夜空に花束を

しろみ

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 それから

 私はただひたすら仕事をした。機械のように、目の前の仕事を淡々とこなした。達成感を得たいとか昇進したいとか、そういう欲はなかった。私の中に存在するのは、『妻に会いたい』という渇求だけだ。渇きを紛らわす為にひたすら仕事に没頭した。

 虚しくなれば、汚れた性欲を吐き出す。

 そんな生活を10年繰り返した。


「はい確認しました。お金、確かに受け取りました」
「…今日はありがとうございました。あの…まで」
「いえいえ、また良かったら指名してくださいね」


 夜の繁華街。ネオンの光の下、酔っ払いのサラリーマンが行き交う。煙草とアルコールの匂いがあちこちから漂い、怪しい雰囲気がこの街を作り出していた。通りから外れた路地裏に私は居た。
 茶封筒を渡した私はふっと息を吐いた。目の前に佇むのは雑誌の切り抜きのような服装をした女性だ。美しい、のだろう。長い黒髪が妻に似ていた。彼女は淡々と言葉を発し、札を数えながら、にっこりと微笑む。


「それじゃあね、 史彦ふみひこさん」
「あ……、駅まで送っていきます」
「次のお客さん、同じホテルなんです。既に到着して待ってるみたいなんで大丈夫ですー」
「……あ、そうですか」


 彼女は人差し指を目の前のラブホテルに向けた。缶ジュースをどうやって開けるのだろうかと思うほど伸びた爪には小さな装飾がごてごてと乗ってる。衛生面は大丈夫なのだろうか。そんな事をぼんやり考えていれば、彼女の表情は『さっさと帰れ』と言わんばかりに冷たくなった。金を払えば用済みだろう。肩を落として、ゆるゆると首を振った。


「……では」


 とぼとぼと彼女に背を向け歩き、繁華街の人混みに身を投じた。


「…………終電は間に合うな……」


 ぽつりと呟いた声は繁華街のノイズで掻き消されてしまった。肩の重みが、ずどんと増したような気がした。何処からか視線を感じる。一気に、何かに纏わりつかれたような、そんな感覚に襲われる。

 ふと顔を上げて、振り返る。先程の彼女が視界に入った。ホテルの入り口で「今日もかっこいい~!」と黄色い声を上げてる。客はロビーにいるのだろう。死角になっていて見えない。私のときとは違い、彼女は楽しそうだ。『かっこいい』だなんて私は言われたことがない。それもそうか。こんな中年のオジサンがかっこいいわけない。何を望んでるんだ。馬鹿馬鹿しい。


「……ただいま……」


 それから我が家であるマンションに到着したのは夜の23時だ。

 家の中はしん…と静まり返っている。誰もいないリビングの明かりを点ければ、テーブルの上にラップがかかった皿が置いてあることに気付いた。皿にはオムライスが盛り付けてある。


《お父さんおかえり。今日もお疲れ様。温めて食べてね。サラダは冷蔵庫にあるよ。すみれ
  

 添えられた手紙にはそう書かれていた。息子の字だ。習字の手本のように美しい筆跡。子供の成長というのはあっという間で、あんなに小さかった息子は高校生になった。菫は夕方のバイトに行く前にこうやって夕飯を作ってくれる。うちはそれなりに裕福だ。バイトはしなくていいと何度も説得したのに『自分のお金は自分で稼ぎたい』と聞かない。そんなに稼いで何に使う気なのか。不思議に思ったが、思春期といえば、恋人や友達との交際費で出費がかさむのだろう。だから勉学を怠らないことを条件にバイトを許可した。


「……いただきます」


 とは言っても菫は優秀だ。私が何も言わずとも自ら進んで勉学に励む。高校の三者面談でも大絶賛された。『菫くんはとても良い子です。成績も常にトップで友達も多く、いつもクラスを引っ張ってくれる存在です。日頃からお父様のことを素晴らしい人だと尊敬してますよ。家族想いですね。一体どんな教育をされたんですか?』と教師に荒い鼻息で聞かれたが答えられなかった。

 私は何もしてない。妻が亡くなってから惰性で生きてきた。頭の中では常に、迷惑にならない死に方を考えてるような人間だ。教育らしいことなんて何一つ施したことがない。

 私は最悪の父親だ。


「ただいま、お父さん」
「ああ、おかえり」


 いつの間に帰ってきたのか。暗い廊下から顔を出したのは美しい少年だ。母親そっくりの、綺麗な子。切れ長で大きい目はお人形のような長いまつ毛で囲われている。通った鼻筋、薄い唇。浮腫みや無駄な肉など一切ない形の良い輪郭。耳にかかる程度の黒髪は動くたびにさらさらと靡く。肌は白い。不健康的な青白さではなく、真珠のような透明感がある白さだ。菫にはイケメンという俗っぽい言葉より美人という言葉がぴったりだ。幸い…というと悲しくなるが私と全く似てない。


