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03:カンタービレ:歌うように、感情豊かに
26−2 セーニョまで戻れ
しおりを挟む「——詩集?」
「ええ」
「妙な目つきで白い髪の男か?」
「そのようで」
「引き留めてくれ」
「承知しました」
二人の会話は既に庭番にも聞こえていたのか、バッカスは特に復唱しなかった。
「それから……」
ケヴィンは座っているコンクリート片から腰を浮かしかけて、しかし座り直した。
「それから、その妙な男を此処に連れてきてくれ」
バッカスは薄く唇を開き、そして閉じた。再び口を開いた後、彼が言ったのは「承知しました」と、それだけだった。
それから数分としないうちに、黒いメイド服に白いヘッドドレスを備えたメイドが背後に男を連れて断崖の頂上へやってきた。両手をエプロンの裾に重ねて粛々と歩いているが、メイドの目は自分についてくる男のつま先を確認するたび、ひどく冷ややかだった。
「お連れいたしました」
「ああ、ありがとう」
メイドが低頭する。だが、その場から立ち去ろうとはしない。バッカスもその場に優美なまでに佇んでいる。
「二人にしてくれるか?」
ケヴィンがそう言ってようやく、メイドが下げていた頭を上げた。そして視線で執事長へ指示を仰ぐ。
その執事長は数秒返事をしなかった。ケヴィンの顔を見据え、そして十分な非難を訴えた後で、命令の撤回がないことを悟ると「では、そのように」と小さく会釈した。「お客様、どうぞごゆっくり……」
執事長とメイドがそこだけ草を刈られた道を下りきるまでに、随分長い時間がかかったように感じられた。
そして二人の後ろ姿が霞むほどに離れてようやく、ミランは口を開いた。
「……俺は何か失礼をしてしまったんだろうか」
「ハ!」ケヴィンは堪らず噴き出した。「ハハ——お前——あの、バッカスの顔——」
「カタギリ、俺は何か無礼をしたのか?」
「ハハ……あ? なんだって?」
ケヴィンはまだ緩やかな笑いに肩を揺らしていた。「無礼? いや、それはこちらの方だ。悪かったな、今、うちは空前の反公国民ブームなんだ。気にしないでくれ」
「国柄で人を判別するような人には見えなかったが」
「誰でも流行りに乗っかりたい時はある。まあ、俺の所為だから、大目に見てくれ」
「そうか」ミランは視線を戻した。「そういうことなら、理解した」
ミランはどこか顔つきが変わったようにケヴィンには見えた。かといって、何処が変わったのかと聞かれても答えられない。余程腕のいい整形外科医に執刀されたのだろう。元々その顔にほとんどなかった極めて少ない贅肉とかそういうものを、塵一つ分も残さずに削ぎ落としたような、そんな顔つきをしていた。
「久しぶり」
と、そう言ってしまってからケヴィンは視線を泳がせた。「そう言うほどでもないか? 俺がやらかしてから、ひと月と少しだ。年末のライブ映像も見せてもらった。他人事のような言い方で悪いが、素晴らしいパフォーマンスだった」
「ああ」
「ドラマも見た。丁度初回視聴無料のキャンペーン中だったからな」
「ああ」
「詩集を届けに来たんだって?」
「……ああ」
最後の「ああ」はそれまでとは違い、何か思いついたような言い方だった。
ケヴィンが首を曲げると、ミランは着ていたダウンジャケットのポケットから薄い冊子のようなものを取り出した。
しかしそれは、詩集と呼ぶにはあまりに薄っぺらいものだった。
ケヴィンはその詩集であるはずの紙の束に書かれている文字を読んだ。
“シルヴェストスへようこそ”。
ミランがどこか居た堪れなさそうに眉を寄せた。
「……どう見ても話すら聞いてくれなさそうな様子だったんだ」
ケヴィンは二つ折りにされた観光案内所発行のパンフレットを見ていた。外国人用のそれは、シルヴェストス国民にはほとんど無用のものだ。随分と気品あるデザインがなされたそれは、国内地図や観光情報をまとめた内側を隠せば、外側は落ち着いた紺色に塗られている。
折り畳めば、ブックカバーや装丁に見えないこともない。
「門のところにいた女性に声をかけた。名前と出身を伝えた時点で、確認するとは言われたが……帰れと言いたくて仕方なさそうな顔だった。留守だとしても、確実にあなたまで届く伝言になるとすれば何を伝えるべきか考えたら、以前あなたに詩集を出せと言われたことを思い出した」
ケヴィンがおもむろに手を差し出す。
ミランは不思議そうにも、しかしその手に折り畳まれたパンフレットを乗せた。
リーフレットは生ぬるく、表面はあちこち歪んでいた。ミランがどの部分をどのように、どれほどの力で握っていたのかがはっきりとわかった。
「……俺の家の場所はこれに載ってたのか?」
