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第三章:東京の毒と、二人の選択
深まる関係性と忍び寄る困難の影
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季節は、肌を焼くような猛暑がようやく和らぎ、空が高く澄み渡る、心地よい秋へと静かに移ろいでいた。オフィス街を吹き抜ける風も、どこか乾いた、しかし爽やかな香りを運んでくる。鳩屋フーズとの、長く、そして波乱に満ちた共同プロジェクトも、ようやく最終的な調整と受け入れテストのフェーズへと突入し、トンネルの先に、確かなゴールの光が遠くに見え始めていた。それに伴い、プロジェクトの中心メンバーである結城 創と佐伯 小春の関係性もまた、否応なく、新たな局面を迎えていた。あの夏、互いの内面で激しく燃え上がり、そして揺れ動いた複雑な感情の波は、決して穏やかになったわけではない。むしろ、それは地下水脈のように、より深く、より複雑な潮流となり、二人の間に、もはや互いに無視することも、そしておそらくは後戻りすることもできない、名前のない、しかし極めて特別な繋がりを、密やかに、しかし確実に形作り始めていたのだ。
(結城 視点) 結城は、ここ最近、自分が佐伯小春という存在に、完全に「飼い慣らされて」しまっているのではないか、という、屈辱的とも言える疑念を、打ち消すことができなくなっていた。いや、「飼い慣らされた」という受け身の表現は正確ではないかもしれない。むしろ、彼女の存在そのものが、彼の、完璧にコントロールされているはずだった日常にとって、そして彼の精神的な安定にとってさえ、いつの間にか、不可欠な構成要素、あるいは、デフォルトでインストールされているべき基本ソフトウェアのように、彼のシステム深くに組み込まれてしまっていたのだ。その事実に対する自覚が、彼を苛立たせ、そして同時に、奇妙な安堵感をもたらしていた。 例えば、重要な経営会議や、神経をすり減らすような海外投資家とのカンファレンスコールの前、彼は、無意識のうちに、彼女が給湯室で淹れた、何の変哲もないインスタントコーヒーを飲むようになっていた。彼の秘書が用意する、高級豆を使った淹れたてのコーヒーよりも、なぜか、彼女が差し出す、少しだけぬるくて、時には少し薄すぎたり濃すぎたりする、あの、何の変哲もない、キャラクターもののマグカップ(おそらく彼女の私物だろう)に入ったコーヒーが、不思議と、彼の張り詰めた神経を最も効果的に落ち着かせ、思考をクリアにする、一種の精神安定剤のような役割を果たしていたのだ。 また、以前の彼であれば、時間の無駄、あるいは部下への示しがつかないとして、決してしなかったであろう、業務時間外の、些細で、そして全く非生産的なコミュニケーションを、彼は、なぜか、彼女に対してだけ、いとも簡単に許容している自分に気づいていた。彼女が、週末に「気分転換に」と焼いたという、少し形が不揃いなクッキーを「もしよかったら…」と、おずおずと差し出してきた時。あるいは、彼女が、故郷の家族から送られてきたという、見たこともないような素朴な味の菓子を「皆さんでどうぞ」と休憩スペースに置いていった時。彼は、以前なら丁重に断るか、受け取っても部下に分け与えるか、あるいは密かに処分していたはずなのに、ごく自然に手を伸ばし、「……ああ」「…悪くない」などと、ぶっきらぼうながらも受け入れる言葉を発し、それを口に運んでいた。甘すぎることもなく、洗練されているわけでもない、その、ある意味で平凡極まりない手作りの味が、なぜか、彼の、高級レストランの味に慣れきったはずの舌に、奇妙なほど優しく、そして懐かしく感じられるのだった。まるで、遠い昔に忘れてしまった、何か大切な感覚を思い出させてくれるかのように。 彼は、自分の中に生じているこれらの、論理では説明不能な変化を、依然として、合理的に分析し、理解することができなかった。「なぜ、他の誰でもなく、この女なのか?」「なぜ、これほどまでに、彼女という、本来なら取るに足らないはずの存在が、自分の精神状態や、時にはパフォーマンスにまで、影響を及ぼすのか?」その明確な答えは、依然として見つからない。だが、もはや、その答えを、理性だけで探そうとすること自体が、不毛であるような気もしていた。