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1巻
1-3
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「あら、どこの色男かと思ったらルージャじゃない。カーニバルが始まった途端、さっそく女の子を口説いてきたの?」
「人聞きの悪いことを言うな」
「あんた、どこのお嬢さんか知らないけど気をつけるんだよ。この男、自分がいい男だってわかってるもんだから、あちこちで女の子を引っ掛けてる、とんだ遊び人だよ」
「おいおいおい、なに言ってくれてんだよ。レイラ、違うぞ。俺ほど誠実な男はそうそういないからな? この女の言ってることはデタラメだからな?」
どこまで本気のやりとりなのかはわからないけど、少なくともルージャがこの店の常連であり、この給仕の女性ともよく知った仲だということはわかった。
「ルージャさんはとてもやさしくて、信頼できる方です。私は遊ばれているわけではないので、ご心配なさらないで」
「……あ、そう? ならいいんだけどね……」
彼女は私の言葉に戸惑ったように答えて、お店の奥に戻っていった。
「私、何か変なこと言ったのかしら……」
ルージャに小声で尋ねると、彼は照れたような困ったような顔をして私の頭をぽふぽふと撫でた。
「レイラはいい子だな。さあ、遠慮はいらないから好きなだけ食べなよ」
テーブルには湯気が立つ熱々の肉やサラダ、シチューなどおいしそうな料理が並んでいる。
神殿ではいつもひとりか、ときどき大司教と一緒に無言の食事をするくらいだったから、賑やかな店内で、ルージャといろいろな話をしながらのあたたかい食事には感激しっぱなしだった。
私も市井の人間になることができたら、毎日こんなふうに楽しく過ごせるだろうか。そんなことを想像して、叶いっこない願いについついため息をこぼしてしまう。
でも、そろそろこんな楽しい時間も終わりだ。夜明けまではまだもうすこし時間があるけれど、のんびりしていたら抜け出していたことがバレてしまう。
「……私、もう神殿に戻らないと」
「もうそんな時間か。神殿まで送るよ」
カーニバルに浮かれていた街も、深夜になってさすがに落ち着きを取り戻していた。夜通し遊んだあとのけだるい空気が漂っているせいか、神殿に向かう足取りも重くなってしまう。
できれば、もうちょっとこうしてルージャと歩いていたい。神殿に帰ったら、この楽しかった時間も全部、夢のように消えてしまうのだろう。
「レイラ」
神殿の近くまで戻ってくると、ルージャが無言になっていた私の肩に手をおいた。
「さっきの酒場の二階が宿になってる。カーニバルの間は俺、ずっとそこに部屋借りてるから。もしまた出てこられたら、いつでも来なよ」
「え――本当に?」
次があると思った途端、重くふさがっていた胸が晴れていく気がした。
なぜだろう、彼の傍にいるのはとても心地いい。いつもは人が近くにいると警戒してしまうのに、ルージャはすんなりと私の傍に入り込んできた。
これが、彼の言う一目惚れなのかな。
「今夜は楽しかったよ、レイラ。本当は帰すのが惜しいんだけどな。今日の出会いの記念に、ここにキスしてくれないかなぁ、なんて」
ルージャが冗談めかして自分の頬を指さした。
「キス……?」
私が凝視すると、ルージャは「嘘だよ」とあわてたように手を振る。でも、私は彼の腕に触れ、その硬さに驚きながらも引き寄せていた。
「今日はありがとう、ルージャ。あなたと一緒にいるの、とても楽しかった」
つま先立ちをして、すこし屈んだ姿勢になったルージャの頬にキスをする。彼の頬に唇で触れた瞬間、あたたかい肌のぬくもりが伝わってきた。
「……」
名残惜しさはもちろんあったけど、それ以上に気恥ずかしくて、私は逃げるようにして彼の前から走り去った。
去り際に見たのは、キスされた頬に手を当て、黒い双眸をまん丸にしているルージャの姿だった。
†
外で遊び歩くという初めての体験をした私は、明け方に部屋に戻ってきてからも興奮冷めやらず、そわそわと落ち着かなかった。そしてほとんど一睡もしない状態で朝を迎えた。
カーニバル期間中は大司教がほぼ不在のため、『ファタール』は朝の礼拝が終わると用なしだ。普段から大司教に命じられた以外の仕事はほとんどないが、今日はそれこそ部屋に待機するしかないので、読み返すよう言われていた聖典を開きながら、うつらうつらとうたた寝をしていた。
そして昼頃、修道女のシャルナが昨晩の約束どおり、カーニバルの屋台で手に入れた串焼きや、リュートを持って私の部屋にやってきた。
「ファタールさま、お疲れでいらっしゃいますか?」
「大丈夫よ。あなたがリュートを弾いてくださるというから、楽しみで眠れなくて。本当に持ってきてくださったのね」
寝不足の原因の大半はそれではなかったけれど、彼女のリュートを楽しみにしていたのも本当だ。昨晩、先駆けて吟遊詩人たちの歌や演奏を聴いてしまったけど、それを自分の部屋で聴けるというのだから、けっこう期待していたのだ。このシャルナという風変わりな修道女がどんなふうにリュートを奏でるのかも興味津々だった。
「では、こちらがお約束の串焼きです。さきほど、カーニバルの露店で買い求めてまいりました」
