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夜会の裏で
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夜会の主催者である侯爵夫妻のもとには、次から次へと招待客が押し寄せていた。
「ようこそおいでくださいました」
「ヴィラール卿が夜会を開かれるとお聞きしまして、是非にと思い参りました」
「ささやかな会ではありますが、お楽しみいただけると思います」
アロイスは取り澄ました笑みを浮かべ、挨拶に来る招待客に挨拶をしている。
レティシアはまだ貴族の顔と名前がほとんど一致しない状態なので、隣で微笑んで立っていることしかできなかった。
上位貴族については、エドモンの協力を得て家族構成や領地についての情報を一通り暗記していたが、顔までは覚えられなかったため、レティシアは暗記した情報と目の前の顔を一致させるのに必死になっていた。
表面上はにっこりと微笑みながら。
「それにしても、この屋敷で夜会とは久しぶりですね」
「ええ、母を亡くしてから、父はこういったことは避けて通っていましたから」
「あれほど愛された奥様を亡くされたのですから、無理もありません」
「そういっていただけると助かります」
ひげを蓄えた壮年の男性は、親しそうにアロイスと話している。
「ご紹介が遅れました。このたび妻に迎えたレティシアです。レティ、こちらはアルザス侯爵だ。父の代から仲良くして頂いている」
アロイスに紹介を受けたレティシアは、笑みを作って前に進み出る。
「はじめまして。アルザス侯爵にお目にかかれて光栄です」
「おお、申し遅れました。ご結婚おめでとうございます。月の女神もかくやという美しさですなぁ。ヴィラール卿は幸せ者だ」
アルザス侯爵は優雅な仕草でレティシアの手を取り、その甲に口づける仕草をした。
貴族の挨拶として手の甲にキスを受けることがあるのは知っていたが、実際にする人がいるとは思わず、レティシアは戸惑う。
「ありがとうございます。ですが、妻ははずかしがりやなので、その辺でご勘弁いただけますか」
レティシアの戸惑いに気づいたアロイスが、さりげなく彼女の手を取り返す様子に、アルザス侯爵は鷹揚に笑った。
「どうやらお父上に負けず劣らず、愛妻家でいらっしゃるようですな。年寄りはあてられる前に退散するといたしましょう。どうかお、父上にもよろしくお伝えください。近くへ来られた際は、ぜひお立ち寄りいただきたい」
「それは父も喜ぶでしょう。ぜひ」
似たようなやり取りを繰り返しているうちに、せっかく覚えた人物像と顔がごちゃ混ぜになっていく。
レティシアは思わず零れそうになったため息を口の中でかみ殺した。
「疲れたか?」
挨拶に来る人が少し落ち着いたところで、アロイスがレティシアに尋ねた。
想像以上の来賓の数に気後れしていたレティシアは素直に認める。
「いえ……。ええ、少し」
「少し風に当たってくればいい」
アロイスがテラスへと続く扉を指した。
涼しい夜風に当たって、頭をすっきりさせるのもいいかもしれないと思ったレティシアは、うなずいた。
「すみません。では、少しだけ」
テラスに人影はなく、レティシアは安堵した。
かすかな夜風が、庭に咲く甘い夜香木蘭の香りを運んでくる。
テラスに置かれたベンチに腰を下ろしたレティシアは、空に浮かぶ星を見上げた。
――社交って、こんなに疲れるものなのね。
顔を覚えるだけで精一杯のレティシアには、会話を楽しむ余裕などなかった。
アロイスがうまく話をリードしてくれたおかげで、レティシアがあまり話さずに済んで、ほっとする。
王城で働くことになればいやでも彼らのような貴族と会うことが増えるだろう。
この先、うまくやっていけるのか不安になる。
