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01 グリッサンド:流れるように弾く
02−03 ISC
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「だから今日は素直なお見舞いに来たんだ」
そう言ってキルヒャーは上半身を倒し、重ねて両手の甲に顎を乗せて微笑んだ。
彼女を知らない人が見れば動揺し、好意的な勘違いを——つまり彼女が自分に気があるのではないかなどという馬鹿げた勘違いを——しただろう。
そして少なからず彼女を知る者なら、これまで生きてきた人生における些細な失敗から全ての黒歴史を思い出し、それが今まさに自分の首を絞めるような幻覚を見る。
つまり自分の人生の一分一秒を思い返し、キルヒャー・ミハイレからの人事評価にマイナスをつけるような些細な問題を探す。例えそれがISC入社前の黒歴史だとしても。
幸いと言うべきか、ケヴィンはキルヒャーという人物のことははっきりと覚えていた。他でもないケヴィンの教育係でもあった彼女を前に見る幻覚はあらかた全て見尽くしている。
「君は自分で散歩に行けると言ったけれど、君はその自分で行った散歩の途中で轢き逃げにあったんだ。職務時間外の振る舞いに口を出すのは私も本意じゃないよ、でもその所為で今後ISCに対する印象を悪くするのは頂けないね。特に君の相手は大手だから」
「肝に銘じる」
「次同じことがあったら肝臓を取っちゃおうか。肝に銘じて治らないなら、そんな肝はいらないよね」
「その手術代は誰が出すんだ?」
「私が出して、君の肝臓を売ったお金で補填するよ」
ケヴィンが黙ると、キルヒャーは背筋を直した。背後霊のように立っているシーシャと体の中央線がぴたりと一致する。
「まあ今回はお客様もオフシーズンだったから、完全に君のプライベートな事故ということで先方は理解している。説教はここまでにしようか。私たちもこれから支所を回らなきゃいけないんだ」
「キルヒャー」
ソファから立ったキルヒャーにケヴィンはすかさず尋ねた。「俺は仕事を続けるのか?」
「そうだよ?」キルヒャーは不思議そうに言った。
「少なくとも今の顧客のことを俺は忘れてるんだぞ」
「それが?」
ますます不思議そうなキルヒャーに、ケヴィンは質問を変えた。
「相手は担当替えを申し出てないのか?」
「無いね。契約期間の満了がまだだし、君は実績があるからよっぽど信頼されているんだね。666の担当が回ってきたのも、その前の、えーと誰だったかな、もうテレビには出なくなったけど、あのチェリストの担当をやりきったからでしょう。あれでクイーンズレコードは君の名前を覚えたんだろうね」
「今期奴らが出るドラマの撮影が始まったら、もう替えられないぞ」
「だから、替えなくていいんだよ。先方がそう言ってるのに、どうしたの?」
どうしたのかと問われればケヴィンにそれ以上の反論はない。
どうもしない、か、その顧客と自分が恋人同士かもしれない、とどちらを告げたところで状況は何も変わらない。ISCの約束する事業において顧客と恋愛関係にならないとする誓約書はない。ISCが責任を負うのは、こちらに帰責すべき事情によって顧客が害された場合のみだ。
契約書に定めのない清廉潔癖なまでのモラルなど、少なくとも今は雑談の話題にもならない。
「話は終わり? 業務上の相談事なら社内専用ページから担当部署にメールするといい。産業医は土日祝と水曜日が定休日だから、即日の相談ならそれ以外の曜日にね」
言うなり、キルヒャーはシーシャを引き連れて病室を出ていった。去り際になってようやくシーシャが上着の懐から果物で一杯のバスケットをテーブルへ置いていった。
これだけの物体を一体どこに隠していたのかと聞きたくなったが、ケヴィンはそれを尋ねなかった。冗談でもシーシャの上着の襟を開こうものなら、折角の幸運で目覚めた五体満足が四体不満足にされる恐れがあったからだ。
「あれ?」
バスケットの果物に手を伸ばそうとした時、外へ出たキルヒャーの声がした。「こんにちは。お見舞いですか? 我々は別件の用でお暇しなければなりませんが、カタギリなら中におりますので、どうかごゆっくり」
二人分の足音が遠ざかっていく。入れ違いにベッドがある方の扉が横に滑り、黒い頭が覗いた。
人の良さそうな男がいかにも着ていそうなベージュのトレンチコートに柔らかそうなオーバサイズのシャツ、薄い色のジーンズにハイカットのスニーカー。
鴉の羽を飾りつけたような特徴的な毛先が混じり合った切りっぱなしの黒髪。
左目の下に二つ、一直線上に並んだ黒子。
「カタギリさん」
と、ドミトリ・カデシュがデフォルトの笑顔を投げかけてくる。「ミランから目が覚めたと聞いたのでお見舞いに来ました」
声も顔もケヴィンを向いているのに、視線が掠りもしない。ケヴィンは聞こえないようにため息をついて確認もせず指に触れた果物を手に取った。
「ドミトリ・カデシュか?」