「ありがとう! いい香り」
ルージャに連れられて歩いた大通りで、この香ばしい香りを嗅いだ記憶がある。
紙にくるまれた串焼きを広げると、お肉の脂が滴りきらきら輝いていて、とてつもなくよい香りが漂った。
「わあ……」
私、昨日からこんなことばかりしていて……カーニバルってすてきだ。
「存分に味わってくださいな。椅子をお借りいたします」
私に串焼きを勧めながら、シャルナはリュートを取り出した。古そうなリュートは、だいぶ使い込まれている。シャルナの細い指が弦を鳴らすと、思ったよりも深い音が響いた。
「このリュートはどうしたの?」
「実はファタールさまの無聊をお慰めしたいのだと院長さまに申しましたところ、お貸しくださったのです。お若いファタールさまがカーニバルの雰囲気にすら触れられないのはおかわいそうと」
「まあ……」
修道院長とはあまり接点がなく、厳しそうな老女だということしか知らない。私は、何百年も昔の聖女の生まれ変わりだと喧伝されているので、神殿内部でも本当にごく一部の人としか関わりが許されていなかった。
「大司教猊下も、ファタールさまに自由な時間をさしあげてくださってもよろしいじゃありませんか。わざわざこんなふうに閉じ込めておくなんて」
憤慨しながらシャルナは弦をつま弾いた。その手つきは、ずいぶんリュートに親しんでいるように見える。
「では串焼きを頬張りながらお聴きください。それが庶民流ですので。ミルガルデで流行の曲をいくつか披露いたしますわ。あいにくと歌は歌えないのですが……」
そう言ってシャルナは軽快な曲を立て続けに何曲か弾いた。底抜けに明るい、幸せな音楽。
「これはミルガルデでは定番の曲で、初めて恋を知った娘の歌なんです」
恋――私にはまったく縁のない言葉だった。そもそも男性と知り合うことがないのだから、仕方がないとは思うけど……
ふと、今朝まで一緒だったルージャのことを思い浮かべる。彼は私に一目惚れしたなんて言っていたけど、一目惚れって恋と同じ意味なのかしら。
「恋をするってどういうことか、シャルナさんは知っている?」
つとそんな質問が口をついた。すると、シャルナは目だけを上げて、静かに微笑む。どきっとするような大人の女性の微笑だ。
「もちろんです、ファタールさま。二十七年も女をやっていれば、ひとつやふたつ、恋をすることもありますわ。年がら年中、その人のことばかりが頭にあって、必要なことがなんにも手につかない厄介な状態になるものです。すこしのことでもうれしくて、ちょっとのことで気分がふさいで。とても疲れるけれど、とても幸せなひとときですわ」
「シャルナさんは、その人とは――?」
立ち入ったことを聞いている自覚はあったけど、二十七歳で修道女の道を選んだ彼女の恋の行く末に無関心ではいられなかった。
「運命の相手ではなかったのですわ、残念ながら」
「運命の、相手?」
「ええ、ファタールさま。真に結ばれる男女は、運命によって出会うものなのです。この世界には幾千、幾万もの人が存在するのに、結ばれるのはたったひとりだけ――たまに多数の運命の人がいる方もいらっしゃいますけど、まあそれは例外中の例外と申してよいでしょう。とにかく、これだけ大勢の人間の中でただひとり好きになって、相手からも好きになってもらえるのは奇跡です。これを運命と言わずしてなんと言いましょう」
なんだか大げさにも聞こえるけれど、たしかに人々の出会いは偶然で、その中からただひとりを見つけ出すのは、奇跡なのかもしれない。
「運命的に好き合った者同士でも、添い遂げることが許されないこともございますしね……。そういえばファタールさま。預言姫さまの神のお声を聴く能力も、ことご自分に関すること、そして運命の相手には発揮できないと聞いたことがございます。それは本当なのですか?」
逆に問い返されて、しばし固まった。たしかに、自分の未来はどうがんばっても視ることができない。視たいとも思わないけれど。
でも、運命の相手の未来も視えない? それは初めて聞いた。
この能力に関する私の知識は、触れた相手の未来が視えること、自分の体調が悪いときはうまく視えないときがあること、同じ能力かはわからないけれど結婚した初代ファタールは子をなして能力を失ったこと――それだけだ。
ファタールが生きていたとされるのはもう何百年も前だし、その間に跡を継ぐような預言者は現れなかったから、預言者に関する文献はほとんど残されていない。
「視えない――運命の相手は……」
そのとき、私はようやく気がついた。昨晩ルージャに出会って、何度も彼に触れたのに。
(一度も彼の未来を視なかった。視えなかった……)
常日頃、私は決して人に触れないように距離を置いている。こうして親しく話してくれるシャルナにも、直接触れてしまうことがないよう一定距離を保っていた。
でも、ルージャは違った。
彼の傍にいると警戒心を抱かなくて済むと、心のどこかで安堵していたのを覚えている。それは、いくら彼に触れても未来が視えなかったからだ。
最初に出会ったとき、彼に向かって飛び降りて、その腕に抱き留められた。あのとき何も視えなかったから、彼には近づいても大丈夫だと無意識のうちに判断していたのだろう。
(ルージャは、運命の人――?)
