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第二章:氷壁に触れる体温、芽生える「毒」
結城の「弱い本音」と小春の受け止め方
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結城の内面で、佐伯小春に対する、抗いがたい「欲」と、それを否定しようとする理性との激しい戦いが繰り広げられる中、プロジェクトは依然として、容赦なく進行していた。締め切りは迫り、要求されるクオリティは高い。結城は、自らの内面の混乱を押し殺すかのように、あるいは、それから逃れるかのように、以前にも増して、ワーカホリックなまでに仕事に没頭した。睡眠時間を削り、食事もデスクで簡単なもので済ませ、週末返上でオフィスに籠ることも珍しくなかった。彼のその狂気的なまでの働きぶりは、周囲の人間を鼓舞すると同時に、どこか近寄りがたい、常軌を逸した雰囲気を醸し出していた。
そんな日々が続いた、ある金曜日の深夜。重要な中間報告書の最終確認作業が、ようやく終わろうとしていた。他のメンバーはとっくに帰宅し、ネクストリーム社の広大なオフィスフロアには、煌々と照らされた一角を除いて、深い静寂と闇が広がっていた。残っているのは、結城と、そして、彼が指示した最終チェック作業のために、健気にも(あるいは、ただ断れなかっただけか)最後まで付き合っていた小春の二人だけだった。
窓の外には、眠らない都市、東京の夜景が広がっている。無数の光の点が、まるで地上に散りばめられた星屑のように輝いているが、今の結城の目には、それはただの、感情のない、空虚な光の集合体にしか見えなかった。連日の無理が祟り、彼の体は鉛のように重く、思考も鈍麻しているのを感じていた。完璧にコントロールされているはずの彼の精神にも、普段なら決して見せないはずの、疲労と、焦燥と、そして、もしかしたら、この果てしない戦いに対する、深い虚無感のようなものが、濃い影を落としていたのかもしれない。彼の傍らには、空になったエナジードリンクの缶が、何本も転がっていた。
「……これで、ひとまず、今日の作業は完了です」 小春が、安堵の息を漏らしながら、しかしどこか遠慮がちな声で言った。彼女もまた、目の下に濃い隈を作り、顔色は紙のように白かった。それでも、やり遂げたという達成感が、その表情にわずかな光を与えているように見えた。 「そうか……。ご苦労だったな」 結城は、モニターから目を離さずに、低い、掠れた声で答えた。感謝の言葉を口にしたのは、もはや無意識の習慣に近いものだったのかもしれない。 小春は、しばらくの間、黙って結城の横顔を見ていた。彼が、普段の、鎧を纏ったような姿とは少し違う、明らかに疲弊しきった様子であることに気づいたのだろう。彼女は、何か言おうか言うまいか、少し迷うような素振りを見せた後、意を決したように、静かに口を開いた。 「あの……結城社長は、どうして、そんなに……頑張れるんですか? 社長さんなのに、誰よりも働いていらっしゃって……。もちろん、すごいことだと思うんですけど、なんだか、見ていて……少し、心配になります」 それは、仕事の能力や成果に対する賞賛ではなく、彼の、人間としての在り方そのものに対する、素朴で、そして真っ直ぐな問いかけだった。そして、その問いは、結城が、これまでの人生で、おそらく誰からも投げかけられたことのない種類のものだった。人々は、彼の成功や、能力や、富を賞賛し、羨望し、あるいは嫉妬し、利用しようとする。しかし、彼の「頑張り」の裏にあるかもしれない、痛みや、孤独や、無理に、心を向ける者など、ほとんどいなかった。
