5 / 28
side-琥太郎 2.
しおりを挟む
守は、当然のように俺が退院する日まで、毎日病院に来てくれた。
「琥太郎、欲しいものはない?退院したらデートにいっぱい行こうね」
「琥太郎が早く退院しないかなぁ~。えっちなこともいっぱいしようね♡ここじゃ、できないもんね」
「琥太郎の部屋にまた行きたいなぁ~。この際、退院したら一緒に住んじゃう?そしたら、毎日琥太郎のお世話を僕ができるからさ♡」
献身的な彼の姿に愛しさが募っていく。
守が病室に入るたび、甘いシャンプーの香りが漂い、細い腕が俺の肩を抱く。
守の小さな手が俺の手を握り、温かい感触が胸を温める。
なのに、彼の視線を感じるたび、なぜか胸の奥がチクリと痛む。
何か小さなトゲが刺さっているような、不愉快な痛み。
『コタ、疲れてんの?しかたないなぁ~。今日は甘えてもいいよ』
誰かの声を思い出すたび、空虚な思いに駆られる。
「琥太郎!先生がね、明後日には退院してもいいよ。って!やったね!これでまた一緒にいられるね!」
嬉しそうにベッドの周りをピョンピョンと跳ねる守の姿に、誰の声かもわからない曖昧な記憶を振り払う。
「そっか、やっとかぁ~」
ピョンッと抱き付いてきた守を受け止め、擦り寄ってきた猫っ毛に顔を埋める。
チクリと胸の奥に鋭い痛みが走り、頭の奥で誰かの笑顔がちらつく。
「琥太郎?」
守が心配そうな顔で俺の顔を覗き込んできたのがわかり、慌ててなんでもないという笑みを浮かべた。
「記憶、まだ戻らないよね?……大丈夫だよ。過去のことは忘れちゃっても、新しい思い出を今からいっぱい作ればいいんだから」
守の細い腕が俺の腕に絡みつき、柔らかい頬が俺の腕に押し付けられる。
ふわっと香る甘い匂いが鼻腔をくすぐり、白魚のような指が俺の指に絡みつく。
「過去のことなんて、全部忘れちゃえばいいんだ……」
ポツリと呟いた守の言葉に疑問を感じるも、俺の記憶が曖昧なことが不安なんだと思う。
守は猫のように擦り寄ってきては、可愛らしく甘える。
不安を拭い去るように、頬をすり寄せ、キスをねだってくる。
守の華奢な身体が俺に寄りかかるたび、温かな感触が胸を熱くする。
『コタ、大好き』
ただ、守にキスをしようとすると、あの声が聞こえてきて、守に触れるのを躊躇してしまう。
誰の声かわからない。
でも、守に触れようとするたびに聞こえてきて、邪魔をしてくる。
「ありがとな、守。守がそばに居てくれたから、記憶がないって状態でも取り乱さずに済んだよ。でも、守との大切な思い出は、ひとつも失くしたくないから、必ず思い出す。それまで、待っててくれるか?」
守の額に俺の額をコツンと合わせて誓う。
必ず思い出す。
大切な人との思い出は、何ひとつ失くしたくないから……
「思い出さなくていいっ!!」
守が叫ぶように大きな声を上げて否定してきたせいで、驚いて目を見開く。
「ぁ……えっと、あの……ごめっ、違うの。無理に思い出さなくてもいいよ。琥太郎がしんどくなるのは、僕、嫌だから……僕は、今のままでも十分しあわせだから……」
今にも泣き出しそうな顔で縋りつきながら言ってくる守の姿に、胸が痛い。
こんなに追い詰めるくらい、あの事故は怖かったんだと思う。
倒れた……足を踏み外した?飛びついて……きた?
