聖女が脱走したら、溺愛が待っていました。

悠月彩香

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1巻

1-2

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「これは……?」

 彼女の手にあるのは、羽で覆われた目元だけの仮面だ。

「クジャクの羽がとてもきれいでしょう? 昨今はラキム神殿でもカーニバルの風習に合わせて、このような仮面をつける人が多いんですよ。修道女仲間からもらったものですが、雰囲気だけでも味わっていただこうと思いまして」

 青や深緑の羽がついた仮面を受け取った瞬間、なぜか心臓がドキドキし始めた。みんなこういったもので顔を隠してカーニバルを楽しんでいるのだろうか。

「あなたは、カーニバルに行ったことがあるの?」
「ええ、ファタールさま。わたくし、実は大変な大年増おおどしまなのですわ。わけあって二十七にもなって修道院に入りましたが、それまではいろいろと世俗にまみれておりましたから」

 シャンデル王国のラキム修道院には、一生を神に捧げる覚悟で入る敬虔けいけんな信徒もいるけれど、どちらかといえば貴族や良家の子女が高等教育の一環として多額な寄進をして入ることが多い。そのため、ラキム神殿の修道女はほとんどが十代の若い娘ばかりだった。
 確かに彼女の言うとおり、シャルナはお世辞にも十代の娘には見えない。ただ、顔立ちはりんとしていて、髪をすべて隠してしまう修道服を身に着けていてもなお、とても美しい女性だ。もしかしたら夫に先立たれた未亡人なのかもしれない。

「カーニバルはさぞ楽しいのでしょうね」
「そうですわね、若い人には楽しくてたまらないと思いますわ。普段は許されない夜歩きもできますし、羽目を外しすぎなければ多少のことはお目こぼしされます。夜通し歌い明かしたり、たくさん並んだ屋台で両手に抱えきれないほどの串焼きを買って食べ比べたり、名前も知らない若者と恋を語らったり。ラキムさまは寛容な神さまですが、それにしたってよくお許しになると、心配になるほどです」

 聞けば聞くほど興味を駆り立てられるが、同時に、自分は絶対参加できないだろうなと思った。名も知らぬ若者と恋を語らうなど、大司教が許すはずがない。
 まるで現実味のない夢物語を聞かされているようで、苦笑しかできなかった。

「ファタールさまはまだお若いのですし、大司教さまも一日くらい自由にさせてくださってもいいじゃありませんかねえ」

 私と話すことに慣れたのか、シャルナの口調がどんどん砕けてくるのがちょっとおもしろかった。今まで、私にこんな話し方をした修道女はいないから、とても新鮮だ。

「そうですね、屋台で串焼きを食べるくらいのことはしてみたいです」
「わかりました、ファタールさま。今夜はもう無理ですが、明日のお昼には屋台の串焼きをお持ちいたします! それにお許しをいただけましたら、こちらにリュートを持ち込んで、街でよく弾かれる音楽など献上させていただきます」
「まあ、シャルナさんはリュートが弾けるのですか?」
「ほんの趣味程度なので、お耳汚しかとは存じますが」
「うれしいです、楽しみにしています」
「では明日、必ず串焼きとリュートをお持ちいたしますね。――遅くまで話し込んでしまいまして、大変失礼いたしました。今夜からカーニバルが終了するまで、正門と大聖堂がずっと開放されているのでご心配かもしれませんが、聖騎士さまの警備は厳重ですからご安心くださいまし」

 そう言ってシャルナが立ち去ると、途端に室内に静寂が落ちた。いつもどおりの私の部屋なのに、あんなふうににぎやかに話されたあとだと、静けさに耳が痛む。

「夜通し歌い明かして、食べ歩いて」

 シャルナに手渡された仮面を眺めながらベッドに腰を下ろしたとき、かすかではあったが、どこからともなく音楽が聴こえてきた。カーテンと窓を開く。ひんやりした夜気の中、耳を澄ますと、たくさんの楽器が奏でる音色が耳に飛び込んできた。

「カーニバルだ……」

 私の部屋からは、巨大な大聖堂の建物と広大な中庭しか見ることができない。でも、この背の高い建物の向こうでは、たくさんの人たちがカーニバルに心をときめかせて、笑い、歌っているのだろう。

「……」

 ふいに頭をよぎった考えに一瞬、呼吸が止まった。
 窓の外と、手の中の仮面を見比べてしまう。さっき、シャルナはなんと言っていただろうか。
 カーニバルが終了するまで、正門と大聖堂がずっと開放されている――そう聞こえた気がする。

(外に……?)