そう言って立ち上がる。「俺についての話は聞いているかな」
言いながら自分の右手を見下ろす。ケヴィンの手の中には赤い林檎があった。
そう言ってキルヒャーは上半身を倒し、重ねて両手の甲に顎を乗せて微笑んだ。
彼女を知らない人が見れば動揺し、好意的な勘違いを——つまり彼女が自分に気があるのではないかなどという馬鹿げた勘違いを——しただろう。
そして少なからず彼女を知る者なら、これまで生きてきた人生における些細な失敗から全ての黒歴史を思い出し、それが今まさに自分の首を絞めるような幻覚を見る。
つまり自分の人生の一分一秒を思い返し、キルヒャー・ミハイレからの人事評価にマイナスをつけるような些細な問題を探す。例えそれがISC入社前の黒歴史だとしても。
幸いと言うべきか、ケヴィンはキルヒャーという人物のことははっきりと覚えていた。他でもないケヴィンの教育係でもあった彼女を前に見る幻覚はあらかた全て見尽くしている。
「君は自分で散歩に行けると言ったけれど、君はその自分で行った散歩の途中で轢き逃げにあったんだ。職務時間外の振る舞いに口を出すのは私も本意じゃないよ、でもその所為で今後ISCに対する印象を悪くするのは頂けないね。特に君の相手は大手だから」
「肝に銘じる」
「次同じことがあったら肝臓を取っちゃおうか。肝に銘じて治らないなら、そんな肝はいらないよね」
「その手術代は誰が出すんだ?」
「私が出して、君の肝臓を売ったお金で補填するよ」
ケヴィンが黙ると、キルヒャーは背筋を直した。背後霊のように立っているシーシャと体の中央線がぴたりと一致する。
「まあ今回はお客様もオフシーズンだったから、完全に君のプライベートな事故ということで先方は理解している。説教はここまでにしようか。私たちもこれから支所を回らなきゃいけないんだ」
「キルヒャー」
ソファから立ったキルヒャーにケヴィンはすかさず尋ねた。「俺は仕事を続けるのか?」
「そうだよ?」キルヒャーは不思議そうに言った。
「少なくとも今の顧客のことを俺は忘れてるんだぞ」
「それが?」
ますます不思議そうなキルヒャーに、ケヴィンは質問を変えた。
「相手は担当替えを申し出てないのか?」
「無いね。契約期間の満了がまだだし、君は実績があるからよっぽど信頼されているんだね。666の担当が回ってきたのも、その前の、えーと誰だったかな、もうテレビには出なくなったけど、あのチェリストの担当をやりきったからでしょう。あれでクイーンズレコードは君の名前を覚えたんだろうね」
「今期奴らが出るドラマの撮影が始まったら、もう替えられないぞ」
「だから、替えなくていいんだよ。先方がそう言ってるのに、どうしたの?」
どうしたのかと問われればケヴィンにそれ以上の反論はない。
どうもしない、か、その顧客と自分が恋人同士かもしれない、とどちらを告げたところで状況は何も変わらない。ISCの約束する事業において顧客と恋愛関係にならないとする誓約書はない。ISCが責任を負うのは、こちらに帰責すべき事情によって顧客が害された場合のみだ。
契約書に定めのない清廉潔癖なまでのモラルなど、少なくとも今は雑談の話題にもならない。
「話は終わり? 業務上の相談事なら社内専用ページから担当部署にメールするといい。産業医は土日祝と水曜日が定休日だから、即日の相談ならそれ以外の曜日にね」
言うなり、キルヒャーはシーシャを引き連れて病室を出ていった。去り際になってようやくシーシャが上着の懐から果物で一杯のバスケットをテーブルへ置いていった。
これだけの物体を一体どこに隠していたのかと聞きたくなったが、ケヴィンはそれを尋ねなかった。冗談でもシーシャの上着の襟を開こうものなら、折角の幸運で目覚めた五体満足が四体不満足にされる恐れがあったからだ。
「あれ?」
バスケットの果物に手を伸ばそうとした時、外へ出たキルヒャーの声がした。「こんにちは。お見舞いですか? 我々は別件の用でお暇しなければなりませんが、カタギリなら中におりますので、どうかごゆっくり」
二人分の足音が遠ざかっていく。入れ違いにベッドがある方の扉が横に滑り、黒い頭が覗いた。
人の良さそうな男がいかにも着ていそうなベージュのトレンチコートに柔らかそうなオーバサイズのシャツ、薄い色のジーンズにハイカットのスニーカー。
鴉の羽を飾りつけたような特徴的な毛先が混じり合った切りっぱなしの黒髪。
左目の下に二つ、一直線上に並んだ黒子。
「カタギリさん」
と、ドミトリ・カデシュがデフォルトの笑顔を投げかけてくる。「ミランから目が覚めたと聞いたのでお見舞いに来ました」
声も顔もケヴィンを向いているのに、視線が掠りもしない。ケヴィンは聞こえないようにため息をついて確認もせず指に触れた果物を手に取った。
「ドミトリ・カデシュか?」
そう言って立ち上がる。「俺についての話は聞いているかな」
言いながら自分の右手を見下ろす。ケヴィンの手の中には赤い林檎があった。
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