東京は、君の温度を知らない

nishi

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終章:君色に染まる東京で

二人の関係性の現在

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結城 創と佐伯 小春。彼らの関係性は、あの、全てを失いかけた絶望の淵で、互いの存在そのものを賭けるかのような選択をした瞬間から、もはや以前とは全く異なる、新しい次元へと移行していた。それは、ただ単に恋人同士になった、というような、安易な言葉で表現できるものではない。共に、人生における最大の嵐を乗り越え、互いの最も醜い部分も、最も脆い部分も、そして最も美しい部分をも知り尽くした上で、それでも、いや、それだからこそ、互いをかけがえのない存在として選び取った、深く、静かで、そして何よりも揺るぎない、魂のレベルでの結びつき。それが、彼らの「現在」の関係性の、本質だった。
(結城 視点) 結城にとって、小春との日々は、驚くほどの、そして彼がこれまで知らなかった種類の「平穏」に満ちていた。かつての彼が、常に追い求めていたはずの、アドレナリンが沸騰するような興奮や、刹那的な快楽、あるいは、他人を圧倒することによる優越感。そういった、常に彼を駆り立てていたはずのものが、不思議なほど、必要なくなっていた。 もちろん、再建途上にある会社の経営は、依然として困難の連続であり、眠れない夜もある。だが、隣に、彼女の穏やかな寝息を感じながら眠りにつく時、あるいは、朝、目覚めた時に、最初に彼女の、少しだけ寝癖のついた、無防備な笑顔を見る時、彼は、これまでの人生で感じたことのない、深く、そして絶対的な安心感に包まれるのだった。それは、まるで、長い、長い航海の果てに、ようやく辿り着いた、安全で、温かい港のような感覚だった。 彼は、もはや、彼女の前で、完璧な「結城 創」を演じる必要性を感じていなかった。仕事でうまくいかずに苛立っている時も、過去のトラウマが蘇って、ふと陰鬱な気分に沈む時も、彼は、それを隠すことなく、彼女に(もちろん、彼なりの、不器用な形ではあるが)示すことができるようになっていた。そして、彼女は、決して彼を責めたり、安易に励ましたりするのではなく、ただ、黙って隣に座り、彼の背中をそっと撫でてくれたり、あるいは、彼が好きな、少し苦めのコーヒーを淹れてくれたりする。その、言葉にならない、しかし深い共感と受容が、彼にとっては、何よりも力強い慰めとなり、そして、再び立ち上がるためのエネルギーを与えてくれるのだった。 そして、彼は、驚くほど、彼女の、些細な、そして時には非合理的にさえ見える行動原理や、感情の機微を、正確に理解できるようになっていた。彼女が、ほんの少しだけ眉をひそめるだけで、彼女が何に戸惑い、何に心を痛めているのかが分かる。彼女が、少しだけ早口になったり、視線を泳がせたりするだけで、彼女が何かを隠そうとしているか、あるいは、何か嬉しいことがあって、それを伝えたくてうずうずしているのかが、手に取るように分かるのだ。それは、長年連れ添った夫婦のような、あるいは、それ以上の、言葉を超えた、深いレベルでの理解と共鳴だった。彼は、もはや、彼女の心を、分析したり、予測したりする必要性を感じていなかった。ただ、感じればよかった。彼女の心を、自分の心の一部であるかのように。
(小春 視点) 小春にとっても、結城との関係は、当初、想像していたものとは、全く違う、しかし、想像していた以上に、深く、そして満たされたものとなっていた。彼と出会った頃に感じていたような、彼我の圧倒的な差に対する劣等感や、彼の冷たさに対する恐怖心は、もうほとんど感じなくなっていた。もちろん、彼が、依然として、並外れて知的で、有能で、そして時には、恐ろしいほど冷徹な判断を下す、特別な人間であることに変わりはない。だが、彼女は、もはや、その「特別さ」に、ただ圧倒されたり、卑屈になったりすることはなかった。なぜなら、彼女は、彼の、その「特別さ」の裏にある、人間的な脆さや、孤独や、そして、自分に対してだけ見せてくれる、不器用で、しかし深い愛情を、誰よりもよく知っていたからだ。 そして、彼女は、自分が、彼にとって、単なる「支え」や「癒やし」の存在であるだけでなく、時には、彼を「導く」存在にさえなり得るのだということを、実感するようになっていた。彼が、あまりにも合理性を追求するあまり、大切な何かを見失いそうになっている時。あるいは、過去の成功体験や、プライドに囚われて、判断を誤りそうになっている時。