 この部屋は、聖堂の奥にある三階建ての建物の、最上階。でも、窓から抜け出して階下のひさしに降り立てば、下へ降りることは簡単そうだ。実は、何度もそこをたどる自分の姿を夢想してきた。
 もちろん下に降りたところで、夜は門が閉じられているし、昼間は誰かしらに見つかってしまうので、実行したことはない。けれど今日は正門が開いている――

(一晩、そう一晩だけよ。修道女だってカーニバルの雰囲気を楽しむことは許されているんだし、ちょっとくらいなら……)

 そう思った私は衣装室に飛び込んだ。貴族の姫君の衣装部屋とは違って、そこにあるのはすべて祭服だけど、聖女として人前に立つときの紫色の豪華なものから、黒く地味な修道服まで、女性用の祭服はひととおり揃っている。
 白いネグリジェを脱ぎ捨てて、一番質素な黒い修道服に着替えると、先ほどもらった仮面をつけた。まるで変装でもしているような気がして、心がおどる。
 今夜はもう誰も訪ねてこないだろう。明日の朝、起床の時間にベッドに入っていれば、不在にしていても気がつかれることはないはずだ。何より、大司教が不在――こんな機会はまずない。下手をすれば次の機会は四年後だ。
 生まれて初めて、カイザール大司教の命令に逆らって、窓枠に手をかけた。
 手は震えていて、心臓も飛び出しそうなほど鼓動していたけど、カーニバルのおこなわれている表通りに一歩身体が近づいたら、もうためらいは消えた。
 聞こえてくる音楽が大きくなる。風に乗って、人々の喧騒けんそうが耳に届いた。
 そこから先は夢中だった。階下のひさしにどうにか着地を果たし、さらにもうひとつ下の階に降り立とうとする。でも、一階の窓にひさしがなかったので、ここからは飛び降りなくてはならない。

(いきなり想定外……)

 いくら地面が芝生だとはいえ、二階から飛び降りるのはさすがに怖い。あわてて辺りを見回すと、建物のすぐ脇に、倉庫の屋根が見えた。ひさしを伝って倉庫の屋根に飛び移ったらどうだろう。あちらには梯子はしごもかかっているし、簡単に下まで降りられそうだ。
 ほっとして、そっと壁伝いにひさしの上を歩いた。飛び移るには勇気が必要だったけど、ここまできて今さら部屋へ戻るのはいやだった。

(……えいっ)

 思い切って跳躍したら、思いのほか大きな音が夜の空に響いた。でも、無事に屋根の上に飛び移ることができた。
 私にこんなことができるなんて。
 緊張のあまり全身が震えている。これで、梯子はしごを下りて正門まで庭を駆け抜ければ、私もカーニバルに参加することができるのだ。
 子供の頃からあの恐ろしい大司教に厳しく教育され、預言姫としての振る舞いを叩き込まれ、言われるがまま命じられるがままに偽聖女を演じてきた。そんな窮屈な生活の中、友人のひとりもいない、好きなことをしたこともない私が、たった一晩くらい自由を求めて何が悪いというの。
 そう思い、屋根にかかっている梯子はしごを下りようとしたとき――耳に馴染なじんだ金属鎧の音が飛び込んできた。

(聖騎士の巡回!?)

 そうか、今夜は正門が開いたままだから、いつもと巡回の時間が違うのだろう。このまま屋根にいたら、気づかれてしまう。かといって、梯子はしごを下りてしまったらもう隠れる場所はどこにもない。
 屋根の上をかがんで歩きながら、神殿を囲う外壁にもたれかかった。倉庫は壁の内側に沿って建てられているので、このままこの壁を乗り越えれば外へ出ていくのは簡単だ。だけど壁の向こうは足場も何もない石畳。芝生の上に飛び降りるよりも危険で、骨折では済まないかもしれない。

(ああ、ここで終わり……)

