東京は、君の温度を知らない

nishi

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第三章:東京の毒と、二人の選択

過去と現在の人間関係の衝突

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ネクストリーム社を襲った突然のスキャンダルと、それに伴う深刻な経営危機。それは、結城 創にとって、眠れない夜と、息つく暇もない対応に追われる、文字通り、ビジネスキャリアにおける最大の試練であったが、まるで嵐が、海に潜んでいたものたちを無理やり表層に引きずり出すかのように、あるいは、彼の危機的状況そのものを、ある種の「機会」と捉える者たちを引き寄せるかのように、彼の過去と現在を取り巻く人間関係にも、不穏な、そして極めて複雑な波紋を、次々と広げ始めていた。特に、彼が成功と共に手に入れ、しかし心のどこかで常に違和感を覚えていた、華やかで、しかし冷徹な損得勘定が支配する世界との間で、無視できない軋轢と、痛みを伴う衝突が生まれ始めていた。そして、皮肉なことに、その衝突の多くは、図らずも、佐伯 小春という、その世界とはあまりにも異質な、そして彼にとって特別な意味を持ち始めた存在を、その中心に据える形で、展開されていくことになった。
(結城 視点) 危機管理対策本部での、連日の、神経をすり減らすような会議と、次々と下されるべき厳しい決断。結城は、心身ともに、すでに限界に近い状態だったが、CEOとして、そしてこの船の船長として、弱音を吐くことも、ましてや立ち止まることも、決して許されなかった。そんな彼の元に、一本の、予期せぬ、そして正直に言えば、今、最も顔を合わせたくない人物からのアポイントメント要求が、彼の秘書を通じて入ったのは、スキャンダル発覚から一週間ほどが経過した、ある日の夕方だった。相手は、数年前に、決して円満とは言えない形で別れた元恋人、西園寺 綾香。大手外資系投資銀行の、若くしてヴァイスプレジデントの地位に上り詰めた、誰もが認める才色兼備を地で行く女性だった。彼女は、結城がまだネクストリームを立ち上げたばかりで、世間的には全くの無名の存在だった頃から、彼の持つ、非凡な野心と才能、そして、おそらくはその端正な容姿に惹かれ、ある意味で、将来有望な「成長株」に「投資」するように付き合い始めた。そして、結城が驚異的なスピードで成功を収め、富と名声を手に入れるにつれて、彼の隣に立ち、その成功の果実を分かち合い、そして彼をコントロールすることによって、自らのステータスをも高めようとする「トロフィーワイフ」あるいは「ビジネス上の対等なパートナー」としての地位を、強く望んだ女性だった。彼らの関係は、純粋な愛情というよりは、互いの持つ社会的ステータスと、野心と、そしておそらくは、高度に洗練されたゲームのような肉体的な魅力によって結びついていた、極めてドライで、計算高く、そして常に緊張感を伴うものだった。最終的に、結城が、彼女の持つ、息が詰まるような過剰なまでの支配欲と、彼の成功に巧みに寄生しようとするその姿勢に、生理的な嫌悪感すら覚え、一方的に、そして冷酷に関係を終わらせたという過去がある。 「…創さん、久しぶり。大変そうね」 指定された、都心の超高級ホテルの、静かでプライバシーの保たれたラウンジの奥の席に現れた綾香は、昔と寸分違わぬ、完璧なまでに手入れされた美貌と、寸分の隙もない、最新コレクションの高級ブランドのスーツを纏っていた。その声は、電話で聞いた時と同様、どこか甘く、猫なで声のようでありながら、その瞳の奥には、彼の窮状を値踏みするかのような、鋭い、計算高い光が宿っていた。心配しているような表情を作ってはいるが、その裏には、隠しきれない好奇心と、もしかしたら、かつて自分を振った男の凋落に対する、密かな優越感のようなものが、透けて見えている。 「……何の用だ、綾香。言ったはずだ、俺は忙しい、と」 結城は、努めて感情を排した、冷たく、そしてぶっきらぼうな声で答えた。今、彼女と、こんな場所で、無駄な時間を過ごしている余裕など、一秒たりともないのだ。 「まあ、そんなに怖い顔しないで。本当に、ただ心配で来ただけよ。それに…少し、提案があって」 綾香は、わざとらしく艶のある仕草で、長い脚を組み替えながら言った。 「もし、創さんが困っているなら、何か私に出来ることがあるなら、本気で力になりたいと思っているの。知っているでしょう? 