シャルナが下がって部屋にひとりきりになってからも、ずっとそのことが頭について離れなかった。昨日は初めて外に出るという大冒険に興奮して、彼の未来を視ることができないことも気にならなかったけど……
(運命かどうかは知らないけど、視えなかったのは事実だもの。どうしてルージャの未来は視えなかったの? それとも世の中には視えない人もいるのかな……)
答えの出ない疑問が、ぐるぐると頭の中をめぐっている。夕食の時間も、湯浴みを終えても、ベッドに入ってからも、ルージャのことが気になってしまい、頭がおかしくなりそうだ。
気がつけば毛布を撥ね上げて、ベッドの下に隠しておいた昨日の服に着替えていた。
初めて、未来を視ることができなかった人。もう一度会って確かめてみたい。
昨日と同じ轍を踏まないように、巡回の聖騎士をやりすごしてから、私は部屋を飛び出した。
昨晩、ルージャと歩いた道を、記憶を頼りにしながら辿る。
初めての人ごみとたくさんの露店に心を奪われていたせいで、記憶はだいぶ曖昧だったけれど、ルージャは複雑な小道には入らなかったので、迷うことはなさそうだ。
今日も昨日と同じく街は盛況、もしかしたら昨晩よりも賑わっているかもしれない。世界中の人がここに集まっているのではないかと思うほどだ。
ルージャもこの喧騒のどこかにいるのだろうか。宿をとっているとは言っていたけれど、訪ねていっても彼が部屋でおとなしく過ごしているとは考えられない。好奇心は旺盛そうだったし、露店で出会う初対面の相手とも、気軽に声をかけあっていたもの。
(あの人は、私とは対極の存在だ――)
賞金稼ぎをしていると言っていたけれど、自分の力で生きている彼はとても自由に見えた。誰からの制約も受けず、好きなところへ行き、自分の意思で生きている。
もちろん、私はルージャのごく一面しか見ていないけれど、一緒にいた短い時間でも彼の生き生きした姿に憧憬を抱いた。
それに比べ、私は聖女だ預言姫だと敬われてはいても、人と関わることを許されず、自分の思いを口にすることもできず、カイザール大司教の都合で生かされているだけの人形のようなものだ。親しく軽口を交わせる相手もいない。
私ほど孤独で淋しい人間はいないのではないだろうか――そんな風に思えてきて、無性にやるせなかった。大勢の中にいればいるほど、自分がひとりきりだということを思い知らされるようで。
暗い思考にとりつかれて、うつむき加減に歩いていたのが悪かったのかもしれない。真正面から人にぶつかって、その反動で尻もちをついてしまった。
「あ……」
今、何かが視えた気がして、私は顔を上げた。触れたのがごく一瞬のことだったから、よく視えなかったけど……
「こりゃとんだ別嬪じゃねえか。立てるか?」
赤ら顔の酔っぱらいが、私の頭上から酒臭い息を吹きかけてきた。手には酒壺を持っていて、すっかり出来上がっているようだ。
「ご、ごめんなさい」
差し出されたごっつい手には触れず、後ずさりしながら立ち上がろうとした。彼の持つただならぬ雰囲気に尻込みしてしまったのだ。こわもての巨漢で、どこか荒んだ空気を持つ彼は、荒事に縁のない生活をしてきた私にとって、存在そのものがとても怖かった。
でも、その手は逃げる私の手首を強引につかんで立ち上がらせる。
「せっかく手を貸してやってんのに、無視たぁひでえじゃねえか、お嬢ちゃん」
これまで関わったことのない部類の男だ。酔っぱらいという生物を見たのは昨日の酒場が初めてだったし、ましてや話しかけられたのも初めてだ。
「人の厚意を無下にするのはどうかと思うぜ」
ぐっと腰を抱き寄せられて、顔を近づけられる。嫌悪感が込み上げたけど、自分の身の心配はしていなかった。なぜなら――
「今すぐ放してください。そうしないと――」
「そうしないと、なんだってんだ? 衛兵でも呼ぶってか」
「だって、あなた殴られて、地面の上にひっくり返ることになりますし」
既に視えた未来。ほんの数分後の未来だけど、確かに私の目は捉えていたのだ、この酔っぱらいが地面に横たわる姿を。
案の定、私の手をつかんだ男の手が、誰かにつかみ返された。そのまま強引に腕をねじりあげられ、男は大きく叫ぶ。
「いて、いてて!」
「汚い手で触らないでもらおうか」
私の背後から伸びてきた腕を辿っていくと、そこにはルージャがいた。伸びた前髪の間から、黒い瞳が剣呑そうな光を宿して、目の前の酔っぱらいを睨んでいる。
「小僧が!」
酔漢が見た目よりも素早い動きで握り拳を作り、ルージャに殴りかかった。でも、ルージャはそれを手のひらで受け止めてしまう。この酔漢に比べたら、ルージャはかなり細身で、とても力ではかなわなそうなのに。
「おっと、おまえさんの顔、どこかで見たことあるぞ」
ルージャが巨漢の顔を下からじろじろ見ている。今にも殴られてしまいそうな距離に、私のほうが恐れをなしてしまうけれど、彼はいたって自然体だ。
「あんだとぉ?」
「ああ、思い出した。賞金首のディアス・ロードンだな!」
その名をルージャが口にした瞬間、酔漢が酔漢ではなくなった。どうやら一気に酔いが醒めたらしい。理性的な顔になると、ルージャに握られている拳を力任せに抜き、ふたたび彼に殴りかかる。
そうか、ルージャは賞金稼ぎだと言っていた。賞金首はすなわち、彼の稼ぎの源だ。
ルージャはそれを難なくよけると、均衡を崩した男の横っ面に、力任せに拳を叩き入れた。男はよろめきつつも、すぐに反撃する。
自分よりも体格のいい相手だというのに、ルージャは恐れる気配も見せず、なめらかな身体さばきで、相手の反撃を受け流した。
何度か拳の応酬があったけど、男の拳がルージャの身体をかすめることは一度もなかった。かわりに、ルージャの拳は頬や腹部に幾度となく命中し、顎を殴り上げたところで男は地面にどうっと横たわった。
