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第1章
事件
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本当、踏んだり蹴ったりである。
会社で騒いだのは全て私の責任だ。
確かにそれはそうだ。
きちんと反省している。
しかし、上司にやんわりと叱られただけだと言うのが松井さんの気に食わなかったらしく、個別で松井さんのサポートをお願いされた。
くそ、ヒステリックババアめ。
後で覚えてろ。
それに会社も。
わざとゆっくり仕事をしてお前からがっぽり残業代取ってやるからな。
神話によると、この国のどこかに「ホワイト企業」というものがあるらしく、そこは、こんな苦行など一切存在しない理想郷であるらしい。
ぜひ就職してみたいものだ。
いや、就職したかった。
か弱い女性一人、冷たいオフィスの中でカタカタとパソコンのキーボードを叩く。
腹いせに大きな音を立てても、誰も文句を言わない。
虚しい。
泣きそうだ。
寂しくて同じ部署の同僚、イケメンA君がここにいることを妄想してみる。
「高木さん、疲れてない?俺、高木さんのこと心配なんだ」
「大丈夫よ。心配してくれてありがとう、優しいのね」
「……優しくするのは高木さんだけだよ」
なーんてね。
キャー!
でもそう言えば、A君は確か最近婚約したんだっけな。
超可愛い受付嬢と。
……あー、虚しい。
結局、妄想に拍車がかかって手元が疎かになり、当初予定していた帰る時間を大幅に超えてしまった。
いつもなら、とっくの昔に眠ってしまっている時間に会社を出ねばならぬと、半分自分のせいなのにいらいらしてタイムカードを入力させる。
私のために最後まで残ってくださった警備の方に挨拶して、冬特有の冷気に飛び込んだ。
「さっむーい」
結構なボリュームで独り言を言っても、誰も変な目で見ないというか誰もいないという事実に慄くが、ともかく明日は休みである。
よし、いっぱい寝て久しぶりに料理でもするかと、後で酷く後悔するような催し物を考え込んでいると、いつの間に自分の家付近に着いていたらしい。
だが、そこに家はなかった。
そう、家がなかった。
鳴り止まぬサイレンの音と、数本の水柱、明るいオレンジ色の世界、悲鳴、炎の欠片が飛沫のようにあちこちに飛び散っている。
焦げ臭さが鼻孔に入り、思い切り咳込んだ。
「大丈夫かしら」
なんぞ口々に仰っている近所のおばさま方と、にやにや笑いながら個人の家を撮影している野次馬共。
私は目をこすって、もう一度目の前を見つめる。
これは、誰の家だ?
なんか私の家に形が似ているんだけれど。
ものすごく。
どう考えても今燃えているのが実家にしか見えず、それを信じられない私は自分の頬にビンタを食らわす。
だが目の前の風景は一切変わらない。
夢ではなかった。
現実だ。
そうしている間にも、ひたすら燃え上がる自分の家。
怒りとか悲しみとか、そんな感情はついぞ湧いてこなかった。
ああそう言えば家に家に置きっぱなしだったな、通帳。
カードは持ってるから、お金は下ろせるんだろうけど。
「お姉さん、大丈夫ですか!?」
しっかりしてくださいと揺さぶられ、口々に質問してくるごわごわしたオレンジ色の人たちに向かって、あろうことか、
「……これ、保険おりますよね?」
なんて聞いてしまった私は馬鹿なのだろうか。
私は実家暮らしである。
だが、一人で住んでいる。
いや、今では「いた」、か。
ハハ。
全部燃えちゃったしね。
実家に元々住んでいた連中、すなわち私の家族は、たった一人の娘を置いて田舎の祖父母の元で農業を次ぐと一念発起し、今は遠い場所で大型機械を動かしている。
そういうわけで私は、せっかく地元で就職したのに結局一人暮らしになってしまったわけだが。
その住んでいた家が、全焼してしまった。
もうまるっきり。
理由はガス漏れらしい。
うちの家の古くなったガスコンロからやつが漏れ出し、乾燥した空気と化学反応を起こして火災発生。
幸か不幸か、近くに誰もいなかったせいで家は燃えに燃え、気づいたときには大炎上だったらしい。
一切私のせいではないが、もちろんご近所さんのせいではない。
誰かのせいにするのが不可能である。
だがあの野郎ども、私が、
「火災保険入ってる?」
と聞くと、
「うーん、どうだっけなー? 多分、入ってない、かな? いや、入ってる? ――ねぇお父さん、どっちだったっけ!?」
などと、曖昧なことを抜かしやがる。
はっきりしやがれ。
こちとら何もかも全部燃えてんのよ。
消防署で事情を聞かれ、警察署で事情を聞かれ、気が付くと夜明けである。
眠いし、怠い。
早く眠りたい。
あっ、家燃えたんだった。
早朝、唯一頼れそうな友人に連絡する。
「んー、もう、なによぉ。一体何時だと思ってんのぉ」
面倒くさそうな声で電話に出てくれた友人に、
「雛子ぉ。家、なくなっちゃったぁ……」
と、私は涙の交じった声ですがりついた。
会社で騒いだのは全て私の責任だ。
確かにそれはそうだ。
きちんと反省している。
しかし、上司にやんわりと叱られただけだと言うのが松井さんの気に食わなかったらしく、個別で松井さんのサポートをお願いされた。
くそ、ヒステリックババアめ。
後で覚えてろ。
それに会社も。
わざとゆっくり仕事をしてお前からがっぽり残業代取ってやるからな。
神話によると、この国のどこかに「ホワイト企業」というものがあるらしく、そこは、こんな苦行など一切存在しない理想郷であるらしい。
ぜひ就職してみたいものだ。
いや、就職したかった。
か弱い女性一人、冷たいオフィスの中でカタカタとパソコンのキーボードを叩く。
腹いせに大きな音を立てても、誰も文句を言わない。
虚しい。
泣きそうだ。
寂しくて同じ部署の同僚、イケメンA君がここにいることを妄想してみる。
「高木さん、疲れてない?俺、高木さんのこと心配なんだ」
「大丈夫よ。心配してくれてありがとう、優しいのね」
「……優しくするのは高木さんだけだよ」
なーんてね。
キャー!
