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第二章 神はいずこ
14-2 神はあえかに
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「この傷だけは治りませんね」
塵何は言った。春絶の肩へ新たな反物を斜めにかけつつ「この傷だけ。他の傷は容赦なく治ってしまうのに」
塵何の言葉通り、春絶の体躯に残る傷跡という傷跡はそれだけだ。胸元から臍まで、まるで谷のように黒々としたそれ。傷と言うよりも黒曜石をはめ込んだように黒く、とても色素沈着だのなんだのと理屈をつけられたものではない。
「あなたが”裁きたがり”の異名を手にしたばかりの頃、一体何柱の神が、獣が、人があなたに牙を抜き、刀を抜き、それをこの体に突き立てんとしたか。
そうしてごく僅かな猛者が決死の覚悟でその栄誉に預かってなお、あなたはひと眠りするだけで彼らの誉れを消し去ってしまうのですから……なんとも虚しいことです」
「お前にとっても誉れか、私に傷を負わせたことは」
「さあ」塵何は乱れのない手つきで布を当て、引き絞りながら答えた。「もう、随分と昔のことですからね」
一重、二重と布を重ね、糸で仮留めし、糸の具合を見る。室内は塵何の糸が張り巡らされ、いくつかの反物はまるでいきもののように宙を漂っている。
「しかしまあ、こうしてあなたの体に居残ることを許された傷があるというのは、私を含めてそれが許されなかった者からすれば癪に思っても仕方ないでしょう。私が京からこの山まであなたに追い掛け回されたとき、一体いくつの傷を拵えて差し上げたと?」
「覚えていない」
「でしょうね。しかもあなたは、苛烈に攻めこそすれ、私に傷の一つもつけてはくださらなかった」
「つけてほしかったのか?」
「生涯、酒のつまみに困らずに済みましょう」
「……お前の感性は分からんな」
二着目はさほど時間がかからずまとまった。一着目が仕上がったことで、塵何の頭の中に大まかな組み合わせが定まったようだ。
「しかし、あなたが本当に御稚児趣味だったとは。英雄色を好むとは申しますが、あれは少々淡すぎるのでは?」
英雄でもないし色でもない、と春絶は言おうとしたが、止めた。こういった言い合いで塵何と同じ土俵に立つのは悪手だ。議論の上で折衷案に至るだとかいうことが出来たためしはないし、出来るなどとはお互いに思っていない。それほどまでに価値観も感性も違う。
ただお互いに言いたいことを好き好きに投げて、それに溜息をついて。呆れて。
分かり合えないと出会ったとき既に分かっているから、二人の付き合いはそういうものだった。
分かり合えないと分かっているから、今日までこのようにして共にあった。
「神に老若の差など、あってないようなものだ」
「……あれっ、もしかして年の差指摘されて、怒ってます?」
「怒ってはいない」
「まあまあ、我々は人と違って老いさらばえるということはありませんし。私は好きですよ、年上。たまたま長く生きているだけで自分に溺れられる浅はかさなんか特に愛おしい__実際は年齢不詳が一番好きですがね」
「都育ちの狐と野暮らしの狼、その生を一長一短で測れるものか。私が河原の石で算術を学ぶころ、お前は既に人に紛れ政(まつりごと)にすら携わっていただろう」
「人の政など。それこそ賽の河原と何が違いますか。重ねた小石がいつか崩れ、水に削られ砂と散ることを知っている獣のほうが、よほど品がある」
春絶は「もうよい」と新たに纏わりつこうとした帯を遠ざけた。「二着できれば足りるだろう。婚儀は一日で終わる」
「これほど目出度いことを前に、なんとつれない。戦装束はいくつあっても足りるものではございません」
「そんなに見立てたいなら、白綺に見立ててやってくれ」
「あちらはあちら、大宰府の奴らが世話を焼いておりますよ。天神は子供好きですからね、配下もその気のようで」
春絶は脱いでいたいつもの和装を探した。だがけして狭くないはずの室内は何処もかしこも黒、黒、黒、と染まっている。あれがそれらしいと手に取ってみれば微妙に生地が違うし、これでないかと帯を引き抜けば、見たことも無い光沢のある糸で山河図が描かれていたりする。
「名代」
呼ばれて振り向けば、塵何が和装一式を携えていた。
だが塵何の手の中にあるものは、今朝まで春絶が着ていたものではない。見るからに新しいものだ。赤の長襦袢に黒の着物、二重に波紋の模様を糸で縫い付けた羽織、金箔を薄く散らした腰帯と前留め。
春絶はそれらを受け取った。そうして塵何の目の前で身に着けた。
全て着終えた春絶に、塵何は短く「よくお似合いで」と言ってから、おもむろに手を自身の胸元において優雅に一礼した。
「____此度の婚儀、誠におめでとうございます」
春絶は。
ああ、と一言答えた。
塵何が顔を上げ、微笑む。
「夢境をさすらうあなたの心が、ひとつの楔を得て、長く__どうか末永く、猛々しくあられますように」