私が視た、彼の未来そのものだ。
いつの間にかまわりには人だかりができていて、やんや、やんやの喝采が起きている。こんな喧嘩沙汰も街の人々にとっては余興のひとつでしかないようだ。
「兄ちゃんやるじゃねえか!」
「よ、色男!」
次々と称賛を浴びて、ルージャは手を上げてそれに応えていたけど、仰向けに倒れた巨漢の傍に屈んで耳元に何事かを告げると、私の手をつかんでその場を早足で立ち去った。
「ありがとうございました」
私の手をぎゅっと握っているルージャの大きな手をみつめながら、私は彼の背中に礼を言った。
(視えない――ルージャのこと、何も)
あの酔っぱらいのことはちゃんと視えたのに。この人の未来はやっぱり視ることができないんだ。
「あの、さっきの人、賞金首なんでしょう? あのままにしておいていいんですか?」
賞金首を見逃してしまったら、彼の生活に関わるのではないだろうか。
「ああ、いいんだよ。カーニバルの間は賞金稼ぎは休業。祭りのときに衛視に突き出すなんて無粋だし、換金所にはそもそも誰もいやしないよ」
言われてみればそうだけど、何か悪いことをしたから賞金をかけられているのだろうに、放置でいいのかしら……
「それにしてもびっくりした。人だかりができてるから何事かと思ったら、まさかレイラがいるなんてな」
いや、今は賞金首のことより、自分のことだ。まさか、昨日の今日でルージャに再会できるなんて、本当に運命の人だったりして。なんだか無性にうれしくなってしまう。
「私、あなたにもう一度会いたくなって、それで……」
二晩続けての脱走は、さすがに危険ではないかという不安もあったけど、いてもたってもいられなかったから。
ふいにルージャが立ち止まり、私の手を放して振り返った。
「レイラのそれは、天然? それとも計算ずくなのか?」
「は? え?」
言われている意味がわからなくて、じっとルージャの顔を見ると、彼はすぐに苦笑して私の頭を撫でまわした。
鋭そうな顔立ちをしているのに、私を見る彼の黒い瞳はやさしくて。そんなルージャを見ていると、胸が締めつけられるように苦しくなる。
「こんなに早く来てくれるとは思わなかったから、うれしいよ。けど、そんなにしょっちゅう抜け出してきて、大丈夫なのか?」
「たぶん大丈夫。カーニバル期間中は神殿も忙しくて、修道女たちもお手伝いに駆り出されてるし」
「レイラは手伝わなくていいのか?」
しまった、余計なことを言ってしまった。あまり神殿のことを口にしないほうがいい。
「昼間手伝ってるから大丈夫なんです」
「ふうん。でも昨晩もあまり寝てないだろ? 身体壊すぜ」
「すこしくらい大丈夫。それよりも、よかったらちょっと歩きませんか? ルージャさんに約束や用事がなければ……」
そっと彼の手に自分の手を重ねてみる。やっぱり何も視えない。この人は、私にとって特別なのだろうか。それとも、たまたま彼が特殊な体質なのだろうか。
「もちろん。もし用事があっても、こっちを優先するよ。それからさん付けはいらない。ルージャって呼んで」
重ねた手を握られ、心臓がドキッと跳ね上がる。ルージャの手はあたたかくて、ずっと握っていても大丈夫だという安心感に満ちていた。
この人なら、私を不安から救ってくれるのではないだろうか――
思わずルージャの手を握り返して、深く息をつく。
「もしかして、さっきの喧嘩で怯えさせた?」
「え?」
私がため息をついたせいか、ルージャが心配そうな顔でこちらを見下ろしていた。
「ずっと神殿で過ごしてきたんだろ? 喧嘩沙汰なんか目の前で見せられたら、そりゃ驚くよな。悪かったよ」
「そんなことない! びっくりはしたけど、ルージャ、強くてとってもかっこよかった! 助けてもらえてうれしかったし」
思いがけないことを言われてあわてて言い訳すると、ルージャは自分の口元を押さえた。なんだろう、彼の顔が心なしか赤い気がする。
「あのさ、レイラ。そういうこと、男に軽々しく口にすんなよ」
「そういうことって? 思ったことを言っただけよ?」
「……」
頭をかきつつ、ルージャは深いため息をついた。なんでそこでため息をつかれるんだろう?
「と、とにかく歩こうか。こんな道のど真ん中で突っ立っててもしょうがない」
私の手を引いてルージャがスタスタと歩き出した。背が高くて脚も長いので、かなりの早足にならないとついていけないほどだけど、なんだかその後ろ姿が照れているように見えて、頬が緩んでしまった。
そのまま、昨日よりもずっと遠く、大通りの向こうまで歩くと、噴水のある広場に出た。
たくさんのランプで照らされた広場では、道化師の姿をしたリュート弾きが陽気な曲を奏で、東方風の衣装を着た踊り子たちが柔らかな身体を誇るように舞っている。
そんな喧騒の中、噴水の縁に腰を下ろすと、ルージャが屋台で買ってきたティパをくれた。白くて平べったいパンに野菜や肉を挟んだもので、ミルガルデでは朝食や軽食として好まれているらしい。
「昨日からごちそうになりっぱなしで、ごめんなさい。ルージャに会いたくて押しかけてきちゃったけど、ただの迷惑にしかなってなくて」
「ああ、君のそれは天然のほうだな」
「はあ……?」
苦笑しながらそう言って、ルージャはティパにかぶりついた。
「こんなのは小銭で買えるけど、レイラにはいくら金を積んでも会えないからな。気にすんなって」
「ありがとう。それにしても、ルージャって本当に強いのね、あんな大きな人相手に全然負けないなんて。賞金稼ぎって言ってたものね。剣が得意なの?」
「剣でも斧でも拳でも。必要とあらば舌戦だって負けないけどな、他人に負けるのは嫌いだ。けど、レイラには軽蔑されるんじゃないかと思ったよ」
「軽蔑? どうして?」