私の、金融界での、特に海外の投資家に対するネットワークは、かなりのものよ。もしかしたら、あなたの会社の、当面の資金繰りや、あるいは…そうね、今回の、厄介な訴訟沙汰の『火消し』に、私の人脈が、少しはお役に立てるかもしれないわ。もちろん、そのためには、私なりの『誠意』を見せていただく必要はあるけれど」 その申し出は、一見、魅力的で、親切なものに聞こえたかもしれない。特に、今の、資金繰りが逼迫し、四面楚歌の状態にある結城にとっては。しかし、結城は、その、蜂蜜のように甘い言葉の裏にある、彼女の真の、そして醜い意図を、即座に見抜いていた。これは、善意からの助けなどではない。巧妙に仕組まれた、取引だ。彼女は、彼の最大の弱みである、この危機的状況に付け込み、それをテコにして、再び彼との関係——おそらくは、以前よりもさらに彼女にとって有利な形での——を取り戻し、そして、あわよくば、彼が命懸けで築き上げてきた、ネクストリームという帝国の、富と権力の一部を、再びその手に収めようとしているのだ。その、あまりにも見え透いた、計算高さと、人の弱みを利用しようとする、ハイエナのような狡猾さに、結城は、吐き気を催すほどの、強い嫌悪感を覚えた。 「…必要ない。繰り返すが、俺の問題は、俺自身で解決する。君の助けなど、借りるつもりは毛頭ない」 「あら、本当に強情なんだから、昔から。…でも、本当にそれでいいのかしら? その意地が、あなたの全てを失わせることになるかもしれないのよ? それに…聞いたわよ、最近、ずいぶんと『地味』な女性と親しくしているんですって? 鳩屋とかいう、古臭い食品メーカーの、田舎から出てきたばかりの、世間知らずな女の子。まさかとは思うけど、本気じゃないでしょうね? 創さんほどの人が、そんな、何のメリットももたらさないような、それどころか、今のあなたの状況では、ただの足枷にしかならないような相手に、心を奪われているなんて。冗談でしょう?」 綾香の言葉は、確信犯的に、そして容赦なく、結城の最も触れられたくない部分を抉ってきた。彼の現在の危機的状況と、そして、彼女がどこからか巧妙に嗅ぎつけたのであろう、小春の存在に対する、あからさまな侮蔑と嘲笑の色。それは、まるで、泥の中に咲いた一輪の花を、ハイヒールで無慈悲に踏みにじるかのような、残酷さを持っていた。 「……余計な世話だ。二度と、俺の前に現れるな」 結城は、抑えきれない怒りと、そして、それ以上に、彼女と同じ世界の価値観に、かつては自分も染まっていたのかもしれないという自己嫌悪で、声が震えるのを必死で堪えながら、低い声で言い放った。そして、彼女の返事も待たずに席を立ち、伝票を掴むと、足早にその場を後にした。ラウンジを出る間際、背後から、綾香の、勝ち誇ったような、冷たい笑い声が聞こえたような気がした。 車に戻り、一人になると、彼は、ステアリングを強く握りしめ、深い溜息をついた。これだ。これが、彼が成功と引き換えに手に入れた、そして同時に、心のどこかで常に虚しさを感じていた世界の、人間関係の本質なのだ。全てが、損得勘定、ステータス、利用価値。そこには、真の信頼も、温もりも、そしておそらくは人間性すらも、存在しない。彼は、そんな、ドライで、冷酷で、しかし刺激的な世界で生き残り、そして成功を収めてきた。だが、今、佐伯小春という、全く異なる価値観を持つ存在を知ってしまった後では、綾香のような人間の、その、あまりにも空虚で、人間味のない在り方が、ひどく醜悪で、そして耐え難いものに感じられてならなかった。しかし同時に、そんな綾香の言葉——「あなたのステータスに相応しくない」「足枷にしかならない」——が、まるで毒のように、彼の心の片隅に、小さな、しかし無視できない、嫌な棘のように、深く突き刺さったのも、また事実だった。それは、彼が心の奥底で、世間の目や、社会的な評価を気にして、もしかしたら無意識のうちに抱いていたのかもしれない、小春に対する、ある種の「負い目」や「釣り合わなさ」のようなものを、容赦なく、そして的確に突いてきていたからだ。