ただ、否定しがたい事実として、彼女が傍にいる時の自分は、いない時の自分よりも、ほんの少しだけ、肩の力が抜け、呼吸が楽になり、そして、人間らしいのかもしれない、と。そして、その、認めたくない事実に、彼は、言いようのない居心地の良さと、同時に、自分の築き上げてきた、冷徹で、孤独で、しかし安全だったはずの世界が、足元から静かに崩壊していくかのような、深い、深い危機感を覚えていた。佐伯小春は、彼にとって、もはや手放すことのできない、唯一無二の、しかし、彼という存在そのものを変質させかねない、極めて危険な「必需品」となりつつあったのだ。依存は、弱さだ。そして弱さは、敗北に繋がる。彼はそれを、骨身にしみて知っているはずだった。
(小春 視点) 小春にとっても、結城 創という存在は、出会った当初とは比べ物にならないほど、大きく、そして彼女の世界の中心に、無視できないほどの重さで位置するようになっていた。最初の頃に感じていた、息が詰まるような絶対的な恐怖心や、彼我の差に対する圧倒的な劣等感は、完全に消え去ったわけではない。彼の、全てを見透かすような鋭い視線や、時折見せる、氷のように冷たい、一切の妥協を許さない合理性には、今でも、反射的に、心がきゅっと縮こまることがある。 しかし、それ以上に、彼と共にプロジェクトの困難を乗り越え、日々の仕事を通して、彼の持つ、常人離れした知性や、どんな逆境の中でも決して揺らがない強靭なリーダーシップ、そして、あの完璧な、人を寄せ付けない仮面の下に、時折、ほんの一瞬だけ垣間見える、不器用な優しさや、人間的な弱さ、あるいは隠された孤独の影に触れるたびに、彼女の中で、彼に対する感情は、より深く、より複雑な層を成していくのを感じていた。それは、単なる上司への尊敬や、憧れだけではない。もっと別の、温かくて、時には切なくて、そして、自分でもどうしていいのか分からなくなるような、特別な感情。 彼が、難しい顔で長時間モニターを睨みつけた後、ふと、彼女の存在に気づいたかのように、ほんの一瞬だけ、眉間の皺を緩め、まるで「まだいたのか」とでも言うような、呆れたような、しかしどこか柔らかさを含んだ視線を向ける瞬間。彼女が、徹夜で仕上げた、自分なりに工夫を凝らした資料に対して、「……まあ、悪くない。ここの視点は、少しは評価できる」と、ぶっきらぼうな口調ながらも、具体的な部分を挙げて、わずかながらも認めるような言葉をくれる瞬間。あるいは、彼女が仕事で大きなミスをしてしまい、自己嫌悪で落ち込んでいる時に、直接的な慰めの言葉は一切ないけれど、「……で、どうするつもりだ? 落ち込んでいる暇があるなら、リカバリープランを考えろ。時間は有限だ」と、彼らしい、突き放すような厳しさの中に、ほんの少しだけ、前を向くための、具体的な道筋を示唆してくれるような、そんな言葉をかけてくれる瞬間。 そんな、他人から見れば取るに足らないような、些細な出来事の一つ一つが、彼女の中で、彼への、揺るぎない信頼と、そして、おそらくは、はっきりと自覚することをまだ恐れている「特別な想い」と呼ぶべきものを、ゆっくりと、しかし確実に、太く、強く、育て上げていた。なぜ、これほどまでに、彼のことが、頭から離れないのだろう。なぜ、彼のふとした表情の変化一つ一つに、こんなにも自分の心が、まるで天気のように、目まぐるしく揺さぶられるのだろう。その明確な答えは、まだ、彼女自身にもはっきりと分からなかった。ただ、この、広すぎて、人が多すぎて、そして時々、心が凍えるほど冷たく感じる、巨大な東京という街で、彼という存在が、自分にとって、いつの間にか、荒波の中の灯台の光のような、あるいは、激しい嵐の中で船を繋ぎとめる、重く、頼もしい碇のような、唯一無二の、そして、もう決して手放したくないほど、かけがえのない大切なものになっていることだけは、痛いほど、確かだった。彼がそばにいてくれるなら、きっと、どんな困難だって乗り越えられる。そんな、何の根拠もない、しかし、彼女を強く支える、確信のようなものが、彼女の中に、静かに、しかし力強く芽生え始めていた。
だが、二人の関係性が、このように、互いにとって、かけがえのない、そして日々、複雑な色彩と陰影を帯びて深まっていく、その静かな水面下で。結城を取り巻く、華やかで、しかし常に危険と隣り合わせのビジネスの世界には、暗く、そして不穏な嵐の前の静けさのような影が、静かに、しかし確実に、その濃度を増しながら、忍び寄り始めていた。