「ラキムといえば大地神、豊穣の神さまだろ。殺生なんてもってのほかだ。殴り合い、下手すりゃ殺し合いをしてる俺は、君には野蛮に映るんだろうなってさ」
「そんなことない。だって、努力して得た力でしょう? 使い方次第では悪い力にもなりうるけど、ルージャはきっとそれを悪いことには使っていないと思うし」
私みたいに何の努力もせずに得た、それも他人の未来を盗み見るようなひどい能力に比べたら、彼の特技は尊いものにしか思えない。
「修道女の君にそう言ってもらえると救われるな」
大きな手に包み込まれるように頭を撫でられると、無性に恥ずかしくなってうつむいてしまう。
「そういや修道女って、毎日どんな生活してるんだ?」
「えっと、礼拝したり、聖典を読んだりとか……お掃除や菜園の管理でしょ、それから……」
一般の修道女が日常的にやっていることを必死に思い出す。それに比べて、私の日常は驚くほど中身がない。形だけの礼拝に神殿関係の書物を読んだり、大司教が連れてくるお客の未来をときどき視たり。たったそれだけ。
「ルージャは普段どんなことをしているの?」
「俺は……旅しながら賞金首の情報集めに奔走してるかな」
そう言いながらも、なぜかルージャの目が泳いでいる。その理由を確かめようとルージャの黒い瞳を覗き込んだら、彼は降参したように手を上げた。
「ごめん、かっこいいこと言ったけど、仕事がないときは街や酒場をブラブラしてるだけの遊び人です……」
「人聞きの悪いことを言うな」
「あんた、どこのお嬢さんか知らないけど気をつけるんだよ。この男、自分がいい男だってわかってるもんだから、あちこちで女の子を引っ掛けてる、とんだ遊び人だよ」
「おいおいおい、なに言ってくれてんだよ。レイラ、違うぞ。俺ほど誠実な男はそうそういないからな? この女の言ってることはデタラメだからな?」
どこまで本気のやりとりなのかはわからないけど、少なくともルージャがこの店の常連であり、この給仕の女性ともよく知った仲だということはわかった。
「ルージャさんはとてもやさしくて、信頼できる方です。私は遊ばれているわけではないので、ご心配なさらないで」
「……あ、そう? ならいいんだけどね……」
彼女は私の言葉に戸惑ったように答えて、お店の奥に戻っていった。
「私、何か変なこと言ったのかしら……」
ルージャに小声で尋ねると、彼は照れたような困ったような顔をして私の頭をぽふぽふと撫でた。
「レイラはいい子だな。さあ、遠慮はいらないから好きなだけ食べなよ」
テーブルには湯気が立つ熱々の肉やサラダ、シチューなどおいしそうな料理が並んでいる。
神殿ではいつもひとりか、ときどき大司教と一緒に無言の食事をするくらいだったから、賑やかな店内で、ルージャといろいろな話をしながらのあたたかい食事には感激しっぱなしだった。
私も市井の人間になることができたら、毎日こんなふうに楽しく過ごせるだろうか。そんなことを想像して、叶いっこない願いについついため息をこぼしてしまう。
でも、そろそろこんな楽しい時間も終わりだ。夜明けまではまだもうすこし時間があるけれど、のんびりしていたら抜け出していたことがバレてしまう。
「……私、もう神殿に戻らないと」
「もうそんな時間か。神殿まで送るよ」
カーニバルに浮かれていた街も、深夜になってさすがに落ち着きを取り戻していた。夜通し遊んだあとのけだるい空気が漂っているせいか、神殿に向かう足取りも重くなってしまう。
できれば、もうちょっとこうしてルージャと歩いていたい。神殿に帰ったら、この楽しかった時間も全部、夢のように消えてしまうのだろう。
「レイラ」
神殿の近くまで戻ってくると、ルージャが無言になっていた私の肩に手をおいた。
「さっきの酒場の二階が宿になってる。カーニバルの間は俺、ずっとそこに部屋借りてるから。もしまた出てこられたら、いつでも来なよ」
「え――本当に?」
次があると思った途端、重くふさがっていた胸が晴れていく気がした。
なぜだろう、彼の傍にいるのはとても心地いい。いつもは人が近くにいると警戒してしまうのに、ルージャはすんなりと私の傍に入り込んできた。
これが、彼の言う一目惚れなのかな。
「今夜は楽しかったよ、レイラ。本当は帰すのが惜しいんだけどな。今日の出会いの記念に、ここにキスしてくれないかなぁ、なんて」
ルージャが冗談めかして自分の頬を指さした。
「キス……?」
私が凝視すると、ルージャは「嘘だよ」とあわてたように手を振る。でも、私は彼の腕に触れ、その硬さに驚きながらも引き寄せていた。
「今日はありがとう、ルージャ。あなたと一緒にいるの、とても楽しかった」
つま先立ちをして、すこし屈んだ姿勢になったルージャの頬にキスをする。彼の頬に唇で触れた瞬間、あたたかい肌のぬくもりが伝わってきた。
「……」
名残惜しさはもちろんあったけど、それ以上に気恥ずかしくて、私は逃げるようにして彼の前から走り去った。
去り際に見たのは、キスされた頬に手を当て、黒い双眸をまん丸にしているルージャの姿だった。
†
外で遊び歩くという初めての体験をした私は、明け方に部屋に戻ってきてからも興奮冷めやらず、そわそわと落ち着かなかった。そしてほとんど一睡もしない状態で朝を迎えた。
カーニバル期間中は大司教がほぼ不在のため、『ファタール』は朝の礼拝が終わると用なしだ。普段から大司教に命じられた以外の仕事はほとんどないが、今日はそれこそ部屋に待機するしかないので、読み返すよう言われていた聖典を開きながら、うつらうつらとうたた寝をしていた。
そして昼頃、修道女のシャルナが昨晩の約束どおり、カーニバルの屋台で手に入れた串焼きや、リュートを持って私の部屋にやってきた。
「ファタールさま、お疲れでいらっしゃいますか?」