(小春 視点) ネクストリーム社を襲った突然のスキャンダル。そして、それに伴う、鳩屋フーズとの共同プロジェクトの、突然の、そして一方的な「中断」通告。そのニュースは、小春にとっても、まるで頭を鈍器で殴られたかのような、大きな衝撃であり、そして深い悲しみをもたらした。テレビをつければ、インターネットを開けば、連日、結城さんの会社や、彼自身のことが、まるで社会の敵であるかのように、激しく、そしてしばしば悪意を持って報道されている。その報道を見るたびに、彼女の胸は、まるで自分のことのように、締め付けられるように痛んだ。 「そんなはず、ないのに……結城社長は、そんな人じゃない…はずなのに……」 彼女が、この数ヶ月の間、間近で見てきた結城さんは、確かに、人一倍厳しくて、言葉も冷たくて、近寄りがたいオーラを放っているけれど、報道されているような、ただただ強欲で、人を人とも思わないような、アンモラルな人間では決してなかったはずだ。仕事に対する、妥協を許さない情熱。どんな困難な状況に陥っても、決して諦めずに道を切り拓こうとする、圧倒的なリーダーシップ。そして、あのトラブル対応の時や、深夜のオフィスで、ほんの一瞬だけ垣間見えた、彼の、厳しい仮面の下にある、人間的な苦悩や、不器用な優しさ。それらは、決して嘘ではなかったはずだ。彼女は、心の底から、彼を信じたい、と思った。でも、世間の風当たりは、あまりにも強く、一方的で、そして冷たかった。彼女一人が信じたところで、何が変わるというのだろう。 プロジェクトが公式に中断されたことで、彼女がネクストリーム社を訪れることも、そして、最も気がかりな、結城さんと直接顔を合わせる機会も、完全に失われてしまった。彼が今、報道されているような窮地の中で、どんな状況に置かれ、どんな思いで、たった一人で戦っているのか、知る術もない。何か、自分にできることはないだろうか。せめて、体調を気遣う、短い励ましのメールだけでも送ってみようか。でも、そんなことをして、ただでさえ大変な彼の、迷惑になるだけではないだろうか。彼は、きっと今、誰からの同情も、安っぽい励ましも、求めていないはずだ。私のような、ビジネスの世界のことも、彼の抱える問題の深刻さも、本当の意味では何も分かっていない人間が、軽々しく、感傷的な言葉をかけるべきではないのかもしれない。そんな、彼を想う気持ちと、自分の無力さとの間で、彼女は、出口のない、もどかしい思いに、日々苛まれていた。
そんなある日、彼女は、会社の上司からの指示で、プロジェクト中断に伴う、いくつかの機密保持に関する確認書類を結城さんの秘書に直接届ける、という用件で、久しぶりに、そして、もしかしたらこれが本当に最後になるのかもしれない、という一抹の寂しさと不安を胸に抱きながら、重い足取りで、ネクストリーム社の、以前とは明らかに違う、重苦しく、そしてどこか殺伐とした空気が漂うオフィスビルを訪れた。一階の、以前は活気に満ちていたはずの広大なロビーで、アポイントメントを取っていた秘書の方を待っていると、偶然、数メートル先のガラス張りの打ち合わせスペースで、結城さんが、数人の、いかにも高級そうな、しかし厳しい表情をしたスーツ姿の年配の男性たち(おそらく、彼が最も警戒しているであろう、投資家か、銀行関係者なのだろう)と、何か非常に緊迫した雰囲気で話しているのが、ガラス越しに見えた。結城さんの表情は、いつものように、冷静で、自信に満ちているように見えたが、その目の奥には、以前には決して見ることのなかったような、深い、深い疲労と、まるで張り詰めた弦のような、極度の緊張の色が、隠しきれないように、痛々しく浮かんでいた。見ているだけで、彼の背負っているものの重さが伝わってくるようだった。 小春は、思わず「結城社長…!」と声をかけそうになり、駆け寄って、何か温かい飲み物でも差し入れたいような衝動に駆られたが、その場の、まるで戦場のような、重く、近寄りがたい空気に完全に気圧されて、言葉を飲み込んだ。彼らは、小春の存在には全く気づいていない様子で、テーブルに広げられた書類を睨みつけながら、低く、しかし鋭い声で、何かビジネス上の、極めて深刻な話をしている。小春は、彼らの邪魔になってはいけない、と反射的に思い、そっと柱の陰に身を寄せ、自分の存在を消すように、俯いた。 その時だった。打ち合わせスペースから出てきた、年配の男性の一人が、ロビーで待つ小春の姿を、まるで値踏みするかのように、頭のてっぺんから爪先まで、じろりと一瞥し、そして、隣にいたもう一人の男性に、わざと小春にも聞こえるような、しかし明らかな侮蔑の色を隠そうともせずに、吐き捨てるように、こう囁いたのだ。 「……ふん、あれが、結城君が最近ご執心だと噂の、『地方出身の新人OL』か? なるほどな。こりゃまた、ずいぶんと、場末の安っぽいメロドラマだ。今の、会社存亡の危機にある彼には、ある意味、お似合いの相手なのかもしれんがね。