(結城 視点) 結城は、最近、以前には感じたことのない種類の、重く、そして嫌な予感を伴う「空気の変化」を、ビジネスの最前線で、しばしば肌で感じるようになっていた。それは、まだ具体的な、目に見える脅威として現れているわけではない。だが、長年、弱肉強食の厳しいビジネスの世界で生き残り、そして常に勝ち続けてきた彼の、研ぎ澄まされた、獣のような鋭敏な嗅覚が、何か、良くない変化の兆し、あるいは、自分に向けられた悪意の波動のようなものを、はっきりと捉えているかのようだった。 きっかけは、一つではなかった。懇意にしている、業界でもトップクラスの、酸いも甘いも噛み分けた老獪な企業弁護士からの、珍しく歯切れの悪い、詳細を語らない、しかしそれ故に、どこか不気味な含みのある忠告めいた電話。「結城さん、最近、少し…業界全体の空気が変わってきているように感じます。特に、当局の目が、新興のIT企業に対して、厳しくなってきている。念のため、過去の案件、特に、数年前に手がけられた、あの、少しアグレッシブだったM&A関連のデューデリジェンス資料や契約書を、もう一度、専門家の目で、徹底的に洗い直しておかれた方がいいかもしれません」。あるいは、彼が全幅の信頼を置いている、冷静沈着なCFO(最高財務責任者)が、珍しく、その表情に隠しきれないほどの厳しい険を浮かべて持ってきた、いくつかの長年のライバル企業の、ここ数ヶ月における、不審なまでの大型資金調達や、結城の会社のトップエンジニアに対する、露骨なまでの高額な報酬での人材引き抜きの動きに関する、詳細なレポート。「…少し、きな臭い動きが続いています。偶然とは思えません。我々、ネクストリームに対する、何らかの組織的な攻撃、あるいは、我々の事業基盤を揺るがすような、大きな仕掛けの準備段階である、という可能性も、残念ながら否定できません」。 そして、何よりも、結城自身の「過去」という名の時限爆弾。彼が、ネクストリーム社を、ゼロから、誰もが不可能だと嘲笑したこの規模にまで、驚異的なスピードで急成長させる過程で、決して綺麗事だけではない、時には法や倫理のグレーゾーンすれすれの、あるいは、完全にアウトかもしれない、強引で、アグレッシブな、そして敵を多く作るような手段を、成功のためには、躊躇なく使ってきたという、彼自身が誰よりもよく分かっている自覚があった。ライバル企業の機密情報を、非合法な手段で入手し、それを交渉で有利に利用したこと。有望な技術を持つが経営難に陥っていたスタートアップを、市場価格よりも不当に安い価格で、半ば脅迫的に買収した過去。規制緩和の施行前の、法的な抜け穴を巧みに突いた、革新的だが、同時に、後に大きな訴訟リスクを孕む可能性のあるビジネスモデルの強行。それらは、これまで、彼の驚異的な成功を支える原動力となってきた、いわば「必要悪」だったのかもしれない。だが、光が強ければ、影もまた、それと同じだけ、あるいはそれ以上に濃くなる。その影の部分に、恨みや、妬みや、復讐心が、マグマのように蓄積されているであろうことも、彼は理解していた。いつか、その影の部分が、彼の成功に対する反動として、巨大な牙を剥いて、彼自身に、そして彼の築き上げてきた全てに、襲いかかってくるのではないか。そんな、漠然とした、しかし常に心の片隅から消えることのなかった不安が、彼の心の奥底には、常に存在していたのだ。 そして今、その漠然とした不安が、いよいよ現実のものとなりつつあるのかもしれない、という、強い予感。まるで、遠くの水平線に、最初は小さな点のように見えていた暗雲が、気づけば急速に広がり、空全体を覆い尽くそうとしているかのような、そんな、息が詰まるような感覚。彼は、まだ、その具体的な脅威の全貌や、それがいつ、どのような形で襲いかかってくるのか、正確には掴めてはいない。だが、何かが、彼の築き上げてきた、この巨大な、しかしどこか脆さも孕んだ帝国を、そして、もしかしたら、彼がようやく見つけかけた、佐伯小春という、不器用で、しかし温かい光を放つ存在との、この、まだ形にならない、脆く、しかし彼にとってはかけがえのないものになりつつある繋がりをも、根こそぎ破壊しようとしている。そんな、漠然とした、しかし無視することのできない、強い危機感が、まるで冷たい蛇のように、彼の背筋を、ゆっくりと、しかし確実に這い上がってくるのを感じていた。