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第8話 可愛くなんてない
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「……はい。……はい……すみませんでした」
会社の担当と交代要員として駆けつけてくれた先輩に電話を終えると、史華は大きく息を吐いた。
今は十二時近い。二度寝していた時間は三時間ほどらしく、空腹を感じること以外は気分は良い。清掃服から着替えた史華は自分の荷物を仕事用にしている黒いミニリュックに詰め込むと、更衣室から出た。
「時間が掛かっていたから、また倒れているんじゃないかと心配したよ。史華ちゃん」
ドアを閉めるなり声をかけて来たのは緒方悠だった。更衣室まで着いて来たときに「着替え終わるまで待つよ」と言っていたが、本当に待っていたらしい。彼はにこやかな表情で史華に近づいてくる。
「あたし、自転車通勤なので、送っていただかなくて結構ですから」
目を合わせたら彼のペースに飲まれてしまうとわかっている。だから史華は悠を見ないようにして、すたすたと歩く。
「そう言われても、君をきちんと送り届けないと心配で。それに一緒にブランチでもできないかななんて思っているところなんだけど、どうだい?」
「いえ、こんな格好ですし、お断りします。――社長さんこそ、あんな時間にオフィスにいたくらいなんですからさぞかしお疲れでしょう。さっさとお休みになられたら如何ですか?」
拒否する気持ちを前面に押し出して言ってやる。身だしなみがろくに整っていない状態だというのに、彼のような美男子の側にいたくはない。店に一緒に行くなど、以ての外だ。明らかにブランドものだとわかるオフィスカジュアルを意識した装いである悠の隣に、くたびれたウィンドブレーカーに着古したジーパン、ボロボロのスニーカーの自分が立っていられようか。
「恥をかかせるつもりはないよ。俺の家に案内するつもりだし」
「はぁっ⁉︎」
想定外の発言に、史華は後ろに着いて来た悠を見てしまった。
思惑通りといった悠の表情に、しまったなと思う。
「君が心配してくれるように、俺も少し疲れが残っているからね。家でゆっくりしたい」
「はぁ、なら一人で寛いでください。あたしはあたしで、家でゆっくりしますから」
少し睨んでから、史華はビルの裏に出る扉に向かって歩き出す。
「……あれ」
いつも裏口の壁に立て掛けていたマウンテンバイクがないことに気づいた。無断で置いておくのは良くないだろうと、しっかり管理会社に許可を取ってから置いていたというのに。
史華は慌てて扉を開けて、周囲を見る。マウンテンバイクが外に追い出されているということではないようだ。
「うそ……盗まれた?」
マウンテンバイクには元からついている鍵の他にチェーンも着けていた。ここに通勤するようになって二ヶ月近くなるが、こんなことは初めてだ。
そっか。いつもはこのビルに出勤してくる人たちとは入れ違いになっていたから目につかなかったけど、今はお昼時だ。誰かが目敏く見つけて鍵を壊し、持っていったのかもしれない。
「ツイてない……」
気力が抜けて、史華は壁に手を当てた。ここにあったはずのマウンテンバイクはどこに行ってしまったのだろうか、戻ってくるのだろうかと不安に思う。安物であったし、特に思い入れがあるものではないのだが、想定外だった所為かショックが大きい。
「どうかしたの?」
その様子を見守っていただけだった悠が、史華の肩をさりげなく寄せて問うてきた。史華の頭が悠の胸元に当たる。
「自転車がないんです」
想像以上に情けない声が出た。悠の馴れ馴れしい手を弾くのに懸命になっていたのだが、力が出なくて退かせない。それどころかギュッと抱きしめられてしまった。
「それは災難だね。仕方ないから、俺が家まで送ってあげよう」
「…………」
何か返して逃げようかと思っていたはずなのに、自転車がなくなっていたことがかなりのダメージになってしまったようで何も言葉が浮かばない。空腹で頭が回っていない所為もあるのだろう。
「あぁ、もうわかりました。好きにしてください」
全面的に降参することにした。何を言っても引き下がる気のない人を相手にするのは疲れる。ため息混じりに渋々頷くと、彼の胸元にくっついていた頭を撫でられた。
「初めから素直に応じていれば良かったのに。疲れたでしょ?」
くすくすと笑う声に、少し腹が立つ。周りの視線がない場所だからといって馴れ馴れしくしてくるのも、なんとなく苛つかせる。
「だ、誰の所為で疲れが増しているんだと思っているんですかっ⁉︎」
だが、非難する台詞も力がない。これでは照れているようではないか。
「そういう態度も、俺は可愛いと思うよ」
耳元で囁くなんて反則だ。こうされて改めて気が付いたが、彼の声も心地よい素敵な声なのだ。男性としてはやや高めの、テナーボイス。中性的な印象のする端正な顔に良く合っている。
「ちゃんと家まで送ってくださいね!」
口説き落とされてたまるかと、必死に抵抗する。この胸のドキドキはときめきじゃない。困惑している所為だし、疲れが出ている証拠に決まっている。
彼はやっと史華の身体を解放した。
