まぼろしの恋

ちづ

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3章 神様を地に落とす

28、夕映え

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「お前、俺に嫁ぐ気、本当にあったのか‥‥?」

 千影が真っ赤になって呟くので、明里はぽかんとしてしまった。

「え、は、はい……そのための仮夫婦なんじゃ? え、あれ? じゃあ逆に、なんで千影さまはこんな面倒なこと、引き受けてくれたんですか?」

 明里に嫁ぐ気がないと思っていたのなら、神様が仮初めの夫婦を演じる理由なんて、ひとつもないだろうに。

「それは、お前、期間が来ても、災厄を起こす前に俺を殺せば、お前は村の恩人だから、平穏に生きていけるものと」

 え、と明里は驚愕した。千影は動揺のあまり口を滑らせたことに気がついて、ばっと衣で口元を隠した。

「そんな……そんなつもり、だったんですか? 私のために?」
「……」

 ぷい、と顔を背けられる。

「……命を繋げてもらった身だ。命を持って返礼するのはおかしくあるまい。俺は神だから、与えられたら返さねば」

 信じられない。与えたと言っても。

「わたし、名前をつけた、だけですよ」
「……それはとても重要なことなんだよ。お前にとっては取るに足らないことかもしれないけれど。俺にとっては、何にも代えがたい。明里に名を呼んでもらえるのは、とても──」

 視線をずらした眼が、揺らいだ。

「とても、うれしい」

 ああ、そうか。人間ならば誰でも持っているモノを神様は持っていなかった。当たり前すぎて気がつかないくらい、生まれたときから与えられるものを。

「千影、さま」
「……なんだ」
「やっぱり、わたし、千影さまのこと好きになりたいです。好きに、なれると思うんです」

 千影の顔がまた朱に染まる。明里はかまわず続けた。

「千影さまのこと、もっと知りたい。あなたはすごく分かりづらいけど、不器用で純粋で、結構拗ね屋で、でも優しいひとだから」
「は、ちょっと待ってくれ。というか、もういい。もう喋るな。離してくれ」

 千影は震えていて。その手はとても熱かった。

「千影さまも、照れたりとか、するんですね?」
「……っ!」

 ぶわわ、と湯だつほど千影が顔を火照らす。ばっと、衣で顔を隠した。その瞳は、今まで見たこともないほどに、感情が揺れていた。羞恥。歓喜。焦燥。動揺。

「煩い、見るな、ばか。……見ないでくれ」

 明里はその、色づいていく感情に、目を奪われていた。できることなら、ずっと、見ていたかった。

「……お前はなんでいつもそう……藪蛇やぶへびだぞ、それは」
「え?」
「自ら、厄介事を招く真似をする。俺が諦めきれなくなっても、いいのか?」
「? 千影さまは厄介事じゃないですよ。諦めないでくれたら嬉しいです」

 ああ、もう絶対に罠だ、とよく分からないことを言う。大きく息をついたあと、千影は明里に向き直る。その頬は未だに赤く色づいていた。繋いだままの手をしっかり握り返される。