「オムライス、美味しかった?」
「ああ。美味かった。ごちそうさま」
「お粗末さまでした」


 菫はふわりと微笑む。制服のジャケットを脱いで、ネクタイを緩める。何故かその仕草に色気のようなものを感じた。いやいや、と首を振る。何を考えてるのだ。咳払いをすると、菫は私の背後に回る。


「……お父さん…ぎゅうしていい…?」
「……うん?…あ、ああ」
「ありがとう」


 背中に温もりが触れる。背もたれがない椅子に座ってた為、隙間なくべったりとくっつかれてしまった。しっかり者の菫だがまだまだ子供で甘えん坊なところがある。夜は特にそうだ。彼は私を抱き締め、「すき…」と小さく囁いた。


「菫。話があるんだ」
「なに?」


 暫くして、口火を切った。このままの体勢だと話しづらい。テーブルの向かいに座るよう促した。菫が椅子に座ったことを確認して、テーブルの上で両手を組んだ。


「お父さんな、転勤が決まった」
「え……」
「突然で申し訳ない。しかし私も今日上司から内示を受けたんだ。許して欲しい」


 頭を下げた。


「再来月までには引っ越さないといけない。異動先はここからとても遠い県だ。それで相談なんだが……」


 数枚の紙を取り出す。それは菫が通ってる高校の入寮申請書だ。


「菫は今年受験だろう?こんなタイミングで連れて行くつもりはない」
「……」
「調べてみたら菫が通う高校に寮があるらしいんだ。だから――」
「――僕を捨てる気?」


 ひゅっと息を飲んだ。菫は落ち着いていた。動揺した様子はない。私の言葉を遮るようにそう言って、可憐に微笑んだ。その笑顔にゾクッと背筋が凍った。美しい笑顔だが怖かった。


「そ、そういう事じゃない。私は菫の将来のことを考えたんだ。どちらにせよ、大学へ進学すれば一人暮らしをする可能性がある。今から慣れておくのも悪くないと思うんだ」
「そうなの?僕はずっとお父さんと暮らすつもりだったよ?」
「……」


 言葉に詰まった。バイトをしてるほどだ。菫は自立心が強い子だと思っていた。だからこういう返答をされるとは思ってなかった。表情には出さないが菫が静かに怒ってるような気がした。空気が重い。目を泳がせて、生唾を飲んだ。


「そ…っ…れは……お父さんとしては嬉しいが…。私もいつまでも働けるわけじゃない。体が動かなくなって迷惑をかける可能性もある。ずっと、というのは難しいんだ」
「うん。お父さんは働かなくていいよ。今の会社も早く辞めなよ」
「…う、うん?」


 想像してなかった返答に変な声を出してしまった。菫は少し笑って言葉を続ける。


「僕が働くよ。お金の心配はしなくていいよ。お父さんは家に居ればいい」
「な、何を……?」
「体が動かなくなったら介護をするよ。僕の夢なんだ。お父さんの介護」
「……は…?」


 うっとりと美しい瞳は三日月に歪んだ。


「お風呂もトイレも、何もかも、僕がお世話するよ」
「……」
「ふふ、怖いこと言ってる?そんなに怯えないでよ」


 菫は立ち上がる。そうして私にもたれ掛かるように腕を伸ばして体を絡ませた。

 耳に熱い吐息がかかる。


「お父さんは酷い。僕のに気付いてる癖に、わざと無視をする」
「……菫…」
「僕、お父さんが大好き。愛してるよ。だから離れるなんて言わないで」


 ね?と言われれば小さく頷く。菫は満足した様子で、私の首筋を甘噛みする。そのまま唇を窄め、ちゅうっと皮膚を吸った。


「お父さん……好き」
「…ああ、う、うん」
「お父さんは?僕のこと好き?愛してる?」
「……」


 答えられなかった。私が愛してるのは妻だけだ。後にも先にも彼女以上に好意を持てる存在は現れないだろう。無言を貫いていれば、菫は困ったように眉を垂らした。


「嫌い……?」
「嫌いなわけ…ないだろ………。すまない。今日は疲れてるんだ。引っ越しについてはまた今度話そう。もう寝るよ」


 椅子を引いて立ち上がった瞬間だった。

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