でもそう言えば、A君は確か最近婚約したんだっけな。
超可愛い受付嬢と。
……あー、虚しい。
結局、妄想に拍車がかかって手元が疎かになり、当初予定していた帰る時間を大幅に超えてしまった。
いつもなら、とっくの昔に眠ってしまっている時間に会社を出ねばならぬと、半分自分のせいなのにいらいらしてタイムカードを入力させる。
私のために最後まで残ってくださった警備の方に挨拶して、冬特有の冷気に飛び込んだ。
「さっむーい」
結構なボリュームで独り言を言っても、誰も変な目で見ないというか誰もいないという事実に慄くが、ともかく明日は休みである。
よし、いっぱい寝て久しぶりに料理でもするかと、後で酷く後悔するような催し物を考え込んでいると、いつの間に自分の家付近に着いていたらしい。
だが、そこに家はなかった。
そう、家がなかった。
鳴り止まぬサイレンの音と、数本の水柱、明るいオレンジ色の世界、悲鳴、炎の欠片が飛沫のようにあちこちに飛び散っている。
焦げ臭さが鼻孔に入り、思い切り咳込んだ。
「大丈夫かしら」
なんぞ口々に仰っている近所のおばさま方と、にやにや笑いながら個人の家を撮影している野次馬共。
私は目をこすって、もう一度目の前を見つめる。
これは、誰の家だ?
なんか私の家に形が似ているんだけれど。
ものすごく。
どう考えても今燃えているのが実家にしか見えず、それを信じられない私は自分の頬にビンタを食らわす。
だが目の前の風景は一切変わらない。
夢ではなかった。
現実だ。
そうしている間にも、ひたすら燃え上がる自分の家。
怒りとか悲しみとか、そんな感情はついぞ湧いてこなかった。
ああそう言えば家に家に置きっぱなしだったな、通帳。
カードは持ってるから、お金は下ろせるんだろうけど。
「お姉さん、大丈夫ですか!?」
しっかりしてくださいと揺さぶられ、口々に質問してくるごわごわしたオレンジ色の人たちに向かって、あろうことか、
「……これ、保険おりますよね?」
なんて聞いてしまった私は馬鹿なのだろうか。
私は実家暮らしである。
だが、一人で住んでいる。
いや、今では「いた」、か。
ハハ。
全部燃えちゃったしね。
実家に元々住んでいた連中、すなわち私の家族は、たった一人の娘を置いて田舎の祖父母の元で農業を次ぐと一念発起し、今は遠い場所で大型機械を動かしている。
そういうわけで私は、せっかく地元で就職したのに結局一人暮らしになってしまったわけだが。
その住んでいた家が、全焼してしまった。
もうまるっきり。
理由はガス漏れらしい。
うちの家の古くなったガスコンロからやつが漏れ出し、乾燥した空気と化学反応を起こして火災発生。
幸か不幸か、近くに誰もいなかったせいで家は燃えに燃え、気づいたときには大炎上だったらしい。
一切私のせいではないが、もちろんご近所さんのせいではない。
誰かのせいにするのが不可能である。
だがあの野郎ども、私が、
「火災保険入ってる?」
と聞くと、
「うーん、どうだっけなー? 多分、入ってない、かな? いや、入ってる? ――ねぇお父さん、どっちだったっけ!?」
などと、曖昧なことを抜かしやがる。
はっきりしやがれ。
こちとら何もかも全部燃えてんのよ。
消防署で事情を聞かれ、警察署で事情を聞かれ、気が付くと夜明けである。
眠いし、怠い。
早く眠りたい。
あっ、家燃えたんだった。
早朝、唯一頼れそうな友人に連絡する。
「んー、もう、なによぉ。一体何時だと思ってんのぉ」
面倒くさそうな声で電話に出てくれた友人に、
「雛子ぉ。家、なくなっちゃったぁ……」
と、私は涙の交じった声ですがりついた。
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