「先程、俺は儀式のために、お前を娶りたいだけとか言っていたが、そんなこと言っていないからな」
「え……?」
「明里、俺は──」

 熱っぽい瞳に見据えられて、明里の心臓は大きくはねた。

「ああ、いた! 見つけましたぞ!」

 村長の声がした。

「……この村の者はなんだ? いいところで邪魔するのが趣味なのか?」

 馬に蹴られて死んだほうがいいぞ、と千影が吐き捨てるので、明里は目をぱちくりさせた。

「幻神さま、申し訳ございません! ま、また明里が怒らせたようで!」

 若者衆から聞いたのか、泡を食う村長はいきなり平伏せんばかりに足元になだれ込んだ。

如何様いかようなお詫びをすればよろしいでしょうか」
「よい。もう明里が鎮めた。どちらかと言えば今村長が現れたことのほうが苛ついているがな。──それより」

 村長は顔をあげる。その背後から宮司と巫女、そして珍しく長者ちょうじゃの姿も見えた。騒ぎは村の年役としやくまで及んでいるようだ。

「お前たち、千冬の遺灰をまだ持っているというのは本当か」

 明里は驚いて千影の顔を見上げる。その場の全員が息を呑んだ。

「俺を使役しえきする切り札だとか? ずいぶん信用がないな。円座えんざで交わした約定はすべて守っているはずだが」
「それは、いったい誰からそのようなこと……」

 宮司は口ごもる。と、最後に追いついてきた村の長者が叫んだ。

「そうだ! 明里! 怒らせたならさっさと千冬の遺灰を使え! 従わせろ! 長老もそうしろと仰せだ」

 長者が叫んで、村長も宮司もぎょっとする。長者の枡野ますのと長老の富士ふじ。あの円座の席に参加しなかった年役二人。特にこの長者の枡野は村の成り上がり、村長より年上だというのに村長よりも恰幅がよく、蓄えた富を武器に村の中で幅を利かせていた。村人を幾人か奉公させている豪農ごうのう棚機たなばたの供物を横どりした詫びの品を、村長は明里を通してよこしたが、この長者はひとことも何も言わなかった。

ふきから聞いたのだろう! さあ!」

 長者は懐から麻袋を出した。千冬の遺灰。それ見て、明里は身を震わせた。

「いや、いやです! 千冬の遺灰も千影さまも道具じゃありません。そんなふうに絶対利用したりなんかしない」
「──だ、そうだが? 確かに俺の神性は落ちてしまったが、明里が俺の味方であるなら、話が変わるぞ。よく考えてみるがいい」

 千影の瞳が金色こんじきに変わる。震える明里の腰を抱き寄せ、長者に向けて指差した。

「明里はこの土地の贄。この土地にまつわる情報を持っている。ならば、この地すべてを覆い尽くすほどの大災厄を起こす必要もない」

 千影は金色の瞳を、明里に向けた。優しげに、妖しげに。

「明里、この土地の地盤が緩い場所は? 山崩れが起きた場所は知っているか? 川の氾濫はどこから破けて、どう村を侵食する?」
「え……」

 それはまるで愛のささやきのように、甘い声だった。思わず、答えてしまいたくなるほど。千影は明里の耳元で優しく囁いた。

「誰が邪魔だ? この村を破壊するには誰を潰すのが一番いいと思う? 土地の贄。俺の伴侶。お前の言葉なら信じよう」
「言うな! 明里!」

 宮司は真っ青になる。千影の金色の瞳に見つめられ、明里の瞳もまた、ジャの目になっていた。まるで呼応するように、二人の目は金色に反射する。

「村のどこがもろいか、誰を潰すのがもっとも、最適か。この娘に聞けばいいだけ。村全土を覆う雨風も雷雨もいらぬ。もろい場所に重点的に、雨を降らせるだけでいい。むしろ効率よく、村を破滅させられるな?」

 夕日に照らされた二人の影が、長く長く伸びて絡みつく。二対の蛇のように。煌々と光る眼は四つ。その場の面々、ひいてはその背後にある村を見据えていた。真っ赤な夕焼けはまるで血のよう。ざわざわと鳥がざわめき、枯れたクスノキから飛び立った。

「明里……いつものように、幻神さまを治めてくれるよな?」

 村長が、怯えながら声を出す。

 明里は──無言だった。返事をしなかった。

 ぎゅう、と千影の衣を掴んで、その場の面々を睨みつけていた。宮司も長者さえも言葉を失う。それほどまでに怒らせたということを身を持って知る。今かける言葉を誤れば、明里は災厄の引き金を引いてしまうだろう。一声も発せないほどの緊張感の中。

「そこまでにして頂けませんか。幻神さま、明里」

 凛とした清廉な声が、その場を制した。巫女だけが真っ直ぐに二人に歩み寄る。

「明里、長者さまがお持ちの遺灰は偽物です。ちゃんと言いましたでしょう? 責任を持ってお預かりすると」

 言葉を無くした長者が、ぎょ、と巫女を見る。巫女は平然と答えた。

「私の主は幻神さま、そのご伴侶の明里です。差し出せとは言われましたが、そんな重要なもの、簡単に手放すはずありません。……まったくねやを覗いているだけで満足していればよいものを。寝た子を起こすような真似をするから、余計厄介なことになる」

