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第二章:氷壁に触れる体温、芽生える「毒」
芽生える「欲」と内面の葛藤
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佐伯小春という存在は、結城 創にとって、もはや単なる「予測不能な変数」や「心を乱す異物」という、彼の論理的な思考フレームで分類できるカテゴリーには到底収まりきらない、さらに厄介で、理解不能で、そして何よりも危険なものへと、急速に変質しつつあった。彼の、長年にわたり鉄壁の自己規律と合理性によって完璧に制御されているはずだった内面の世界、その静謐な水面下に、これまで経験したことのない種類の、そして彼自身が最も忌み嫌い、潜在的な脅威として警戒してきたはずの感情が、まるで致死性の高い、未知の潜伏ウィルスのように、静かに、しかし確実に、増殖し、彼の思考と行動を侵食し始めていたのだ。それは、巷で語られるような、甘美で、心温まる「好意」や「恋愛感情」と呼ばれるものとは、明らかに異質な響きを持っていた。もっと生々しく、もっと衝動的で、そして、彼の本質——成功の裏に隠された孤独、渇望、そして支配欲——に深く根差した、ある種の抗いがたい「欲」と呼ぶべき、原始的な力だった。
(結城 視点) その衝動が、最初に明確な形をとって彼の意識を襲ったのは、些細な、そして日常的な出来事がきっかけだった。ある日の蒸し暑い午後、急なクライアントからの、それも無茶なスケジュールの修正依頼に対応するため、小春が外回りから慌ててオフィスに戻ってきた。外はアスファルトを焼くような初夏の強い日差しが容赦なく照りつけており、彼女は額にうっすらと玉のような汗を浮かべ、普段は白い頬を、まるで熟れた果実のように上気させていた。いつもは事務的に、きっちりと一つに結ばれている長い髪も、数本が汗で顔に張り付き、少しだけ息を切らせて、小さな肩で浅い呼吸を繰り返している。その、普段の、どこか垢抜けず、しかし常に整然として隙を見せないように努めている彼女の姿とは違う、ほんのわずかに乱れた、そしてそれ故に驚くほど無防備に見える様子。そして、上気した頬の、生命力に満ちた健康的な血色。それらが複合的に彼の視覚情報を処理する回路に入力された瞬間、結城は、まるで不意に高圧電流に触れたかのように、全身の血が逆流するかのような衝撃と共に、息を呑んだ。そして、次の刹那、彼の脳裏——彼の理性が支配する領域を完全にバイパスして——を、強烈な、そして全く予期しない、純粋な物理的衝動が、稲妻のように駆け巡ったのだ。 「(……触れたい)」 その、上気した、おそらくは熱を持っているであろう、滑らかな頬の肌に。汗で額に張り付いた、繊細な後れ毛の一筋に。わずかに開かれ、酸素を求めるように浅い呼吸を繰り返す、その、驚くほど柔らかそうで、そして挑発的なまでに無防備な唇に。 その衝動は、あまりにも原始的で、直接的で、そして彼の意志や理性とは全く無関係な、もっと深い、本能的な場所から、まるで地下水が突然噴出するように、唐突に湧き上がってきたかのようだった。彼は、生まれて初めて経験するような激しい混乱と、そんな獣のような衝動を抱いた自分自身に対する激しい自己嫌悪に襲われ、反射的に、まるで汚物でも見るかのように視線を逸らし、デスク上の無機質な数字が並ぶ資料に目を落とした。だが、彼の指先が微かに、しかし確実に震え、制御不能な心臓が、肋骨の内側で早鐘を打ち続けているのを、彼自身がはっきりと感じ取っていた。なんだ、これは? この、まるで何日も飲まず食わずで砂漠を彷徨った旅人が、目の前に現れたオアシスに対して抱くような、この、抗いがたい、暴力的なまでの渇望感は。佐伯小春に対して? この、何の変哲もない、むしろ彼の基準からすればマイナス評価しか下せないような女に対して? ありえない。断じて。