 屋根の上から壁の向こう側を覗き込み、遠い石畳を恨めしく眺めようとして――固まった。
 なんと石畳に、ひとりの青年が立っていたのだ。空を見上げていたのだろう彼と、壁のてっぺんから顔を出した私の目が合う。

「月夜の散歩かい?」

 彼は突然高い壁から顔を出した私に驚いたようだったけど、すぐに整った顔に楽しそうな笑みを浮かべ、そう声をかけてきた。
 でも、私はそれに笑い返すことができなかった。背後ではどんどん聖騎士の鎧の音が大きくなってきている。屋根の上の私に気がつくのも時間の問題だ。
 そこで、私はとんでもないことを思いついた。

「受け止めて!」

 なりふり構っていられなかった。溺れる者はわらをもつかむという心理に近かったかもしれない。無謀なことをしたと、思わなくもない。カーニバルの夜に、なぜかひと気のない路地裏にいた青年に向かって返答も聞かずに飛び下りたのだから。

「え、ちょ……うそ……っ!」

 彼があわてるのも当然だろう。
 途中でやっぱり怖くなってしまい、私は空中で目を閉じた。でも、青年は宙を舞った私の身体をしっかりと受け止めてくれた。
 たくましい腕に抱き留められる感覚があって、恐々と目を開ける。すると、青年の後ろ髪が視界に入ってきた。
 初めて間近に見る、若い男の人のうなじ。半端に伸びた黒い髪。厚みのある肩。

「無茶をする!」
「ごめんなさい。でも、ありがとう」

 彼に抱き着いていた身体を起こし、そう謝罪した。でも、彼はそれには答えず、ちょっと驚いたような顔をして私を見ている。

「あの、もう下ろしてくださっても」
「うん……」

 なんとなく呆けたように彼は生返事をしてから私を地面に下ろすと、私の目元を隠していたクジャクの羽の仮面と、髪を隠していた修道服のケープを無造作にぎ取った。

「あ――」
「すっげ、ど真ん中」
「……?」

 何を言っているのかよくわからないが、青年に間近から覗き込まれて、私はあわてて顔を伏せた。ただでさえ対人耐性がないというのに、男性とはヴェール越しにしか対面したことがないのだ。とにかく落ち着かない。
 しかも、若い殿方の顔を生で見るのは、物心ついてから初めてではないだろうか。

「君さ……」

 彼が何かを言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。頭上の壁から「そこで何をしている!」と、聖騎士の声が降ってきたのだ。
 ああ、せっかく無事に逃げ出せたと思ったのに、修道服を着ていたら言い訳もできない!
 そう内心で嘆いた私は、次の瞬間、固まった。
 なんと彼が突然私を壁におしつけ、覆いかぶさるように抱き着いてきたのだ。そして、私の頬に唇を寄せる。
 唇が触れる寸前で、彼は壁の上を見上げて言った。

「よしてくれよ聖騎士さん。せっかくの逢瀬の邪魔をしないでくれるかな」
「ちっ、神殿のまわりで不埒ふらちな真似をするのはよせ」
「そうねたむなよ、カーニバルは始まったばかりだぜ。聖騎士どのにも神と美女のご加護があらんことを!」

 そんな軽口の応酬が頭上でなされた後、静かになる。そっと目線を上げると、聖騎士の姿はもうなくなっていた。青年と壁に挟まれていたおかげで、私の修道服は聖騎士の目に入らなかったようだ。
 口先ひとつで聖騎士の追及をかわすなんて、この人、すごい。
 そう思った直後、私は硬直した。目の前に見えるのは青年のあらわになった喉元で、喉仏がすぐ目の前。顔よりも先に男らしくごつっとした首筋を間近に見てしまい、頬が赤らむのがわかった。

