観賞少年

一花カナウ

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Misty Rain

《3》

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 広い部屋に一人きり。兄さんと生活をするようになってからまだこの家に一人きりでいることなどなかった。
 さらに退屈になり、ボクはぼんやりと外に広がる日本の摩天楼に目を移す。しとしとと降る霧雨は止む気配を見せない。ひどくなることはなさそうだったけど。

 兄さんに出会うまで、ボクは自分がどんな生活をしていたのかという記憶がない。あまりに単調であったがために忘れてしまった。いや、忘れようと努めていたせいかもしれない。
 ただ覚えているとすれば、こんな日は決まって出会ったばかりの人が傍らにいるということだろうか。ボクはボクなりに内にある孤独や寂しさを紛らわせたかった。
 今は兄さんがボクをまっすぐ見てくれる。ボクはココに存在していていい。
 あの人の側にいればそれだけで満たされた。兄さんが何を思ってボクを側に置いてくれるのかあんまり理解できないけど、でも、そんなこと関係ない。ボクはこの時さえ長く続いてくれればいいなんて思っていた。

 雨はまだ降っている。静かにこの都市を濡らしていく。悲しみで溢れたこの街の『汚れ』をすべて洗い流してくれればいいのに。きれいさっぱり消し去ってくれればいいのに。

 夕方には帰る、兄さんはそう言っていた。ここで待っていれば、ここが兄さんの家であるなら必ず帰ってくるだろう。あとどのくらいしたら戻ってくるだろうか。
 ふと目をやった時計は二時を少し回った頃で、幾分か時間があった。

 何をしていればいいだろう……。

 ボクはきょろきょろと見回しながら、疑問に思ったことがあった。2LDKのこの家で、玄関に近い部屋の中を見たことがない。兄さんはさりげなく中に入られないようにかわしていたように見えたが、中に何があるというのだろう。
 ボクは興味をそそられて、リビングを出、例の部屋の前に来た。
 見るだけ、何も触れなければまずバレやしない、ボクはそう思った。

 ノブに手をかけてゆっくりと回す。カチッという音。そこでノブは止まる。鍵だ。鍵が掛かっている。元々ついていたわけではなく、あとに自分で取り付けたらしい金属の鍵が見えた。
 この程度の鍵なら道具なしではずせる。ボクは両の手に意識を集中させる。小さなスパークを出してチャリッという音がし、再び回したノブは簡単に回すことができた。
 ドキドキという胸の高鳴りをぐっと抑え、慎重にドアを開ける。カーテンが閉まっているせいか、ただ部屋が北向きであるからか、どこか薄暗く、何となく埃っぽく思えた。スイッチを探し出し、明かりを点ける。ボクの目に映ったものは……。

「あっ……」

 小さな声を漏らす。見ない方がよかったかもしれない。でも視線を逸らすことなどできなかった。だから必然的にぼうっとしたまま立ちつくすことになった。
 部屋の突き当たりには、なにやら難しい名が書かれた本がびっしりと並ぶ本棚があった。右手にあるクローゼットの隣の壁にはコルクボードが掛かっていて、そこには楽しそうに笑う二人の写真が貼ってある。兄さんと、綺麗な女の人とのツーショット。どれもこれも写っているのは二人。仲の良さそうな、とても幸せそうな微笑み。
 自分の生い立ちを尋ねようともしない兄さんの過去がそこにあって、ボクはそのことに罪を感じた。

 この女(ひと)は誰?
 ハル姉さんではない、全く別の女……。

 写真に近付いて凝視している自分に気が付いて、視線を逸らし、溜息をつく。

「だめだな……ダメだよ、こんなことしちゃ……」

 一歩下がったところで何かにぶつかる。柔らかくて温かい。

「あら、開けちゃったのね」
「姉さん……」

 振り向くと、そこに立っていたのはハル姉さんだった。苦笑いを浮かべてボクの瞳をじっと見ている。

「開けるなと言われてなかったし、仕方ないか」

 ぽんぽんっと頭を撫でながら彼女は言う。

「あ……あの……」
「黙っていれば、バレやしないわよ。能力で開けたの?」
「う、うん……」
「まー、その年なら興味あるよねー。ましてや好きな人のことを知りたいって思うのは自然だもの。アキラは怒ったりしないわ」