しかし、「ありえない」はずの衝動は、一度芽生えてしまうと、まるでしぶとい雑草のように、彼の意識の隙間を見つけては、再び顔を出した。 また別の日。珍しく、彼女が普段の、機能性だけを重視したような地味なビジネススーツではなく、柔らかい生成り色の、体のラインを拾いすぎない、しかし明らかに女性らしいシルエットを持つワンピースを着て出社してきたことがあった。おそらく、退勤後に何かプライベートな予定でもあるのだろう。もちろん、結城には全く関係のないことだ。彼の興味の対象外のはずだった。だが、いつもとは違う、その、どこか「女」を意識させる服装は、否応なく彼の視線を引きつけ、そして彼の内なる獣を再び刺激した。特に、彼女が床に落ちたペンを拾おうと、無意識に身を屈めた時、普段はスーツのジャケットやブラウスに隠されている、繊細なうなじから、肩甲骨にかけての、驚くほど華奢で、白い、滑らかなラインが、彼の網膜に、まるでスローモーションのように焼き付いた。そこには、彼が普段接している、ジムで鍛え上げられたモデルや、あるいは計算され尽くした高級ブランドのドレスを纏った、ある意味で見慣れた「商品としての女性美」とは全く違う種類の、もっと素朴で、無垢で、そしてそれ故に、妙に生々しく、心を掻き乱すような「女」そのものを感じさせた。そして、またしても、あの、抗いがたい衝動が、今度はもっと明確な輪郭を持って、彼の内側で鎌首をもたげた。 「(……独占したい。この、存在そのものを)」 この、まだ誰の色にも染まっていないような、まるで生まれたての雛鳥のような、危うげなまでの純粋さを、他の誰にも触れさせたくない。他の、どんな男の視線にも、決して晒したくない。自分の手の中にだけ、この世界から隔離して、安全な場所に閉じ込めておきたい。あるいは、もっと歪んだ言い方をすれば、まるで、世界で一匹しか発見されていない新種の、美しい、しかし極めて脆い蝶を捕獲し、ピンで留め、自分だけが永遠に鑑賞できる標本箱に、完璧な状態で収めてしまいたいと願うような、黒く、粘着質で、そして病的なまでの、歪んだ所有欲。それは、彼女という人間に対する敬意とはかけ離れた、対象をモノとして扱おうとする、危険な欲望だった。
これらの、突如として、そして繰り返し湧き上がる、肉体的で、そして独占的な「欲」は、結城にとって、自己矛盾であり、理解不能であると同時に、彼の築き上げてきた人生哲学そのものを脅かす、極めて危険なシグナルだった。彼は、これまでの人生において、感情、特に「恋愛」や「執着」と呼ばれる種類の、非合理的で、予測不能で、そしてしばしば自己や他者を破滅へと導く、制御不能なエネルギーを、最大の敵とみなし、意識的に排除し、常にコントロール下に置くことで、現在の成功と地位を、孤独と引き換えに掴み取ってきたのだ。女性との関係も、彼にとっては、常に、目的達成のための手段(ビジネス)、あるいは、一時的なストレス解消や、刺激と快楽を求めるだけの、割り切った、極めてドライなゲームに過ぎなかった。そこには、面倒な感情のやり取りも、束縛も、嫉妬も、そしておそらくは、互いの魂に触れ合うような、真の意味での愛情も存在しなかった。感情は、弱さであり、判断を誤らせるノイズであり、成功への最大の障害物でしかない。それが、彼が数々の、決して綺麗事だけでは済まなかったであろう経験と、おそらくは過去に深く傷ついた痛みを伴う体験から導き出し、自らに課してきた、揺るぎないはずの信条だった。感情に溺れた者は、必ず敗北する、と。
だのに、なぜだ? なぜ、よりによって、佐伯小春という、彼の持つ成功者のスペック——財力、容姿、知性、社会的地位——に、全く釣り合わないどころか、彼の基準からすれば、何の魅力も、何の取り柄もないように見える女に対してだけ、これほどの、まるでダムが決壊するかのような、理性を吹き飛ばすような、生々しい「欲」を感じてしまうのか? なぜ、彼の、どんな状況下でも冷静さを失わないはずの、完璧な自己コントロールと、冷徹なまでの合理性が、彼女という、たった一人の存在の前では、いとも簡単に、そして繰り返し崩壊してしまうのか? 過去に付き合った、どんなに美しく、知的で、魅力的な女性たちに対しても、決して感じたことのなかった、この、自分でも持て余すほどの、激しい感情の奔流は、いったい何なのだ?
