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02:アッチェレランド:だんだん速く
15 友情に乾杯
しおりを挟む「ああ、彼か」
ケヴィンが挙げたランドルー・スコットという名前を聞いても、イゼットはトーストにマスタードを塗る手を止めなかった。そのうえ、そばかすの特徴を言われてようやくイゼットは名前と顔を一致させたらしい。
「セントラルのテレビ局に勤めていたんだね、知らなかったな」
「随分と熱心なファンのようだったがな、お前たちの名前を出したら感極まって泣いてたぞ」
ケヴィンはランドルーが自分の顔に傷をつけたことを自白したという点は説明しなかった。666の仕事で出向いた先で出会い、クイーンズなどの世間話の最中、ランドルーが突然感極まったと。
ああいう手合いに今まで出会ったことがない訳ではない。それこそイゼットがまだ独身で、単独ツアーをしていた時、随伴するケヴィンはたびたび“そういう”手合いと遭遇した。そしてイゼットの視界に入る前に物陰へ連れて行った。その後は一度も姿を見ていない。
従って、この顔の傷のことは自分に落ち度があるといえた。自分の対処が遅く、そして甘かったのだろう。そんな不手際を言う必要はない。
とはいえ、イゼットは随分と深く陰鬱な様子でかぶりを振った。
「僕というよりアリエルの友人だろう。彼にとって僕は女神の夫で、僕個人に用は無いさ。僕が彼をほとんど覚えていないように」
「有名人ってのは面倒だな」
「そうみたいだね」
他人事のように、間奏中のハミングのようにイゼットは喋る。ケヴィンはまだ頭が半分眠ったままだった。体はベッドの中にいたし、上半身は何も着ていない。太陽は遠くに顔を出したらしいが、まだ枕元までは届いていない。
リビングから転がしてきたスツールの一つにいつのものか分からない新聞紙を広げ、その上に皿を置いてイゼットは次々にトーストへあれこれ塗っている。まだ終わりそうにない。
ケヴィンは足元の方で何かが震えていることに気づいた。くぐもった機械音も。
足で手繰り寄せると、それは携帯だった。
画面を見て舌打ちする。イゼットが「うん?」と振り返る。「ピクルスは嫌いだったっけ?」
イゼットの手には銀色のパウチがあった。一部中身が透けて見えるようになっており、そこに輪切りにされたピクルスが浮いている。コテージの冷蔵庫から発見された以上ケヴィンが買ったに違いないのだが、ケヴィン本人はその存在を忘れていた。
パウチの下側に見えた消費期限はまだ先だった。ならば気にすることもない。それよりも大きすぎる問題は別にある。
「俺のストーカーだ」
「ああ、お兄さんか。出ないのかい?」
携帯はまだ振動している。画面には“Heath KATAGIRI”の文字と表情のないデフォルトアイコン。
十コールもの後、ようやく携帯は沈黙した。代わりに不在着信のバナーが——それは全く同じ名前で、昨日の夜から一時間おきに増え続け、今また増えた——幽霊のように浮かび上がる。
だがケヴィンは舌打ちしただけで携帯を枕の下へ押し込んだ。そして蓋をするように仰向けに枕へ沈む。
「相変わらず仲が良いね、僕は一人っ子だから羨ましいな」
「代わるか? 半年かからずにお前の持ってる携帯とパソコンのメールボックスがパンクするぞ」
着信拒否にはしない。否、出来ないというのが正しい。ケヴィンは過去に一度それをやって、そして取り返しのつかない最悪の結末を迎えた。
何度電話をかけても常に電波の悪い場所にいるらしい弟を心配した兄がしたことは、ISCの物流業務委託の入札に自らが所属する会社で参加し、勝利することだった。
以来、兄は物流という側面から弟の動向を把握できるようになった。ISCに十四名しかいない上級派遣員は皆個性的だ。体格、性格、スキル、仕事道具にもそれは同じことが言える。
従って彼らが使う備品、特に身につけるものは一つとして同じものがない。その中でピンとくるサイズの行き先、調達の頻度を追いかければ、目的の人物の行方は追跡できる。
ウイルスメールを人力で凌駕する数のサイバーメール攻撃を受けるが、鬼のように着信履歴を更新されていた頃よりはましだと喜ぶべきか。それとも、あのサディスティックな兄に思いがけず首輪を一つ差し出してしまったことを恥じるべきか。
メールではなく電話をよこすとは珍しいが、兄からの電話など、物珍しさだけでとるべきではない。それがケヴィンの判断だった。
「君が心配なんだよ」