彼は、いつものように、周囲には完璧なまでのポーカーフェイスを保ちながらも、その冷静な仮面の下で、水面下で、静かに、しかし最大限の警戒態勢を敷き、来るべき嵐に備え始めていた。この、静かに、しかし確実に忍び寄る困難の影に対して。そして、その影が、彼にとって今、本当に守りたいと願っているもの——それは、もはや会社や成功だけではないのかもしれない——に、どのような、そしてどれほどの破壊的な影響を及ぼすのか、まだ誰にも、彼自身にさえも、全く、予測することはできなかった。ただ、戦いの火蓋は、もう切られようとしている。そのことだけは、確かだった。
(結城 視点) 結城は、ここ最近、自分が佐伯小春という存在に、完全に「飼い慣らされて」しまっているのではないか、という、屈辱的とも言える疑念を、打ち消すことができなくなっていた。いや、「飼い慣らされた」という受け身の表現は正確ではないかもしれない。むしろ、彼女の存在そのものが、彼の、完璧にコントロールされているはずだった日常にとって、そして彼の精神的な安定にとってさえ、いつの間にか、不可欠な構成要素、あるいは、デフォルトでインストールされているべき基本ソフトウェアのように、彼のシステム深くに組み込まれてしまっていたのだ。その事実に対する自覚が、彼を苛立たせ、そして同時に、奇妙な安堵感をもたらしていた。 例えば、重要な経営会議や、神経をすり減らすような海外投資家とのカンファレンスコールの前、彼は、無意識のうちに、彼女が給湯室で淹れた、何の変哲もないインスタントコーヒーを飲むようになっていた。彼の秘書が用意する、高級豆を使った淹れたてのコーヒーよりも、なぜか、彼女が差し出す、少しだけぬるくて、時には少し薄すぎたり濃すぎたりする、あの、何の変哲もない、キャラクターもののマグカップ(おそらく彼女の私物だろう)に入ったコーヒーが、不思議と、彼の張り詰めた神経を最も効果的に落ち着かせ、思考をクリアにする、一種の精神安定剤のような役割を果たしていたのだ。 また、以前の彼であれば、時間の無駄、あるいは部下への示しがつかないとして、決してしなかったであろう、業務時間外の、些細で、そして全く非生産的なコミュニケーションを、彼は、なぜか、彼女に対してだけ、いとも簡単に許容している自分に気づいていた。彼女が、週末に「気分転換に」と焼いたという、少し形が不揃いなクッキーを「もしよかったら…」と、おずおずと差し出してきた時。あるいは、彼女が、故郷の家族から送られてきたという、見たこともないような素朴な味の菓子を「皆さんでどうぞ」と休憩スペースに置いていった時。彼は、以前なら丁重に断るか、受け取っても部下に分け与えるか、あるいは密かに処分していたはずなのに、ごく自然に手を伸ばし、「……ああ」「…悪くない」などと、ぶっきらぼうながらも受け入れる言葉を発し、それを口に運んでいた。甘すぎることもなく、洗練されているわけでもない、その、ある意味で平凡極まりない手作りの味が、なぜか、彼の、高級レストランの味に慣れきったはずの舌に、奇妙なほど優しく、そして懐かしく感じられるのだった。まるで、遠い昔に忘れてしまった、何か大切な感覚を思い出させてくれるかのように。 彼は、自分の中に生じているこれらの、論理では説明不能な変化を、依然として、合理的に分析し、理解することができなかった。「なぜ、他の誰でもなく、この女なのか?」「なぜ、これほどまでに、彼女という、本来なら取るに足らないはずの存在が、自分の精神状態や、時にはパフォーマンスにまで、影響を及ぼすのか?」その明確な答えは、依然として見つからない。だが、もはや、その答えを、理性だけで探そうとすること自体が、不毛であるような気もしていた。ただ、否定しがたい事実として、彼女が傍にいる時の自分は、いない時の自分よりも、ほんの少しだけ、肩の力が抜け、呼吸が楽になり、そして、人間らしいのかもしれない、と。そして、その、認めたくない事実に、彼は、言いようのない居心地の良さと、同時に、自分の築き上げてきた、冷徹で、孤独で、しかし安全だったはずの世界が、足元から静かに崩壊していくかのような、深い、深い危機感を覚えていた。佐伯小春は、彼にとって、もはや手放すことのできない、唯一無二の、しかし、彼という存在そのものを変質させかねない、極めて危険な「必需品」となりつつあったのだ。依存は、弱さだ。そして弱さは、敗北に繋がる。彼はそれを、骨身にしみて知っているはずだった。