しかも表面上はレティシアとアロイスの結婚を祝福してくれる者がほとんどだが、なかにはあからさまに、レティシアを値踏みし、馬鹿にした目つきで見る者もいて、彼女の精神を疲弊させていた。
「ねえ……侯爵夫人が……」
「いえ……」
風に乗って女性たちの話す声がレティシアの耳に届いた。
途切れ途切れだが、レティシアのことを噂しているように聞こえる。レティシアは屋敷へと続く扉を見つめ、この場を立ち去るかどうかを迷った。
ホールへ戻れば、また貴族同士の腹の探りあいをしなければならない。
もう少しだけ休んで、気持ちを立て直す時間が欲しかった。
レティシアが迷っているうちに、話し声がどんどんと近づいてくる。
彼女はとっさに庭の木の影に隠れた。
いよいよ足音が近づき、庭から現れた女性二人が先ほどレティシアが座っていたベンチに腰を下ろした。
いよいよ室内に戻るのが難しくなってしまい、レティシアはどうしたものかと頭を抱える。
「夫婦仲が悪いという噂でしたのに、案外と仲がよさそうでしたわ」
「でも、そんなの演技かもしれないじゃない」
やはりレティシアとアロイスに関する噂話のようだった。
年上の女性の言葉に、若い女性が拗ねたように反論している。
レティシアはばつの悪さに顔をしかめた。
自分に関する噂など、ろくなものはない。できれば聞かずに済ませたい。けれど、テラスに彼女たちがいて、出入り口をふさがれているため、見つからずに室内に戻るのは難しそうだった。
「まあ、いまどきほとんどの貴族は政略結婚なのですから、あれくらいの演技は貴族にとってはお手の物ではありませんか?」
「……そうね。でもあの人、あの首飾りをつけていらしたわ」
「ええ、侯爵家の緑の炎と呼ばれる有名なエメラルドですわね」
「あの方の妻が自分だとのわざわざ見せ付けなくてもいいのに……」
口調から推察するに、どうやら若い女性の方がレティシアに良い感情を抱いていないのは間違いなさそうだった。
「私だって、もう少しあの方に早く出会っていたら、今頃あの方の隣にいるのは私だったはずよ!」
若い女性の悔しそうな口調に、レティシアはびくりとした。
「私以外にだって、あの方に恋をしていた方はたくさんいたわ。それこそ、私よりもずっと上位の貴族の令嬢だって。でも、どうしてなんの取り柄もなさそうなあんな人を……」
「ディアヌ様、経緯はどうあれ、今はあの方がヴィラール侯爵夫人です。少し落ち着かれたほうがよいのでは?」
「そうね……今は、ね」
激昂していたディアヌ様と呼ばれた女性の声が、急に低くなる。
「そう……、未来もそうであるとは限らないのよね」
「ディアヌ様……」
年上の女性はそれ以上たしなめることを諦めたのか、黙り込んでしまった。
レティシアは耳にした言葉に、思った以上に傷ついていた。
アロイスほど美しく、陛下の覚えもめでたい男性が、女性から思いを寄せられているのはなんら不思議ではない。
けれど実際にそういった女性を目の当たりにすると、胸の辺りがちりちりと焦げ付くようだった。
そして若い女性が言ったことは、レティシアが恐れていたことでもあった。
アロイスは想い人がいるにも関わらず、国王の命によってレティシアと結婚しなければならなくなった。
だが、レティシアが護衛に足るほどの力がないと判断されれば、そもそもこの結婚を続ける必要もなくなってしまう。
宗教上の理由から離婚することは難しいが、決して不可能ではない。
この恋が叶わぬものだとしても、今だけは堂々と妻として彼のそばにいることを許されている。
――この場所は誰にも譲れない。ならば、私が彼のそばにいるのにふさわしいと、証明するしかない。
レティシアは木の影で決意した。
これでもレティシアは難関と呼ばれる魔導士の資格を得ているのだ。よほどのことがなければ、魔法に関しては失敗する気がしない。
やれるかどうかは問題ではなく、やりきるしかないのだ。