その、彼を苛む疑問への答えの一部は、もしかしたら、皮肉なことに、彼女の持つ、あの、彼が最も軽蔑し、そして同時に、心の奥底では密かに渇望していたのかもしれない、「純粋さ」と、そして、彼が決して自分自身に許すことのなかった「温かさ」にあるのかもしれない、と彼は思い始めていた。彼の生きる、この東京という名の戦場は、常に、疑心暗鬼と、パワーゲームと、巧妙な嘘と、裏切りが渦巻く、冷たく、乾ききった場所だった。成功のためには、他人を駒として利用することも、蹴落とすことも厭わない。感情を押し殺し、心を厚い、冷たい鋼鉄の鎧で覆い、誰にも心を開かず、常に孤独でいなければ、この競争社会では生き残れない。そう信じて、彼は己を律し、そして実際に生き抜いてきた。 だが、佐伯小春は、全く違う。彼女の生きている世界は、もっとシンプルで、不器用で、しかし、驚くほど温かく、そして、おそらくは、彼がとうの昔に捨ててしまった、あるいは奪われてしまった、人間が本来持っているはずの、無垢な「光」に満ちているように、彼の目には映ったのだ。その、あまりにも自分とは対照的な、異質な、そして強烈な輝きが、彼の、成功と引き換えに闇に慣れきってしまった目を眩ませ、同時に、心の奥底の、最も暗く、冷たい場所に、固く封印していたはずの、彼自身も忘れていたはずの、根源的な渇望——ただ、誰かの温もりに触れたい、偽りのない光に焦がれたい、損得勘定なしに、ただ、誰かと繋がりたい——を、激しく、そして残酷なまでに刺激しているのかもしれない。それは、凍てつく冬の世界に閉じ込められた男が、窓の外に初めて見る、春の陽光に対するような、抗いがたい憧憬と、同時に、その光によって自分の闇が暴かれることへの恐怖が入り混じった感情だった。
しかし、問題は、そして彼を最も苦しめるのは、その芽生え始めた「欲」の、決して純粋とは言えない、その「質」にあった。それは、決して、物語に出てくるような、清らかで、美しく、相手の幸せを願うような、純粋な恋愛感情と呼べるものではなかったのだ。そこには、結城が本来的に持っている、シニカル(皮肉屋)で、人間不信で、傲慢で、そしてどこか屈折した、彼自身の「毒」が、まるで致死性の高い劇薬のように、色濃く、そして危険な形で混じり合っていたのだ。 彼女の純粋さに、抗いがたく惹かれながらも、同時に、その、穢れを知らない純粋さを、自分の手で汚してみたい、壊してみたい、という、まるでサディスティックな、倒錯した破壊衝動のようなもの。彼女の持つ、人を疑うことを知らないかのような温かさに触れたいと、心の底から願いながらも、その貴重な温かさを、自分だけのものとして独占し、他の誰にも、指一本触れさせたくないという、まるで子供のような、身勝手で、偏執的な独占欲。彼女の、目標に向かってひたむきに進む真っ直ぐさを、眩しく感じながらも、その脆い真っ直ぐさが、いつかこの、嘘と欲望に満ちた東京という街の汚濁に染まり、傷つき、そして結局は、自分と同じように、打算的で、冷めた、現実的な人間になってしまうのではないかという、奇妙な恐れと、そして、そうなってほしいような、そうなってほしくないような、救いようのないアンビバレントな感情。 それは、まるで、ガラスケースの中に飾られた、一点物の、完璧な宝石を見つけ、その比類なき美しさに心を奪われながらも、同時に、それをケースから取り出し、自分の指にはめてみたい、しかし、自分の指にはめた瞬間にその輝きが失われるのではないかと恐れ、結局は、誰も触れることのできない金庫の奥深くに、永遠にしまい込んでしまいたいと願うような、矛盾に満ちた、身勝手で、そして極めて危うい、エゴイスティックな欲望の形だった。彼の内側で、急速に育ち始めたこの「欲」は、決して彼女を幸せへと導くような、健全な愛情とは程遠い、むしろ、彼女を、彼の深い孤独や、満たされない渇望感を埋めるための、美しい「道具」として求めているような、そんな危険極まりない「毒気」を、確かに、そして色濃く孕んでいた。
