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狼は瞳をひらく1

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 メリーの目を見ていた。
 暖かい水のような瞳が俺の目を覗き込んで、うっとりと微笑んだ。きらきら光る愛しい人の瞳、それはなんて綺麗なんだろう。それから透明な瞳に膜がかかった。薄く閉じた瞳が動かなくなる。

 すうっと目じりから涙が零れた。

「メリー?」

 力なく俺の上に乗っている体に悪い予感がした。
 上半身を起こすと、軽い体がぐるりとひっくり返り脇の地面に仰向けに倒れた。

 少しだけ開いた瞳から涙が流れ続けている。生き生きとしていた瞳は虚ろで、開いているのに何も見ていなかった。
 乱れた銀の髪、力なく投げ出された細く白い腕。

 どくどくと心臓が激しくなる。体中に虫が這っている様だ。

「メリー?」

 もう一度、恋人の名前を呼んだ。メリーはぴくりとも動かない。

 嘲笑う声が聞こえた。

「やってやったぞ!器が壊れた!魔力を使いすぎたんだ!」

 聞き覚えのある声に目を上げる。アーシュだ。顔が金属の仮面に覆われているが、この匂いはアーシュのものだ。

 どうしてここに?
 器が壊れた?誰の?

「さあ、ロー!絶望しなよ!」
「生きているか?」

 嘲る声をかき消すように冷静な声が聞こえて、王を胸に抱いたパトリック先輩が屈みこんでメリーの首に触れる。

「生きています」

「降ろせ」

 地面に降り立った王が苦痛の表情を浮かべながら腹を押さえた。あちこち破れた服の下から覗いた皮膚が、青白い電気を帯びたようにぱりぱりと音を立てて、時折光る。

 王は思い切り息を吐き、決然と頭を上げた。

「私はあいつと戦う」

 地面から剣を拾い上げると真っ直ぐにアーシュに向かって走り出した。

「お前はオオカミを救え」

 オレを救う?何故?オレは生きている。

 そうだ、メリーだって。

 虚ろなメリーの目がオレを見るのを待った。『愛しているよ、ロー』その瞳はいつだってそう言っている。そしてその肌が微かに香るのを感じたかった。

 また一筋、涙がその目じりを流れて行く。

 器が壊れたなんて嘘だ。


「メリー?」


 震える声でメリーを呼んだ。メリーは答えない。
 どうして答えてくれないんだ?

 ぐいっと肩を捕まれて振りかえる。パトリック先輩に顔を覗き込まれた。
 冴え冴えとした青い瞳が苦痛を浮かべている。

 どうして?


「メリーが生きている間……お前には生きていて貰わねばならない。
 もし、お前が戦えないのなら……狂うならば、意識を奪わせてくれ」

「どうして……ですか?何が……」

「メリドウェンは救えるものをすべて救おうとした。お前と、王の両方の命を。そうしなければ、お前は幸せにはなれないと言っていた」




 そして、その代わりに器を失ったのだ。




 頭の中を苦痛が埋め尽くしていく。

 器を失った魔法使いは発狂して、二度と元には戻らない。
 衰弱して、死ぬ、だけだ。

 メリーが俺に愛していると囁きかけることはもうない。

 なぜ?どうして?

 どす黒い怒りがわきあがって手を震わせる。
 心の片隅で寝ていた獣が頭をもたげた。

 瞬間、頬にパトリック先輩の拳が頬に食いこんだ。
 口の中に血の味がする。


「聞け!オオカミ!」


 馬乗りになった先輩が俺を見おろした。胸をその拳が強く押す。
 苦渋に満ちた先輩の声と眼差しが頭の中をかき回す。

「メリドウェンは、生きている。例え狂っていたとしても。
 生きているならば正気に戻す方法があるかもしれない。おれはなんとしてもその方法を探す。それだけの借りがある。
 だが、正気に戻ったメリドウェンの幸せにはお前が必要だ。
 お前の死も、闇に堕ちアーシュの傍らにあることも、メリドウェンを悲嘆させるだろう。
 心底お前を愛しているあいつを、その命の為に己のすべてを投げうったあいつを、二度地獄へ送るようなことは出来ない。
 だから、おれはお前を生かし、奴の手から救わねばならない」


『救え』


 王の言葉が蘇る。

 苦しみの叫びが喉を焼いていく。


「今、この地の封印が解かれ、オーク達がグールとして地中から這い出している。ワイバーンもまだすべてが駆逐されたわけではない。指揮するアーシュもいる。
 この状態でお前が正気を失うことはもちろん、敵の手に落ちることにでもなれば戦況は絶望的に悪化する。
 一刻も早く闇の軍勢を殲滅しなければならない。
 戦えないならば、狂うならば、意識を失いそこに転がれ!」