はっはっは」 その言葉と、下卑た笑い声は、まるで鋭利な、そして汚れたナイフのように、小春の胸の中心を、深く、そして残酷に突き刺した。「地方出身の新人OL」「場末の安っぽいメロドラマ」「今の彼にお似合い」。その言葉の一つ一つが、彼女の出自と、存在そのものを、そして、彼女が結城さんに対して抱き始めていた、まだ名前のない、しかし大切にしたいと思っていた特別な感情をも、完膚なきまでに否定し、嘲笑しているように感じられた。 彼女は、顔から急速に血の気が引いていき、立っていることさえ辛くなるような、激しい屈辱感と、悲しみに襲われながら、ただ、その場に凍りついたように立ち尽くすことしかできなかった。これが、結城さんの生きている、本当の世界。これが、彼が普段、その頭脳と精神をすり減らしながら、必死で渡り合っている人々との関係性なのだ。そこは、私のような、何の背景も、何の力も持たない人間が、決して足を踏み入れてはいけない、冷たくて、非情で、そして、私には到底理解することも、受け入れることもできない、歪んだ価値観で動いている世界。そして、自分は、そんな、あまりにも厳しい世界で戦っている結城さんの、足手まといにしかならないのではないか。彼が今、こんなにも絶望的な状況にある時に、私のような、社会的に見れば何の価値もない存在が、彼の傍にいるということは、彼にとって、更なる困難や、世間からの嘲笑の種を増やすだけなのではないか。そんな、恐ろしく、そしてどうしようもなく悲しい考えが、まるで冷たい霧のように、彼女の心を、急速に覆い始めていた。さっきまで、心の片隅で、か細く燃え続けていた、彼を信じたい、彼の力になりたい、彼を支えたいという、けなげな希望の灯火が、まるで強風に吹き消されるかのように、急速にその勢いを失い、萎んでいくのを感じた。自分は、彼から、離れるべきなのかもしれない。彼のために、そして、これ以上自分が傷つかないために。
(結城 視点) 綾香のような、過去の亡霊からの、計算高く、そして侮蔑的な接触だけではなかった。結城が、好むと好まざるとに関わらず、かつて属していた、そして今も、ビジネス上の利害関係などによって、完全には繋がりを断ち切れていない、いわゆる「上流社会」と呼ばれる階層の人間たち——古くからのビジネス上の付き合いがある、世襲のオーナー経営者たち、同じ、入会金だけで数千万円はするという、排他的な会員制クラブに所属する、新旧の富裕層たち、あるいは、彼の、地方の名家であり、代々続く旧家であるという家柄を知る、遠縁の親戚筋など——からも、今回のスキャンダルと経営危機に関して、表向きは心配を装った、しかし実際には、彼の状況と弱みを探り、あるいは、内心では彼の劇的な没落を期待しているかのような、偽善的で、そして不快な連絡が、いくつか、彼の元に入ってきていた。 その中でも、特に結城を苛立たせ、そして彼の心を重くさせたのは、彼の亡き父親の代からの、長い付き合いがあるという、政財界にも強い影響力を持つ、ある大物保守系政治家の、電話越しに伝わってくる、ねっとりとした、そして明らかに上から目線の「忠告」めいた言葉だった。彼は、結城がまだ子供の頃から知っており、今回の危機に際しても、表向きは「何か私が、裏で動いて、力になれることがあれば、いつでも言いなさい」と、恩着せがましい言葉で連絡を寄越してきた。しかし、その、いかにも親身になっているかのような態度の裏で、電話での一通りの儀礼的な会話が終わる、その最後に、彼は、まるで、決して忘れるなよ、と釘を刺すかのように、わざとらしく、そして明確な意図を持って、こう付け加えたのだ。 「…ところで、創君。最近、君に関して、あまりよろしくない、妙な噂を、私の耳にもしたのだがね。君が、あまり、その…君の属している『クラス』とは、釣り合わないような、出自も、教養も、はっきりしないような、若い女性と、公私にわたって、親しくしているというのは、果たして、本当のことかね? …まあ、君のプライベートなことに、私がとやかく口を出すつもりは毛頭ないがね。しかしだ、創君。君も、今のこの、会社にとっても、君自身にとっても、まさに正念場である、非常にデリケートな時期にだ、つまらない色恋沙汰で、あるいは、脇の甘い個人的な関係で、命取りになるような、足元を掬われるような真似だけは、くれぐれも、厳に慎むことだな。今の君には、君の社会的地位に相応しい、家柄も、資産も、そして何よりも、強力な後ろ盾となるような『力』を持ったパートナーこそが必要な時なのだからな。