32 / 85
02:アッチェレランド:だんだん速く
09−03 最後の賭け
しおりを挟む「少し弾いてもいいか」唐突にミランが席を立った。「そんなに煩くしない」
質問形の言葉だったが、ミランは答えを聞くより前にスタジオの壁に立ててあったエレキギターを手に取った。そのそばに車輪付きのワゴンに乗せてあるアンプも連れ帰ってくる。
元よりケヴィンに異論は無かった。顧客の振る舞いは基本的に自由だ。顧客の安全を脅かすものには対処する必要があるが、それ以外に気を払う必要はない。それは顧客がISCの派遣員に対してもそうだ。
けれどもミランは椅子に座り直し、ギターをアンプに繋いても弦に触ろうとしない。
「どうぞお好きに」
と、ケヴィンがコーヒーカップ片手に告げてようやく、ミランは膝に乗せたギターの弦を指で弾いた。スモーキーな低音が空気を削るように響く。一つ一つの音にざらついた反響が後を引く。
大筋の譜面はミランの頭の中にあるようだった。ケヴィンは流れていく音が、テーブルに無造作に重なったほとんど白紙の楽譜のうち、一番下に敷かれているそれをなぞっているのだとわかった。出だしの特徴的な連続する音階とスタッカートが一致する。
手に持ったままのサンドを齧ることはしなかった。どれだけ気をつけても包装紙が雑音を立てる恐れがあったからだ。同じように、譜面を手に取ることもしなかった。紙の摩擦音は雑音でしかない。
できるのはコーヒーカップを傾け、静かにコーヒーを飲むことだけだ。
ミランはギターソロの部分を何度か繰り返した。時々口が動いたが、全ての言葉はミランの頭の中でしか響かないらしい。
繰り返すベースの音の連なりは変わらないままに、徐々にそれが複雑になってくる。弦の震えや、音の伸び、短く切られたわずかな空白に捩じ込まれるわざと外れた不協和音。
シンプルに完成している絵に細かく描き込んでいくような音の繰り返しはそれから十分ほど続いた。
「うん」
ある時、ミランが言った。「もう一つ低い音が欲しいな」
「ベース?」
「それは絶対に必要になる。でももっと別の効果音が欲しい、重機のエンジン音あたりがいいかもしれない」
「パパを呼んでくるか?」
「いや。多分ドミトリもその辺りは考えてるだろう、その方向で歌詞をつける」
ミランの口調にはなんの迷いもなかった。まだ顔も名前も晒して毎朝天気を予言する気象予報士の方が疑われるだろう。
「だから今はそばに座っていてくれ」
「仰せのままに、お客様」
白い目がケヴィンを一瞥する。が、視線はすぐに手元のギターへ戻る。「俺とあなたは恋人だと言ったはずだ」
「公私混同するタイプか? ことごとく好みじゃないな」
「まだ十八時じゃない」ミランは右手でスタジオの壁にかかる時計を指した。十七時半。「他でもないあなたが決めた待ち合わせ時刻の前だ、なら今は明らかに勤務時間外だろう」
「可愛げのねえガキ」
「どうも。あなたも可愛げはないよ、俺たちはお似合いだ」
演奏が止んだのでケヴィンはサンドをまた頬張った。この一口を含めてあと三口で食べ終わるだろう。それが惜しいほどに完璧なカスタマイズだ。
十七時三十五分。十八時には此処を出発する。十分前には上階のドミトリと合流し、表の人通りを確認し、裏の駐車場から車を適当な位置へ引っ張ってくる必要がある。
「俺とお前は恋人じゃない」
いくつか考えた前置きはどれも無駄な時間を生むだけのものだった。そのためケヴィンは本題から話した。「そろそろ正しく言葉を使え、今夜はテレビ収録だろ」
「記憶が無いわりに断言するんだな」
「午後にコテージの中を掃除したが、お前と俺の交際を裏付けるものは何も無かった」ケヴィンはサンドの包装紙を片手で握り潰し、丸めた。「携帯に着信履歴もメールも特別なものはない。削除済みのデータも復元したが、何も無い。仮に俺とお前が交際していたならどう長く見ても一年足らずだ、こんな冷め切った夫婦みたいな関係になるには早過ぎないか?」
ボール状になった包装紙をケヴィンが放る。前触れもないキャッチボールだったが、ミランはそれを受け止めた。左手で。
「もっと別の関係だったら?」
「セックスフレンドか?」ケヴィンは右手を軽く上げた。グローブのように。そこへボールが戻ってくる。「それも無いな。私物の中にローションはおろかスキンもなかった。俺は随分不健康な生活を送っていたらしい、やつれるわけだ」
「俺が持って行ったのかもしれない」
「かもしれない、なんて言ってる時点でお前の負けだ。これ以上俺に無駄話をさせるな、時間外労働中の俺はお前の下僕じゃない」
ミランとケヴィンは会話しながらずっとキャッチボールをしていた。お互いに優れた投手で捕手だった。恋人ではなくバッテリーなら信憑性はあっただろう、とケヴィンはそんなことを考えた。考えて、ボールを今度こそ握り潰す。