「こんな場所にいたのか」
背後に気配を感じたと思った瞬間、レティシアの口は大きな手でふさがれていた。
「ようこそおいでくださいました」
「ヴィラール卿が夜会を開かれるとお聞きしまして、是非にと思い参りました」
「ささやかな会ではありますが、お楽しみいただけると思います」
アロイスは取り澄ました笑みを浮かべ、挨拶に来る招待客に挨拶をしている。
レティシアはまだ貴族の顔と名前がほとんど一致しない状態なので、隣で微笑んで立っていることしかできなかった。
上位貴族については、エドモンの協力を得て家族構成や領地についての情報を一通り暗記していたが、顔までは覚えられなかったため、レティシアは暗記した情報と目の前の顔を一致させるのに必死になっていた。
表面上はにっこりと微笑みながら。
「それにしても、この屋敷で夜会とは久しぶりですね」
「ええ、母を亡くしてから、父はこういったことは避けて通っていましたから」
「あれほど愛された奥様を亡くされたのですから、無理もありません」
「そういっていただけると助かります」
ひげを蓄えた壮年の男性は、親しそうにアロイスと話している。
「ご紹介が遅れました。このたび妻に迎えたレティシアです。レティ、こちらはアルザス侯爵だ。父の代から仲良くして頂いている」
アロイスに紹介を受けたレティシアは、笑みを作って前に進み出る。
「はじめまして。アルザス侯爵にお目にかかれて光栄です」
「おお、申し遅れました。ご結婚おめでとうございます。月の女神もかくやという美しさですなぁ。ヴィラール卿は幸せ者だ」
アルザス侯爵は優雅な仕草でレティシアの手を取り、その甲に口づける仕草をした。
貴族の挨拶として手の甲にキスを受けることがあるのは知っていたが、実際にする人がいるとは思わず、レティシアは戸惑う。
「ありがとうございます。ですが、妻ははずかしがりやなので、その辺でご勘弁いただけますか」
レティシアの戸惑いに気づいたアロイスが、さりげなく彼女の手を取り返す様子に、アルザス侯爵は鷹揚に笑った。
「どうやらお父上に負けず劣らず、愛妻家でいらっしゃるようですな。年寄りはあてられる前に退散するといたしましょう。どうかお、父上にもよろしくお伝えください。近くへ来られた際は、ぜひお立ち寄りいただきたい」
「それは父も喜ぶでしょう。ぜひ」
似たようなやり取りを繰り返しているうちに、せっかく覚えた人物像と顔がごちゃ混ぜになっていく。
レティシアは思わず零れそうになったため息を口の中でかみ殺した。
「疲れたか?」
挨拶に来る人が少し落ち着いたところで、アロイスがレティシアに尋ねた。
想像以上の来賓の数に気後れしていたレティシアは素直に認める。
「いえ……。ええ、少し」
「少し風に当たってくればいい」
アロイスがテラスへと続く扉を指した。
涼しい夜風に当たって、頭をすっきりさせるのもいいかもしれないと思ったレティシアは、うなずいた。
「すみません。では、少しだけ」
テラスに人影はなく、レティシアは安堵した。
かすかな夜風が、庭に咲く甘い夜香木蘭の香りを運んでくる。
テラスに置かれたベンチに腰を下ろしたレティシアは、空に浮かぶ星を見上げた。
――社交って、こんなに疲れるものなのね。
顔を覚えるだけで精一杯のレティシアには、会話を楽しむ余裕などなかった。
アロイスがうまく話をリードしてくれたおかげで、レティシアがあまり話さずに済んで、ほっとする。
王城で働くことになればいやでも彼らのような貴族と会うことが増えるだろう。
この先、うまくやっていけるのか不安になる。
しかも表面上はレティシアとアロイスの結婚を祝福してくれる者がほとんどだが、なかにはあからさまに、レティシアを値踏みし、馬鹿にした目つきで見る者もいて、彼女の精神を疲弊させていた。
「ねえ……侯爵夫人が……」
「いえ……」