結城は、自分の内面で、日夜繰り広げられる、この激しい葛藤に、もはや無視できないほどの、深い苦悩と混乱を感じていた。理性と、本能。自己コントロールと、制御不能な衝動。彼が築き上げてきた、冷徹で合理的な自己イメージと、突如として現れた、熱を帯びた未知の感情。光に似た何かを求める心と、同時にそれを汚し、支配しようとする、彼自身の内に潜む闇。それらが、彼の意識の中で、絶えず激しくぶつかり合い、まるで内戦のように、彼の精神を消耗させ、火花を散らしていた。 彼は、必死で、この、まるで自分の体の一部ではないかのように感じられる、厄介で、危険な感情を、再び理性と意志の力でコントロール下に置こうと、あらゆる試みを繰り返した。仕事の量をさらに増やし、物理的に彼女のことを考える時間を奪おうとした。週末には、他の、彼にとって「安全」で、感情的な繋がりを一切必要としない、割り切った関係の女性たちと、意識的に時間を過ごすことで、この、佐伯小春に対する異常なまでの執着を、相対化し、薄めようともした。あるいは、オフィスで彼女と顔を合わせた際には、敢えて以前のような、突き放すような、冷たい、合理的な態度を貫くことで、自分の内側に引かれたはずの境界線を、自分自身に、そしておそらくは彼女にも、再確認させようともした。 だが、それらの、彼がこれまで有効だと信じてきた自己制御の試みは、こと佐伯小春に対しては、ほとんど、あるいは全くと言っていいほど、効果を発揮しなかった。むしろ、意識的に抑えつけようとすればするほど、その「欲」は、まるで地底深くで圧力を受けたマグマのように、彼の内側で、さらにその熱量と衝動性を増し、いつ噴出してもおかしくないような状態で、出口を求めて激しく蠢くかのようだった。佐伯小春という存在は、もはや、彼の理性や計算、あるいは過去の経験則だけでは到底制御できない、特別な、そしておそらくは、彼の人生そのものを左右しかねない、運命的な意味を持って、彼の領域に深く侵入し始めていたのだ。 彼は、自分が、この、もはや自分自身のものとは思えないほど強大になった、抗いがたい「欲」と、それに伴う、自己破壊的ですらある激しい内面の葛藤に、これから、いったいどう向き合っていけばいいのか、全く見当もつかなかった。ただ、このままこの感情を放置すれば、それは、いずれ、自分自身を、そして、もしかしたら、あの何も知らない、純粋な彼女をも、取り返しのつかない破滅へと導くかもしれないという、漠然とした、しかし肌で感じるような確かな予感だけが、冷たい、濃い影のように、彼の心に重く、そして不気味に纏わりついていた。それは、甘美な、しかし確実に死に至る毒のように、彼の魂を、少しずつ、しかし確実に、蝕み始めているのかもしれない、と彼は感じていた。
(結城 視点) その衝動が、最初に明確な形をとって彼の意識を襲ったのは、些細な、そして日常的な出来事がきっかけだった。ある日の蒸し暑い午後、急なクライアントからの、それも無茶なスケジュールの修正依頼に対応するため、小春が外回りから慌ててオフィスに戻ってきた。外はアスファルトを焼くような初夏の強い日差しが容赦なく照りつけており、彼女は額にうっすらと玉のような汗を浮かべ、普段は白い頬を、まるで熟れた果実のように上気させていた。いつもは事務的に、きっちりと一つに結ばれている長い髪も、数本が汗で顔に張り付き、少しだけ息を切らせて、小さな肩で浅い呼吸を繰り返している。その、普段の、どこか垢抜けず、しかし常に整然として隙を見せないように努めている彼女の姿とは違う、ほんのわずかに乱れた、そしてそれ故に驚くほど無防備に見える様子。そして、上気した頬の、生命力に満ちた健康的な血色。それらが複合的に彼の視覚情報を処理する回路に入力された瞬間、結城は、まるで不意に高圧電流に触れたかのように、全身の血が逆流するかのような衝撃と共に、息を呑んだ。そして、次の刹那、彼の脳裏——彼の理性が支配する領域を完全にバイパスして——を、強烈な、そして全く予期しない、純粋な物理的衝動が、稲妻のように駆け巡ったのだ。 「(……触れたい)」 その、上気した、おそらくは熱を持っているであろう、滑らかな頬の肌に。汗で額に張り付いた、繊細な後れ毛の一筋に。