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第二章 神はいずこ
09-3 神は何時も
しおりを挟むいつもは椿が手を引いて歩くのを、このときは青年が椿の手を引いて歩いた。受付で熱心に聞いていたためか部屋の前に着いてもカードキーをノブに末付きの認証機へ通し、椿を先に部屋へ入れる。
室内は広く、おおまかに右手に寝室となるベッドが二つ並んだ和室と、左手に窓付きの広い和室で構成されていた。左手の団欒用と思しき和室のさらに奥、遠くに弥山を見下ろす板張りの縁側の椅子に椿は座らせられた。
右手に広がる薄紫の空と黒く冷えゆく山並みを鑑賞する暇もなく、椅子に座った椿に覆いかぶさるように青年が近づき、何をするかと思えば上着を脱がしにかかった。
これにはさすがの椿もぎょっとした。コートの襟を開かれ、肩から左右の肘まで袖をずり下ろされ。
ついには中に着ていたタートルネックのセータについたジッパーに青年が手をかけたとき、椿は静止を求めようとした。
「待っ__」
「あった!」
だがそれより青年がジッパーを勢いよく下げる方が速い。金具が焦げそうな勢いで(事実若干熱かった)セーターを割り開き、当然椿の上半身があらわになる。
そして吹き込んだ外気に椿が耐える一方、青年はさらにセーターと生身の肌の間に腕を突っ込んだ。さらには椿の膝に乗り上げる勢いで腕をもっと奥へと滑り込ませ、なんら隔てるもののない胴回りをまさぐり始めた。
「他には? ないか?」
「……神様」
「少し待て! すぐに終わる」
「かみ」
「面妖なことをする輩がいたものだ、あと少しでその尻尾を掴んでやったというのに……」
「か」
「だから少し待てと」
「神様」
青年がぎくりと停止する。それは椿の声がそれまでより低かったからだろう。
それは地を這う蛇がふいに口を開いたような、そんな不気味な声だった。
「待て」
と、今度は椿が言った。「まず__そう__腕を、離す」
青年は蛇に睨まれた蛙のように冷や汗を浮かべ、完全に固まっていた。腰が抜けたのか、尻は完全に椿の膝に座り込んで、瞳孔が小さくすぼまって震えている。
それでも本能ゆえか、辛うじて腕を動かし、ゆっくりと椿の胴回りへ深く潜っていた両手が引き抜かれていく。
「神様」
「ひゃい」
「今は何月?」
「じゅ、十月……」
「そう。もうすぐ十一月になる。季節は冬になろうとしてるね」
「う、む」
「それで」
椿は胡乱とした目をゆっくりと、まるで狙撃手が照準を揃えるように前方へ向ける。「どうして俺は、冬も間際のこの季節に、問答無用で服を剝かれてるんだ?」
「____あっ、」
青年の顔がつむじの方から青ざめ__そして次に顎の方から赤くなる。
「あ____あ、あ__」
椿としては承諾もなしに人の衣服を剥ぐことへの反省を促すことが目的だった。
だがどうも、青年はそれよりも、そんなことよりも別のことに頭を殴られたようだった。
肌色。
椅子。
膝の上。
脱げかけた上着。
乱れた服。
露わになった首筋。鎖骨。胸、そして腹。
皮膚。
凹凸。
臍の穴。
そこについた青年の手のひらが急に熱く汗ばむのを、椿は腹の皮膚に感じた。
「……神様?」
「あ、あっ」青年は火傷したかのように腹についていた手を引き剝がし、両手を握り込んで眉をしかめ、目をいっぱいに見開いた。「な、なん、なん」
「ナン? カレーにつけて食べるやつ?」
「なんっ__でそんな淫らな格好をしておるか貴様はァ!」
「いやそっちが脱がせて」
「はやく、はっ、ひゃやく服を着ろ!」
「噛んでるよ」
「にゃんでにゃい!」
「それはもう嚙んでないところの方が少ないね」
青年が思い切り体をねじり、どうにか椿を視界から追い出そうとする。そう思うなら膝から下りればいいのにと椿は思ったが、おそらくはパニック状態で思考が短絡的になっているのだろう。視界から追い出せば、目に見えなければ無いと同じ。子供が悪い点数をとったテストを隠すのと同じことだ。