「何故そんなちゃちな嘘をつく」
「それが嘘じゃないからだ」
「いい加減にしろ」
「賭けをした」
圧縮された包装紙はまるで折られた薔薇の棘のように奇妙な形をしていた。ケヴィンはそれをテーブルに置いた。
0
あなたにおすすめの小説
相性最高な最悪の男 ~ラブホで会った大嫌いな同僚に執着されて逃げられない~
柊 千鶴
BL
【執着攻め×強気受け】
人付き合いを好まず、常に周囲と一定の距離を置いてきた篠崎には、唯一激しく口論を交わす男がいた。
その仲の悪さから「天敵」と称される同期の男だ。
完璧人間と名高い男とは性格も意見も合わず、顔を合わせればいがみ合う日々を送っていた。
ところがある日。
篠崎が人肌恋しさを慰めるため、出会い系サイトで男を見繕いホテルに向かうと、部屋の中では件の「天敵」月島亮介が待っていた。
「ど、どうしてお前がここにいる⁉」「それはこちらの台詞だ…!」
一夜の過ちとして終わるかと思われた関係は、徐々にふたりの間に変化をもたらし、月島の秘められた執着心が明らかになっていく。
いつも嫌味を言い合っているライバルとマッチングしてしまい、一晩だけの関係で終わるには惜しいほど身体の相性は良く、抜け出せないまま囲われ執着され溺愛されていく話。小説家になろうに投稿した小説の改訂版です。
合わせて漫画もよろしくお願いします。(https://www.alphapolis.co.jp/manga/763604729/304424900)
僕の部下がかわいくて仕方ない
まつも☆きらら
BL
ある日悠太は上司のPCに自分の画像が大量に保存されているのを見つける。上司の田代は悪びれることなく悠太のことが好きだと告白。突然のことに戸惑う悠太だったが、田代以外にも悠太に想いを寄せる男たちが現れ始め、さらに悠太を戸惑わせることに。悠太が選ぶのは果たして誰なのか?
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
無表情・無駄のない所作・隙のない資料――
完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。
けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。
イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。
「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
どこか“計算”を感じ始めていて……?
狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
今日もBL営業カフェで働いています!?
卵丸
BL
ブラック企業の会社に嫌気がさして、退職した沢良宜 篤は給料が高い、男だけのカフェに面接を受けるが「腐男子ですか?」と聞かれて「腐男子ではない」と答えてしまい。改めて、説明文の「BLカフェ」と見てなかったので不採用と思っていたが次の日に採用通知が届き疑心暗鬼で初日バイトに向かうと、店長とBL営業をして腐女子のお客様を喜ばせて!?ノンケBL初心者のバイトと同性愛者の店長のノンケから始まるBLコメディ
※ 不定期更新です。
兄貴同士でキスしたら、何か問題でも?
perari
BL
挑戦として、イヤホンをつけたまま、相手の口の動きだけで会話を理解し、電話に答える――そんな遊びをしていた時のことだ。
その最中、俺の親友である理光が、なぜか俺の彼女に電話をかけた。
彼は俺のすぐそばに身を寄せ、薄い唇をわずかに結び、ひと言つぶやいた。
……その瞬間、俺の頭は真っ白になった。
口の動きで読み取った言葉は、間違いなくこうだった。
――「光希、俺はお前が好きだ。」
次の瞬間、電話の向こう側で彼女の怒りが炸裂したのだ。
【完結】毎日きみに恋してる
藤吉めぐみ
BL
青春BLカップ1次選考通過しておりました!
応援ありがとうございました!
*******************
その日、澤下壱月は王子様に恋をした――
高校の頃、王子と異名をとっていた楽(がく)に恋した壱月(いづき)。
見ているだけでいいと思っていたのに、ちょっとしたきっかけから友人になり、大学進学と同時にルームメイトになる。
けれど、恋愛模様が派手な楽の傍で暮らすのは、あまりにも辛い。
けれど離れられない。傍にいたい。特別でありたい。たくさんの行きずりの一人にはなりたくない。けれど――
このまま親友でいるか、勇気を持つかで揺れる壱月の切ない同居ライフ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる