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募る想いとうらはらに
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昼食が終わると、キースは店を出て行った。
一応、グレイスワーズ商店の入り口には休憩中の札を立てている。会計もできるとサンドラは言い張ったのだが、体調が悪くて頭が回らないときにするものではないと、キースは札を立てて行ったのだった。
(やっぱり半人前か……)
一生懸命にやってきたつもりではあるが、キースからは今ひとつ信頼されていないようだ。確かに会計はキースの隣で何回かやってはいたが、そそっかしいのかつり銭を間違えたり落としたりと、お客さんに迷惑をかけてばかりだった。
(うぅん。だとしてもめげちゃいけないわ。店番を頼まれたってことは、少なくともその程度は任せられるくらいに成長したってことなんだもの)
そう自分を励ましてみるが、入り口に立てられた札が目に入って気分が落ち込む。
(……いーのよ、いーのよ。少しずつ成長できれば)
そして改めて店内を見回す。
十人程度のお客なら全員が余裕をみて回れるくらいの広さはある。
通りに面した壁は店内を覗ける大きめの窓、そこに刺繍の入った朱色の紗幕が掛けられている。日中は紗幕は飾り布で可愛らしく括られており、端に寄せてあった。出入り口に近いところには木製の小物類が、そして奥に行くにしたがって大きな布製品が並ぶ。入り口の正面に当たる壁には大きな綴れ織壁掛けが掛けられ、部屋の雰囲気を作っていた。もちろん、この題材もプシュケであり、しかしサンドラが使っている部屋に置かれた綴れ織壁掛けよりも派手なものだ。使われている色も蒼い翅の乙女よりもずっと多い。縁に描き込まれた図形も細かく、とにかく凝っていた。
(あれを作るのに、どれくらいの時間が掛かるのかしら)
ふとそんなことを思う。部屋に置かれた本の情報からすれば、ある程度の訓練をしなければまともに織ることはできないようだ。蒼い翅の乙女の大きさでさえ、慣れている人でひと月以上は掛かるらしい。それも朝から晩までやって、だ。
(だいたい、織機が必要なんだから、そう簡単にできるもんじゃないわよね)
そしてため息。
「早く帰ってこないかしら……」
勘定台で頬杖をつきながら入り口を見る。キースが出て行ってからまだそれほど時間は経っていない。商品が届けられるのはこれまで見ていたところでは夕方近い時間になってからなので、店番を任せるほどの時間を空けるつもりでいたキースがもう帰ってくるということはないだろう。
(わかっていても待ち遠しいなぁ……)
ふあぁっと大きな口を開けてあくびをすると、サンドラは大きく伸びをした。
(いけない。このままじゃ寝ちゃうわ。何かしていないと)
手紙を読むのに夢中で、つい夜更かししてしまった。寝不足なのは事実で、食後のこの時間は睡魔が活動的だ。
サンドラは特に何かをするわけではなく、店の中を歩く。思いつきで何かをやっては、店の商品を壊しかねない。そんなことは今までの経験からよくわかっていたので、余計なことはしないに限るとサンドラは思っていた。
店内を何周しただろうか。不意に扉に取り付けられていた鐘がカランカランとその甲高い音を響かせた。
「いらっしゃいませ!」
条件反射で、サンドラは振り向くと声を掛ける。
「へぇ……噂どおりの美女だな。短い丈のスカートも悪くないね」
入ってきたのはキースと同じ年頃の青年。あごが細く逆三角形に見える顔に、やや長めの亜麻色の髪、少々吊り上った目は苔色できつい印象を与える。ちらりと見たところでは睨んでいるように感じられるので恐い雰囲気だが、それも彼の魅力になりえそうなほどには整った容姿を持っている。どちらかというと丸顔で柔和な雰囲気のキースとはまた異なる感じの男だ。
「あ、あの……表の札、目に入りませんでしたか? 今、休憩中でして」
他に目もくれず真っ直ぐ向かってくる男に、サンドラはたどたどしく声を掛ける。
「どうせキースは出掛けているんだろ?」
その通りだ。サンドラは言い当てられて目を丸くする。
「えっと……何の用事ですか? キースさんが出掛けていると知っていて訪ねて来るなんて――」
どう対応したらよいのかわからない。買い物に来た客ではないことはなんとなく察したサンドラではあったが、その場合はどう案内するのが適切なのか思い浮かばない。キースの客でもないとなると、この男の目的はなんなのか。
男はサンドラの前にやってくると、息の掛かりそうなほどの近さで止まった。
(キースさんより背が高いな……)
そんなことを思って顔を上げる。
「あ、あの……」
近すぎる。そう判断したサンドラは一歩後ろに退く。
「逃げるなよ」
がしっと手を掴まれる。男の手はとても大きく、細いサンドラの手首をすっぽり覆う。
「に、逃げてないです。近すぎだと思ったもので……」
「へぇ」
男はにたっといやらしい笑みを浮かべると、無造作に空いている方の手でサンドラの髪をすくった。
「ひゃっ……」
彼の指の間を黄金色の細い髪がゆるゆると流れていく。
「おうおう。可愛い声で鳴くもんじゃないぜ、お嬢さん。キースはこういうことしてくれなかったのかい?」
「へ、へんな言い方しないでください」
気丈に振る舞おうとするが、いかんせん、声が震えてしまっている。男はヒューっと口笛を吹いた。
「いや、参った。ここまで俺好みの女だとはな」
「……?」
その台詞に嫌な気配を感じて、サンドラは男を睨む。
「怒った顔も悪くないね」
髪をもてあそんでいた手がサンドラのあごを持ち上げる。
「そ、それ以上何かしたら、か、噛み付きますよ、あたし」
「威勢がいいね。よく躾けられている、って褒めておこうかな」
あごに触れていた手がそのままなぞるように耳の後ろへ、そして首筋を這っていく。
「んあっ! やめてくださいっ!」
対処しきれなくて固まっていた身体が動き出す。掴まれていない方の手で彼の手を勢いに任せて払う。しかし、今度はその手も掴まれた。
「ちょ……何のつもりですかっ!?」
掴まれた腕を持ち上げられる。両手は上へ。身体は自然と男へと近付く。
「冗談が過ぎた。ここからは真面目な話だ」
「こ、この状況でそんなこと言われましてもっ……」
もがいてみるが、身体はもう完全に男の支配下だ。どうにも自由にならない。
「――今日、キースが出掛けた理由を知りたくないか?」
(……え?)
男の問いに、サンドラは目をぱちぱちと瞬かせる。
「わかりやすいやつだな」
ぷっと笑って、男は続ける。
「あいつは恋人の墓参りに行ったんだ」
(……墓参り?)
キースに恋人がいることは、昨晩見つけた手紙から理解していた。しかし、その恋人が亡くなっているとは思いもしなかった。どおりで彼女の姿が見えないわけだ。
サンドラの抵抗の意志が消えたからだろうか。男は掴んでいたサンドラの手を解放する。
「君、サンドラって言うんだったな。死んだ恋人の名前を記憶喪失の女に付けるだなんて、どうにかしていると思うぞ。いくら容姿が似ているからって、君に失礼じゃないか。そうだろう?」
(あたし、サンドラに似てるのか……だから、ここに置いてくれるのか……)
男は同意を求めてきたが、サンドラは反応できない。
「なぁ、サンドラ。君、俺のところで働かないか? 昔の女にこだわる男なんか捨てて、俺のところに来いよ」
(でも、あたしはそれでも……)
「俺、この町を治める領主の息子でアルベルトっていうんだ。君に見合う仕事を紹介してやる。こんな寂れた店にいるより、俺と一緒にいた方がずっと情報が集まると思うぜ?」
「……結構です」
漏れた言葉はとても小さく、それでもサンドラは一生懸命に声にする。
「結構ですっ!」
次は叫ぶような大きな声となる。サンドラはしっかり男を見た。男は目を見開いて怒りの形相になると、サンドラを棚に押し付ける。
「きゃっ!」
棚に置かれていた木製の置物が床に落ちた。色とりどりの欠片が散らばっていく。
「君はわかっていない。彼がどれほど残酷なことを君にしているのか!」
「あたしはそれでも幸せなんですっ! 余計なことをしないでっ!」
「その残酷すぎる幸福を、俺が壊してやる――」
暴れるサンドラを押さえつけ、アルベルトは強引に彼女の唇を奪う。
そして、その短くも長く感じられた一瞬の後、カランカランと鐘が鳴った。
「――アルベルト、お前、なにしてるっ!?」
怒鳴り声に似た感情的な声が店内に響く。
(……キース……)
アルベルトの亜麻色の長い髪の間から、サンドラはキースの顔を見た。
(なんで……)
力が抜けて、その場にへたり込む。
(どうしてもっと早く帰ってこなかったの? ううん、責めちゃいけないわ。もっと遅く、帰ってきてくれたら良かったのに……そうしたら、あたし、何もなかった顔をして迎えることができたのに……)
「あらら。早いお帰りだったんですね、キース君」
おどけた調子でアルベルトはキースに顔を向ける。
「お前……よく僕にそんな態度を取れるな」
足音に怒気が含まれてる。強く踏み出される一歩は、足元に転がる商品を無視して突き進む。
「殴るつもりかな? キース君。領主の息子たる俺を、寂れた店の商人が殴れるものかい? 冷静に考えるべきじゃないかな?」
挑発しているようにも取れるアルベルトの口調。煽られてかそれともすでに冷静さを失っていたのか、キースはアルベルトの上着の襟をぐっと掴み、持ち上げる。
「殴れば、処分されるぞ? ここで店を開いていられなくなるがいいのかな?」
「――お前が黙っていれば、なんら問題ないだろう?」
地を這うような低いキースの声。そして、アルベルトは吹き飛ばされた。商品の転がる床に突っ伏す。
「ず……ずいぶんと熱を上げているようじゃないか、キース君」
殴られた左頬に手を添えて、アルベルトはふらりと立ち上がる。
「だが、いつまでもこの状態が続くと思うな。俺が間に入らなくても、いつかは壊れるもろいものだ」
キースに向かって告げると、アルベルトは床に座り込んだサンドラに目を向ける。
「サンドラ。死んだ昔の恋人のことが知りたければ町役場に来いよ。説明してやるぜ」
「うせろ、アルベルト。この店に顔を出すな」
「へいへい。もう帰りますよ」
アルベルトは頬をさすると、サンドラの返事を聞かずに店を去った。甲高い鐘の音が店内をこだまする。
「――大丈夫ですか? サンドラさん」
しゃがみ、様子を窺うキース。サンドラは顔を向けられない。
「す、すみませんでした……あたしがどんくさいばかりに……店番もまともにできなくって……」
涙で声がかすれる。悔しい。悔しくて仕方がない。
「サンドラさんのせいではありませんよ。元はといえば、僕が店番を頼んだのが原因で――」
「留守番なら、今までも何度もしたことがあります……キースさんは……悪くない」
全部あたしがいけない、このくらい自分で処理できないのがいけない――サンドラは何度も自分に言い続ける。
「サンドラさん……」
「ごめんなさい……あたしの心配なんかさせてしまって……ゆっくり、サンドラさんとお話がしたかったでしょうに……」
「!? 何言って――」
「すみません……やっぱりあたし、部屋で休みます。迷惑かけてばかりで、本当にすみません……」
伸ばされた手を振り切って、サンドラは駆けた。キースの手がむなしく虚空を掴む。
(最低……今日はなんて日なのよ……)
涙を拭いながら、サンドラは階段を駆け上った。
一応、グレイスワーズ商店の入り口には休憩中の札を立てている。会計もできるとサンドラは言い張ったのだが、体調が悪くて頭が回らないときにするものではないと、キースは札を立てて行ったのだった。
(やっぱり半人前か……)
一生懸命にやってきたつもりではあるが、キースからは今ひとつ信頼されていないようだ。確かに会計はキースの隣で何回かやってはいたが、そそっかしいのかつり銭を間違えたり落としたりと、お客さんに迷惑をかけてばかりだった。
(うぅん。だとしてもめげちゃいけないわ。店番を頼まれたってことは、少なくともその程度は任せられるくらいに成長したってことなんだもの)
そう自分を励ましてみるが、入り口に立てられた札が目に入って気分が落ち込む。
(……いーのよ、いーのよ。少しずつ成長できれば)
そして改めて店内を見回す。
十人程度のお客なら全員が余裕をみて回れるくらいの広さはある。
通りに面した壁は店内を覗ける大きめの窓、そこに刺繍の入った朱色の紗幕が掛けられている。日中は紗幕は飾り布で可愛らしく括られており、端に寄せてあった。出入り口に近いところには木製の小物類が、そして奥に行くにしたがって大きな布製品が並ぶ。入り口の正面に当たる壁には大きな綴れ織壁掛けが掛けられ、部屋の雰囲気を作っていた。もちろん、この題材もプシュケであり、しかしサンドラが使っている部屋に置かれた綴れ織壁掛けよりも派手なものだ。使われている色も蒼い翅の乙女よりもずっと多い。縁に描き込まれた図形も細かく、とにかく凝っていた。
(あれを作るのに、どれくらいの時間が掛かるのかしら)
ふとそんなことを思う。部屋に置かれた本の情報からすれば、ある程度の訓練をしなければまともに織ることはできないようだ。蒼い翅の乙女の大きさでさえ、慣れている人でひと月以上は掛かるらしい。それも朝から晩までやって、だ。
(だいたい、織機が必要なんだから、そう簡単にできるもんじゃないわよね)
そしてため息。
「早く帰ってこないかしら……」
勘定台で頬杖をつきながら入り口を見る。キースが出て行ってからまだそれほど時間は経っていない。商品が届けられるのはこれまで見ていたところでは夕方近い時間になってからなので、店番を任せるほどの時間を空けるつもりでいたキースがもう帰ってくるということはないだろう。
(わかっていても待ち遠しいなぁ……)
ふあぁっと大きな口を開けてあくびをすると、サンドラは大きく伸びをした。
(いけない。このままじゃ寝ちゃうわ。何かしていないと)
手紙を読むのに夢中で、つい夜更かししてしまった。寝不足なのは事実で、食後のこの時間は睡魔が活動的だ。
サンドラは特に何かをするわけではなく、店の中を歩く。思いつきで何かをやっては、店の商品を壊しかねない。そんなことは今までの経験からよくわかっていたので、余計なことはしないに限るとサンドラは思っていた。
店内を何周しただろうか。不意に扉に取り付けられていた鐘がカランカランとその甲高い音を響かせた。
「いらっしゃいませ!」
条件反射で、サンドラは振り向くと声を掛ける。
「へぇ……噂どおりの美女だな。短い丈のスカートも悪くないね」
入ってきたのはキースと同じ年頃の青年。あごが細く逆三角形に見える顔に、やや長めの亜麻色の髪、少々吊り上った目は苔色できつい印象を与える。ちらりと見たところでは睨んでいるように感じられるので恐い雰囲気だが、それも彼の魅力になりえそうなほどには整った容姿を持っている。どちらかというと丸顔で柔和な雰囲気のキースとはまた異なる感じの男だ。
「あ、あの……表の札、目に入りませんでしたか? 今、休憩中でして」
他に目もくれず真っ直ぐ向かってくる男に、サンドラはたどたどしく声を掛ける。
「どうせキースは出掛けているんだろ?」
その通りだ。サンドラは言い当てられて目を丸くする。
「えっと……何の用事ですか? キースさんが出掛けていると知っていて訪ねて来るなんて――」
どう対応したらよいのかわからない。買い物に来た客ではないことはなんとなく察したサンドラではあったが、その場合はどう案内するのが適切なのか思い浮かばない。キースの客でもないとなると、この男の目的はなんなのか。
男はサンドラの前にやってくると、息の掛かりそうなほどの近さで止まった。
(キースさんより背が高いな……)
そんなことを思って顔を上げる。
「あ、あの……」
近すぎる。そう判断したサンドラは一歩後ろに退く。
「逃げるなよ」
がしっと手を掴まれる。男の手はとても大きく、細いサンドラの手首をすっぽり覆う。
「に、逃げてないです。近すぎだと思ったもので……」
「へぇ」
男はにたっといやらしい笑みを浮かべると、無造作に空いている方の手でサンドラの髪をすくった。
「ひゃっ……」
彼の指の間を黄金色の細い髪がゆるゆると流れていく。
「おうおう。可愛い声で鳴くもんじゃないぜ、お嬢さん。キースはこういうことしてくれなかったのかい?」
「へ、へんな言い方しないでください」
気丈に振る舞おうとするが、いかんせん、声が震えてしまっている。男はヒューっと口笛を吹いた。
「いや、参った。ここまで俺好みの女だとはな」
「……?」
その台詞に嫌な気配を感じて、サンドラは男を睨む。
「怒った顔も悪くないね」
髪をもてあそんでいた手がサンドラのあごを持ち上げる。
「そ、それ以上何かしたら、か、噛み付きますよ、あたし」
「威勢がいいね。よく躾けられている、って褒めておこうかな」
あごに触れていた手がそのままなぞるように耳の後ろへ、そして首筋を這っていく。
「んあっ! やめてくださいっ!」
対処しきれなくて固まっていた身体が動き出す。掴まれていない方の手で彼の手を勢いに任せて払う。しかし、今度はその手も掴まれた。
「ちょ……何のつもりですかっ!?」
掴まれた腕を持ち上げられる。両手は上へ。身体は自然と男へと近付く。
「冗談が過ぎた。ここからは真面目な話だ」
「こ、この状況でそんなこと言われましてもっ……」
もがいてみるが、身体はもう完全に男の支配下だ。どうにも自由にならない。
「――今日、キースが出掛けた理由を知りたくないか?」
(……え?)
男の問いに、サンドラは目をぱちぱちと瞬かせる。
「わかりやすいやつだな」
ぷっと笑って、男は続ける。
「あいつは恋人の墓参りに行ったんだ」
(……墓参り?)