「大丈夫よ。あなたがリュートを弾いてくださるというから、楽しみで眠れなくて。本当に持ってきてくださったのね」
寝不足の原因の大半はそれではなかったけれど、彼女のリュートを楽しみにしていたのも本当だ。昨晩、先駆けて吟遊詩人たちの歌や演奏を聴いてしまったけど、それを自分の部屋で聴けるというのだから、けっこう期待していたのだ。このシャルナという風変わりな修道女がどんなふうにリュートを奏でるのかも興味津々だった。
「では、こちらがお約束の串焼きです。さきほど、カーニバルの露店で買い求めてまいりました」
「ありがとう! いい香り」
ルージャに連れられて歩いた大通りで、この香ばしい香りを嗅いだ記憶がある。
紙にくるまれた串焼きを広げると、お肉の脂が滴りきらきら輝いていて、とてつもなくよい香りが漂った。
「わあ……」
私、昨日からこんなことばかりしていて……カーニバルってすてきだ。
「存分に味わってくださいな。椅子をお借りいたします」
私に串焼きを勧めながら、シャルナはリュートを取り出した。古そうなリュートは、だいぶ使い込まれている。シャルナの細い指が弦を鳴らすと、思ったよりも深い音が響いた。
「このリュートはどうしたの?」
「実はファタールさまの無聊をお慰めしたいのだと院長さまに申しましたところ、お貸しくださったのです。お若いファタールさまがカーニバルの雰囲気にすら触れられないのはおかわいそうと」
「まあ……」
修道院長とはあまり接点がなく、厳しそうな老女だということしか知らない。私は、何百年も昔の聖女の生まれ変わりだと喧伝されているので、神殿内部でも本当にごく一部の人としか関わりが許されていなかった。
「大司教猊下も、ファタールさまに自由な時間をさしあげてくださってもよろしいじゃありませんか。わざわざこんなふうに閉じ込めておくなんて」
憤慨しながらシャルナは弦をつま弾いた。その手つきは、ずいぶんリュートに親しんでいるように見える。
「では串焼きを頬張りながらお聴きください。それが庶民流ですので。ミルガルデで流行の曲をいくつか披露いたしますわ。あいにくと歌は歌えないのですが……」
そう言ってシャルナは軽快な曲を立て続けに何曲か弾いた。底抜けに明るい、幸せな音楽。
「これはミルガルデでは定番の曲で、初めて恋を知った娘の歌なんです」
恋――私にはまったく縁のない言葉だった。そもそも男性と知り合うことがないのだから、仕方がないとは思うけど……
ふと、今朝まで一緒だったルージャのことを思い浮かべる。彼は私に一目惚れしたなんて言っていたけど、一目惚れって恋と同じ意味なのかしら。
「恋をするってどういうことか、シャルナさんは知っている?」
つとそんな質問が口をついた。すると、シャルナは目だけを上げて、静かに微笑む。どきっとするような大人の女性の微笑だ。
「もちろんです、ファタールさま。二十七年も女をやっていれば、ひとつやふたつ、恋をすることもありますわ。年がら年中、その人のことばかりが頭にあって、必要なことがなんにも手につかない厄介な状態になるものです。すこしのことでもうれしくて、ちょっとのことで気分がふさいで。とても疲れるけれど、とても幸せなひとときですわ」
「シャルナさんは、その人とは――?」
立ち入ったことを聞いている自覚はあったけど、二十七歳で修道女の道を選んだ彼女の恋の行く末に無関心ではいられなかった。
「運命の相手ではなかったのですわ、残念ながら」
「運命の、相手?」
「ええ、ファタールさま。真に結ばれる男女は、運命によって出会うものなのです。この世界には幾千、幾万もの人が存在するのに、結ばれるのはたったひとりだけ――たまに多数の運命の人がいる方もいらっしゃいますけど、まあそれは例外中の例外と申してよいでしょう。とにかく、これだけ大勢の人間の中でただひとり好きになって、相手からも好きになってもらえるのは奇跡です。これを運命と言わずしてなんと言いましょう」
なんだか大げさにも聞こえるけれど、たしかに人々の出会いは偶然で、その中からただひとりを見つけ出すのは、奇跡なのかもしれない。
「運命的に好き合った者同士でも、添い遂げることが許されないこともございますしね……。そういえばファタールさま。預言姫さまの神のお声を聴く能力も、ことご自分に関すること、そして運命の相手には発揮できないと聞いたことがございます。それは本当なのですか?」
逆に問い返されて、しばし固まった。たしかに、自分の未来はどうがんばっても視ることができない。視たいとも思わないけれど。
でも、運命の相手の未来も視えない? それは初めて聞いた。
この能力に関する私の知識は、触れた相手の未来が視えること、自分の体調が悪いときはうまく視えないときがあること、同じ能力かはわからないけれど結婚した初代ファタールは子をなして能力を失ったこと――それだけだ。
ファタールが生きていたとされるのはもう何百年も前だし、その間に跡を継ぐような預言者は現れなかったから、預言者に関する文献はほとんど残されていない。
「視えない――運命の相手は……」
そのとき、私はようやく気がついた。昨晩ルージャに出会って、何度も彼に触れたのに。
(一度も彼の未来を視なかった。視えなかった……)
常日頃、私は決して人に触れないように距離を置いている。こうして親しく話してくれるシャルナにも、直接触れてしまうことがないよう一定距離を保っていた。
でも、ルージャは違った。
彼の傍にいると警戒心を抱かなくて済むと、心のどこかで安堵していたのを覚えている。それは、いくら彼に触れても未来が視えなかったからだ。
最初に出会ったとき、彼に向かって飛び降りて、その腕に抱き留められた。あのとき何も視えなかったから、彼には近づいても大丈夫だと無意識のうちに判断していたのだろう。
(ルージャは、運命の人――?)