結城は、彼女のその、あまりにも純粋で、そして核心を突くような問いに、一瞬、言葉を失った。なぜ、頑張るのか? そんなこと、考えたこともなかった。成功するため。負けないため。生き残るため。孤独から逃れるため。あるいは、ただ、そうしなければ、自分が自分でなくなってしまうような気がするから。様々な理由が、彼の頭の中を駆け巡ったが、どれも、彼女に伝えるべき言葉ではないような気がした。 彼は、自嘲するように、ふっと息を漏らした。そして、まるで独り言のように、あるいは、長年心の奥底に溜め込んでいた、黒い澱のようなものを、ほんの少しだけ吐き出すかのように、呟いた。 「……頑張る、か。そうしないと、価値がないからだろうな。俺みたいな人間は」 それは、彼の本心の一部であり、同時に、彼の深い自己不信と、成功しても決して満たされることのない渇望感の、偽らざる吐露だったのかもしれない。成功という名の鎧を脱いだ自分には、何の価値もない。愛される資格もない。だから、走り続けるしかないのだ、と。彼は、自分が口にした言葉の、その、あまりにも惨めで、救いようのない響きに、自ら驚き、そして後悔した。なぜ、こんなことを、よりによって、この女の前で口走ってしまったのか。弱みを見せることは、敗北を意味するはずなのに。
(小春 視点) 結城さんの口から、予想もしなかった言葉が、まるで零れ落ちるように発せられた。その声は、いつものような自信に満ちた響きではなく、どこか自嘲的で、そして、深い、深い疲労と、諦めのようなものが滲んでいるように聞こえた。「価値がない」。成功者として、誰もが羨むような地位にいるはずの彼が、自分自身をそんな風に言った。その言葉の裏にある、彼の、想像もつかないほどの孤独や、苦悩や、満たされなさが、痛いほど伝わってくるような気がした。どうして、こんな風に思うようになってしまったんだろう。彼がこれまで、どんな道を歩んできたんだろう。 何か、気の利いた言葉を返さなければ、と思った。励ましの言葉? 「そんなことないですよ、結城社長はすごいです」? いや、違う。それは、きっと、彼が一番聞きたくない言葉だ。それは、彼の本心に寄り添うことにはならない。同情? 「お辛いんですね」? それも、違う気がする。彼は、きっと、誰からの同情も求めていない。むしろ、侮辱だと感じるかもしれない。 じゃあ、どうすればいいんだろう。私は、ただ、彼の言葉の重さに、胸が締め付けられるような思いで、黙って彼の横顔を見つめていた。彼が、普段決して見せない、鎧の下の、傷ついた素顔を、ほんの一瞬だけ、私に見せてくれたような気がしたから。それを、無神経な言葉で、傷つけたくなかった。
(結城 視点) しまった、と思った。弱音を吐いてしまった。それも、最も見せてはならない相手に。彼女は、きっと、軽蔑しただろうか。あるいは、憐れんだだろうか。それとも、いつものように、的外れな、能天気な励ましの言葉でもかけてくるのだろうか。結城は、次に彼女が発するであろう言葉を、身構えるように待った。どんな反応であれ、それは彼にとって、不快なものになるだろうと覚悟していた。 しかし、彼女は、何も言わなかった。ただ、静かに、真っ直ぐに、結城の目を見ていた。その瞳には、軽蔑も、憐れみも、そして安っぽい同情も浮かんでいなかった。そこにあるのは、ただ、深い、静かな、そして、まるで全てを受け入れるかのような、穏やかな、人間的な共感の色だけだった。 しばらくの沈黙の後、彼女は、ゆっくりと、そして、とても優しい、落ち着いた声で、こう言った。 「……そう、なんですね。結城さんも、……結城さんにも、いろいろ、あるんですね」 それは、何の解決にもならない言葉だった。何の励ましにもなっていない。何の具体的なアドバイスも含まれていない。ただ、彼の、吐き出したばかりの、醜く、そして痛みに満ちた「本音」を、彼女が、ただ静かに、否定も肯定もせず、そのまま、受け止めた。ただ、それだけを示唆する言葉だった。綺麗事ではなく、無理なポジティブシンキングでもなく、ただ、事実として、彼の内にある闇や痛みを、彼女が認識し、そして、それを、ジャッジすることなく、そこに「在る」ことを、認めた。そういう響きが、そのシンプルな言葉には、込められているように感じられた。 