ともかく青年の手が退けられたので、椿は大儀そうに椅子へ座り直し、セーターのジッパーをゆっくりと上へ引き上げた。
「____なに見てるの」
「見てない!」
「見たいの?」椿は一度は喉元まで引き上げたジッパーをすこし下ろした。「見たいなら、見せるけど」
「ばっばばばばばかをいうな誰が貴様の裸なんぞ見たがるか!」
「何か探してる様子だったのは?」
そこではたと青年は正気に戻った。あまりに急な正気の取り戻しように椿が若干たじろぐほど。
「そ__うだ! 私は好きで貴様の裸を見たのではなくて、だから、これだ、理由は!」
そう言って青年は(相変わらず椿の膝に跨ったままだが)軽く握った右手を差し出した。
椿は目の前に差し出された青年の手に瞬きし、そしてすぐに、親指と人差し指の間になにか細く、毛羽だった赤っぽいものが挟まれていることに気づく。
「これは?」素直に聞く。「紙切れ、いや、ほつれた糸か?」
「糸だ」
青年が断言した。「しかも、この糸__ただの糸ではない。神力(しんりき)を感じる」
しんりき、と椿はただ鸚鵡のように返した。青年が頷く。
それから、青年はその赤い糸を強く握り込んだ。白い指先が蜘蛛のように赤い糸を食らう。すると静電気が爆ぜるような音がした。
再び青年が手を開いたとき、その手のひらに赤い糸は無かった。代わりに白い、何処にでもある裁縫糸にしか見えない、ただ白い糸切れがある。そしてその糸は青年と椿が見つめる先で音もなく砂のように崩れ、溶けるように消えた。
「神力というのは、読んで字の如く神が持つ力だ」
青年が空になった手のひらを睨んだまま言った。「階下でお前と離れた瞬間、背後で人ならざるものの気配を感じて振り向いた。だがそのとき、お前はいなかった__否、お前はいたのだろう、私の目に見えなくなっただけで」
「……どういうこと?」
「所謂、神隠しというやつだ。聞いたことはないか」
「言葉ぐらいなら」椿は怪訝になる顔を取り繕いもしなかった。「もちろん小説とか、漫画の中で」
「人が地に家を建て、そこに身の内と外を設けるのならば、神は空にそれをする。人の世にあって人の世になく、人では通常立ち入ることのできぬ神の身の内。それを神域と呼び、そしてごく稀に、何の因果か人がこの神域へ迷い込むか、あるいは神が人を招く。するとその人は、忽然と人の世から姿を消してしまう」
「未解決の行方不明事件なんかが神隠しじゃないかって言われることはあるけど」
「実際、そのいくつかはそうかもしれんな」
「……今のは聞かなかったことにする」
椿は椅子の肘置きに腕をもたせ、そしてこめかみを手で押さえた。「それで、俺はその神隠しに遭っていた、ってことになるのかな」
「そういうことだ」
青年は苦い顔で肯定した。「本来神隠しというのは、その神の神域の際で起きることだ。だが此処はあきらかに神域ではない。神域ならば、こうして人が宿など建てられん。
お前を隠したものは、あの糸を使って簡易的にごく小規模な神域をあの場に作り出したのだ。おそらくはあの糸に神力を通し、この世から隔絶する網を編んでお前をその中へ閉じ込めるような術をしたのだろうが__だが、しかしあまりにも手際が良すぎる。不意を突かれたとはいえ、あまりに一瞬のことだった」
青年はますます顔を苦くして、ついには砂を噛み、吐き捨てるように言う。不意打ちとはいえしてやられたのがよほど悔しいのだろう。
そう思って見かねた椿が口を挟もうとしたが、慰めを察した青年は「違う」と首を振った。「違う……私が悔やんでいるのは、見事に不意を突かれたというのもあるが、それだけではない」
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