キースに恋人がいることは、昨晩見つけた手紙から理解していた。しかし、その恋人が亡くなっているとは思いもしなかった。どおりで彼女の姿が見えないわけだ。
サンドラの抵抗の意志が消えたからだろうか。男は掴んでいたサンドラの手を解放する。
「君、サンドラって言うんだったな。死んだ恋人の名前を記憶喪失の女に付けるだなんて、どうにかしていると思うぞ。いくら容姿が似ているからって、君に失礼じゃないか。そうだろう?」
(あたし、サンドラに似てるのか……だから、ここに置いてくれるのか……)
男は同意を求めてきたが、サンドラは反応できない。
「なぁ、サンドラ。君、俺のところで働かないか? 昔の女にこだわる男なんか捨てて、俺のところに来いよ」
(でも、あたしはそれでも……)
「俺、この町を治める領主の息子でアルベルトっていうんだ。君に見合う仕事を紹介してやる。こんな寂れた店にいるより、俺と一緒にいた方がずっと情報が集まると思うぜ?」
「……結構です」
漏れた言葉はとても小さく、それでもサンドラは一生懸命に声にする。
「結構ですっ!」
次は叫ぶような大きな声となる。サンドラはしっかり男を見た。男は目を見開いて怒りの形相になると、サンドラを棚に押し付ける。
「きゃっ!」
棚に置かれていた木製の置物が床に落ちた。色とりどりの欠片が散らばっていく。
「君はわかっていない。彼がどれほど残酷なことを君にしているのか!」
「あたしはそれでも幸せなんですっ! 余計なことをしないでっ!」
「その残酷すぎる幸福を、俺が壊してやる――」
暴れるサンドラを押さえつけ、アルベルトは強引に彼女の唇を奪う。
そして、その短くも長く感じられた一瞬の後、カランカランと鐘が鳴った。
「――アルベルト、お前、なにしてるっ!?」
怒鳴り声に似た感情的な声が店内に響く。
(……キース……)
アルベルトの亜麻色の長い髪の間から、サンドラはキースの顔を見た。
(なんで……)
力が抜けて、その場にへたり込む。
(どうしてもっと早く帰ってこなかったの? ううん、責めちゃいけないわ。もっと遅く、帰ってきてくれたら良かったのに……そうしたら、あたし、何もなかった顔をして迎えることができたのに……)
「あらら。早いお帰りだったんですね、キース君」
おどけた調子でアルベルトはキースに顔を向ける。
「お前……よく僕にそんな態度を取れるな」
足音に怒気が含まれてる。強く踏み出される一歩は、足元に転がる商品を無視して突き進む。
「殴るつもりかな? キース君。領主の息子たる俺を、寂れた店の商人が殴れるものかい? 冷静に考えるべきじゃないかな?」
挑発しているようにも取れるアルベルトの口調。煽られてかそれともすでに冷静さを失っていたのか、キースはアルベルトの上着の襟をぐっと掴み、持ち上げる。
「殴れば、処分されるぞ? ここで店を開いていられなくなるがいいのかな?」
「――お前が黙っていれば、なんら問題ないだろう?」
地を這うような低いキースの声。そして、アルベルトは吹き飛ばされた。商品の転がる床に突っ伏す。
「ず……ずいぶんと熱を上げているようじゃないか、キース君」
殴られた左頬に手を添えて、アルベルトはふらりと立ち上がる。
「だが、いつまでもこの状態が続くと思うな。俺が間に入らなくても、いつかは壊れるもろいものだ」
キースに向かって告げると、アルベルトは床に座り込んだサンドラに目を向ける。
「サンドラ。死んだ昔の恋人のことが知りたければ町役場に来いよ。説明してやるぜ」
「うせろ、アルベルト。この店に顔を出すな」
「へいへい。もう帰りますよ」
アルベルトは頬をさすると、サンドラの返事を聞かずに店を去った。甲高い鐘の音が店内をこだまする。
「――大丈夫ですか? サンドラさん」
しゃがみ、様子を窺うキース。サンドラは顔を向けられない。
「す、すみませんでした……あたしがどんくさいばかりに……店番もまともにできなくって……」
涙で声がかすれる。悔しい。悔しくて仕方がない。
「サンドラさんのせいではありませんよ。元はといえば、僕が店番を頼んだのが原因で――」
「留守番なら、今までも何度もしたことがあります……キースさんは……悪くない」
全部あたしがいけない、このくらい自分で処理できないのがいけない――サンドラは何度も自分に言い続ける。
「サンドラさん……」
「ごめんなさい……あたしの心配なんかさせてしまって……ゆっくり、サンドラさんとお話がしたかったでしょうに……」
「!? 何言って――」
「すみません……やっぱりあたし、部屋で休みます。迷惑かけてばかりで、本当にすみません……」
伸ばされた手を振り切って、サンドラは駆けた。キースの手がむなしく虚空を掴む。
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