わずかに開かれ、酸素を求めるように浅い呼吸を繰り返す、その、驚くほど柔らかそうで、そして挑発的なまでに無防備な唇に。 その衝動は、あまりにも原始的で、直接的で、そして彼の意志や理性とは全く無関係な、もっと深い、本能的な場所から、まるで地下水が突然噴出するように、唐突に湧き上がってきたかのようだった。彼は、生まれて初めて経験するような激しい混乱と、そんな獣のような衝動を抱いた自分自身に対する激しい自己嫌悪に襲われ、反射的に、まるで汚物でも見るかのように視線を逸らし、デスク上の無機質な数字が並ぶ資料に目を落とした。だが、彼の指先が微かに、しかし確実に震え、制御不能な心臓が、肋骨の内側で早鐘を打ち続けているのを、彼自身がはっきりと感じ取っていた。なんだ、これは? この、まるで何日も飲まず食わずで砂漠を彷徨った旅人が、目の前に現れたオアシスに対して抱くような、この、抗いがたい、暴力的なまでの渇望感は。佐伯小春に対して? この、何の変哲もない、むしろ彼の基準からすればマイナス評価しか下せないような女に対して? ありえない。断じて。
しかし、「ありえない」はずの衝動は、一度芽生えてしまうと、まるでしぶとい雑草のように、彼の意識の隙間を見つけては、再び顔を出した。 また別の日。珍しく、彼女が普段の、機能性だけを重視したような地味なビジネススーツではなく、柔らかい生成り色の、体のラインを拾いすぎない、しかし明らかに女性らしいシルエットを持つワンピースを着て出社してきたことがあった。おそらく、退勤後に何かプライベートな予定でもあるのだろう。もちろん、結城には全く関係のないことだ。彼の興味の対象外のはずだった。だが、いつもとは違う、その、どこか「女」を意識させる服装は、否応なく彼の視線を引きつけ、そして彼の内なる獣を再び刺激した。特に、彼女が床に落ちたペンを拾おうと、無意識に身を屈めた時、普段はスーツのジャケットやブラウスに隠されている、繊細なうなじから、肩甲骨にかけての、驚くほど華奢で、白い、滑らかなラインが、彼の網膜に、まるでスローモーションのように焼き付いた。そこには、彼が普段接している、ジムで鍛え上げられたモデルや、あるいは計算され尽くした高級ブランドのドレスを纏った、ある意味で見慣れた「商品としての女性美」とは全く違う種類の、もっと素朴で、無垢で、そしてそれ故に、妙に生々しく、心を掻き乱すような「女」そのものを感じさせた。そして、またしても、あの、抗いがたい衝動が、今度はもっと明確な輪郭を持って、彼の内側で鎌首をもたげた。 「(……独占したい。この、存在そのものを)」 この、まだ誰の色にも染まっていないような、まるで生まれたての雛鳥のような、危うげなまでの純粋さを、他の誰にも触れさせたくない。他の、どんな男の視線にも、決して晒したくない。自分の手の中にだけ、この世界から隔離して、安全な場所に閉じ込めておきたい。あるいは、もっと歪んだ言い方をすれば、まるで、世界で一匹しか発見されていない新種の、美しい、しかし極めて脆い蝶を捕獲し、ピンで留め、自分だけが永遠に鑑賞できる標本箱に、完璧な状態で収めてしまいたいと願うような、黒く、粘着質で、そして病的なまでの、歪んだ所有欲。それは、彼女という人間に対する敬意とはかけ離れた、対象をモノとして扱おうとする、危険な欲望だった。
これらの、突如として、そして繰り返し湧き上がる、肉体的で、そして独占的な「欲」は、結城にとって、自己矛盾であり、理解不能であると同時に、彼の築き上げてきた人生哲学そのものを脅かす、極めて危険なシグナルだった。彼は、これまでの人生において、感情、特に「恋愛」や「執着」と呼ばれる種類の、非合理的で、予測不能で、そしてしばしば自己や他者を破滅へと導く、制御不能なエネルギーを、最大の敵とみなし、意識的に排除し、常にコントロール下に置くことで、現在の成功と地位を、孤独と引き換えに掴み取ってきたのだ。女性との関係も、彼にとっては、常に、目的達成のための手段(ビジネス)、あるいは、一時的なストレス解消や、刺激と快楽を求めるだけの、割り切った、極めてドライなゲームに過ぎなかった。そこには、面倒な感情のやり取りも、束縛も、嫉妬も、そしておそらくは、互いの魂に触れ合うような、真の意味での愛情も存在しなかった。感情は、弱さであり、判断を誤らせるノイズであり、成功への最大の障害物でしかない。それが、彼が数々の、決して綺麗事だけでは済まなかったであろう経験と、おそらくは過去に深く傷ついた痛みを伴う体験から導き出し、自らに課してきた、揺るぎないはずの信条だった。感情に溺れた者は、必ず敗北する、と。