 おれの邪魔をするな。強い瞳がおれを睨みつける。
 嘲笑う声が辺りに響く。

「そんな身体で何が出来る?」

 アーシュの声だ。泳いだ視線の先で身体を二つに折った王が地面に血を吐く。パトリック先輩がうなる様に言う。

「メリドウェンがおれの光の力を増幅して注ぎ込んだ。光の力が陛下の中に蓄積された闇を食い荒らし、焼いている。
 激痛があるはずだ……まだ戦える状態ではない。だが、ああやって時間を稼いでいる。あの人の命もまたメリドウェンが救ったものだ。
……失うわけには行かない」

 俺の胸を押していた拳が離れて、強く握られた。

「おれは戦う。メリドウェンが救ったものを守ってみせる」

 立ち上がった先輩が俺を見下ろした。

「決めろ」

 冷たく硬い瞳が俺を見る。

 短い息を吐いた。メリーは生きている。生きているんだ。……生きているメリーは決して諦めなかったはずだ。

 一瞬たりとも迷わなかったはずだ。
 俺の傍らにあることを、オレの命を救うことを。


 その俺が命を失うことも、狂うことも、操られることも。


 ──許されない。絶対に、許しはしない。

 ゆらりと、心の中に火が灯る。



「戦います」



 冴え冴えとした青い瞳にも火が灯っていた。

 パトリック先輩が手を差し出す。その手に捕まると引き上げられるままに高く跳躍する。宙で身体をひねりながら、メリーの姿を見る。

 乱れた髪、投げ出された腕、ぼろぼろになり破れた衣装の生気のない姿。

 踏み潰された薔薇のような姿に心が引きちぎれるようだ。

 それでも、あの人は俺のものだ。

──必ず。必ず助けてみせる。
 見下ろす下には醜いグールとワイバーンの群れ。

 その真ん中にいるアーシュと赤い髪の王。

 黒騎士達やエルフや学園の生徒で優れた者が応戦しているが、押されているようだ。

 どうしてこうなったのか、俺にはわからない。けれど、打ち倒すべき敵が誰であるかは明白だ。

 ふさふさの尻尾に丸い目をした、俺の幼馴染。俺を裏切った、俺を騙した。そして、メリーをあんな風にした。

 矢のように真っ直ぐにアーシュに打ちかかった。

 防御の魔法が立ち上がってバチバチと音を立てる。弾かれるままに地面に降り立ち、地面をえぐるように防御の魔法の下を狙って足払いを繰り出す。
 地面までしかかかっていない防御の下を足が通ったが、一瞬早くかわされた。

 ゆらりと立ち上がって視線をアーシュに向けたまま、王に声をかける。

「後は俺が戦う。メリーをお願いします」

「承知」

 身体の脇の地面をパトリック先輩のライトニングが通って行く。髪が後ろからの風に煽られて頭の周りを乱した。
 真っ直ぐにアーシュのいる場所を狙って放たれた一撃は防御されたが、何体かのグールが消し飛んだ。出来たであろう道を通って王が遠ざかって行くのを感じた。

「邪魔しないで欲しかったんだけどな」

 アーシュが妖艶にそして邪悪に微笑んだ。

「もう少しであの薔薇も散らすことが出来たのに」

 何故だ。どうしてだ。

 いつもの俺ならば叫んでいただろう。そして、安易にアーシュに踏みにじられていただろう。俺達はいつもそんな風だった。
 俺が差し出し、アーシュがそれを投げ捨て、俺は悲しみ、アーシュが嘲笑う。

 だが──もう俺はどうして?と聞こうとは思わなかった。どんな理由があろうとも、もう、するべきことは決まっている。

 警告を表して尻尾が柔らかく揺れるのを感じた。

「兵を引け」

「ローが僕のものになってくれるならいいよ?」

 仮面をつけた顔が艶やかに微笑む。

「断る」
 
 オレはメリーのものだ。他の誰かに触れられるつもりも、触れるつもりもない。

「こんなにあっさり気持ちって変わってしまうものなのかな。あんなに僕が好きだったじゃないか」

「そうらしい」

 こんなにも短い間に、俺の心はしっかりとメリーに繋がれてしまった。失えば頭がおかしくなるほどに。

「僕がメリドウェン先輩を元に戻してあげるよ」

 甘い毒のような言葉が唇から漏れる。

 ああ、どれほどそれを望むだろう。

 後ろを振り返りたくなる気持ちを押さえつけた。

 目の前の、あれは敵だ。戦場で敵から目を逸らすことは死を意味している。

 ふわっと軽い身体が俺に近づいて、目を覗き込んだ。薄い茶色の丸い瞳が柔らかく微笑む。

「僕なら出来る。愛するローの為なら願いをかなえてあげるよ?」

 愛──その言葉に耳がぴくりと動く。薄い茶色の目を探るように見た。

「ローが僕のものになれば、メリドウェン先輩は助かる」
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