された画面を見ると入江さんからだった。ほっと息を吐き通話を繋げる。

「はい、篠原です」
「あ、篠原くん?今日ヘルプ大丈夫?」
 電話に出た途端、焦った入江さんの声がした。

「今日ですか?」
「うん、急にバイトが来れなくなって。今日夜は木之元さんも休みだし」
 こんなことは珍しくもない。今までも人が足りないと要請があればヘルプに行くことは多かった。

 僕は迷った。でも自分の仕事も終わったし、こんな困った入江さんも珍しい。

「分かりました、いいですよ」
「ごめんね、忙しかったんでしょ」
「大丈夫ですよ、一通り終わりましたし」
「そう?じゃ六時からお願いね」
「分かりました」

 頷き、スマホの通話を切る。何となく、画面が黒くなったスマホを握りしめた。
 わけもなく、不安でしょうがなかった。




 約束の時間になって、再び僕はスマホをポケットから取り出した。

 事務所から、奥に作られた従業員用のエレベーターの前まで移動する。
 着信履歴から入江さんを探して通話ボタンを押す。しばらくコール音が響いて「もしもし」と入江さんの声がする。

「もしもし、篠原です。終わりました」
 僕は早口でそう告げた。

「終わった?」
「はい、何処に行けばいいですか?」
「んー……そうだな……え? 何?」
 入江さんの声が遠ざかる。どうやらパートに指示をしているらしく、俺は黙って待っていた。

 しばらくして「もしもし」と再度入江さんの声がした。
「じゃ、七階に来て」
「了解です」
 僕は電話を切って携帯を仕舞うと、目の前のエレベーターのボタンを押した。

 ゆっくりとエレベーターが降り始める。いつものことだが、時間がかかりそうだ。
 時計を見ると既に六時を少し回っていた。意外と最後の追い込みに時間がかかってしまった。
 僕は握っていたスマホの画面を再び表示させた。誰からの着信も入っていない。何となくほっとした。
 そして何故こんなにびくびくしなければならないのかと、自分自身に対して苛立ちが湧く。

「はぁ……」
 そう思うだけで自然と溜息が出る。何気なく前を向くと、エレベーターの扉が開いていて慌てて乗り込んだ。
 目的の階のボタンを押して扉が閉まると、壁に寄りかかる。

 眼鏡を外して目頭を押さえる。そうすると一気に疲れが襲ってきた。
 結局今日は中抜けもよく眠れなかったし……。今日は仕事が済んだら早く帰って寝たい。

 そんなことを考えているうちに、エレベーターの扉が音を立てて開いた。
 眼鏡をかけてエレベーターを降りる。辺りを見回すが、入江さんの姿はない。

「倉庫かな……」
 呟いて、各階にあるシーツや浴衣が置いてある倉庫を目指した。携帯を鳴らしていようかとも思ったけど、倉庫にいなかったらそうしてみたらいい。

 案の定、入江さんは倉庫の前にいた。

「お疲れ様です」
 声をかけると入江さんはシーツを台車に運んでいる手を止めて振り返った。

「あぁ、お疲れさん。ありがとうね」
 柔らかく笑って倉庫の扉を閉めた入江さんは「行こうか」と促した。

「どこからですか?」
「一号室から」
「最初からじゃないですか」
 ははっと笑い、最初の部屋に向かう。入江さんがノックを二回して「失礼します」と口にしながら首にかけたマスターキーで鍵を開けた。
 中に入ると食事中のようで、部屋には誰もいなかった。

「今日呼び出しはなかったの?」
 入江さんが部屋の真ん中に置いてある座椅子を抱えて部屋の隅に寄せた。

「えぇ、まぁ」
 入江さんを見ながら前にやったのを思い出しながら動く。

「ふーん……そっか」
 入江さんは敷いた布団の上でシーツを半分広げ、片方を俺に投げる。多少怪しかったものの、僕は何とか落とさずに受け取ることができた。

「篠原くんさぁ」
 入江さんはシーツを広げながら続ける。

「こういう体を動かす仕事のほうが向いてるんじゃないの?」
「自分でもそう思うんですけどね」
 僕も受け取った方の端を広げる。入江さんと僕とで広げられたシーツは真ん中で捩れていて、僕は慌ててひっくり返した。

 ピンと広げられた皺一つないシーツを剥き出しの敷布団の上にかける。

「異動お願いしたら?」
「そうしたいのは山々なんですけどね」
 なかなか言い辛いし、と呟きながら余ったシーツの端を布団の中に折り込む。

「後任もいないしね」
 押し入れから枕を一つ出した入江さんは僕に向かって渡す。僕はそれを受け取って布団の真ん中に置いた。

「後任……」
「どうしたの?」
 小さな声で呟いた僕を、掛け布団を引っ張り出しながら入江さんが不思議そうに見る。

「そういえばこの間主任が言っていました。来月から新人がくるって」
「新人? こんな時期に珍しいね」
 入江さんが二つに折り畳まれた掛け布団の端をこちらに差し出す。

「そうですよね。どこに行くんでしょうか」
 僕は端を受け取り、枕の少し下に置く。これで一人分の布団の完成だ。

「やっぱり最初は配膳じゃない?」
 入江さんがもう一枚敷布団を取り出しながらそう口にした。それを聞いた僕はそうとは頭では分かっていたものの、正直落胆した。

 それが入江さんにも伝わったらしく、苦笑しながら慰めてくれた。

「でも社員なら事務所に降りてくる可能性だってまだあるよ」

「……ありがとうございます」
 僕のその呟きは小さすぎたらしく、入江さんには聞こえなかったようだ。
 次いで、口にすることのない一言を心の中で告げる。

 いつもありがとうございます。心配かけてすみません。
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