風に乗って女性たちの話す声がレティシアの耳に届いた。
途切れ途切れだが、レティシアのことを噂しているように聞こえる。レティシアは屋敷へと続く扉を見つめ、この場を立ち去るかどうかを迷った。
ホールへ戻れば、また貴族同士の腹の探りあいをしなければならない。
もう少しだけ休んで、気持ちを立て直す時間が欲しかった。
レティシアが迷っているうちに、話し声がどんどんと近づいてくる。
彼女はとっさに庭の木の影に隠れた。
いよいよ足音が近づき、庭から現れた女性二人が先ほどレティシアが座っていたベンチに腰を下ろした。
いよいよ室内に戻るのが難しくなってしまい、レティシアはどうしたものかと頭を抱える。
「夫婦仲が悪いという噂でしたのに、案外と仲がよさそうでしたわ」
「でも、そんなの演技かもしれないじゃない」
やはりレティシアとアロイスに関する噂話のようだった。
年上の女性の言葉に、若い女性が拗ねたように反論している。
レティシアはばつの悪さに顔をしかめた。
自分に関する噂など、ろくなものはない。できれば聞かずに済ませたい。けれど、テラスに彼女たちがいて、出入り口をふさがれているため、見つからずに室内に戻るのは難しそうだった。
「まあ、いまどきほとんどの貴族は政略結婚なのですから、あれくらいの演技は貴族にとってはお手の物ではありませんか?」
「……そうね。でもあの人、あの首飾りをつけていらしたわ」
「ええ、侯爵家の緑の炎と呼ばれる有名なエメラルドですわね」
「あの方の妻が自分だとのわざわざ見せ付けなくてもいいのに……」
口調から推察するに、どうやら若い女性の方がレティシアに良い感情を抱いていないのは間違いなさそうだった。
「私だって、もう少しあの方に早く出会っていたら、今頃あの方の隣にいるのは私だったはずよ!」
若い女性の悔しそうな口調に、レティシアはびくりとした。
「私以外にだって、あの方に恋をしていた方はたくさんいたわ。それこそ、私よりもずっと上位の貴族の令嬢だって。でも、どうしてなんの取り柄もなさそうなあんな人を……」
「ディアヌ様、経緯はどうあれ、今はあの方がヴィラール侯爵夫人です。少し落ち着かれたほうがよいのでは?」
「そうね……今は、ね」
激昂していたディアヌ様と呼ばれた女性の声が、急に低くなる。
「そう……、未来もそうであるとは限らないのよね」
「ディアヌ様……」
年上の女性はそれ以上たしなめることを諦めたのか、黙り込んでしまった。
レティシアは耳にした言葉に、思った以上に傷ついていた。
アロイスほど美しく、陛下の覚えもめでたい男性が、女性から思いを寄せられているのはなんら不思議ではない。
けれど実際にそういった女性を目の当たりにすると、胸の辺りがちりちりと焦げ付くようだった。
そして若い女性が言ったことは、レティシアが恐れていたことでもあった。
アロイスは想い人がいるにも関わらず、国王の命によってレティシアと結婚しなければならなくなった。
だが、レティシアが護衛に足るほどの力がないと判断されれば、そもそもこの結婚を続ける必要もなくなってしまう。
宗教上の理由から離婚することは難しいが、決して不可能ではない。
この恋が叶わぬものだとしても、今だけは堂々と妻として彼のそばにいることを許されている。
――この場所は誰にも譲れない。ならば、私が彼のそばにいるのにふさわしいと、証明するしかない。
レティシアは木の影で決意した。
これでもレティシアは難関と呼ばれる魔導士の資格を得ているのだ。よほどのことがなければ、魔法に関しては失敗する気がしない。
やれるかどうかは問題ではなく、やりきるしかないのだ。
「こんな場所にいたのか」
背後に気配を感じたと思った瞬間、レティシアの口は大きな手でふさがれていた。
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