 優しく微笑んでボクを落ち着かせる。少し自分の身体が震えていたことに気付いた。

「でも……」

 視線がコルクボードの方を向き、再び姉さんに戻す。

「あぁ、あれ。アキラの想い人よ。今日、彼が出て行ったのも彼女のため……」

 姉さんの表情が一瞬曇ったのをボクは見逃さなかった。でもすぐに元の笑顔に戻る。

「あ、今言ったこと、ないしょね。このこというの、彼、すごく嫌うから」

 こくりと静かに頷く。姉さんはボクの手を引いて部屋から出した。
 兄さんは病院に、写真の彼女のためにこの雨の中を出て行った。兄さんと彼女との間に何があったというのだろう。遠回しに姉さんはそのことについて語るのを拒否した。兄さんも避けている。

 ――でも、今のボクには関係がないのだろう。だから敢えて語らない。必要になれば教えてくれるだろう。きっと……たぶん……。

「忘れなさい」

 きっぱりと厳しく言う。ボクの思考が手を伝わって知られてしまったようだ。
 すっかり忘れていたことだったが、彼女は人や物に触れることで記憶を操ることができる。今、手を引いているのもそのためかもしれない。

「わかってる……兄さんの前では少なくとも……」
「ユウはイイ子だから、そんなに心配してないけど……」

 きつい言い方してゴメンと詫びるような声で姉さんは呟いた。

「そのうち会うことになると思うけど、カヅミさんとイヲリさんの前でもタブーだからね。――全部アキルのせいなんだから……」
「アキル?」
「この話はやめましょ。あたし、紅茶淹れ直すわ。ケーキ買ってきたの。甘いの平気?」
「大丈夫。甘いもの好きなの」

 兄さんも甘いもの好きだったな、などと思い出す。紅茶には必ず砂糖が入る。たぶんコーヒーにも砂糖を入れるのだろう。

「よかった。ちょっと待ってて」

 ボクをテーブルの前に座らせ、ケーキの箱を置くとキッチンの方へと戻っていく。箱の中にはアップルパイが入っていた。

「えへへっ。アップルパイ、アキラの好物なのよ。しかもこだわりがあるらしくってね、そこの店で焼いたのじゃないといやなんだって。例外もあるけど」
「ふぅん」

 ぼんやりとまた外に視線を移す。雨はまだ止まない。

「――ねぇ。何しに来たの?」
「遊びにね」

 紅茶を入れたカップと、小皿とフォークを二つずつとトレイに載せてやって来る。

「合い鍵、持っているんだね」
「まーね。正確にはマスターキー。カヅミさんとイヲリさんのところも開けられるの」
「カヅミさんとイヲリさんって何者?」
「アキラの昔の仕事仲間よ。今もつるんでいるけどね」