そして、その瞬間、結城の心の中に、全く予期しなかった、そして、おそらくは生まれて初めて経験するような、温かく、そして解放されるような感覚が、静かに、しかし力強く、広がっていくのを感じた。まるで、長年、重い鎖で縛られていた心が、ふっと、その束縛から解き放たれたかのような、あるいは、暗く、冷たい、孤独な海の底から、一気に、温かい、光の差す水面へと引き上げられたかのような、そんな、圧倒的なまでの、安堵感。 彼は、誰かに、自分の弱さや、醜さや、孤独を、これほどまでに、ただ静かに、受け止めてもらったことなど、これまでの人生で一度もなかった。いつも、彼は強くあらねばならなかった。完璧であらねばならなかった。弱さを見せることは、即ち、他者に付け入る隙を与えることであり、敗北を意味した。だから、彼は常に、心を偽り、鎧を纏い、孤独という名の城壁の中に、自分自身を閉じ込めてきたのだ。 だが、今、目の前にいる、この、取るに足らないと思っていたはずの女は、彼の鎧の下にある、最も見られたくないはずの素顔を、ほんの一瞬、垣間見て、そして、それを、ただ静かに、受け止めたのだ。非難もせず、憐れみもせず、ただ、そこに在るものとして。 その、予想外の、そしてあまりにも温かい受容の感覚は、結城にとって、これまでのどんな成功体験よりも、どんな賞賛の言葉よりも、深く、そして強く、彼の魂を揺さぶった。それは、彼が心の奥底で、ずっと、渇望し続けていたものだったのかもしれない。ただ、誰かに、ありのままの自分を、受け入れてほしかったのだ、と。 もちろん、彼は、その感情を、すぐさま理性で否定しようとした。これは、極度の疲労とストレスが見せた、一時的な幻覚に過ぎない、と。感傷に浸っている場合ではない、と。だが、彼の心に残った、あの、予期せぬ安堵感と、心が救われたような温かい感覚は、あまりにもリアルで、否定しがたいものだった。 そして、彼は気づいた。佐伯小春という存在が、彼にとって、もはや単なる「気になる存在」や「厄介な変数」ではなく、もっと深く、もっと根源的なレベルで、彼自身を揺さぶり、そして、もしかしたら、変えてしまう可能性を持つ、唯一無二の存在になりつつあるのかもしれない、ということを。それは、彼が最も恐れていたはずの変化だったが、同時に、その変化の先に、彼がこれまで知らなかった、何か新しい、そして温かい世界が待っているのかもしれないという、微かな、しかし確かな希望のようなものを、感じさせずにはいられなかった。彼の氷の壁は、確実に、そして大きく、溶け始めていた。
そんな日々が続いた、ある金曜日の深夜。重要な中間報告書の最終確認作業が、ようやく終わろうとしていた。他のメンバーはとっくに帰宅し、ネクストリーム社の広大なオフィスフロアには、煌々と照らされた一角を除いて、深い静寂と闇が広がっていた。残っているのは、結城と、そして、彼が指示した最終チェック作業のために、健気にも(あるいは、ただ断れなかっただけか)最後まで付き合っていた小春の二人だけだった。
窓の外には、眠らない都市、東京の夜景が広がっている。無数の光の点が、まるで地上に散りばめられた星屑のように輝いているが、今の結城の目には、それはただの、感情のない、空虚な光の集合体にしか見えなかった。連日の無理が祟り、彼の体は鉛のように重く、思考も鈍麻しているのを感じていた。完璧にコントロールされているはずの彼の精神にも、普段なら決して見せないはずの、疲労と、焦燥と、そして、もしかしたら、この果てしない戦いに対する、深い虚無感のようなものが、濃い影を落としていたのかもしれない。彼の傍らには、空になったエナジードリンクの缶が、何本も転がっていた。