彼女は、決して彼を頭ごなしに否定するのではなく、しかし、彼女なりの、真っ直ぐで、そして本質を突くような言葉で、「本当に、それでいいんですか?」「もっと、大切なことがあるんじゃないですか?」と、彼に問いかけることができるようになっていた。そして、驚くべきことに、彼は、以前なら決して耳を貸さなかったであろう、彼女の、そんな、ビジネス的には非効率かもしれないが、しかし人間としては正しいと思える言葉に、真剣に耳を傾け、そして、時には、自らの考えを改めることさえあったのだ。その事実は、彼女に、大きな自信と、そして、彼と対等なパートナーとして、共に未来を築いていくのだという、強い自覚を与えてくれていた。 彼女もまた、彼の、ほんの些細な表情の変化や、声のトーン、あるいは、彼が好んで使う、少し皮肉めいた言い回しの裏にある、本当の感情や意図を、驚くほど正確に読み取ることができるようになっていた。彼が、強がって「何でもない」と言っていても、その目の奥に、隠しきれない疲労や、苦悩の色を見つけることができる。彼が、ぶっきらぼうな言葉で、彼女の仕事を評価する時も、その不器用な表現の中に、彼なりの、深い信頼と、感謝の気持ちが込められていることを、彼女は、ちゃんと理解していた。言葉にしなくても、彼らは、互いの心を、まるで鏡のように映し出し、そして、深く理解し合っている。その、確かな感覚が、彼女の心を、何よりも強く、そして温かく支えていた。
彼らの間に流れる空気は、大人の恋愛だけが持つことができる、深く、そして穏やかな安定感と、落ち着きに満ちている。互いの存在を、空気のように自然に受け入れ、尊重し、信頼し、そして、それぞれの持つ個性や、一人の時間をも、大切にする。だが、その、心地よい安定感の中に、決して、恋愛感情の摩耗や、退屈といったものは、微塵も存在しなかった。むしろ、そこには、出会ったばかりの頃のような、互いへの、新鮮な好奇心や、あるいは、あの、全てを賭けて互いを選び取った、激しい嵐の夜のような、常に、相手の存在そのものに対する、抗いがたいほどの強い「引力」と「情熱」が、形を変えながらも、決して失われることなく、静かに、しかし力強く、存在し続けていたのだ。 そして、興味深いことに、かつて彼らの関係に、ある種の緊張感や、危険な魅力をもたらしていた、ほんの微かな「毒気」のようなものさえも、今や、二人の関係を、より深く、そしてより人間的にするための、隠し味のような、あるいは、スパイスのような役割を果たしていた。結城のかつての、人を寄せ付けないような「毒」は、もはや、他者を傷つけるためのものではなく、むしろ、小春だけを守り、そして彼女だけを魅了するための、鋭利で、しかし抗いがたい「色気」や「深み」のようなものへと、不思議と昇華されていたのかもしれない。そして、小春の、一見、世間知らずに見えるほどの「純粋さ」は、もはや、ただの無垢さではなく、どんな困難や、どんな醜さをも受け止め、そして、相手の良心を呼び覚ますような、静かで、しかし何よりも強い「浄化作用」を持つ力となっていた。彼らは、互いの「毒」さえも、愛し、受け入れ、そして、それを、二人の関係を豊かにするための、ユニークな魅力へと変えてしまっていたのだ。
なぜ、この、あまりにも対照的で、そして多くの困難を経験した二人が、これほどまでに、強く、そして深く、惹かれ合い、そして結びついているのか。 かつて、彼ら自身も、そして周囲の人間も、その答えを見つけられずに、戸惑い、あるいは否定しようとした問い。その答えは、もはや、理屈や、言葉で説明する必要など、どこにもなかった。それは、彼らが、互いを、ただひたすらに見つめ合う、温かく、そして信頼に満ちた眼差しの中に。それは、彼らが、何気ない日常の中で交わす、短い、しかし心が通い合う会話の中に。それは、彼らが、困難な現実に立ち向かう中で、ごく自然に、互いの手を握り合い、支え合う、その、当たり前のようでいて、奇跡のような瞬間の、その積み重ねの中に。彼らは、互いの、光り輝く部分だけでなく、最も暗く、醜い部分をも、知り尽くし、そして、その全てを、ありのままに受け入れ、愛している。そして、互いの存在そのものが、相手にとっての、生きる意味であり、希望であり、そして、かけがえのない「帰る場所」となっている。その、シンプルで、しかし、この世界で最も得難い、絶対的な事実。それこそが、彼らを、他の誰でもない、この二人を結びつける、最も強く、最も美しく、そして永遠に変わることのない、唯一無二の理由だったのだ。彼らの愛は、東京の冷たさの中で、互いの体温によって温められ、そして、本物の輝きを放ち始めていた。

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