崖っぷちOL、定食屋に居候する

小倉みち

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第2章

疲労

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 家が燃えてから怒涛の日々である。
  

 金曜日の夜、というか土曜の早朝と言うべきか。


 ひたすら残業手当が高くつくように祈り続けながら定食屋に戻る。
  

 ふらふらと所在なさげに歩く。

 もしかすると怪しげなコートを着込んだ男がその角から現れるかもしれない。

 しかしそれを気にしている場合ではなく、私の足は一心不乱に一つの方向へ向かう。


 しかし睡魔があちこちから私を襲い、それ故に足元をおぼつかなくさせる。
  

 季節は秋から冬にかけて。

 春はまだまだ遠い。


 針で刺すような寒さが私から水蒸気を奪い、目の前を濁らせる。
  

 こういう時こそ暖かい飲み物が欲しいのに。


 自販機よ、なぜ君はいつもここにいないのか。
  

 いつもの妄想癖が爆発し、拭う間もない涙や鼻水で顔を濡らしながら引戸を開ける。
  

 もう日付が過ぎたというのに、ほのかに明るい店内では大きく船漕ぎをする冬馬さんがいた。


 まさかこんなところで寝ているとは思わず、私は軽く、

「ひっ」

 と、声を漏らした。


 ……びっくりした。

  何してんだろう、この人。


「た、ただいま帰りました……」
  
 起こさないように小さな声で発し、ゆっくりと彼に近づく。
  

 眉間に皺が寄っていた。


 寝顔怖っ。

 やっぱり、かなり凶悪な顔してるよね、この人。


 にしても、と疑問に思う。


 何をしてたんだろうか、こんな時間まで。

 もしかして明日の仕込み?


 だとしても、おかしい。

 いつもならもう自室で寝ていてもおかしくない時間帯だ。


 しかしまあ。

 どちらにせよ、現に目の前で冬馬さんはうとうとしていた。

 起こすのもどうかと思ったので、なんとなく魔が差した私は、着ていた上着を彼にかけようとして、コートを脱いだ。

 すると、突然カッと目を見開いた彼は私の腕を掴む。


「ひっ」

 本格的な悲鳴をあげそうになり、私は慌てて自分の唇を噛んだ。


 危ない、危ない。

 今は深夜だ。

 ご近所さん迷惑になる。


「えっ。ちょっ。……な、なんですか?」
 

 バクバクと脈打つ心臓。

 驚き過ぎて死ぬかと思った。


 さっきまでうつらうつらとしていた冬馬さんが、上目遣いで私を睨み付けている。
 

 可愛いのか怖いのかわかんないなんて思っていたら、怒った口調で冬馬さんが言った。


「何やってたんだ?」

「何って?」

「こんな遅い時間まで、何してたんだ?」

「ええっと……。仕事ですけど」

「こんなに遅くまでか?」

「はい。最近忙しくて」


 そんなことを言いつつ、自分でも泣きそうになってきたのを感じた。
  

 酷く辛い。

 とても辛いのだ。

 お金を稼ぐためとはいえ、私はなぜこんなことをしなければならないのだろう。


 子どもの頃に戻りたい。

 無理だけど。


「なんで連絡しなかった?」

「へ?」


 突然、冬馬さんがよくわからないことを言い出した。


 なんの報連相だ?
  

 首を傾げる私に向かって、冬馬さんはイライラしたように続ける。

「だから、遅く帰るならなんで先に連絡しなかったんだ? 危ないだろ」

「えっ、でも」

「……心配するだろ、俺が」

「……」


 私は少々驚く。


 心配してくれてるんだ。

 意外。

 人間関係、軽薄なタイプかと勝手に思っていた。


「次からは、ちゃんと事前に連絡してくれ」

 迎えに行ってやるから、と照れた顔で付け足す。
  

 なんか……。

 結構可愛いかも。


 いや、かなり可愛いな。


 あっ。

 ヤバい。


 これ、ヤバいかもしれない。


 ぐわっと湧き上がった甘酸っぱい気持ちを、どうにか唾を呑んで抑え込む。


「何か失礼なこと考えてないだろうな?」

 それに目ざとく気づいた冬馬さんが、私を軽く睨んだ。

「イエ、ナンデモアリマセン」


 私は超高速で首を横に振る。

「それなら良い」

 ふいっとそっぽを向いた冬馬さん。


 その隙に、私は吐息をついて話題を変えた。

「そう言えば、こんな夜遅くまでご苦労様です」

「何がだ?」

「何がって、明日の仕込みされてたんでしょ? 深夜まで」
 
  いつもなら、この時間はもう寝静まっているはずだ。

「お疲れ様でした」

「いや、違う」

 冬馬さんは否定した。

「それじゃない」

「じゃあ」

「高木さん、昇進したんだろ。お祝いしようと思って、食事用意してたんだ」

 そう言って厨房の方を指さす。
  

 鮮やかな色合いのちらし寿司が、ラップで保護された状態で皿の上に乗っていた。


「昇進?」

  私は首を傾げた。

「違うのか? 雛子がそう言ってたけど」
 

 確かに事務職から営業職にキャリアチェンジしたが、昇進とはちょっと違うような気がする。
  

 だが、自分のことのように喜んでいる冬馬さんを見ると、なんかもう細かいことはどうでも良くなってきた。

「私のために、ちらし寿司を作ってくれたんですか?」

「それもあるし、今度の新しいメニューの試食してもらおうと思ってたんだ。ちょうどいい機会だろ?」


 店のためだけなら、わざわざ律儀にこんな時間まで起きているはずはないだろう。

 船を漕いでまで、店内を暖かくし、ずっと椅子に座って待っていてくれた。
  

 それは少なくとも、
 冬馬さんの優しさに、つい目頭が熱くなる。
  

 目玉を奥に引っ込め、ぎゅっと力強く目をつぶる。

 心を落ち着かせるために、深く呼吸する。
  

 大丈夫だ。

 落ち着け。


 こんなとこで泣いたら、冬馬さんがびっくりするだろう。
  

 松井さんに目をつけられ、彼氏には浮気され、家は燃え、さらに最悪の雰囲気である仕事場で、松井さんにこれでもかと言うほど怒られ、本当に散々な日々で、何も楽しくないし、しかもせっかくの冬馬さんのご飯もずっと食べられなかったし、雛子にも全然会わないし。
  

 とうとう我慢できなくなった。


 瞼の中から熱いものがぽろぽろと零れ落ち、その途端私は堰が切れたように泣き崩れた。

「えっ、高木さん!? ど、どうし――」
  

 もしかして自分が今なにかしでかしたのかと慌てふためく冬馬さんに、私はどんどん言葉を投げつける。


「全部冬馬さんのせいですよぉ!」

「えっ」

「なんで優しくするんですか!? こんな辛いときにそんなことされたら、泣くに決まってるじゃないですか! 美味しいものなんて、私の為にわざわざ作らないでくださいよぉ。仕事が辛い時に、帰りが遅くなった時に、心配なんてしないでくださいぃ」
  

 大粒の涙を流しながら文句を言い続ける私に対して、出来ることはあるのかとあたふたしていた彼は、どこかから持ってきたブランケットを私の肩にかけた。
 

 洗濯したてのふわふわした身体を包み込んでくれるブランケットにも、さらに泣かされた。
  

 冬馬さんが、私を近くの椅子に座らせてくれる。
  

 いつまでも泣き止まない私の前に、そっとお皿を置いてくれた。


「泣き止んでから食えよ」

 そう言って、彼は私とちらし寿司の前にどかっと座った。

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