シャルナが下がって部屋にひとりきりになってからも、ずっとそのことが頭について離れなかった。昨日は初めて外に出るという大冒険に興奮して、彼の未来を視ることができないことも気にならなかったけど……
(運命かどうかは知らないけど、視えなかったのは事実だもの。どうしてルージャの未来は視えなかったの? それとも世の中には視えない人もいるのかな……)
答えの出ない疑問が、ぐるぐると頭の中をめぐっている。夕食の時間も、湯浴みを終えても、ベッドに入ってからも、ルージャのことが気になってしまい、頭がおかしくなりそうだ。
気がつけば毛布を撥ね上げて、ベッドの下に隠しておいた昨日の服に着替えていた。
初めて、未来を視ることができなかった人。もう一度会って確かめてみたい。
昨日と同じ轍を踏まないように、巡回の聖騎士をやりすごしてから、私は部屋を飛び出した。
昨晩、ルージャと歩いた道を、記憶を頼りにしながら辿る。
初めての人ごみとたくさんの露店に心を奪われていたせいで、記憶はだいぶ曖昧だったけれど、ルージャは複雑な小道には入らなかったので、迷うことはなさそうだ。
今日も昨日と同じく街は盛況、もしかしたら昨晩よりも賑わっているかもしれない。世界中の人がここに集まっているのではないかと思うほどだ。
ルージャもこの喧騒のどこかにいるのだろうか。宿をとっているとは言っていたけれど、訪ねていっても彼が部屋でおとなしく過ごしているとは考えられない。好奇心は旺盛そうだったし、露店で出会う初対面の相手とも、気軽に声をかけあっていたもの。
(あの人は、私とは対極の存在だ――)
賞金稼ぎをしていると言っていたけれど、自分の力で生きている彼はとても自由に見えた。誰からの制約も受けず、好きなところへ行き、自分の意思で生きている。
もちろん、私はルージャのごく一面しか見ていないけれど、一緒にいた短い時間でも彼の生き生きした姿に憧憬を抱いた。
それに比べ、私は聖女だ預言姫だと敬われてはいても、人と関わることを許されず、自分の思いを口にすることもできず、カイザール大司教の都合で生かされているだけの人形のようなものだ。親しく軽口を交わせる相手もいない。
私ほど孤独で淋しい人間はいないのではないだろうか――そんな風に思えてきて、無性にやるせなかった。大勢の中にいればいるほど、自分がひとりきりだということを思い知らされるようで。
暗い思考にとりつかれて、うつむき加減に歩いていたのが悪かったのかもしれない。真正面から人にぶつかって、その反動で尻もちをついてしまった。
「あ……」
今、何かが視えた気がして、私は顔を上げた。触れたのがごく一瞬のことだったから、よく視えなかったけど……
「こりゃとんだ別嬪じゃねえか。立てるか?」
赤ら顔の酔っぱらいが、私の頭上から酒臭い息を吹きかけてきた。手には酒壺を持っていて、すっかり出来上がっているようだ。
「ご、ごめんなさい」
差し出されたごっつい手には触れず、後ずさりしながら立ち上がろうとした。彼の持つただならぬ雰囲気に尻込みしてしまったのだ。こわもての巨漢で、どこか荒んだ空気を持つ彼は、荒事に縁のない生活をしてきた私にとって、存在そのものがとても怖かった。
でも、その手は逃げる私の手首を強引につかんで立ち上がらせる。
「せっかく手を貸してやってんのに、無視たぁひでえじゃねえか、お嬢ちゃん」
これまで関わったことのない部類の男だ。酔っぱらいという生物を見たのは昨日の酒場が初めてだったし、ましてや話しかけられたのも初めてだ。
「人の厚意を無下にするのはどうかと思うぜ」
ぐっと腰を抱き寄せられて、顔を近づけられる。嫌悪感が込み上げたけど、自分の身の心配はしていなかった。なぜなら――
「今すぐ放してください。そうしないと――」
「そうしないと、なんだってんだ? 衛兵でも呼ぶってか」
「だって、あなた殴られて、地面の上にひっくり返ることになりますし」
既に視えた未来。ほんの数分後の未来だけど、確かに私の目は捉えていたのだ、この酔っぱらいが地面に横たわる姿を。
案の定、私の手をつかんだ男の手が、誰かにつかみ返された。そのまま強引に腕をねじりあげられ、男は大きく叫ぶ。
「いて、いてて!」
「汚い手で触らないでもらおうか」
私の背後から伸びてきた腕を辿っていくと、そこにはルージャがいた。伸びた前髪の間から、黒い瞳が剣呑そうな光を宿して、目の前の酔っぱらいを睨んでいる。
「小僧が!」
酔漢が見た目よりも素早い動きで握り拳を作り、ルージャに殴りかかった。でも、ルージャはそれを手のひらで受け止めてしまう。この酔漢に比べたら、ルージャはかなり細身で、とても力ではかなわなそうなのに。
「おっと、おまえさんの顔、どこかで見たことあるぞ」
ルージャが巨漢の顔を下からじろじろ見ている。今にも殴られてしまいそうな距離に、私のほうが恐れをなしてしまうけれど、彼はいたって自然体だ。
「あんだとぉ?」
「ああ、思い出した。賞金首のディアス・ロードンだな!」
その名をルージャが口にした瞬間、酔漢が酔漢ではなくなった。どうやら一気に酔いが醒めたらしい。理性的な顔になると、ルージャに握られている拳を力任せに抜き、ふたたび彼に殴りかかる。
そうか、ルージャは賞金稼ぎだと言っていた。賞金首はすなわち、彼の稼ぎの源だ。
ルージャはそれを難なくよけると、均衡を崩した男の横っ面に、力任せに拳を叩き入れた。男はよろめきつつも、すぐに反撃する。
自分よりも体格のいい相手だというのに、ルージャは恐れる気配も見せず、なめらかな身体さばきで、相手の反撃を受け流した。
何度か拳の応酬があったけど、男の拳がルージャの身体をかすめることは一度もなかった。かわりに、ルージャの拳は頬や腹部に幾度となく命中し、顎を殴り上げたところで男は地面にどうっと横たわった。
私が視た、彼の未来そのものだ。
いつの間にかまわりには人だかりができていて、やんや、やんやの喝采が起きている。こんな喧嘩沙汰も街の人々にとっては余興のひとつでしかないようだ。
「兄ちゃんやるじゃねえか!」
「よ、色男!」
次々と称賛を浴びて、ルージャは手を上げてそれに応えていたけど、仰向けに倒れた巨漢の傍に屈んで耳元に何事かを告げると、私の手をつかんでその場を早足で立ち去った。
「ありがとうございました」
私の手をぎゅっと握っているルージャの大きな手をみつめながら、私は彼の背中に礼を言った。
(視えない――ルージャのこと、何も)
あの酔っぱらいのことはちゃんと視えたのに。この人の未来はやっぱり視ることができないんだ。