「うん。もちろん。――さぁ、行こうか」
悠は史華の手を引くと、裏口の扉を開けたのだった。
会社の担当と交代要員として駆けつけてくれた先輩に電話を終えると、史華は大きく息を吐いた。
今は十二時近い。二度寝していた時間は三時間ほどらしく、空腹を感じること以外は気分は良い。清掃服から着替えた史華は自分の荷物を仕事用にしている黒いミニリュックに詰め込むと、更衣室から出た。
「時間が掛かっていたから、また倒れているんじゃないかと心配したよ。史華ちゃん」
ドアを閉めるなり声をかけて来たのは緒方悠だった。更衣室まで着いて来たときに「着替え終わるまで待つよ」と言っていたが、本当に待っていたらしい。彼はにこやかな表情で史華に近づいてくる。
「あたし、自転車通勤なので、送っていただかなくて結構ですから」
目を合わせたら彼のペースに飲まれてしまうとわかっている。だから史華は悠を見ないようにして、すたすたと歩く。
「そう言われても、君をきちんと送り届けないと心配で。それに一緒にブランチでもできないかななんて思っているところなんだけど、どうだい?」
「いえ、こんな格好ですし、お断りします。――社長さんこそ、あんな時間にオフィスにいたくらいなんですからさぞかしお疲れでしょう。さっさとお休みになられたら如何ですか?」
拒否する気持ちを前面に押し出して言ってやる。身だしなみがろくに整っていない状態だというのに、彼のような美男子の側にいたくはない。店に一緒に行くなど、以ての外だ。明らかにブランドものだとわかるオフィスカジュアルを意識した装いである悠の隣に、くたびれたウィンドブレーカーに着古したジーパン、ボロボロのスニーカーの自分が立っていられようか。
「恥をかかせるつもりはないよ。俺の家に案内するつもりだし」
「はぁっ⁉︎」
想定外の発言に、史華は後ろに着いて来た悠を見てしまった。
思惑通りといった悠の表情に、しまったなと思う。
「君が心配してくれるように、俺も少し疲れが残っているからね。家でゆっくりしたい」
「はぁ、なら一人で寛いでください。あたしはあたしで、家でゆっくりしますから」
少し睨んでから、史華はビルの裏に出る扉に向かって歩き出す。
「……あれ」
いつも裏口の壁に立て掛けていたマウンテンバイクがないことに気づいた。無断で置いておくのは良くないだろうと、しっかり管理会社に許可を取ってから置いていたというのに。
史華は慌てて扉を開けて、周囲を見る。マウンテンバイクが外に追い出されているということではないようだ。
「うそ……盗まれた?」
マウンテンバイクには元からついている鍵の他にチェーンも着けていた。ここに通勤するようになって二ヶ月近くなるが、こんなことは初めてだ。
そっか。いつもはこのビルに出勤してくる人たちとは入れ違いになっていたから目につかなかったけど、今はお昼時だ。誰かが目敏く見つけて鍵を壊し、持っていったのかもしれない。
「ツイてない……」
気力が抜けて、史華は壁に手を当てた。ここにあったはずのマウンテンバイクはどこに行ってしまったのだろうか、戻ってくるのだろうかと不安に思う。安物であったし、特に思い入れがあるものではないのだが、想定外だった所為かショックが大きい。
「どうかしたの?」
その様子を見守っていただけだった悠が、史華の肩をさりげなく寄せて問うてきた。史華の頭が悠の胸元に当たる。
「自転車がないんです」
想像以上に情けない声が出た。悠の馴れ馴れしい手を弾くのに懸命になっていたのだが、力が出なくて退かせない。それどころかギュッと抱きしめられてしまった。
「それは災難だね。仕方ないから、俺が家まで送ってあげよう」
「…………」
何か返して逃げようかと思っていたはずなのに、自転車がなくなっていたことがかなりのダメージになってしまったようで何も言葉が浮かばない。空腹で頭が回っていない所為もあるのだろう。
「あぁ、もうわかりました。好きにしてください」
全面的に降参することにした。何を言っても引き下がる気のない人を相手にするのは疲れる。ため息混じりに渋々頷くと、彼の胸元にくっついていた頭を撫でられた。
「初めから素直に応じていれば良かったのに。疲れたでしょ?」
くすくすと笑う声に、少し腹が立つ。周りの視線がない場所だからといって馴れ馴れしくしてくるのも、なんとなく苛つかせる。
「だ、誰の所為で疲れが増しているんだと思っているんですかっ⁉︎」
だが、非難する台詞も力がない。これでは照れているようではないか。
「そういう態度も、俺は可愛いと思うよ」
耳元で囁くなんて反則だ。こうされて改めて気が付いたが、彼の声も心地よい素敵な声なのだ。男性としてはやや高めの、テナーボイス。中性的な印象のする端正な顔に良く合っている。
「ちゃんと家まで送ってくださいね!」
口説き落とされてたまるかと、必死に抵抗する。この胸のドキドキはときめきじゃない。困惑している所為だし、疲れが出ている証拠に決まっている。
彼はやっと史華の身体を解放した。
「うん。もちろん。――さぁ、行こうか」
悠は史華の手を引くと、裏口の扉を開けたのだった。
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