「いや、それはタクシーの運転手に聞いた」ミランは少々不服そうに視線を明後日へ向けた。「聞いたと言っても、直接尋ねたわけじゃない。ただよく海を見に行くとあなたが言っていたから、必然的に海岸沿いだろうとは思った。それで、海沿いに何か観光にいい場所はないかと聞いたら、大きい屋敷の私有地になっている場所があると運転手が零していた。それで、その近くまで行ってくれと伝えた」
「暇なのか?」
「今の時期は」
ミランは淡々と肯定した。「毎年この時期はオフだ。年末までが忙しい。それに後数ヶ月もすれば、春の音楽祭がある」
「パパはどうした?」
「ドミトリは、」
初めてミランが言い澱んだ。「今度は冷蔵庫でも爆発させたのか?」「いや、幸いそういうことはない」
ミランはいつかのように、なんと言ったらいいのか、と独りごちた。
「前に話したと思うが、ドミトリに歌わせる曲を作っていることが彼に露見した。それで、俺は前に出ないと言った。俺も俺で絶対に引きずり出すと言った。そこで少しばかり議論になった。実際、彼も彼で新しい曲を思いついたらしく、俺より先に完成させて次のシングルはその曲で埋めると言って聞かない。それで今は一時的に疎遠になっている」
「お前たちを見てると、本当に人間は言葉で戦って、言葉で争いを解決できるってことを思い出すな」
「だから俺も急ピッチで仕上げなきゃならない、そう言う意味では暇じゃない」
「そうか。空港まで送ってやろうか?」
ケヴィンの予想に反し、ミランは反論したり、そういった意思の目を向けなかった。
「あなたが駅のピアノで歌っている動画を見た」
ドミトリが見つけたのだとミランは言った。まだドミトリに密かな構想が露見する前のことだ。年末のライブのほぼ直前、SNS上にあるバックパッカーがその動画を掲載した。「これはなんて曲だ?」と問いかけたバックパッカーの質問に、インターネット上の有識者が食いつき、しかし誰もわからず、恒例の憶測や感想が、結果的にその投稿をドミトリの目に止まる場所まで偶然押し上げた。
ドミトリの目に入った時、元の投稿はケーニッヒ交響楽団員によって個人的に引用されたところだった。“仕事でシルヴェストス人と話し、その人が作った曲を聴いたことがあるが、その雰囲気と似ている。あの国の音は、全ての国がそうであるように、独特だ。“とその楽団員は投稿していた。
「あの曲を聞いてから、気がつくとあなたの歌が頭の中に響いてくる」
「新しい曲を書こうと譜面を見ていると、あなたの歌を書き起こしている」
「頭の中でずっと続いている。繰り返し繰り返し、ずっと渦を巻いて流れている」
ミランの目がケヴィンの目を見た。
「止まないんだ。ずっと」
海の方から絶えず風が吹いていた。その潮風はミランの髪を揺らして、何度もその顔をたたかせた。それでもミランは髪を手で退かすこともしなかった。
「これを止めないと、俺は何も出来ない。曲がずっと終わらない」
「……お前の頭を思い切り殴ればいいのか?」
「今度は賭けもしない、カタギリ。なんの条件もつけずに、気持ち一つで答えてほしい」
「気持ちだけで答えられる質問なんてあるか?」
「ある」
ミランはぎこちなく笑顔を作った。パンフレットを握ったままのケヴィンの手に手を重ねる。ケヴィンよりは半回り小さいが、それでも十分に広い手だった。指先だけ微かに硬くなっている。
そしていつもそうであるように、ケヴィンに触るミランの手は熱を持っていた。
「いろんな事があった。ありすぎたくらいだ。だからもう最後にしよう。ここで答えを決めてくれ」
「答え?」
「俺があなたと出会う前に戻るべきか、それとも別の道へ進むべきか——あなたと一緒に」
ケヴィンは自分が口に煙草を咥えていたことを思い出した。燃え尽きた先端が灰になって風に掠め取られた。
それはミランが買って寄越した最後の一箱だった。
「なあ、ボス」
「……俺はもうあなたのボスではないが」
「そういえばそうだったな」
ケヴィンは煙草を口から外した。「ミラン」
今までこの名前を呼んだことがあっただろうか、と頭の片隅でそんなことを考えた。
「お前がもし詩集を出したら、今の告白の言葉も載せるのか?」
「載せることはない」
「それはよかった」
「それなりに色んな言葉を扱ってきたが、今までで一番飾り気のない言葉だった」
「俺は気に入った」
「なら、その言葉はあなたのものだ」
ミランが目を閉じた。まるで宇宙に思いを馳せるように深く目を閉ざし、眉を顰める。
「——断られるつもりだったんだが」
「やり直すか?」
「いや、」
確固とした声のすぐ後に、深いため息があった。無色透明の息を吐くと、ミランの顔がにわかに血色ばんだ。分厚い空気で隠れていた血潮が肌の表面へと透けて見える。
「……やっぱりやり直したい」
ミランが続け様に至極見事な告白をしようとした。だがやはりこの時も、反射神経はケヴィンの方が上だった。
小洒落たその言葉は、いつか詩集の最後のページを飾ることになる。
(セーニョまで戻れ 完)
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