「あ、ああの、かばってくださって、ありがとうございました……」

 そうお礼を言うのがやっとだ。

「どういたしまして。いやまさか、神殿の壁からこんなにかわいい女の子が降ってくるとは思わなかった。修道院暮らしに嫌気がさして、脱走でもしてきた?」

 かわいいなんて言われて、もうどっちを向いていいのかもわからない。

「まあ、そのようなものです……」

 世間的に『預言姫』がどの程度認知されているかはわからないが、一般的な修道服を着ているので、まさか私が預言姫ファタールだとは思われていないだろう。
 混乱しつつつもかろうじてうなずき、改めて青年の顔を見上げる。
 私よりすこし年上だろうか、溌剌はつらつとした整った顔立ちをしている。黒い瞳は柔和だけど、どこか厳しそうな力を内側に秘めている――そんな印象だ。
 そして、とても背が高かった。私とは頭ひとつ分くらいは余裕で差がある。身近な比較の対象が大司教しかいないのであれだけど、若々しくてとても格好いい青年だ。
 まくった袖からのぞいている腕はたくましくて、筋肉が流れるようについている。羽織った外套がいとうはところどころ擦り切れていて、たくさんの大地を踏みしめてきたであろう革の重たそうなブーツには、傷や土汚れが見て取れた。腰に剣をたずさえているので、旅の剣士なのかもしれない。
 大司教の姿は私に恐怖しか植えつけないけど、この青年の顔立ちは、とても好ましく映る。見ていて安心するというか、ずっと見ていたいというか……
 そんなことを考えている自分に気づき、あわてて頭を振った。外に出た途端にこの気の緩みよう、彼がもし、無知な若い娘を食い物にする悪い人だったらどうするの。
 でも、助けてもらったという事実がある以上、彼を疑うのはすでに難しかった。

「あなたは、どうしてこんなところに?」
「いやあ、カーニバルに浮かれて飲みすぎたから、ひと気のないところで酔いをましてたんだよ。まあ、あんまり驚いたから、もう酔いは完全に抜けたけどな」

 そう言って彼は笑った。

「本当にごめんなさい」
「いいって、いいって。これもラキムさまのいきな計らいかもしれないし。俺、ルージャっていうんだ。賞金稼ぎを生業なりわいにしてる旅の者で、ミルガルデは常連だ。君の名を聞いても?」
「は、はい。私――レイラといいます。改めてルージャさん、助けてくださってありがとうございました」

 レイラ――これが私の本当の名前。
『預言姫ファタール』の再来などと噂されているうちに、いつしかファタールと呼ばれるのが通例となっていたけれど、これもカイザール大司教の思惑どおりなのだ。『私』という個人の存在をかき消して、『預言姫』を印象づけるのに、これ以上ない名前だったから。

「レイラか、きれいな名前だな」

 幼い頃、カイザール大司教に封印されて以来この名前を名乗るのは初めてだったけど、ルージャにそう褒められたら、自分でもおかしくなるほどうれしさがこみあげてきた。

「神殿を抜け出して、カーニバルを楽しもうって魂胆だろ。これも縁だ、君さえよかったら案内するよ、レイラ。街には不慣れなんだろう?」
「い、いいんですか?」
「こんなかわいい子と一緒に歩けるなら、こっちから頭を下げてお願いしたいくらいだね!」

 信用しても大丈夫かな、という常識的な心配もしてみたけど、なぜか彼には警戒心を呼び覚まされなかった。何がどうとはっきりとは説明できないけど、今まで出会ってきた人々とまるで違う、そんな不思議な感覚があるのだ。
 それに、右も左もわからない私がひとりでウロウロしていたって、何もできないに違いない。

「こちらこそ、お願いします!」
「よし、そうと決まればさっそく行こう!」

 ルージャに手を引かれて歩き出す。大通りへと向かうにつれ、喧騒けんそうがどんどん大きくなってきた。やがて、神殿の正門前に出たとき、私はそこに立ち尽くした。
 縦横無尽じゅうおうむじんに行き交う人、人、人――
 私にとって夜という時間は、静謐せいひつで、もっとも孤独を感じる時間だ。それがどうしたことか、ここでは夜なのに明るく、孤独の欠片かけらすら見当たらない。
 ごちゃごちゃと品物が並べられた露店、肉がこんがり焼ける匂いを漂わせる屋台、でたらめに笛を鳴らしている大道芸人、仮面をつけ着飾った若い娘たちの輪、それを追いかける若者たち、酔漢すいかんが豪快に笑う声、聖堂に向かって祈りを捧げる老人、酒樽を運ぶ牛馬など。
 目から耳から鼻から、ありとあらゆる感覚が刺激される。
 私が知っている人の集団とは、荘厳な大聖堂に整然と並び、こうべを垂れて神に祈る人々の姿だけだ。こんなに雑然とした、活気に満ちあふれた光景を見るのは、生まれて初めてだった。

