セーニョまで戻れ

寒星

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03:カンタービレ:歌うように、感情豊かに

24−2 口を閉じて静粛に

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「得体の知れない人だと思いました」
 と、アリエルは言った。もう一度ケヴィンの手を握って。
 ケヴィンの手はまだグラスを握っていた。
 飴色の水面は嵐の前の海のように揺れていた。
「初めてあの人と会った時から、夫婦になり、家に二人きりになると……とても恐ろしい気分になります。静かな家の中で、あの人が喋ると、その声をかき消すために私も何か話さなくてはと怖くなるんです」
「お父様が家を建ててくれましたが、私はいつも友人を連れて行きました。まるで他人の家を訪ねるように。そうしてあの人が何か話し出す前に、皆で遊びましょうと言いました。私の好きな遊びで。あの人がルールを知らない遊びで。その遊びに夢中になっているうちは、他のことは何も考えずにいられます」
 ケヴィンはグラスをテーブルの窪みへ戻し、そしてアリエルの手を握り返した。
 アリエルは窓の外を向いていた。外には何か塵のようなものが舞っていた。雪か、みぞれか。
 街は灰色にくすみ始めていた。
「まだ、わたくしが舞台に立ち始めて間もない頃、私は聖女の生まれ変わりとして舞台に立っていました。人魚姫として。世間を知らないお嬢様だからこそその声が出せるのだと誰もが信じていました」
 クス、とアリエルがはじめて本心の笑顔を見せた。「私が全寮制のスクールにいたからといって、どうして観客も、お父様も私が世間知らずだと信じることができたのでしょうね?」
 アリエルはしばらく、自分の言ったことにクスクスと笑っていた。その笑い声は媚薬のように空気に溶け出し、車窓の隅に小さな結露をつけた。
「舞台に出始めて、一年経った頃、面白い噂を聞いたんです。当時まだ私と同い年ぐらいの、女性たちの歌手グループがいました。彼女たちは私のオペラを称賛してくれましたが、私には彼女たちの自由さが羨ましかった」
 アリエルは車の窓へ息を吐きかけた。白い結露が広がった。
「私と同じような身勝手な視線を浴びながら、彼女たちはとても溌剌としていて、奔放で——清純であれという身勝手な期待に完璧に答えていた。彼女たちは、そしてとても優しかった。世間知らずのお嬢様に、とても刺激的な話をしてくれました」
 白い指先は線を一つ引いた。そして垂直に交わるようにもう一本引いた。何かを描こうという意志を感じない気だるげな動きだった。
「彼女たちは信頼できる人と素晴らしい約束をして、そしてその固い約束のもとで、秘密の遊びに耽っていた。彼女たちがコーラを飲みながら話してくれたその話が、たとえ作り話だったとしても、あの時の私には衝撃で、そして羨ましかった。
 ——私もそんな人が欲しかった。私が観客を楽しませて、身勝手な期待に応える分、その見返りを求めるのは当然でしょう」
 傷一つない窓に大きく描かれたバツ印を指差して、アリエルは笑顔を浮かべていた。
「だから私も、気の合いそうなお友達を集めようと思ったんです。それに、他人が他人に好きなようにされている姿を見るのが好きなんです。私にぴったりのストレスの発散でしょう?」
「ああ、性癖は自由だ」
「あなたは一番素敵でしたわ。あなたが他人を好きにしている姿が一番見応えがありましたもの」
 繋いでいる二人の手は体温が溶け合い、内側に微かな湿気が発生していた。
「それに、あなたなんだか、とても慣れていました」
 いつしかアリエルとケヴィンはもはや接吻しかねない距離で見つめ合っていた。
「たくさんの人を滅茶苦茶にして、それなのに、あのイゼットでさえ手懐けて。本当に尊敬しているんですよ、私、あなたのこと。あなたの真似をしてみても、私ではどうも駄目でした。勝手に皆、私のためと言って勝手をしてしまうのです」
 ケヴィンは視界の端で、運転手のハンドルを握る手が微かに震えたのを見た。
「あなたなのではないですか?」
 アリエルはケヴィンの顔を見つめている。頬を染めて。
 敬愛する教師に手解きを求める学生のように。
「いつからか、ずっと思っていました。あなたではないのかと。私をこの遊びに目覚めさせてくれた、彼女たちが話してくれた、あの噂話の人は——あなたではないですか?」
「なんの話をしているのかさっぱり分からん」
 ケヴィンは一瞥と共に言った。
 アリエルの瞳をこれほどまでに間近で見たことはない。彼女から香り立つように体温が空気を伝わってくる。
 アリエルの唇が震えた。
 戦慄いた、と言った方が的確かも知れない。
「どうしてですか?」
 と、やはりアリエルは純粋な学生のように尋ねた。「あなたは楽しくないのですか? 最中のあなたはあんなに激しいのに、あなたはどうして他人事のように振る舞うのですか? あれだけ楽しいことを、どうしてあなたは思い出さないのですか?」
「言っただろ、俺の人生には楽しみが多いんだ」
「あのパーティよりも楽しいことがありますか?」
「刺激的なパーティはいくつかある夜の過ごし方の一つだ。俺は一晩中セックスしているのと同じぐらい、黙ってコーヒーを飲みながら本を読んで過ごす夜を気に入っている」
「それは、何もかもがつまらないと仰っているのと同じことです」
 アリエルの声が一段低くなった。「私はあの夜の過ごし方がとても好き。一人で広い舞台に放り落とされて、冷たい空気を吸い込んで歌っているときはいつも凍えそうなほど寒い。でも皆で快楽に耽っているあの時間だけは、冬でも寒さを感じずにいられる」
 車が微かに減速したことをケヴィンは感じた。運転手が何度かハンドルを握り直していること。
 既に車は目的地に入っているのだろう。だがアリエルは座席に身を預け、ケヴィンの手を握ったままだ。夢を見るように目を閉じる。
「もう一度あなたと楽しみたいのです。あなたと私で、もう一度楽しいことをしましょう。今度は前よりもっと楽しくなります」
「俺にカルト教団の祭司長でもやれって?」
「少なくとも、そうすればイゼットは再び脚光を浴びるでしょう。この国でも、あなたの国でも」
 ケヴィンの眉が痙攣する。その瞬間、まるでその反応がスイッチを入れたようにアリエルが瞼を押し上げた。「私はもうどうでもよいのです。私自身、また舞台に立つ気はありませんから。このまま哀れな人魚姫として悲しみ暮れていようと思います。でも、あの男は自分の力で手に入るべきものが手の中にないことを、いつまでも我慢できないでしょう。あれは欲深い男ですから、手に入る宝石のうち、もっとも強く輝く石でなければ満足しませんよ」
「……人魚姫が聞いて呆れるな」
「私の自由な足を切り落としてそう呼び始めたのは」アリエルは首を振った。「私のことを決めるのは、いつだって私以外の人です」
 そう言ってアリエルは微笑んだ。白い足を投げ出し、まるで本当にそれらしく儚げに、繋いだ手以外の全ての力が抜けている。
 車がついに止まった。フロントガラスの向こうに山のように聳えるセントラル駅舎と、その手前、開けた駐車場に並んで乗客を待つ大型バスの群れが見える。
 駐車場のアスファルトに突き立った外灯は既に白く発光していた。空は灰色にくすみ、それ以外のものが段々と黒く影の中に沈んでいく。
「この場にいるのが、私だけとは思わないことです」
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