…私の言っている意味が、賢明な君なら、分かるね?」 その言葉は、一言一句が、まるで計算された毒矢のように、結城の逆鱗に、そして彼の最も触れられたくない部分に、深く、そして容赦なく突き刺さった。彼の、佐伯小春との、まだ誰にも説明できない、形にもなっていない、しかし、彼にとっては、もはや、この世のどんな富や名声よりも、かけがえのないものになりつつある、特別な繋がりを、まるで汚らわしいものでもあるかのように、値踏みするかのように扱い、そして、家柄や資産といった、彼が心の底から最も嫌悪し、反発してきた、古臭い物差しだけで、一方的に、そして傲慢に判断しようとする、その態度。そして、「君のクラス」「社会的地位に相応しいパートナー」「力を持った後ろ盾」という、前時代的で、差別的で、そして人間の価値を歪めるような響きを持つ言葉。それら全てが、結城の中に、まるで火山が噴火するかのような、激しい、そして殺意にも似た怒りを呼び起こした。 「……ご忠告、痛み入ります。結構です。ですが、私のプライベートな人間関係に関して、あなたに、とやかく言われる筋合いは、一切ありません。今後、二度と、このようなご連絡はなさらないでいただきたい。失礼します」 彼は、全身の怒りで声が震えるのを、必死で押し殺した、しかし、これ以上ないほどの、明確な拒絶の意思を込めた、氷のように冷たい声でそう言い放ち、相手の、おそらくは驚きと不快に満ちたであろう返事も待たずに、力任せに、そして一方的に電話を切った。スマートフォンの画面が、彼の強い力で割れるのではないかと思ったほどだ。 だが、その、一瞬の激しい怒りが過ぎ去った後、彼の心の中には、まるで鉛のように重く、そしてどこまでも冷たいものが、再び沈殿していくのを感じていた。これが、現実なのだ。これが、彼が生まれ落ち、そして、好むと好まざるとに関わらず、生き抜いていかなければならない世界の、変えようのない、そしておそらくは永遠に変わらないであろう、冷酷なルールなのだ。家柄、学歴、経歴、財産、社会的地位、そして利用価値。そういった、目に見える、そして数値化できるスペックによって、人間は、否応なく値踏みされ、ランク付けされ、そして選別される。そして、その、社会が暗黙のうちに定めた基準から外れた者は、たとえ、どれほど純粋で、誠実で、温かい心を持っていたとしても、この世界では、しばしば、軽蔑され、見下され、そして最終的には排除される運命にある。佐伯小春という存在は、まさに、その世界の、冷酷な価値観から見れば、「規格外」であり、「不釣り合い」であり、そして、今の、崖っぷちに立たされている彼にとっては、下手をすれば、彼の社会的生命をも奪いかねない、「不必要なリスク要因」でしかないのだ。 頭では、そんな価値観は、腐っている、間違っている、と激しく反発しながらも、心のどこかで、その、あまりにも巨大で、動かしがたい「現実」の重圧を、感じずにはいられない自分も、確かに存在していた。本当に、彼女を、この、嘘と、裏切りと、悪意に満ちた、醜く、そして危険極まりない、自分の世界に、これ以上深く巻き込んでしまっても、いいのだろうか。彼女の、あの、まるで磨かれる前の原石のような、穢れを知らない純粋さを、今の、自分自身の存続すら危うい状況にある自分が、果たして、守り抜くことなど、できるのだろうか。それとも、結局は、彼女をも、この「毒」に満ちた世界に引きずり込み、深く傷つけ、そして絶望させてしまうだけなのではないか。彼女のあの笑顔を、自分が奪ってしまうことになるのではないか。 綾香や、あの老獪な政治家のような、彼の「過去」や「社会的立場」に属する人間関係からもたらされる、冷たく、打算的で、そして人の心を蝕む「東京の毒」。それが、今、彼の、そしておそらくは、何も知らない小春の、ようやく芽生え始めたばかりの、脆く、しかし純粋な(と、彼は必死で信じたい)繋がりを、容赦なく脅かし、そして内側から蝕もうとしていた。彼は、外から来るこの「毒」に、そして、自分自身の内側にも存在する、同じ種類の「毒」に、これから、どう立ち向かっていけばいいのか。そして、その戦いの果てに、彼は、何を失い、何を守ることができるのか。その答えは、まだ、暗闇の中に閉ざされたまま、全く見えていなかった。ただ、戦いは、もう始まっている。そのことだけは、確かだった。
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