「わぁ……」

 人ごみの真ん中に立ち尽くし、つい感動のままに視線を巡らしていたら、ルージャが隣でくすくす笑った。

「そんなにめずらしい?」
「だって、何もかもが初めてで」
「箱入りの修道女なんだな、レイラは。もしかして、貴族の姫君か?」
「ち、違うわ。私……その、孤児なの。小さなときからずっと修道院暮らしだから、それで」

 とっさについた嘘だけど、半分は本当のことだ。
 子供の頃のことだからはっきりとは覚えていないけど、カイザール大司教に拾われるまでは親もなく、食べ物にも困るような貧しい生活をしていた。それが、大司教に連れられて神殿に行ったら、飢えることはなくなり、清潔な服をもらえ、あたたかなベッドで眠れるようになった。
 大司教に従ってさえいれば飢餓きがに苦しむことはなくなると知っていたから、窮屈な生活にも厳しい勉強にも我慢してこられたのだ。――そう、今までは。

「そうだったのか、悪いことを聞いたな」

 陽気な笑みを浮かべていたルージャが、表情を曇らせた。こんな楽しい夜にそんな顔をさせるつもりではなかったのに。

「気にしないで、世間知らずは本当のことだから。それに、今はとても楽しい!」

 だけど、ぼやっとしていると前から横からやってくる人たちにぶつかりそうになるので、一時いっときも気を抜くことができない。この人たちはなんて鮮やかに人ごみを横切っていくのだろう。
 そうやって大通りを並んで歩きながら、ずらりと道の脇に並んだ露店を覗いていった。

「ルージャさん、あれはなんですか!?」
「東方のガラス細工だな」
「あっちの瓶に詰まってるものは!?」
「香辛料だね」
「いい香り! わあ、かわいい髪飾り!」

 片っ端から見て回って、その都度大はしゃぎするものだから、ルージャは呆れたように笑っている。だって、本当に楽しいんだもの! これは夢じゃないのだろうか。
 物心ついた頃にはもう神殿の奥深くに鎮座して、預言者の真似事をしていた。街に連れ出されたことなんて、本当にただの一度もなかったし、買い物をした経験もない。
 それに、神殿で供される食べ物は曜日ごとに決められていたから、世の中にこんなにたくさんの食べ物や料理が存在することも知らなかった。

「こっちはチーズにジャム、これは紅茶。あっちの屋台はエールだな。一杯飲んでみるか?」

 エールといえば広く世の中に普及しているお酒で、神殿では原料となる植物を栽培しているけど、私はお酒を飲んだことがないので遠慮した。そうしたらルージャは、見たこともない半透明の液体が注がれたカップを私に差し出す。
 神殿で出される飲み物は、ハーブティや山羊やぎ乳がほとんどだったから、見慣れない飲み物をついつい凝視してしまった。

「これは何?」
「ペーシュっていう異国の果実でつくったジュースだよ。こんなのはカーニバルでもなきゃ滅多に飲めないぜ」

 高価なものなのだろうか。そういえば私、銅貨の一枚すら持ち合わせていないのだ。

「私、お金を持っていなくて……」
「そんなのいいって、今夜は全部、俺のおごり。レイラの反応が見てておもしろいからさ」

 そう変に期待されると重圧を感じてしまうけど、ありがたくそれを一口飲んだら――

「あっ甘い! ルージャさん、これとっても甘い!」

 口の中に広がる甘さに興奮して、ついついじたばたと足踏みを繰り返してしまった。こんなに甘くておいしい飲み物が、この世に存在していたなんて!
 それを見て、ルージャがぷっと噴き出す。

「ジュースひとつでこれだけ喜んでもらえるなら、おごり甲斐があるな。レイラ、こっちに来なよ」

 彼に手を引かれて、通りにのきを連ねているお店のひとつに入る。どうやら仕立て屋のようだ。

「カーニバルは派手なナリの連中ばかりだから、修道服じゃやっぱり悪目立ちする。好きな服を選びなよ」
「え、ええ!? そこまでしてもらうわけには……」
「俺がそうしたいんだから、遠慮すんなって。それに、どこで神殿関係者の目に入るかわからないだろ? 身バレしたら困るだろうが」