「あの、さっきの人、賞金首なんでしょう? あのままにしておいていいんですか?」
賞金首を見逃してしまったら、彼の生活に関わるのではないだろうか。
「ああ、いいんだよ。カーニバルの間は賞金稼ぎは休業。祭りのときに衛視に突き出すなんて無粋だし、換金所にはそもそも誰もいやしないよ」
言われてみればそうだけど、何か悪いことをしたから賞金をかけられているのだろうに、放置でいいのかしら……
「それにしてもびっくりした。人だかりができてるから何事かと思ったら、まさかレイラがいるなんてな」
いや、今は賞金首のことより、自分のことだ。まさか、昨日の今日でルージャに再会できるなんて、本当に運命の人だったりして。なんだか無性にうれしくなってしまう。
「私、あなたにもう一度会いたくなって、それで……」
二晩続けての脱走は、さすがに危険ではないかという不安もあったけど、いてもたってもいられなかったから。
ふいにルージャが立ち止まり、私の手を放して振り返った。
「レイラのそれは、天然? それとも計算ずくなのか?」
「は? え?」
言われている意味がわからなくて、じっとルージャの顔を見ると、彼はすぐに苦笑して私の頭を撫でまわした。
鋭そうな顔立ちをしているのに、私を見る彼の黒い瞳はやさしくて。そんなルージャを見ていると、胸が締めつけられるように苦しくなる。
「こんなに早く来てくれるとは思わなかったから、うれしいよ。けど、そんなにしょっちゅう抜け出してきて、大丈夫なのか?」
「たぶん大丈夫。カーニバル期間中は神殿も忙しくて、修道女たちもお手伝いに駆り出されてるし」
「レイラは手伝わなくていいのか?」
しまった、余計なことを言ってしまった。あまり神殿のことを口にしないほうがいい。
「昼間手伝ってるから大丈夫なんです」
「ふうん。でも昨晩もあまり寝てないだろ? 身体壊すぜ」
「すこしくらい大丈夫。それよりも、よかったらちょっと歩きませんか? ルージャさんに約束や用事がなければ……」
そっと彼の手に自分の手を重ねてみる。やっぱり何も視えない。この人は、私にとって特別なのだろうか。それとも、たまたま彼が特殊な体質なのだろうか。
「もちろん。もし用事があっても、こっちを優先するよ。それからさん付けはいらない。ルージャって呼んで」
重ねた手を握られ、心臓がドキッと跳ね上がる。ルージャの手はあたたかくて、ずっと握っていても大丈夫だという安心感に満ちていた。
この人なら、私を不安から救ってくれるのではないだろうか――
思わずルージャの手を握り返して、深く息をつく。
「もしかして、さっきの喧嘩で怯えさせた?」
「え?」
私がため息をついたせいか、ルージャが心配そうな顔でこちらを見下ろしていた。
「ずっと神殿で過ごしてきたんだろ? 喧嘩沙汰なんか目の前で見せられたら、そりゃ驚くよな。悪かったよ」
「そんなことない! びっくりはしたけど、ルージャ、強くてとってもかっこよかった! 助けてもらえてうれしかったし」
思いがけないことを言われてあわてて言い訳すると、ルージャは自分の口元を押さえた。なんだろう、彼の顔が心なしか赤い気がする。
「あのさ、レイラ。そういうこと、男に軽々しく口にすんなよ」
「そういうことって? 思ったことを言っただけよ?」
「……」
頭をかきつつ、ルージャは深いため息をついた。なんでそこでため息をつかれるんだろう?
「と、とにかく歩こうか。こんな道のど真ん中で突っ立っててもしょうがない」
私の手を引いてルージャがスタスタと歩き出した。背が高くて脚も長いので、かなりの早足にならないとついていけないほどだけど、なんだかその後ろ姿が照れているように見えて、頬が緩んでしまった。
そのまま、昨日よりもずっと遠く、大通りの向こうまで歩くと、噴水のある広場に出た。
たくさんのランプで照らされた広場では、道化師の姿をしたリュート弾きが陽気な曲を奏で、東方風の衣装を着た踊り子たちが柔らかな身体を誇るように舞っている。
そんな喧騒の中、噴水の縁に腰を下ろすと、ルージャが屋台で買ってきたティパをくれた。白くて平べったいパンに野菜や肉を挟んだもので、ミルガルデでは朝食や軽食として好まれているらしい。
「昨日からごちそうになりっぱなしで、ごめんなさい。ルージャに会いたくて押しかけてきちゃったけど、ただの迷惑にしかなってなくて」
「ああ、君のそれは天然のほうだな」
「はあ……?」
苦笑しながらそう言って、ルージャはティパにかぶりついた。
「こんなのは小銭で買えるけど、レイラにはいくら金を積んでも会えないからな。気にすんなって」
「ありがとう。それにしても、ルージャって本当に強いのね、あんな大きな人相手に全然負けないなんて。賞金稼ぎって言ってたものね。剣が得意なの?」
「剣でも斧でも拳でも。必要とあらば舌戦だって負けないけどな、他人に負けるのは嫌いだ。けど、レイラには軽蔑されるんじゃないかと思ったよ」
「軽蔑? どうして?」
「ラキムといえば大地神、豊穣の神さまだろ。殺生なんてもってのほかだ。殴り合い、下手すりゃ殺し合いをしてる俺は、君には野蛮に映るんだろうなってさ」
「そんなことない。だって、努力して得た力でしょう? 使い方次第では悪い力にもなりうるけど、ルージャはきっとそれを悪いことには使っていないと思うし」
私みたいに何の努力もせずに得た、それも他人の未来を盗み見るようなひどい能力に比べたら、彼の特技は尊いものにしか思えない。
「修道女の君にそう言ってもらえると救われるな」
大きな手に包み込まれるように頭を撫でられると、無性に恥ずかしくなってうつむいてしまう。
「そういや修道女って、毎日どんな生活してるんだ?」
「えっと、礼拝したり、聖典を読んだりとか……お掃除や菜園の管理でしょ、それから……」
一般の修道女が日常的にやっていることを必死に思い出す。それに比べて、私の日常は驚くほど中身がない。形だけの礼拝に神殿関係の書物を読んだり、大司教が連れてくるお客の未来をときどき視たり。たったそれだけ。
「ルージャは普段どんなことをしているの?」
「俺は……旅しながら賞金首の情報集めに奔走してるかな」
そう言いながらも、なぜかルージャの目が泳いでいる。その理由を確かめようとルージャの黒い瞳を覗き込んだら、彼は降参したように手を上げた。
「ごめん、かっこいいこと言ったけど、仕事がないときは街や酒場をブラブラしてるだけの遊び人です……」
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