(小春 視点) 小春にとっても、結城 創という存在は、出会った当初とは比べ物にならないほど、大きく、そして彼女の世界の中心に、無視できないほどの重さで位置するようになっていた。最初の頃に感じていた、息が詰まるような絶対的な恐怖心や、彼我の差に対する圧倒的な劣等感は、完全に消え去ったわけではない。彼の、全てを見透かすような鋭い視線や、時折見せる、氷のように冷たい、一切の妥協を許さない合理性には、今でも、反射的に、心がきゅっと縮こまることがある。 しかし、それ以上に、彼と共にプロジェクトの困難を乗り越え、日々の仕事を通して、彼の持つ、常人離れした知性や、どんな逆境の中でも決して揺らがない強靭なリーダーシップ、そして、あの完璧な、人を寄せ付けない仮面の下に、時折、ほんの一瞬だけ垣間見える、不器用な優しさや、人間的な弱さ、あるいは隠された孤独の影に触れるたびに、彼女の中で、彼に対する感情は、より深く、より複雑な層を成していくのを感じていた。それは、単なる上司への尊敬や、憧れだけではない。もっと別の、温かくて、時には切なくて、そして、自分でもどうしていいのか分からなくなるような、特別な感情。 彼が、難しい顔で長時間モニターを睨みつけた後、ふと、彼女の存在に気づいたかのように、ほんの一瞬だけ、眉間の皺を緩め、まるで「まだいたのか」とでも言うような、呆れたような、しかしどこか柔らかさを含んだ視線を向ける瞬間。彼女が、徹夜で仕上げた、自分なりに工夫を凝らした資料に対して、「……まあ、悪くない。ここの視点は、少しは評価できる」と、ぶっきらぼうな口調ながらも、具体的な部分を挙げて、わずかながらも認めるような言葉をくれる瞬間。あるいは、彼女が仕事で大きなミスをしてしまい、自己嫌悪で落ち込んでいる時に、直接的な慰めの言葉は一切ないけれど、「……で、どうするつもりだ? 落ち込んでいる暇があるなら、リカバリープランを考えろ。時間は有限だ」と、彼らしい、突き放すような厳しさの中に、ほんの少しだけ、前を向くための、具体的な道筋を示唆してくれるような、そんな言葉をかけてくれる瞬間。 そんな、他人から見れば取るに足らないような、些細な出来事の一つ一つが、彼女の中で、彼への、揺るぎない信頼と、そして、おそらくは、はっきりと自覚することをまだ恐れている「特別な想い」と呼ぶべきものを、ゆっくりと、しかし確実に、太く、強く、育て上げていた。なぜ、これほどまでに、彼のことが、頭から離れないのだろう。なぜ、彼のふとした表情の変化一つ一つに、こんなにも自分の心が、まるで天気のように、目まぐるしく揺さぶられるのだろう。その明確な答えは、まだ、彼女自身にもはっきりと分からなかった。ただ、この、広すぎて、人が多すぎて、そして時々、心が凍えるほど冷たく感じる、巨大な東京という街で、彼という存在が、自分にとって、いつの間にか、荒波の中の灯台の光のような、あるいは、激しい嵐の中で船を繋ぎとめる、重く、頼もしい碇のような、唯一無二の、そして、もう決して手放したくないほど、かけがえのない大切なものになっていることだけは、痛いほど、確かだった。彼がそばにいてくれるなら、きっと、どんな困難だって乗り越えられる。そんな、何の根拠もない、しかし、彼女を強く支える、確信のようなものが、彼女の中に、静かに、しかし力強く芽生え始めていた。
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(結城 視点) 結城は、最近、以前には感じたことのない種類の、重く、そして嫌な予感を伴う「空気の変化」を、ビジネスの最前線で、しばしば肌で感じるようになっていた。それは、まだ具体的な、目に見える脅威として現れているわけではない。だが、長年、弱肉強食の厳しいビジネスの世界で生き残り、そして常に勝ち続けてきた彼の、研ぎ澄まされた、獣のような鋭敏な嗅覚が、何か、良くない変化の兆し、あるいは、自分に向けられた悪意の波動のようなものを、はっきりと捉えているかのようだった。 きっかけは、一つではなかった。懇意にしている、業界でもトップクラスの、酸いも甘いも噛み分けた老獪な企業弁護士からの、珍しく歯切れの悪い、詳細を語らない、しかしそれ故に、どこか不気味な含みのある忠告めいた電話。