「バルトアンデスで貨物船ごと転覆しそうになってるセルフィと一緒に『元気か?』とメールを送り付けられて、お前は感動するか? 奴が本気で弟の尊敬を勝ち取りたいなら、トムフォードのスーツじゃなくライフジャケットを着てから自撮りをすることだ」
「君がろくに家に帰らないからだろ。今年くらいは顔を見せたらどうだい、なんなら着いて行ってあげようか」
「口ばかり動かしていないで手を動かせ、シェフ」
「もう出来たよ」
オーブンレンジで温めなおした昨日のチキンをトーストに挟み、イゼットが差し出す。かすかに湯気を上げているそれをケヴィンは右手で掴み、口のほうを近づけて一口齧った。仰向けになったまま飲み込み、それからゆっくりと体勢を変える。寝返りを打ってうつ伏せになり、肘をつく。
「行儀が悪い」形式的にイゼットが咎めた。同じものをもう一つ手に持っている。
ケヴィンは黙ってチキンサンドを咀嚼した。一体どういう組み合わせなのか、エスニック風味の特製ジャムが薄っぺらいトーストを盛り上げている。
「今日は仕事、ないんだろ?」
食べながらイゼットが聞いた。長い髪はポニーテールにされているが、そう長くは持たないだろう。そもそもクッキアソートの缶を飾っていたリボンではヘアゴムの代わりは務まらない。
「明日から数日、随伴で留守にする。出発が早い」
「何処へ行くの?」
「エイレー区。詳細は聞くな、守秘義務だ」
「エイレーか。あそこはいつ行っても華やかでいいね。ケーニッヒ楽団のツアーも丁度今はエイレーを回っているんじゃなかったかな」
「だからなんだ」
「随分前に楽団からチケットを貰っていてね。僕の周りも騒がしかったし気乗りもしなかったんだが、時間もあるし、君もいるなら足を伸ばしてもいいと思って」
「正気か?」
考えるより先に言葉が滑り出ていた。ケヴィンは水を求めた。イゼットがスツールの端に置いていたカップを手に取り、差し出す。イゼットの手ごとカップの中の水を飲む。
イゼットは半分に減ったカップの残りを飲んでから「で、どうかな」と言った。
「行くならお前だけで行け。俺は興味ない」
「今年分のリザーブだから、来年からは使えなくなる。もう残り二ヶ月しか使えないんだ、それにいい加減、いつも空席があるのは楽団にとっても目に余るだろう」
「行ってどうする? お前は俺を新しい妻だと紹介するのか?」
「嫌かい?」
「ごめんだな」
ケヴィンは朝食を食べ終えた。そして被っていた毛布を蹴って退かし、ベッドから降りる。人肌の体温にあたためられていた裸足にとって、床は氷のように冷たい。ふくらはぎから腿まで鳥肌が立つ。すぐに収まるが。
寝室のクロゼットからいくつか服とタオルを目についた順に取り出す。どれも似たような色と形だ。組み合わせで事故は起きない。
「どうしても?」
「くどい」
「君には休息が必要だ。体じゃなく心のね」
「なら、お前はなんで昨日俺を寝かせてくれなかったんだ?」
ケヴィンが嘲るような笑みを浮かべて首を回す。イゼットは乱れたベッドに腰かけて、トーストをもぐもぐやっていた。
「だから、心の休息だと言ったろ。君はいつも考えすぎなんだ、頭を真っ白にしないと心が休まらない」
「××野郎」
「ほら」イゼットがケヴィンを指差す。笑顔で。「調子が出てきた」
寝室はイゼットの土俵だった。ケヴィン・カタギリが契約し、金銭を支払い、生活に必要なものを整えたはずの部屋は、今イゼットの支配下にある。
ケヴィンは聞こえるように舌打ちをして部屋を出た。そのまま浴室へ向かう。リビングのブラインドの隙間から黄色がかった朝日が差し込み、床に縦縞を作っている。
キッチンシンクに皿とグラスが水滴をつけて並んでいた。リビングのテーブルの上にはDVDのケースが積み上がって、いくつかは蓋が完全に閉じていない。ソファにはブランケットが引っかかっている。
部屋の中に自分以外の匂いがあった。昨日映画二本分吸い続けた煙は色をなくしてもまだ天井の付近に漂っていて、その中に自分以外の匂いがあった。香水ではない、上等な石鹸とシャンプーの匂い。
コテージの浴室はお世辞にも広いとは言えない。白い床のタイルはまだ濡れていた。シャワーカーテンは狭い浴槽に放り込まれたままだ。このサイズの風呂は使う気になれない。
外付けのボイラーのスイッチを押すと、遠くから唸るようなモーター音が聞こえてきた。
それだけ着ていた衣服とも呼べない衣服を仕切りのない洗面所で脱ぐ。
やや低い位置にある洗面台の鏡。ケヴィンの左肩ごしにイゼットが映っていた。
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