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2009年作品
ヤキモチ
しおりを挟む同僚の秋山が頬に絆創膏をつけて通勤してきた。
他の連中が、どうしたんだ? と訊いても、ニヤニヤするばかりで、なかなかそのわけを教えてくれない。
結局、秋山が口を割ったのは、昼の社員食堂でのことだった。
「で、その怪我、なにがあったんだ?」
同じテーブルについた同僚の中村がカツカレーを突きながら、訊く。
「ああ、ちょっと、今朝、女房とな……」
朝から夫婦喧嘩してきたみたいだ。でも、朝からの夫婦喧嘩なら、もっと不機嫌そうな仏頂面で午前中いてもよさそうなものなのに、秋山のヤツ、妙にニヤニヤしやがって!
確か、俺のすぐあとに結婚したはずだから、秋山夫婦も五周年、いや五周忌のはず。
独身の時には、かわいらしく優しい妻がそばにいて、なにかれとなく、俺の身の回りに気を使い、面倒を見てくれる。そんな結婚生活に憧れていた。
たしかに、結婚した当初、新婚の頃には、アイツも家の中をかいがいしく動き回り、自分のことは後回しにしても、俺の世話をしてくれていた。だが、一生懸命俺のことに専念していたのは、子供ができるまでだった。
遼介が生まれた途端、なんでもかんでも、遼介が優先、俺のことは後回し。
家の中の中心が遼介なのは、俺も異存はないが、俺の小遣いは削るくせに、自分の服を買うのはどういうことだ。
先人たちは、結婚は人生の墓場だといっているが、確かにその通りだと思う、結婚五年目倦怠期。
秋山たちも、当然、結婚五周忌の倦怠期バリバリの夫婦のはず。
「なんだよ? 気色悪いな。ついに、離婚でも決まったのか? そんで、そんなに喜んでるのか?」
ちょっと意地悪く言ってやる。
「はは、まさか。子供もいるし、離婚なんて、まだ先さ」
「じゃ、なに朝から、ニヤついてんだよ?」
中村、カツの一切れを口の中に放り込んだ。
「うん、実はな……」
はっきりいって、秋山の打ち明け話自体は大したことじゃない。
秋山が昨日の晩、大学時代の夢を見たらしい。大学時代に付き合っていたハルミとかいう女の夢。
で、秋山、寝言でなんども『ハルミ』『ハルミ』といってしまった。
それを秋山の奥さんが聞きとがめ、朝から、喧嘩になったそうな。
『ハルミってだれよ? どこの女よ!』
『ハルミ? だれそれ?』
『しらばっくれないでよ! 昨日寝言で、何度もハルミ、ハルミって叫んでたじゃない!』
『え? 寝言?』
『だれよ、ハルミって! どこの女よ! この浮気者!』
というわけで、奥さんに目覚まし時計を投げつけられて、頬に怪我をしてしまったらしい。
「倦怠期に入ったっていっても、寝言の相手にヤキモチ妬くなんて、アイツ、まだ俺のこと惚れてやがるんだなぁ~ なんてな。あははは」
秋山のヤツ、だらしなく頬を崩して喜んでやがるし。
でも、なんとなく、その気持ち分からなくもない。
俺がもし同じことをしたら、果たして、アイツ嫉妬するのかな?
ふっと見ると、中村もスプーンを口に運ぶのも忘れて、なにか考え事をしている。
同じことを考えているのか?
その晩、俺たちは八畳の和室で布団を並べて眠った。
朝の四時ごろ、俺は目が覚めた。
昼以来考えていたことを、いよいよ実行するのだ。
寝返りを大きく打ち、隣に寝ている女房を蹴飛ばす。
途端に、リズミカルだった寝息がとまり、目を覚ました気配がする。
すかさず、
「千穂、千穂、いくな! 千穂!」
千穂というのは、去年、田舎に帰ったときに、いとこが連れてきた三歳の娘の名前だけど、女房のことだ、そんなこと覚えてなんかいないだろう。
残念なことに、俺が女房と結婚する前に付き合っていた女は、偶然にも女房と同じ名前の女だったし、その前の女は、妹と同じ名前。つかえない。
ともかく、となりの布団では、息をつめて、俺の寝言に耳をそば立てているようだ。
もう一度、
「千穂! 待って、千穂!」
あとは、起きたときの女房の反応をみるだけ。
秋山のヤツ、いくつになっても、ヤキモチ妬く女はかわいい! なんて、自慢してやがったけど、秋山のあのヘチャムクレなんかより、うちの女房の方が、絶対かわいいはず!
きっと、朝起きたら、俺、女房のふくれっつら見て、惚れ直しているのかもな。
すこし、期待しつつ、俺は眠りの世界に落ちた。
――く、くるしい!
――い、息ができない!
息苦しさに目が覚めた。
見開いた目の前には、髪を振り乱した……
――オ、オニ!
鬼の形相をした女房が、だまって、俺の首を締め上げていた。
――く、くるしい! し、死ぬ!
必死に、首を締め付ける女房の腕をつかんで、引っぺがした。
ゲホ、ゲホ、ゲホ……
女房のヤツ、俺に腕を押さえつけられても、憎悪のこもった目で、俺をにらんでやがる。
本気で、俺を殺したいって目だ。
散々、咳き込み、それから、気分を落ち着かせるために、ゆっくりと深呼吸。
「で、なんで、俺を殺そうとするんよ! なにか、お前にうらまれることでも、俺したか?」
女房のヤツ、相変わらず憎しみのこもった目で、
「千穂ってだれよ! どこの女よ!」
一瞬、虚を疲れた。期待通りには違いないけど、まさか、こんなにすんなり思惑通りに運ぶなんて…… 自然と、頬が緩む。
「なに笑ってるのよ! なにがおかしいのよ! あんたなんか、あんたなんか、大ッ嫌い!」
そっか、そっか、やっぱりそうか。
で、でも、秋山の言うような感じではないな。
ヤキモチを妬く女は、かわいい というより――
怖い!
でも、それ以上に、いとおしい な。
ようやく、女房の誤解を解いて、千穂というのは、いとこの三歳になる娘で、去年田舎へ帰ったときに、子守を押し付けられて難儀した思い出に関する夢を見たって納得させることができた。
女房のヤツ、つまんない夢なんか見ないでよ! とかなんとか、ブーブー言っていたけど、恥ずかしそうに頬を染めやがって。
その様子を眺めているだけでも、結構気分がいい。
そうだ思いついた。そろそろ、遼介に弟か妹なんてどうだ?
その朝、いつもの出勤時間寸前、慌てた様子の秋山から一本の電話がかかってきた。
『大変だ! 中村が、奥さんに――』
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