「結城さん、最近、少し…業界全体の空気が変わってきているように感じます。特に、当局の目が、新興のIT企業に対して、厳しくなってきている。念のため、過去の案件、特に、数年前に手がけられた、あの、少しアグレッシブだったM&A関連のデューデリジェンス資料や契約書を、もう一度、専門家の目で、徹底的に洗い直しておかれた方がいいかもしれません」。あるいは、彼が全幅の信頼を置いている、冷静沈着なCFO(最高財務責任者)が、珍しく、その表情に隠しきれないほどの厳しい険を浮かべて持ってきた、いくつかの長年のライバル企業の、ここ数ヶ月における、不審なまでの大型資金調達や、結城の会社のトップエンジニアに対する、露骨なまでの高額な報酬での人材引き抜きの動きに関する、詳細なレポート。「…少し、きな臭い動きが続いています。偶然とは思えません。我々、ネクストリームに対する、何らかの組織的な攻撃、あるいは、我々の事業基盤を揺るがすような、大きな仕掛けの準備段階である、という可能性も、残念ながら否定できません」。 そして、何よりも、結城自身の「過去」という名の時限爆弾。彼が、ネクストリーム社を、ゼロから、誰もが不可能だと嘲笑したこの規模にまで、驚異的なスピードで急成長させる過程で、決して綺麗事だけではない、時には法や倫理のグレーゾーンすれすれの、あるいは、完全にアウトかもしれない、強引で、アグレッシブな、そして敵を多く作るような手段を、成功のためには、躊躇なく使ってきたという、彼自身が誰よりもよく分かっている自覚があった。ライバル企業の機密情報を、非合法な手段で入手し、それを交渉で有利に利用したこと。有望な技術を持つが経営難に陥っていたスタートアップを、市場価格よりも不当に安い価格で、半ば脅迫的に買収した過去。規制緩和の施行前の、法的な抜け穴を巧みに突いた、革新的だが、同時に、後に大きな訴訟リスクを孕む可能性のあるビジネスモデルの強行。それらは、これまで、彼の驚異的な成功を支える原動力となってきた、いわば「必要悪」だったのかもしれない。だが、光が強ければ、影もまた、それと同じだけ、あるいはそれ以上に濃くなる。その影の部分に、恨みや、妬みや、復讐心が、マグマのように蓄積されているであろうことも、彼は理解していた。いつか、その影の部分が、彼の成功に対する反動として、巨大な牙を剥いて、彼自身に、そして彼の築き上げてきた全てに、襲いかかってくるのではないか。そんな、漠然とした、しかし常に心の片隅から消えることのなかった不安が、彼の心の奥底には、常に存在していたのだ。 そして今、その漠然とした不安が、いよいよ現実のものとなりつつあるのかもしれない、という、強い予感。まるで、遠くの水平線に、最初は小さな点のように見えていた暗雲が、気づけば急速に広がり、空全体を覆い尽くそうとしているかのような、そんな、息が詰まるような感覚。彼は、まだ、その具体的な脅威の全貌や、それがいつ、どのような形で襲いかかってくるのか、正確には掴めてはいない。だが、何かが、彼の築き上げてきた、この巨大な、しかしどこか脆さも孕んだ帝国を、そして、もしかしたら、彼がようやく見つけかけた、佐伯小春という、不器用で、しかし温かい光を放つ存在との、この、まだ形にならない、脆く、しかし彼にとってはかけがえのないものになりつつある繋がりをも、根こそぎ破壊しようとしている。そんな、漠然とした、しかし無視することのできない、強い危機感が、まるで冷たい蛇のように、彼の背筋を、ゆっくりと、しかし確実に這い上がってくるのを感じていた。彼は、いつものように、周囲には完璧なまでのポーカーフェイスを保ちながらも、その冷静な仮面の下で、水面下で、静かに、しかし最大限の警戒態勢を敷き、来るべき嵐に備え始めていた。この、静かに、しかし確実に忍び寄る困難の影に対して。そして、その影が、彼にとって今、本当に守りたいと願っているもの——それは、もはや会社や成功だけではないのかもしれない——に、どのような、そしてどれほどの破壊的な影響を及ぼすのか、まだ誰にも、彼自身にさえも、全く、予測することはできなかった。ただ、戦いの火蓋は、もう切られようとしている。そのことだけは、確かだった。
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