だのに、なぜだ? なぜ、よりによって、佐伯小春という、彼の持つ成功者のスペック——財力、容姿、知性、社会的地位——に、全く釣り合わないどころか、彼の基準からすれば、何の魅力も、何の取り柄もないように見える女に対してだけ、これほどの、まるでダムが決壊するかのような、理性を吹き飛ばすような、生々しい「欲」を感じてしまうのか? なぜ、彼の、どんな状況下でも冷静さを失わないはずの、完璧な自己コントロールと、冷徹なまでの合理性が、彼女という、たった一人の存在の前では、いとも簡単に、そして繰り返し崩壊してしまうのか? 過去に付き合った、どんなに美しく、知的で、魅力的な女性たちに対しても、決して感じたことのなかった、この、自分でも持て余すほどの、激しい感情の奔流は、いったい何なのだ?
その、彼を苛む疑問への答えの一部は、もしかしたら、皮肉なことに、彼女の持つ、あの、彼が最も軽蔑し、そして同時に、心の奥底では密かに渇望していたのかもしれない、「純粋さ」と、そして、彼が決して自分自身に許すことのなかった「温かさ」にあるのかもしれない、と彼は思い始めていた。彼の生きる、この東京という名の戦場は、常に、疑心暗鬼と、パワーゲームと、巧妙な嘘と、裏切りが渦巻く、冷たく、乾ききった場所だった。成功のためには、他人を駒として利用することも、蹴落とすことも厭わない。感情を押し殺し、心を厚い、冷たい鋼鉄の鎧で覆い、誰にも心を開かず、常に孤独でいなければ、この競争社会では生き残れない。そう信じて、彼は己を律し、そして実際に生き抜いてきた。 だが、佐伯小春は、全く違う。彼女の生きている世界は、もっとシンプルで、不器用で、しかし、驚くほど温かく、そして、おそらくは、彼がとうの昔に捨ててしまった、あるいは奪われてしまった、人間が本来持っているはずの、無垢な「光」に満ちているように、彼の目には映ったのだ。その、あまりにも自分とは対照的な、異質な、そして強烈な輝きが、彼の、成功と引き換えに闇に慣れきってしまった目を眩ませ、同時に、心の奥底の、最も暗く、冷たい場所に、固く封印していたはずの、彼自身も忘れていたはずの、根源的な渇望——ただ、誰かの温もりに触れたい、偽りのない光に焦がれたい、損得勘定なしに、ただ、誰かと繋がりたい——を、激しく、そして残酷なまでに刺激しているのかもしれない。それは、凍てつく冬の世界に閉じ込められた男が、窓の外に初めて見る、春の陽光に対するような、抗いがたい憧憬と、同時に、その光によって自分の闇が暴かれることへの恐怖が入り混じった感情だった。
しかし、問題は、そして彼を最も苦しめるのは、その芽生え始めた「欲」の、決して純粋とは言えない、その「質」にあった。それは、決して、物語に出てくるような、清らかで、美しく、相手の幸せを願うような、純粋な恋愛感情と呼べるものではなかったのだ。そこには、結城が本来的に持っている、シニカル(皮肉屋)で、人間不信で、傲慢で、そしてどこか屈折した、彼自身の「毒」が、まるで致死性の高い劇薬のように、色濃く、そして危険な形で混じり合っていたのだ。 彼女の純粋さに、抗いがたく惹かれながらも、同時に、その、穢れを知らない純粋さを、自分の手で汚してみたい、壊してみたい、という、まるでサディスティックな、倒錯した破壊衝動のようなもの。彼女の持つ、人を疑うことを知らないかのような温かさに触れたいと、心の底から願いながらも、その貴重な温かさを、自分だけのものとして独占し、他の誰にも、指一本触れさせたくないという、まるで子供のような、身勝手で、偏執的な独占欲。