「……これで、ひとまず、今日の作業は完了です」 小春が、安堵の息を漏らしながら、しかしどこか遠慮がちな声で言った。彼女もまた、目の下に濃い隈を作り、顔色は紙のように白かった。それでも、やり遂げたという達成感が、その表情にわずかな光を与えているように見えた。 「そうか……。ご苦労だったな」 結城は、モニターから目を離さずに、低い、掠れた声で答えた。感謝の言葉を口にしたのは、もはや無意識の習慣に近いものだったのかもしれない。 小春は、しばらくの間、黙って結城の横顔を見ていた。彼が、普段の、鎧を纏ったような姿とは少し違う、明らかに疲弊しきった様子であることに気づいたのだろう。彼女は、何か言おうか言うまいか、少し迷うような素振りを見せた後、意を決したように、静かに口を開いた。 「あの……結城社長は、どうして、そんなに……頑張れるんですか? 社長さんなのに、誰よりも働いていらっしゃって……。もちろん、すごいことだと思うんですけど、なんだか、見ていて……少し、心配になります」 それは、仕事の能力や成果に対する賞賛ではなく、彼の、人間としての在り方そのものに対する、素朴で、そして真っ直ぐな問いかけだった。そして、その問いは、結城が、これまでの人生で、おそらく誰からも投げかけられたことのない種類のものだった。人々は、彼の成功や、能力や、富を賞賛し、羨望し、あるいは嫉妬し、利用しようとする。しかし、彼の「頑張り」の裏にあるかもしれない、痛みや、孤独や、無理に、心を向ける者など、ほとんどいなかった。
結城は、彼女のその、あまりにも純粋で、そして核心を突くような問いに、一瞬、言葉を失った。なぜ、頑張るのか? そんなこと、考えたこともなかった。成功するため。負けないため。生き残るため。孤独から逃れるため。あるいは、ただ、そうしなければ、自分が自分でなくなってしまうような気がするから。様々な理由が、彼の頭の中を駆け巡ったが、どれも、彼女に伝えるべき言葉ではないような気がした。 彼は、自嘲するように、ふっと息を漏らした。そして、まるで独り言のように、あるいは、長年心の奥底に溜め込んでいた、黒い澱のようなものを、ほんの少しだけ吐き出すかのように、呟いた。 「……頑張る、か。そうしないと、価値がないからだろうな。俺みたいな人間は」 それは、彼の本心の一部であり、同時に、彼の深い自己不信と、成功しても決して満たされることのない渇望感の、偽らざる吐露だったのかもしれない。成功という名の鎧を脱いだ自分には、何の価値もない。愛される資格もない。だから、走り続けるしかないのだ、と。彼は、自分が口にした言葉の、その、あまりにも惨めで、救いようのない響きに、自ら驚き、そして後悔した。なぜ、こんなことを、よりによって、この女の前で口走ってしまったのか。弱みを見せることは、敗北を意味するはずなのに。
(小春 視点) 結城さんの口から、予想もしなかった言葉が、まるで零れ落ちるように発せられた。その声は、いつものような自信に満ちた響きではなく、どこか自嘲的で、そして、深い、深い疲労と、諦めのようなものが滲んでいるように聞こえた。「価値がない」。成功者として、誰もが羨むような地位にいるはずの彼が、自分自身をそんな風に言った。その言葉の裏にある、彼の、想像もつかないほどの孤独や、苦悩や、満たされなさが、痛いほど伝わってくるような気がした。どうして、こんな風に思うようになってしまったんだろう。彼がこれまで、どんな道を歩んできたんだろう。 何か、気の利いた言葉を返さなければ、と思った。励ましの言葉? 「そんなことないですよ、結城社長はすごいです」? いや、違う。それは、きっと、彼が一番聞きたくない言葉だ。それは、彼の本心に寄り添うことにはならない。同情? 「お辛いんですね」? それも、違う気がする。彼は、きっと、誰からの同情も求めていない。むしろ、侮辱だと感じるかもしれない。 じゃあ、どうすればいいんだろう。私は、ただ、彼の言葉の重さに、胸が締め付けられるような思いで、黙って彼の横顔を見つめていた。彼が、普段決して見せない、鎧の下の、傷ついた素顔を、ほんの一瞬だけ、私に見せてくれたような気がしたから。それを、無神経な言葉で、傷つけたくなかった。