 会話しつつ、姉さんは切り分けてあったアップルパイを小皿に載せる。

「昔の?」
「そのうち説明があるわ。さ、食べよ」

 ボクにお皿を差し出す。

「うん」

 受け取って一口食べる。実はアップルパイを食べるのは初めてだ。

「美味しい?」

 こくこくと姉さんの問いに頷いて答える。兄さんにおねだりしようかなぁ。

「良かった」

 にっこりと笑んで、姉さんは自分のを食べ出す。

「――兄さんが帰ってくるまで待たなくて良かったの?」

 ふと思ったことを口にする。パイは三つ入っていた。三人で食べるつもりだったのだろう。

「いーのよ」

 そう答えた彼女が少し膨れているように見えたのは気のせいだろうか。

「やきもち?」
「そんなんじゃないわよ」

 姉さんは否定したけど、ボクの目にはそうとしか映らなかった。でも詮索するのはやめて別の話に変える。

「兄さんって甘い物好きだよね」

 特にバターと小麦粉を使うようなやつが好きみたいだ。この家ではクッキーがいたるところに発見できる。

「そーねー」

 考えたことがなかったという感じに姉さんは言う。

「『観賞少年』は甘い物好きなのかも」
「ふぅん……」

 話題が尽きてしまって、そのあとは黙々と食べていた。
 ボクは会話が苦手だ。何を話して良いのかがすぐに分からなくなってしまって、黙ってしまったら最後、何も喋らなくなる。ふと思ったけど、ボクがいつも口を閉ざしてしまうから途切れてしまうようだ。

 この二人って微妙だなぁ……。
 兄さん不在で二人きりにされるのも困る。姉さんに手を出すなんてこと、さすがのボクでもしないケドさぁ……。

「どうかした?」

 ボクの微妙な気持ちがこもった視(め)を見て、姉さんが首を傾げる。

「ボクが相手で悪いナァって。つまらないでしょ? ボクじゃ」

 アップルパイはもうなくなっていて、部屋は紅茶の甘い香りで満たされている。

「アキラもそんなもんよ。会話がないこと、気にしてた?」

 こくりとボクは頷く。

「やーねー。どんな人もたまには会話が詰まるものよ。あたしはべらべら喋るような奴より、この静寂を楽しんでくれる人の方がいい」

 言って耳を澄ます。雨の音と水を撥ねる車のノイズ。

「そろそろ帰ろっかな」

 トレイに皿とカップを移して姉さんは立ち上がる。

「もう?」
「これから予定入っているのよ。アップルパイ、冷蔵庫に入れて置くから、アキラが帰ってきたら食べさせてあげて」

 姉さんは流し台の前に立ってお皿を洗い始める。その様子を見て、慣れているなと思った。

「わかった……」
「なに寂しそーな顔してるのよ。アキラ、すぐ帰ってくるでしょ?」
「だって……」
「甘えん坊さんが」
「違うモン……」

 全否定はできないなぁとは感じたけど。でもボクは一人でなんとかやってきたんだ。寂しいなんて……。

「いーのよ、甘えてやれば。多少のワガママならあたしもアキラも可愛いって許しちゃうから」

 にっこりとこちらに微笑み掛ける。蛇口を締めて、姉さんは布巾に手を伸ばす。

「あ、お皿拭くぐらいは自分でするからそのままにして置いて」
「そう? それじゃ……」

 姉さんは笑んで、カウンターに置いてあったハンドバッグを持った。

「ごめんなさいね、アキラが帰ってくるまで一緒にいられなくて」
「うぅん。来てくれて嬉しかった」

 玄関まで姉さんを送る。短い時間だったけど、本当に姉さんが来てくれて良かったと思う。一人はやっぱり……寂しいから。誰かといるのが心地よいと思える今は、とりわけ寂しく感じる。

「また来るね。アキラによろしく」

 じゃ、と軽く手を振ってハル姉さんは出て行った。




 残るのは雨のノイズ。
 ボクはキッチンに戻って、お皿洗いの続きを始める。ただ拭くだけだけど。
 不意に響く電子音。携帯電話かららしい。しかし兄さんは持って出て行ったはず……。
 不思議に思ったボクは、布巾を元の位置に掛けて音源を探った。見ればカウンターの下にピンク色の電話が落ちている。ハル姉さんのだ。音はそこで途切れる。画面には新着有りの表示。
 姉さんに届けなくちゃ。
 ボクは彼女を追うことにした。まだあれから五分くらいしか経っていない。すぐに追いつくだろう。兄さんは外に出るなって言ったけど、ちょっとぐらい……、迷っていたら辿り着けなくなる。ボクは心に決めて携帯電話を片手にドアを開けた。

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