椿落ちる頃

寒星

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第三章 策は交錯し、思惑は錯綜する

18-1 春よさらばえ

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 日が昇り、ぞろぞろと人の形をしたりしなかったりしているものが飛鳥の山道に獣道に列を成し、賑わせている間、山中の社でもまた随分と賑やかな声が響いていた。

「へ、変ではないか? この__ええい、なんと動きにくい! なんでこう、こんなに何枚も羽織を重ねているか! 私は武者だぞ! こんな八重羽織など着ていられるか!」
「白綺、わかっちゃいないな、これは男の浪漫、男の夢ってものさ。男なら誰しも、特別な日に着飾った相手にぐっとくるもんよ」
「ぐ、ぐっと……?」
「誠に然り。同僚の贔屓目抜きにしても似合ってるぜ、ちょっと婚儀の前に真神公のところへ行ってきてみろ。そのときはこう、上目遣いに『こ、こんなの私に似合わないですよね?』ってな具合に、こう……軽く手を握って口に当ててだな……」
「手を、握って……口に」
「あーダメダメ! 白綺君、ちょっとしなが足りないな! もっとこう、腰をこう!」
「こ、腰?」
「上目遣い忘れないで! 萌えは三位一体だよ! 武と同じ! はい三位一体!」
「えっと、上目遣いと、手と____待て、お前たち私を謀っているのではなかろうな」
「くそっこいつ正気に戻りやがった!」
「天神公への写真は撮ったか? ずらかるぞ」
「待たんか阿保共!」

 勢いよく社の一室が開け放たれたかと思えば、大宰府の紋章が印された陣羽織を身に着けた神使が飛び出し、脱兎のごとく縁側を蹴って木々の中へ飛び込む。
 最後に白綺が縁側へ走り出る。

 その姿を偶さか目にした周囲の木々の鳥がおもわず羽を広げかけたのは、白綺の纏う見事な八重羽織と、それに腕を通した白武者の出で立ちの見事さゆえだ。思わず求愛としてみずからの羽を広げ、自らの偉大さを、すこしでも自らを大きく見せねばと震えるほど。

 朝日を照り返す新雪のような白い布地に、淡い金箔が広げた翼の形に散らされた袖のない八重織の着物を鮮やかな赤の帯と金色の紐で締め、袖が抜かれて露わになった肩からはみずみずしい素肌が覗くも、それは肘からは末広がりの袖に覆われ、惜しまれて隠される。
 八重織の重厚さを、肌の露出が絶妙に中和し、仕立てのよさ、気品さと颯爽たる武の風格が共存された白無垢。

 白綺の姿は清涼な空気と陽光を照り返し、見るものに瞬きを求めた。
 瞬きを求められながら、しかし誰もが瞬きすら惜しんでその白く無垢な姿を一秒一瞬でもながく目に焼き付けんと凝視する。

 その美しい武者は、しかし武者である。
 白綺は流麗な白無垢から勢いよく左腕を抜き去った。まるで歌舞伎の一幕のように、艶やかに激しく腕を振り、右腕を高く宙に伸ばす。そこへ朱色の大弓が現れる。
 既に大宰府が誇る先鋒部隊の神使らは木々に紛れているが、白綺もまた彼らと肩を並べる猛者である。

「その程度の逃げ足で____」

 霜のような鋭い視線は既に逃げ回る影を捕らえていた。白綺が弓弦を引き絞る。すれば矢もまた弓と同じく、透明な空気から生まれ、その指に滑り込む。
 
 そうして番えられた矢の数は、しかし一ではない。
 一つの弓に一つの手。
 対して、矢の数は四。

「__私から逃げられると思ったか!」

 弦を離す。矢を放つ。
 それは矢というよりも鳥だった。まるで四羽の鳥を放ったように、四本の矢は一挙に空へ飛び立ち、それぞれに絶妙な放物線を描いて、まるで意志を持っているように一心に空気を切って進む。
 木々や枝の遮蔽物に潜んでいた大宰府の神使たちが顔を顰め、ただちにさらなる回避を目論む。無論、白綺の矢に殺傷の意図がないことはわかっている。
 当たったところで傷を負うことも、命を危ぶむことも無論ない。
 それでも彼らは回避に専念する。
 当たっても傷もつかないし死ぬことも無いのだ。
 だが____その矢の鋭さたるや。筆舌に尽くしがたい。

 端的に言えば、当たると滅茶苦茶痛い。

 大宰府、天神の名を詠う彼ら出会っても、数刻はもんどりうって悶絶していなければ気が済まないほどに、痛い。神使として優れているがゆえに気絶することもないのが一層つらく、射貫かれるとひたすらこの痛みに転げまわるか、地べたに転がって呻くほかない。

 そんな彼らの決死の逃走も儚く、白綺の放った矢が彼らの背に届く。
 否、届こうか、というその寸前。

 奇妙なそよ風が吹いた。それまでの気流を全く無視した、横殴りの、まるで巨大な手のひらがそっと空気を掻くような、やわらかく、それでいて有無を言わさぬおおきな空気のうねり。
 透明な真綿に洗われるように、そっと空気が横へどけられる。
 木々がそよぐ。だが葉の一枚も落とさず。
 獣たちの耳がそばだつ、だが誰も怯えない。
 大宰府の神使たち、精鋭たちが音も無く地に落とされる。まるで子供が大人に抱き下ろされるように。

