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03:カンタービレ:歌うように、感情豊かに
24−3 口を閉じて静粛に
しおりを挟むドアノブに手をかけたケヴィンにアリエルが言った。「そしてこの場にいる人間で、一番あなたに優しいのは私です。お父様とクイーンズはあなたを使ってイゼットを呼び戻し、ケーニッヒに恩と共に売る。イゼットは商品ですから丁重に扱うでしょうけれど、あなたを丁重に扱う理由は彼らにはありません。あなたがもう一度車に轢かれて死んだとして、きっと今度も警察はこの車を見つけられない、不思議なことに」
ここに残りなさい、とアリエルは冷たく言い放った。「今頃イゼットも同じことを、もっと悪い条件で聞かされているはずです。同じ結末を迎えるなら、よりよく、楽しい条件を飲むほうが利口でしょう」
ケヴィンは初めて見るアリエルの表情と声音に目を開き、そして左目の傷を歪めた。
「始めからそう振る舞っていれば、イゼットとお前は上手くやっていけただろうな」
ドアを押し開ける。
あたたかく心地よい車内に、大きな刃が振り下ろされるように冷たい風が吹き込んだ。アリエルは肩を震わせ、そして沈黙と静観を保っていた運転手さえ思わず振り向いた。
蝋のように溶け合っていたケヴィンとアリエルの手は乱暴に引き剥がれた。ケヴィンはドアが開くと同時に外へ踏み出していた。
鈍色の乾いた空気に、塵のような小さな白いかけらが紛れている。たった数秒で、車内から見ていたより空が急に暗さを増したように見えた。
「あ……」
アリエルが最後に零した声はそれだけだった。その後に何か続いたのかも知れない。だがその時、既にドアは閉じられていた。
駐車場はあまりに広すぎて、一般車の駐車率は半分もない。正面側と異なり、駅舎裏側に用があるのは送迎だけだ。彼らは決して長居しない。
そしてそれはこの車も例外ではない。目的地に着いたのなら、車を降りるべきだ。
飛行機のジェット音が聞こえたが、機体それ自体は見えない。とうにゆきすぎて、遅れた音だけが空を飛んでいる。
ケヴィンが近づくごとに、駅舎がその内側から放つ光が強まった。夜の訪れを察知して、昼間は消していた駅舎内の照明が点灯し、あるいはその光を強くする。
ケヴィンは振り返らずに歩いた。
「五分」
そして駅舎裏口のそばに立っていたキルヒャーは事もなげに言ってコートの左袖を軽く捲った。黒い革ベルトの腕時計がされている。
「四時三十五分。ちょうど五分遅れだね。秒数はおまけしましょう」
「俺の後輩は?」
駐車場にバンはあったことには気づいているが、ティアの姿は見ていない。
「テストが終わったので帰したよ。駅からだと帰るのも便利だろうからね」
「そうか。じゃ、俺の息子は?」
キルヒャーは左手首に巻いた腕時計から、その左手にさがる小さなクーラーボックスへ視線を移した。垂直に持ち上げる。「これのこと?」
「いくらだった?」
「腎臓ひとつで九百ってところかな」
「腎臓?」
「肝臓よりそっちの方が高かったんだ」
ケヴィンは如何とも言い難い顔でボックスを見つめた。キルヒャーの手に提げられたそれは、デパートでアイスクリームのバラエティパックを買った時と同じぐらいの大きさだ。食べ盛りの子供が二人いる家庭では少し落胆する大きさかも知れない。
「相手を選ばなければもっと吊り上げられるのだろうけど、今回は真っ当な相手だけで探したからね」
「相場がわからないとなんとも言えないな。おい、あんまり揺らすな。泣くだろ」
「中は多重構造だから問題ないよ」
キルヒャーがこれ見よがしにボックスを手で掴み、ひっくり返す。ケヴィンはボックスを取り上げた。元の向きに戻し、脇に抱える。
「それで、引き渡し先は?」
「二階のラウンジで待っているよ」
「そうか」
「私はここまで。これ以上働くと時給が下がるからね」
駅舎裏口から出てきた一人のバックパッカーが、向かい合う二人を恋人か何かだと思ったのか、大きく迂回するようにして横をすり抜けていった。
駅舎内から溢れる明るい光がキルヒャーの顔を綺麗に半分だけ照らしていた。それはケヴィンも同じことだったろうが。
「手間をかけた、キルヒャー」
「別に構わないよ。その分だけの対価が払われるんだから、採算は取れている」
「諸々の手数料を差し引いて、人事統括の給料はそんなに安いのか? 昇進意欲が薄れるな」
キルヒャーはケヴィンの顔を見て、そして長い瞬きをした。
「そうだね、私もあまり長くこの椅子にいるつもりはないから、後任を今から育てておかないといけないね」
「シーシャがいるだろ」
「うーん、一応色々とやりたいことはあるからね。その後をシーシャに押し付けるのも気がひけるな、君がシーシャを補佐してくれると言うならいいんだけど」
ケヴィンは顔を渋くしたが、キルヒャーは黙ってその顔を見つめるだけだった。
「おい、これから謹慎に入る人間に言うことか? それは」
「ISCを辞めないでね、ケヴィン。君は私が見つけて、私が育てたんだから」
「退職は社員の権利だろ」
「恩を仇で返すなんて、友情ドラマが好きな君らしくないな」
そう言いながらも、キルヒャーはゆるやかに一歩後ろへ下がった。上着のポケットへ手を差し込み、そして引き抜いた時、車のキーを握っている。
「まあ、君が今の仕事より夢中になれるものを見つけた時には、喜んで送り出してあげる。その時だけは」
ケヴィンが小さく手を上げた。キルヒャーも離れながら、手を上げた。
短く手を振り合って、そして二人はほぼ同時に互いに背を向けた。キルヒャーは車へ向かって、ケヴィンは駅舎へ向かって。
一歩、駅舎に入る。
眩いばかりの照明が頭上から降り注ぐ。やけに眩しく感じる理由はわからなかったが、その光のせいで、ロフト構造になった駅二階のフロアにほとんどお飾りで置かれているピアノの黒い体が目を引いた。
エスカレータに乗り、二階のラウンジへ向かう。駅裏側にあるラウンジは空港のそれとよく似て、椅子がずらりと並んでいる。時にはそこで小規模なイベントが行われることもある。
青いメッシュ生地のカバーがされた一人掛けのベンチが整然と並ぶラウンジにはそれなりの人がいた。
ケヴィンがエスカレータで二階フロアへ入ってすぐに、ラウンジに余りある椅子に座りもせず立っていた男が一人、ぎくっとしたように大袈裟に震えた。
天然のパーマがついた黒髪で完全に両目を覆い隠しているその男はまだ若く、大学生のようにも見えた。だがその男はトレンチコートの下にカジュアルでもスーツを着ている。
その男がすぐそばのベンチに座っている別の男の肩を叩く。耳元に何かを囁く。
そして、ヒースがベンチから立ち上がった。
サングラスをかけているというのに、まだ距離があるというのに、ケヴィンは兄の目が自分を捉えた瞬間を肌で感じた。
ヒースが手招きをした。そして、人差し指を真下へ向ける。自分が座っていた席のすぐ隣を指す。
挨拶も何もなく、無言で指示をする。
それは間違いなく、兄がひどく怒っていることの証拠だった。
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