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第二章 神はいずこ
09-4 神は何時も
しおりを挟む「じゃあ、なに?」
青年は数秒口を閉ざし、それから子供が己の過ちを白状するようにぼそぼそと言った。
「あの妙な狐が、お前に印をつけたことに気が付かなんだ……」
椿は首を傾げた。印。全く予想にしない言葉がまた増えた。
「印って」
「あの狐が残した先ほどの糸は、お前も見たようにほんの切れ端だ。いくら神力を込めたとて、あの程度の量では神域など編めない。だが、事実神域は作られ、お前は隠された。
ならば糸はあったのだ。誰にも見えない形で、以前からずっと、密かにお前に縫いつけられ、あの狐はもう一方の端を持ち、遠くから、誰にも気づかれない距離から網を編んでいた。私にも感づかれないほど粗く」
そこまで聞くと、椿もその先を想像できた。
つまりは投げ網漁の要領だ。あれは船上から漁師が網を海中へ投げ入れ、しばらく船を走らせたあと、一気に網目を絞って水上へ引き揚げる。すると、海中では粗い網目ゆえに気づかないまま集められた魚は突然網に絡めとられる。
あの謎の男はそれをやった。糸を垂らし、わざと粗く編んだまま網を椿の周囲へ垂らしておいて、ゆっくりと、静かに、気取られないほど広々と獲物を泳がせたまま、自分は粛々と網を縫い続け__
そしてあの瞬間、一気に糸の端を引き絞った。そして椿は見事にその内へ閉じ込められたということだ。
「……なんともまあ、手の込んだ神隠しだこと」
「呆れている場合か! あと少しでも私が遅れていたら、お前はもう二度と人の世に戻れなかったのかもしれないのだぞ!」
そういえば、と椿の脳裏に思い起こされたのはあの背広の男の舌打ち。カラス風情が。神域が弾ける前に、あの男は確かにそう言った。
状況から考えるに、カラスというのは青年のことだろう。白い髪と目を持つ青年を黒い鴉になぞらえるその意味までは計り知れないが。
「神様は、どうやって俺を神域から連れ戻したの?」
「知らん」
椿のこめかみが頬杖から滑り落ちる。
「……知らん?」
「ひ、人がいたのだ。矢を放つわけにもいくまい。それで、なんというか、念じたら出来た」
「ねんじたらできた」
もう一度頬杖を突く。それがひどく億劫だった。
「な、なんだその目は」青年は自らを守るように腕を組んだ。「お前、カンナ! その目をやめよ、その、ああはいはい、ああはいはいいつものね、と言わんばかりの……そのしょうもない子供の振る舞いを見るような目をやめろ!」
「はあ」
「溜息をつくでないわ! 神の御前ぞ!」
「はいはい」
「返事は一回!」
はい、と答えれば、やる気がない、間延びしている、と青年が抗議した。むろん椿の膝の上で。これでは神というより駄々っ子だ。しょうもないと感じるのも無理はないだろう。
椿は全身に圧し掛かる、物理的なそれとは別の重さを感じた。そして抗うことなく深く椅子に沈み込む。上等なクッションがその背中をやさしく受け止めた。
そうしてぼんやりしたまま視線を呻く青年から横へずらせば、外はすっかり日が暮れていた。秋冬ともなれば日が短いとはいえ、荷物を置いたら外を軽く散策する予定であった。だがそんな気力は最早何処にもない。
「疲れた……」
「わ、私が悪いというのか! お前、私が、わたしがお前、あのときどんな思いでお前を、お前の身を案じていたか! それがお前に分かるか!」
「ああ……はい、どうもありがとう……」
「適当に流すな! ちゃんと私と会話をしろカンナ!」
力なく胸元を叩かれる。椿は椅子の背もたれに仰け反った首を戻し、顎を引いて青年を見た。すると青年は怒りを通り越して、今度はどうも打ちひしがれていた。椿の胸元を叩く両手は勢いをなくし、私だってなあ、わたしだって、と何やら悔いるようなことをむにゃむにゃ口ごもりながら涙目になっている。
「なんで泣いてるの」
「おっ、おまえがあ」
「さっきまで怒ってたのに」椿はできるだけ青年に響かないよう、背筋を正した。そして腕を伸ばし、青年の背後にあるテーブルに置かれたティッシュボックスから数枚ティッシュを抜き取る。「本当に、生まれたての子供みたいによく泣くね」
「おま、お前があんなに簡単に攫わ、さわされて……私が、お前からはなれたから……」
「落ち着いて」
「これがおちついてい、ぎゅう」
勢いづこうとしたその鼻を椿が摘まむ。そうして出鼻を挫いてやったところで、勢い余り零れた涙を拭いてやった。肌をこすらないように重ねたティッシュを当てていると、青年はまたそれにも何か文句を、おそらく子ども扱いするなということを、言おうとしたらしいが、言葉の代わりに涙が先に溢れた。
「なんでもっと泣く?」
「らいてない」
「じゃあ、なんで目から水垂らしてるの」
「……その言い方はなんか嫌だ」
「なら、泣き止んでくれないかな」
青年は眉を寄せたが、それは不快感ではなく、何かを堪えるような、そうして眉間を縮めていれば涙の栓を閉じられると信じているような動きだった。
そして当然、涙に栓などない。寧ろ眉を寄せて堪えようとすればするほど、新たに一粒また一粒と瞼を超えて、絡めとろうとする睫毛の間をすり抜けて、涙がおとがいへ伝う。
部屋は窓の外の暗さをそのまま通し、墨が染みたように薄暗い。だが常時点灯の間接照明の暖色光が遠くから橙色の光を粉のように撒くので、椿は青年の涙の数を数えることもできた。
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