 そうして、白綺が放った矢のすべてもまた、朝日に溶けるように虚空へ消える。音も無く、跡形も無く。

 そうして____残ったのは、忽然とそこにあるのは、黒い影。

「白綺」

 一体いつから。何処から現れたのか。
 まるで盲点のように、葉が翻り突然色を見せたように。春絶はあまりに唐突に、当然のように社の縁側に立っていた。

「春、絶____」

 殿、とそこまで呼び終えることなく言葉を失う。
 春絶は確かにそこにいたが、その出で立ちを白綺は初めて見た。いつも身にまとっている黒一色の袴と胴締め、羽織ではない。

 黒を基調としていながらも、まず第一にいつも春絶の身体の線を隠す羽織がない。粉を叩いたような薄い光沢をもつ黒い襟のある和服は両腕、腰の位置でそれぞれ鈍色の籠手や手甲、胴当て、帯紐で締められ、両足も昨日までの袴ではなく足の輪郭に沿った布を当てられ、腿の位置に革の紐が巻かれている。
 狼を模したような彫刻を添えた肩の勲章から黒い帯が全身にゆるく巻き付き、簾のように降りてはいるものの____その長身の輪郭が、露わで。
 昨晩これでもかと目の当たりにした逞しい肉体がそこにあるのだと、言わんばかりで。

「随分と賑やかな。白綺、お前が大宰府で過ごした日々が如何に愉快であったかが偲ばれる」
「____真神公」

 白綺がどうにか何か言おうと試行錯誤するうち、言葉を見つける前にするりと別の声が差し込まれる。
 見れば、これもまた一体いつの間に、と驚くべきことに、さきほどまで散り散りに逃げ回っていた大宰府の神使たちが整列し、社の庭先に立ち並んでいる。狩り衣のような衣装を纏った彼らは、まるで数分前まで白綺を揶揄っていたときとは別人のような落ち着きようで低頭している。
 そして最も手前に立った一人の神使が粛々と述べた。

「大宰府が御座。我らが大君、道真公を代して参りました。此度の婚儀に御祝いを申し上げます」
 
 誠に御目出度う御座います、と神使が述べれば、一拍置いて後列の神使らもおめでとうございます、と述べる。一寸の乱れも無い、挨拶の一句にすら明らかな統率ある礼だった。
 そして礼を受けた春絶は体を彼らへ向けると、縁側を下りて頷くように黙礼した。

「遠路遥々、よくぞ参られた。天神公と貴君らには、手前の不徳の致すところ、手間をかけた」

 そそくさと白綺も春絶の隣に歩み寄る。神使たちのほうへ立つべきかとも思ったが、春絶は隣に並んだ白綺を一瞥し、かすかに目元を緩ませた(それはきっと白綺にしかわからないほど微かな動きだったが)。

「白綺を太宰府へ送り出したことは、私の数少ない英断と呼べるだろう。貴君らという良き友を持ち、天神の鞭撻は、飛鳥の地では得られないものだ」
「何を仰います。元より白____奥方は優れた武者でありました。故に大神使が直々に招き、公も然りです」
「お、奥……!?」

 白綺がにわかに狼狽えるが、春絶は特に動じた様子も無く「貴君らの親愛は認めるにやぶさかでないが、あまり白綺を揶揄ってくれるな」と言った。

「天神ほどの優れた策士の下にいて、それを学ばぬというのは愚の骨頂。だが、世の全てをひとつの盤上にて治めんと策を巡らす棋士がいれば、盤上の目の交わりひとつひとつに心を震わすものもある。そして棋士たらんと欲するものは、時にして駒の一つ一つに身をやつさずにはいられない」
「策士策に溺れる、という諺は既にありますが。そちらはそちら、棋士駒に囚わる、とでも申しましょうか____公への返歌として、確かに承りました」
「大宰府の恩を受けながら仇を返すようで気が引けるが、しかし、狼というものは番をこれと定めたら死ぬまで離せはしないのだ。これもまた獣の律令ゆえ、どうかご容赦頂きたい」
「地罰神に律令を説かれては、誰がそれに異を唱えられましょうか」

 春絶と言葉を交わす神使は表情にこそ出さないまでも、内心驚いていた。この真神と呼ばれる神の素性については、天神と白綺から聞くかぎり、非常に冷静で抑揚のない人物だったはずだ。それがまさか、と。
 そして、神使が内心に驚きを隠しているように、春絶の横でやりとりを見守っていた白綺もまた、驚きを抱いていた。
 春絶らしからぬ、妙に婉曲した物言いの表裏すべてを理解したとは言えないまでも____なんだかすごく、とても熱烈なことを言われているような。

 身をやつさずにはいられない、であるとか。棋士駒に囚われる、だとか。この場合、棋士は神であり、駒とは神使であるから、棋士が本来使役するはずの駒に身をやつすというのは、主従において主側の神が、従たる神使に心を奪われるということで。

 そしてなにより。
 番をこれと決めたら、死ぬまで離せはしない、と。
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