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03:カンタービレ:歌うように、感情豊かに
25 風は予告なく吹く
しおりを挟むラウンジには電車の通貨を案内するモニタの横に、薄型テレビがアームで吊り下げられ、ニュース番組が流れていた。これから一週間の気象情報、政治、道路状況、文化について。
「随分と薄着だな」
ヒースはそう言い、肩に羽織っていた上着をケヴィンの背にかけた。「そして会うたび会うたび、お前は顔色が悪い」
ラウンジにいる多くの人は携帯や文庫本を手にしており、それに夢中だった。これからどこかへ行く人と、これからここへ来る人を待つ人、それぞれに目的を持ち、他人に興味を持っていない。
五つ一列に並び、背中合わせにした十席ごとのグループごとにベンチはラウンジに整列している。ケヴィンとヒースの座っているグループには他に誰も座っていない。誰もがテレビや案内板の見える方に集まっている。
「お前の上司はどうした? 俺は彼女と仕事の話をするために此処に来たんだが」
「俺が代理だ。荷物の引き渡しに来た」
「お前が?」
ヒースは体を半分ケヴィンの方へ向け、背もたれに肘を乗せた。「お前のところの人事が言うには、お前は業務停止期間中のはずだ」
「元々、今回は俺の頼みでキルヒャーに動いてもらった」
ケヴィンはベンチの足元に置いていたクーラーボックスを持ち上げ、そしてヒースの前に置き直した。
そして手に巻き付けていたベルトを離そうとする。だが手がかじかんで上手く解くことができなかった。
ヒースはその様子を頬杖をついたまま眺めていた。決して手伝おうとせず、声をかけることもせず、もたつく手の動きをじっと見ていた。
焦ったくなるほどの時間をかけて、ようやくケヴィンの手は完全にボックスのベルト部分から抜け出した。ケヴィンは怠くなったその手をパーカーのポケットへ押し込んだ。煙草の箱に指先が当たるが、感覚は鈍い。
「これは?」
「担保だ」
「担保」ヒースは繰り返した。犯人の自白を繰り返すように。「一体何の?」
「俺がお前に依頼する仕事の、対価。その担保だ」
「弟からのお願いに対価を求める兄はいないと思うが……」
「これは弟としての依頼じゃない。だからお前も、兄として俺を断ることは出来ない」
ヒースはケヴィンの顔をしばらく見ていた。ゆうに五秒は経ってから、サングラス越しの目がようやく一度瞬きをする。
ヒースがクーラーボックスへ片腕を伸ばし、そして器用に片手で蓋を開けた。
その奥には冷却剤が敷き詰められ、内部にはさらにもう一つ箱があった。
ヒースは多重構造になっていた二つ目の箱も開けた。
箱はもう一つあった。だが三層目の箱は、それを開けなくとも内部が見えるように透明な強化プラスチックで出来ている。
ヒースはその三番目の箱の中身を見た。
見て、微かに首を傾げて別の角度からも見た。
表情の変化はなかった。呼吸もおだやかで、瞬きは眠りにつく寸前のようにゆっくりとしていた。
「九百万になる」ケヴィンは兄の方を見ずに言った。「届け先はもう聞いている通りだ。指定の医療機関へ届けた後、そっちの取引口座に譲渡対価の一部が運送費として振り込まれる」
ラウンジのテレビからくぐもった歓声と拍手が聞こえてきた。見ると、簡素なニューススタジオからすでに場面は切り替わり、中継映像になっている。
『今年は例年通り多目的ホールを開放しての年末ライブが——私たちの一年の幕を盛大に下ろしてくれるでしょう——』
現地を飛ぶヘリコプター内でマイクを握るキャスターは、見下ろす底なし沼のような暗闇の中、白く強烈なライトで照らされた巨大な野外スタジオを指し、興奮した様子で喋っている。
ラウンジにいる人々の視線はテレビに釘付けだ。今テレビ画面には年末のライブに出演するアーティストたちの顔ぶれが映し出されている。