彼女の、目標に向かってひたむきに進む真っ直ぐさを、眩しく感じながらも、その脆い真っ直ぐさが、いつかこの、嘘と欲望に満ちた東京という街の汚濁に染まり、傷つき、そして結局は、自分と同じように、打算的で、冷めた、現実的な人間になってしまうのではないかという、奇妙な恐れと、そして、そうなってほしいような、そうなってほしくないような、救いようのないアンビバレントな感情。 それは、まるで、ガラスケースの中に飾られた、一点物の、完璧な宝石を見つけ、その比類なき美しさに心を奪われながらも、同時に、それをケースから取り出し、自分の指にはめてみたい、しかし、自分の指にはめた瞬間にその輝きが失われるのではないかと恐れ、結局は、誰も触れることのできない金庫の奥深くに、永遠にしまい込んでしまいたいと願うような、矛盾に満ちた、身勝手で、そして極めて危うい、エゴイスティックな欲望の形だった。彼の内側で、急速に育ち始めたこの「欲」は、決して彼女を幸せへと導くような、健全な愛情とは程遠い、むしろ、彼女を、彼の深い孤独や、満たされない渇望感を埋めるための、美しい「道具」として求めているような、そんな危険極まりない「毒気」を、確かに、そして色濃く孕んでいた。
結城は、自分の内面で、日夜繰り広げられる、この激しい葛藤に、もはや無視できないほどの、深い苦悩と混乱を感じていた。理性と、本能。自己コントロールと、制御不能な衝動。彼が築き上げてきた、冷徹で合理的な自己イメージと、突如として現れた、熱を帯びた未知の感情。光に似た何かを求める心と、同時にそれを汚し、支配しようとする、彼自身の内に潜む闇。それらが、彼の意識の中で、絶えず激しくぶつかり合い、まるで内戦のように、彼の精神を消耗させ、火花を散らしていた。 彼は、必死で、この、まるで自分の体の一部ではないかのように感じられる、厄介で、危険な感情を、再び理性と意志の力でコントロール下に置こうと、あらゆる試みを繰り返した。仕事の量をさらに増やし、物理的に彼女のことを考える時間を奪おうとした。週末には、他の、彼にとって「安全」で、感情的な繋がりを一切必要としない、割り切った関係の女性たちと、意識的に時間を過ごすことで、この、佐伯小春に対する異常なまでの執着を、相対化し、薄めようともした。あるいは、オフィスで彼女と顔を合わせた際には、敢えて以前のような、突き放すような、冷たい、合理的な態度を貫くことで、自分の内側に引かれたはずの境界線を、自分自身に、そしておそらくは彼女にも、再確認させようともした。 だが、それらの、彼がこれまで有効だと信じてきた自己制御の試みは、こと佐伯小春に対しては、ほとんど、あるいは全くと言っていいほど、効果を発揮しなかった。むしろ、意識的に抑えつけようとすればするほど、その「欲」は、まるで地底深くで圧力を受けたマグマのように、彼の内側で、さらにその熱量と衝動性を増し、いつ噴出してもおかしくないような状態で、出口を求めて激しく蠢くかのようだった。佐伯小春という存在は、もはや、彼の理性や計算、あるいは過去の経験則だけでは到底制御できない、特別な、そしておそらくは、彼の人生そのものを左右しかねない、運命的な意味を持って、彼の領域に深く侵入し始めていたのだ。 彼は、自分が、この、もはや自分自身のものとは思えないほど強大になった、抗いがたい「欲」と、それに伴う、自己破壊的ですらある激しい内面の葛藤に、これから、いったいどう向き合っていけばいいのか、全く見当もつかなかった。ただ、このままこの感情を放置すれば、それは、いずれ、自分自身を、そして、もしかしたら、あの何も知らない、純粋な彼女をも、取り返しのつかない破滅へと導くかもしれないという、漠然とした、しかし肌で感じるような確かな予感だけが、冷たい、濃い影のように、彼の心に重く、そして不気味に纏わりついていた。それは、甘美な、しかし確実に死に至る毒のように、彼の魂を、少しずつ、しかし確実に、蝕み始めているのかもしれない、と彼は感じていた。
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