セーニョまで戻れ

寒星

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02:アッチェレランド:だんだん速く

09−03 最後の賭け

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「少し弾いてもいいか」唐突にミランが席を立った。「そんなに煩くしない」
 質問形の言葉だったが、ミランは答えを聞くより前にスタジオの壁に立ててあったエレキギターを手に取った。そのそばに車輪付きのワゴンに乗せてあるアンプも連れ帰ってくる。
 元よりケヴィンに異論は無かった。顧客の振る舞いは基本的に自由だ。顧客の安全を脅かすものには対処する必要があるが、それ以外に気を払う必要はない。それは顧客がISCの派遣員に対してもそうだ。
 けれどもミランは椅子に座り直し、ギターをアンプに繋いても弦に触ろうとしない。
「どうぞお好きに」
 と、ケヴィンがコーヒーカップ片手に告げてようやく、ミランは膝に乗せたギターの弦を指で弾いた。スモーキーな低音が空気を削るように響く。一つ一つの音にざらついた反響が後を引く。
 大筋の譜面はミランの頭の中にあるようだった。ケヴィンは流れていく音が、テーブルに無造作に重なったほとんど白紙の楽譜のうち、一番下に敷かれているそれをなぞっているのだとわかった。出だしの特徴的な連続する音階とスタッカートが一致する。
 手に持ったままのサンドを齧ることはしなかった。どれだけ気をつけても包装紙が雑音を立てる恐れがあったからだ。同じように、譜面を手に取ることもしなかった。紙の摩擦音は雑音でしかない。
 できるのはコーヒーカップを傾け、静かにコーヒーを飲むことだけだ。
 ミランはギターソロの部分を何度か繰り返した。時々口が動いたが、全ての言葉はミランの頭の中でしか響かないらしい。
 繰り返すベースの音の連なりは変わらないままに、徐々にそれが複雑になってくる。弦の震えや、音の伸び、短く切られたわずかな空白に捩じ込まれるわざと外れた不協和音。
 シンプルに完成している絵に細かく描き込んでいくような音の繰り返しはそれから十分ほど続いた。
「うん」
 ある時、ミランが言った。「もう一つ低い音が欲しいな」
「ベース?」
「それは絶対に必要になる。でももっと別の効果音が欲しい、重機のエンジン音あたりがいいかもしれない」
「パパを呼んでくるか?」
「いや。多分ドミトリもその辺りは考えてるだろう、その方向で歌詞をつける」
 ミランの口調にはなんの迷いもなかった。まだ顔も名前も晒して毎朝天気を予言する気象予報士の方が疑われるだろう。
「だから今はそばに座っていてくれ」
「仰せのままに、お客様」
 白い目がケヴィンを一瞥する。が、視線はすぐに手元のギターへ戻る。「俺とあなたは恋人だと言ったはずだ」
「公私混同するタイプか? ことごとく好みじゃないな」
「まだ十八時じゃない」ミランは右手でスタジオの壁にかかる時計を指した。十七時半。「他でもないあなたが決めた待ち合わせ時刻の前だ、なら今は明らかに勤務時間外だろう」
「可愛げのねえガキ」
「どうも。あなたも可愛げはないよ、俺たちはお似合いだ」
 演奏が止んだのでケヴィンはサンドをまた頬張った。この一口を含めてあと三口で食べ終わるだろう。それが惜しいほどに完璧なカスタマイズだ。
 十七時三十五分。十八時には此処を出発する。十分前には上階のドミトリと合流し、表の人通りを確認し、裏の駐車場から車を適当な位置へ引っ張ってくる必要がある。
「俺とお前は恋人じゃない」
 いくつか考えた前置きはどれも無駄な時間を生むだけのものだった。そのためケヴィンは本題から話した。「そろそろ正しく言葉を使え、今夜はテレビ収録だろ」
「記憶が無いわりに断言するんだな」
「午後にコテージの中を掃除したが、お前と俺の交際を裏付けるものは何も無かった」ケヴィンはサンドの包装紙を片手で握り潰し、丸めた。「携帯に着信履歴もメールも特別なものはない。削除済みのデータも復元したが、何も無い。仮に俺とお前が交際していたならどう長く見ても一年足らずだ、こんな冷め切った夫婦みたいな関係になるには早過ぎないか?」
 ボール状になった包装紙をケヴィンが放る。前触れもないキャッチボールだったが、ミランはそれを受け止めた。左手で。
「もっと別の関係だったら?」
「セックスフレンドか?」ケヴィンは右手を軽く上げた。グローブのように。そこへボールが戻ってくる。「それも無いな。私物の中にローションはおろかスキンもなかった。俺は随分不健康な生活を送っていたらしい、やつれるわけだ」
「俺が持って行ったのかもしれない」
「かもしれない、なんて言ってる時点でお前の負けだ。これ以上俺に無駄話をさせるな、時間外労働中の俺はお前の下僕じゃない」
 ミランとケヴィンは会話しながらずっとキャッチボールをしていた。お互いに優れた投手で捕手だった。恋人ではなくバッテリーなら信憑性はあっただろう、とケヴィンはそんなことを考えた。考えて、ボールを今度こそ握り潰す。
「何故そんなちゃちな嘘をつく」
「それが嘘じゃないからだ」
「いい加減にしろ」
「賭けをした」
 圧縮された包装紙はまるで折られた薔薇の棘のように奇妙な形をしていた。ケヴィンはそれをテーブルに置いた。
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