(結城 視点) しまった、と思った。弱音を吐いてしまった。それも、最も見せてはならない相手に。彼女は、きっと、軽蔑しただろうか。あるいは、憐れんだだろうか。それとも、いつものように、的外れな、能天気な励ましの言葉でもかけてくるのだろうか。結城は、次に彼女が発するであろう言葉を、身構えるように待った。どんな反応であれ、それは彼にとって、不快なものになるだろうと覚悟していた。 しかし、彼女は、何も言わなかった。ただ、静かに、真っ直ぐに、結城の目を見ていた。その瞳には、軽蔑も、憐れみも、そして安っぽい同情も浮かんでいなかった。そこにあるのは、ただ、深い、静かな、そして、まるで全てを受け入れるかのような、穏やかな、人間的な共感の色だけだった。 しばらくの沈黙の後、彼女は、ゆっくりと、そして、とても優しい、落ち着いた声で、こう言った。 「……そう、なんですね。結城さんも、……結城さんにも、いろいろ、あるんですね」 それは、何の解決にもならない言葉だった。何の励ましにもなっていない。何の具体的なアドバイスも含まれていない。ただ、彼の、吐き出したばかりの、醜く、そして痛みに満ちた「本音」を、彼女が、ただ静かに、否定も肯定もせず、そのまま、受け止めた。ただ、それだけを示唆する言葉だった。綺麗事ではなく、無理なポジティブシンキングでもなく、ただ、事実として、彼の内にある闇や痛みを、彼女が認識し、そして、それを、ジャッジすることなく、そこに「在る」ことを、認めた。そういう響きが、そのシンプルな言葉には、込められているように感じられた。 そして、その瞬間、結城の心の中に、全く予期しなかった、そして、おそらくは生まれて初めて経験するような、温かく、そして解放されるような感覚が、静かに、しかし力強く、広がっていくのを感じた。まるで、長年、重い鎖で縛られていた心が、ふっと、その束縛から解き放たれたかのような、あるいは、暗く、冷たい、孤独な海の底から、一気に、温かい、光の差す水面へと引き上げられたかのような、そんな、圧倒的なまでの、安堵感。 彼は、誰かに、自分の弱さや、醜さや、孤独を、これほどまでに、ただ静かに、受け止めてもらったことなど、これまでの人生で一度もなかった。いつも、彼は強くあらねばならなかった。完璧であらねばならなかった。弱さを見せることは、即ち、他者に付け入る隙を与えることであり、敗北を意味した。だから、彼は常に、心を偽り、鎧を纏い、孤独という名の城壁の中に、自分自身を閉じ込めてきたのだ。 だが、今、目の前にいる、この、取るに足らないと思っていたはずの女は、彼の鎧の下にある、最も見られたくないはずの素顔を、ほんの一瞬、垣間見て、そして、それを、ただ静かに、受け止めたのだ。非難もせず、憐れみもせず、ただ、そこに在るものとして。 その、予想外の、そしてあまりにも温かい受容の感覚は、結城にとって、これまでのどんな成功体験よりも、どんな賞賛の言葉よりも、深く、そして強く、彼の魂を揺さぶった。それは、彼が心の奥底で、ずっと、渇望し続けていたものだったのかもしれない。ただ、誰かに、ありのままの自分を、受け入れてほしかったのだ、と。 もちろん、彼は、その感情を、すぐさま理性で否定しようとした。これは、極度の疲労とストレスが見せた、一時的な幻覚に過ぎない、と。感傷に浸っている場合ではない、と。だが、彼の心に残った、あの、予期せぬ安堵感と、心が救われたような温かい感覚は、あまりにもリアルで、否定しがたいものだった。 そして、彼は気づいた。佐伯小春という存在が、彼にとって、もはや単なる「気になる存在」や「厄介な変数」ではなく、もっと深く、もっと根源的なレベルで、彼自身を揺さぶり、そして、もしかしたら、変えてしまう可能性を持つ、唯一無二の存在になりつつあるのかもしれない、ということを。それは、彼が最も恐れていたはずの変化だったが、同時に、その変化の先に、彼がこれまで知らなかった、何か新しい、そして温かい世界が待っているのかもしれないという、微かな、しかし確かな希望のようなものを、感じさせずにはいられなかった。彼の氷の壁は、確実に、そして大きく、溶け始めていた。
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