だからこそ、ラウンジのベンチでシャツを捲っている男がいても、誰も驚かなかった。
その男の臍のすぐ隣に赤黒い縫合痕があっても、誰もそんなものに見向きもしなかった。
その男の隣に座っているヒースを除いて。
「それと、もう一つ運んで欲しいものがある」
ケヴィンは捲っていたシャツを戻した。「この国にイゼット・ウィンターという名前の男がいる。その男をシルヴェストスまで運んでくれ。そちらはそちらで完了が確認され次第、金を払う」
「九百万で足りるのか?」ヒースが言った。「お前の上司への手間賃と、荷物二つの運送費。しかも両方厳重な取り扱いを要するものだ」
「応じてくれるなら、俺はシルヴェストスに帰る」
クーラーボックスの蓋に乗せられたままのヒースの手がかすかに震えた。それをケヴィンは見逃さなかった。
「今回のトラブルの件で、俺はしばらく謹慎を受けることになる。その後もしばらくは内勤だろう。シルヴェストスへ戻れば、その付近の事務所へ放り込まれるはずだ」
ヒースがクーラーボックスを閉じた。かすかに背もたれから浮かせていた背を戻す。
しばらく誰もが無言でいた。
「ケヴィン、聞かせてくれ」
「なんだ」
「お前はこれからも、知り合いに何かあるたびこうして自分の臓器を売って助けるのか?」
ケヴィンは少し考えるような素振りをして、それから首を振った。硬い髪の毛先がこめかみを叩く。
「そうしたいのは山々だが、生憎二つある臓器は腎臓だけだからな。これが最初で最後だ」
「最初で最後、ねえ……」
ヒースはクーラーボックスを片手で持ち上げた。ベルトを無視して直接ボックスを掴み上げる。
「ズィズィ」
「——あっ? あ、はい」
ヒースが呼んだ。その声に、それまで成り行きを見守っていた黒い髪の青年が驚きを隠せない様子で肩を強張らせる。ヒースは手に持っていたクーラーボックスを差し出した。
「イゼット・ウィンターの居場所は分かるな? これを持って出迎えに行ってやれ。何を聞かれても説明はしなくていい」
「はい、場所はわかります。ただ」ズィズィはケヴィンの方へ一瞬顔を向けたようだ。「えっと……もし、もしですね、それでお相手の方が行かないとか、誰か、ご一緒している他の人が、連れて行ってはいけないとか、そういうことを仰った場合はどうしますか? あの、もしもの話です、もしも、そういうようなことになったら、という話で」
両目を覆う前髪の間に、一瞬だけズィズィの金色の目がよぎった。
「その場合は、部外者は無視して目的の方だけお連れする、という方針でいいんでしょうか?」
「その時はお前だけ戻ってこい。ただでさえ喋る荷物は面倒だ、コストパフォーマンスをそれ以上悪くするようなら捨てておけ」
「あ……はい、では、そのようにします」
ズィズィはヒースからクーラーボックスを両手で受け取ると、まるで貴重な骨董品のように恭しく持った。そしてヒースとケヴィンにそれぞれ小さく頭を下げると、小走りで一階へ降りていった。
どう見ても就職活動中の学生にしか見えない薄い背中が見えなくなってから、ケヴィンは「よく続いてるな」と言った。
「ズィズィか? あれは特別優秀な男だ、奴の同期はまだ本社の中を一人で迷子にならずに歩けないからな」
「それにしても弟の臓器をポンと預けるとは思わなかった」
「嫉妬してるのか?」ヒースは笑いもせずに言った。「俺はお前と違って、物事の優先順位をとっくに決めている。俺が臓器を売り飛ばすとすれば、それは俺の愛する家族に、それ以外の手段では免れ得ない危機が迫った時だけだ」
言外に弟を説教する兄の意図に気づけないほどケヴィンは愚鈍ではない。とはいえ、もう過ぎたことだ。今更どれだけ謝っても宥めても、冷却剤と無菌室の中で眠っている腎臓がケヴィンの中へ戻るわけではない。
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