 巫女は懐から丁寧に巾着に入った麻袋を取り出した。それはまぎれもなく、棚機の日に巫女に預けた遺灰だった。
 明里の目の色の怒気が急速に落ち着く。

「それと、明里。確かに遺灰は幻神さまを封じ込める切り札にはなると、村長や宮司とお話してはいました。神の怒りを買った遺灰を捨てさせないためでもありますし、長老や長者さまを納得させるためでもありました。けれど、使役しろだとか従属させろとか、そういったことはあなたに伝える気はありませんでした。そんな手段を使うなら、わざわざ仮初めの祝言など挙げさせず、神様を使役できるようになったと公表したほうが手っ取り早いでしょう?」

 巫女はゆったりと落ち着いた口調で、二人を見る。丁寧に、礼をつくして。

「なにかあったときの保険、と言えばそうなのですが、何事もなければそれでよかったのです。長らくこの土地と國をお守りして頂いてきた幻神さまを従わせるだとか、そんな扱いしたくないのは、我々も同じなのです。村長も、宮司も、そのつもりです。……長者さまは違ったようですが。それは信じていただけますか?」

 それは確かにそうだった。村長も宮司も遺灰を行使しろ、とは一言も言わなかった。巫女に至っては仮夫婦の相談まで乗ってくれていた。

「……どなたがあなたの耳に入れたのやら、知りませんが。神様をうまく支配下にできれば、利益を得る方法なんていくらでもありますからね。人の思惑とは、神様より厄介かもしれませんね」

 長者が居心地悪そうに目をそらす。唐突に明里は思い出した。先ほど長者は蕗の名前を出した。そして、蕗の婿はこの長者の息子だった。だんだんといろいろな繋がりも見えてくる。

「それでもまだ不安なようなら、今すぐ、遺灰をお返しいたします」

 巫女は遺灰を差し出す。明里は迷った。手に戻ってしまえば利用されることはなくなる。大切な、千冬の一部。けれど、明里が遺灰を手にしてしまえば、千影は──
 千影は何も言わなかった。明里の言葉を待っていた。

「……分かりました。巫女さまはずっと寄り添ってくれていたので、お言葉を信じて、遺灰をお預けいたします。けれど、もしなにか妙なことに使ったら……千影さまになにかしたら、私が、災厄の手助けをしてしまうかもしれません」

 ご忠告、承りました、と巫女は頭を下げた。巫女は割れ物のように大切に遺灰を布地に包んだ。大事にしてくれている。その姿を見て明里は胸が痛んだ。

「……ごめんなさい、ありがとうございます。巫女さま」

「いいえ、巫女とは神を鎮める者。役目が果たせてよかった。それに、明里も交渉がうまくなりましたね」

 巫女は千影に目配せした。千影は、ふん、と顔を背けた。

「神殺しの力も、神の伴侶も、土地の贄も要は使いようです。使いどころを間違えず、きちんと行使なさってください」

 そうして、いまだに抱き合ったままの二人を見て、顔を緩ませた。

「お二人の仲が深まったのは大変喜ばしい。それが一番の大団円だいだんえんなのですから」

 明里は千影にしがみついていたことに気がついて、慌てて離れようとしたが、千影は手を離さなかった。

「明里がそれでいいのなら、俺に異存はない。引き金を持っているのはいつでも明里だ。ゆめゆめ忘れるなよ。特に長者、お前の名と顔は覚えてしまったからな。ある日、突然雷に打たれないよう気をつけることだ。そこの真っ二つになった神木のようになりたくなければな」

 ひっと長者が腰を抜かす。夕日が落ちきり、黄昏時は終わる。異形の影も血のような夕焼けも薄闇うすやみに覆われた。千影の瞳も明里の瞳も、普段の色に落ち着いている。そこいるのはただの青年と村娘だった。

「大団円とやらを目指したいのなら、もう頼むから邪魔しないでくれないか。本当に」

 千影が最後にうんざりと言ったが「私は邪魔しておりません。馬に蹴られたくはありませんので」と巫女はしれっと答えた。

「というか、今村の者には盛大な夫婦喧嘩中だと思われておりますので、盛大にいちゃいちゃ──いえ仲睦まじくご帰宅してもらっていいですか?」

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