詩を詠むように、歌うように、塵何は言った。
「どうかあなたが、未来永劫、我が頂きに君臨されますことを」
塵何は言った。春絶の肩へ新たな反物を斜めにかけつつ「この傷だけ。他の傷は容赦なく治ってしまうのに」
塵何の言葉通り、春絶の体躯に残る傷跡という傷跡はそれだけだ。胸元から臍まで、まるで谷のように黒々としたそれ。傷と言うよりも黒曜石をはめ込んだように黒く、とても色素沈着だのなんだのと理屈をつけられたものではない。
「あなたが”裁きたがり”の異名を手にしたばかりの頃、一体何柱の神が、獣が、人があなたに牙を抜き、刀を抜き、それをこの体に突き立てんとしたか。
そうしてごく僅かな猛者が決死の覚悟でその栄誉に預かってなお、あなたはひと眠りするだけで彼らの誉れを消し去ってしまうのですから……なんとも虚しいことです」
「お前にとっても誉れか、私に傷を負わせたことは」
「さあ」塵何は乱れのない手つきで布を当て、引き絞りながら答えた。「もう、随分と昔のことですからね」
一重、二重と布を重ね、糸で仮留めし、糸の具合を見る。室内は塵何の糸が張り巡らされ、いくつかの反物はまるでいきもののように宙を漂っている。
「しかしまあ、こうしてあなたの体に居残ることを許された傷があるというのは、私を含めてそれが許されなかった者からすれば癪に思っても仕方ないでしょう。私が京からこの山まであなたに追い掛け回されたとき、一体いくつの傷を拵えて差し上げたと?」
「覚えていない」
「でしょうね。しかもあなたは、苛烈に攻めこそすれ、私に傷の一つもつけてはくださらなかった」
「つけてほしかったのか?」
「生涯、酒のつまみに困らずに済みましょう」
「……お前の感性は分からんな」
二着目はさほど時間がかからずまとまった。一着目が仕上がったことで、塵何の頭の中に大まかな組み合わせが定まったようだ。
「しかし、あなたが本当に御稚児趣味だったとは。英雄色を好むとは申しますが、あれは少々淡すぎるのでは?」
英雄でもないし色でもない、と春絶は言おうとしたが、止めた。こういった言い合いで塵何と同じ土俵に立つのは悪手だ。議論の上で折衷案に至るだとかいうことが出来たためしはないし、出来るなどとはお互いに思っていない。それほどまでに価値観も感性も違う。
ただお互いに言いたいことを好き好きに投げて、それに溜息をついて。呆れて。
分かり合えないと出会ったとき既に分かっているから、二人の付き合いはそういうものだった。
分かり合えないと分かっているから、今日までこのようにして共にあった。
「神に老若の差など、あってないようなものだ」
「……あれっ、もしかして年の差指摘されて、怒ってます?」
「怒ってはいない」
「まあまあ、我々は人と違って老いさらばえるということはありませんし。私は好きですよ、年上。たまたま長く生きているだけで自分に溺れられる浅はかさなんか特に愛おしい__実際は年齢不詳が一番好きですがね」
「都育ちの狐と野暮らしの狼、その生を一長一短で測れるものか。私が河原の石で算術を学ぶころ、お前は既に人に紛れ政(まつりごと)にすら携わっていただろう」
「人の政など。それこそ賽の河原と何が違いますか。重ねた小石がいつか崩れ、水に削られ砂と散ることを知っている獣のほうが、よほど品がある」
春絶は「もうよい」と新たに纏わりつこうとした帯を遠ざけた。「二着できれば足りるだろう。婚儀は一日で終わる」
「これほど目出度いことを前に、なんとつれない。戦装束はいくつあっても足りるものではございません」
「そんなに見立てたいなら、白綺に見立ててやってくれ」
「あちらはあちら、大宰府の奴らが世話を焼いておりますよ。天神は子供好きですからね、配下もその気のようで」
春絶は脱いでいたいつもの和装を探した。だがけして狭くないはずの室内は何処もかしこも黒、黒、黒、と染まっている。あれがそれらしいと手に取ってみれば微妙に生地が違うし、これでないかと帯を引き抜けば、見たことも無い光沢のある糸で山河図が描かれていたりする。
「名代」
呼ばれて振り向けば、塵何が和装一式を携えていた。
だが塵何の手の中にあるものは、今朝まで春絶が着ていたものではない。見るからに新しいものだ。赤の長襦袢に黒の着物、二重に波紋の模様を糸で縫い付けた羽織、金箔を薄く散らした腰帯と前留め。
春絶はそれらを受け取った。そうして塵何の目の前で身に着けた。
全て着終えた春絶に、塵何は短く「よくお似合いで」と言ってから、おもむろに手を自身の胸元において優雅に一礼した。
「____此度の婚儀、誠におめでとうございます」
春絶は。
ああ、と一言答えた。
塵何が顔を上げ、微笑む。
「夢境をさすらうあなたの心が、ひとつの楔を得て、長く__どうか末永く、猛々しくあられますように」
詩を詠むように、歌うように、塵何は言った。
「どうかあなたが、未来永劫、我が頂きに君臨されますことを」
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