 言われてみればたしかにそうだ。修道女もカーニバルを楽しむことは許されているけど、もちろん日中の限られた時間だけだ。こんな夜更けに、いかにも神殿とは無関係の若い男性と歩き回っていたら、最悪通報される恐れがある。ルージャにも迷惑がかかるだろう。

「だから変装。さっきつけてた仮面もあるし、服装さえなんとかすれば大丈夫だろ。選ばないなら俺が勝手に決めるぞ?」

 ルージャはたくさんの服の中から手早く候補を選び出した。私を鏡の前に連れ出して、ああでもないこうでもないと、けっこう楽しそうだ。
 最初は申し訳ない気持ちでいっぱいだったけど、たくさんのかわいらしい服を当ててみせられるうちに、だんだんその気になってしまった。
 ラキム教の祭服は質素で、修道服は黒一色だし、助祭や司祭でも黒か紺、シャツは白と決まっている。私の祭服には白などもあったけど、どれも一色だけで飾り気のないものばかりなのだ。
 まるでそれを知っているかのように、ルージャが選んで持ってくるのは、どれも胸が高鳴るきれいな色味の服だった。

「あ、これがいいかも……」

 私が選んだのは、淡い緑色を基調にしたレースのワンピースだ。裾広がりのスカートは幾重にもフリルが重なっている。

「いいな、よく似合う。おかみさん、これもらうよ」

 そして着替えた私の髪を手早くまとめると、ルージャはどこからか取り出した髪飾りで留めてくれた。さっき露店で見かけて、私がかわいいとはしゃいでいた物だ。いつの間に手に入れていたのだろう。
 生まれて初めての服、髪飾り。いろいろなことが夢みたいで言葉にならなかった。
 それから、大道芸を見たり、各所でおこなわれているパレードに飛び込んだり、初めてだらけの経験に時間が経つのも忘れて楽しんだ。
 夜もだいぶけた頃、酒場に誘われて入ると、そこではすっかり酔いの回った客たちが陽気に酒をみ交わしていた。ひとりがルージャの姿を見て気安く声をかけてくる。

「おいルージャ、どこでこんなかわいい娘を引っ掛けてきやがった!」
「こんな清純系に手を出す気か。てめえが賞金首になるぜ」
「うるせえ、これから仲良くなるとこだ。外野は黙ってろ!」

 彼らの軽口に目をみはりつつも、ルージャが人々から愛されているのを感じる。

「……ルージャさんは、どうしてこんなに親切にしてくれるの?」

 あれこれ注文しているルージャの差し向かいに座りながら、私は思わず尋ねていた。
 成り行きで同行することになった世間知らずの小娘に、ここまで世話を焼く必要はないだろう。だって、どう考えても今夜限りの付き合いなのだ。飲み物をおごってくれるだけならまだしも、服や髪飾りまで買ってくれるなんて。
 彼を疑っているわけではないけど、こんなに親身になってもらえる心当たりがまったくない。
 私がすこし不安そうにしているのを見て取ったのだろう、ルージャは運ばれてきたエールを一気にあおってから安心させるように笑った。

「べつに親切じゃないよ。どっちかといえば、下心かなあ」
「下心……?」
「そう。こんなかわいい子を連れて歩けるなんて幸運、めったにないしな。君に一目惚れ。ほんっとにかわいい」
「え……」

 ルージャの黒い瞳がニコニコと笑っている。彼の言葉をどこまで鵜呑うのみにしていいのかはわからなかったけど、男の人にそんなことを言われたのは当然のごとく初めてで……

「神殿の壁のてっぺんからさ、見も知らぬ俺に向かって飛び込んできた女の子に、無関心じゃいられないだろ?」

 あのときはとっさのことで、深く考えての行動ではなかった。
 でも、あの場にいたのがルージャでなかったとしたら、果たして私は同じように行動していただろうか。そう、一目見て、彼に好意を抱いたのは私も同じだ。

「修道女を口説こうなんて不埒ふらちなことは考えてないから心配すんなよ。ただ、せっかくの縁だし、一緒にいられる時間くらい楽しみたいだろ」
「あ、ありがとう……」

 うつむきながらも、うれしくて口元が勝手に笑ってしまうのを止められない。
 そのときだった。目の前にドンと料理ののった皿が置かれた。見上げると、給仕の女性がルージャを見て笑っている。


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