……何かの拍子に、階段から落ちたら、そりゃ怖いよな。
しかも、自分を庇ってくれた恋人の頭からは大量の血が流れていたんだから……
「ごめん。ありがとう、守」
グズグズと泣く守の華奢な身体を強く抱き寄せ、何度も指で涙を拭ってやる。
「俺も、守と一緒にいれて幸せだよ。俺は、守のこと……」
【愛している】ただ一言、言いたいだけなのに、言葉がなぜか出てこなかった。
守に【愛している】と伝えようとすると、なぜか苦いものが上がってくるようで、言葉にすることができない。
喉が詰まり、言葉が胸に引っかかる。
『コタ……』
誰の声かわからないヤツが俺の名前を何度も呼ぶ。
「……琥太郎?どうしたの?」
守が不安げな表情を浮かべながら、俺の頬を優しく撫でてくる。
「……いや、なんでもない」
俺は守の冷たい手に頬をすり寄せ、そっと目を閉じた。
◇ ◇ ◇
退院の日、当然のように守が迎えに来てくれて、ふたりで病院を後にする。
病院のロータリーには、守が手配してくれたタクシーが待っていた。
ふたりで腕を組んだままタクシーに乗り込み、俺の家の近くまで送ってもらう。
タクシーの窓から流れるように見える景色を眺める。
「家に着いたら、なにか思い出せたらいいんだが……」
守が俺の肩に頭を乗せてきたのを感じ、ポツリと呟く。
「……無理に、思い出さなくても、いいよ。琥太郎は……琥太郎だから……」
どこか寂し気な守の声に、俺は罪悪感だけが募っていった。
見覚えのあるマンションの前でタクシーが停まり、トランクから荷物を取り出す。
ギュッと俺の手を握ったままの守が可愛くて、さっきまでの不安が消え去っていくのを感じる。
「うん。ここは覚えてる」
マンションの前は人通りは少ないが、ゼロというわけじゃない。
家までずっと手を繋いでいたいのに、「誰かに見られたら……ダメだろ?」って言って、いつも慌てて手を離していた。
人に見られるのを恥ずかしがって、人目がないのを確認してからじゃないと手を繋いで歩いてくれなかった恋人の事を思い出し、クスッと笑みがこぼれる。
「ここ、誰かに見られるんじゃないかっていつもビクビクしながら手を繋いでいたよな」
守に向かって、今思い出したことを口にすると、ビクッと肩を震わせ、慌てて周りをキョロキョロと見渡す。
「そ、そうだね。で、でも……今は誰もいないから大丈夫」
俺の手を握る守の手が、なぜか汗でじっとりと濡れている気がした。
「ほ、ホントは心臓バクバクなんだよ?でも、今は琥太郎とちょっとでも離れたくないからであって……えっと、今はいいの!これからは、人目があっても、いっぱい手を繋ぎたいの!」
どこか必死に言い訳してくる守に、なぜか違和感を感じる。
『コタ、ダメだって……見られたら、コタまで変な目で見られる……だろ?』
上目遣いに困った顔で見上げてきた誰か……
守の手を握っているはずなのに、その今はいない別の誰かの手の感触を思い出し、胸の奥がざわつく。
「そ、そうだな。守がいいなら、デートのときはずっと手を繋いでいたい。いいだろ?」
違和感を振り払うように首を振り、無理矢理誰かの声を消し去る。
これ以上、守を不安がらせるなんて間違っている。
俺の恋人は【守】だ。
他の誰でもない。
「ね、ねぇ……早く部屋に行こう?ここに居たら、誰かに見られちゃう」
俺の腕を引っ張り、周りに誰もいないのを確認している様子に、俺の違和感が間違いだったのだと納得する。
守に連れていかれるままに、エレベーターに乗って部屋へと向かった。
守の細い腕が俺の腕を引き、華奢な背中がエレベーターの光に映える。
エレベーターの扉が閉まる音を聞いて、胸の違和感を押し潰した。
801号室。
10階建てのマンションの8階にある角部屋。
ここが、俺の住んでいた部屋らしい。
1階のポストには大量のチラシなどが入っているのが見えたので、守が帰ってから必要なものが入っていないか確認しなければいけない。
持っていた鍵を差し込み、扉をゆっくりと開ける。
1週間以上留守にしていたせいか、ひんやりとした空気が扉を開けた瞬間流れ込んできた。
室内は……俺が思っていた状態とかなり異なっていた。
家具などはまだあるものの、大半の物が段ボールに梱包してある状態だった。
段ボールに詰められた荷物が、薄暗い部屋の片隅に積み重なっており、どうやら引っ越しの準備をしているようだった。
「え、えっと……もうすぐ僕の部屋で同棲予定だったから、色々片付けてたんじゃないかな?」
視線を泳がせながらも、どうしてこうなっているのかを説明してくれる。
「……そっかぁ、同棲直前なのにこんなことになって悪かったな」
ポンポンと守の頭を撫でてやると、甘い香りが鼻をくすぐった。
ただ、守は何かを隠しているのか、落ち着きがないようにキョロキョロと視線がさまよっている。
「……なぁ、守。聞きたいんだけど、どっちが同棲しようって言ってきたんだ?」
かすかな違和感を確認するように聞く。
「ぇ?……そ、それは琥太郎からだったでしょ?琥太郎が僕とずっと一緒に居たいから、そろそろ同棲しよう。って、言ってくれたんだよ」
なぜか焦っている様子の守に違和感を感じる。
俺から……そっか、俺から……
どうしてかわからないけれど、俺から言ったのは間違いな気がする。
『コタ、もうオレんとこに住む?最近、自分家に帰る方が少ないだろ?』
はにかんだ表情を浮かべながらも、笑って言ってくれた誰か……
「そっか……。ごめんな。今すぐ守と一緒に暮らしたいけど、もう少し落ち着いてからでもいいか?こんな記憶が曖昧だと、守に迷惑をかけちまうから……」
頭に浮かんだ誰かの声を振り払い、守を抱きしめて謝罪する。
俺の恋人は、【守】だ。
誰なのかもわからない、アイツじゃない。
守は不満気に頬を膨らませ、ブツブツとなにか文句を言っていたが、触れるだけの口付けを繰り返しているうちに大人しくなった。
守の柔らかな頬に唇を押し当て、滑らかな肌の触感を楽しむ。
守の吐息が耳に触れ、胸が熱くなる。
このまま押し倒してしまいたい。
頭ではそう思っているのに、なぜか身体が拒絶する。
キス以上のことをしようとすると、胸の奥がモヤモヤとし、これ以上守に触れることを戸惑ってしまう。
「琥太郎?」
熱で潤んだ守の目を見て、俺は再度深い口付けをする。
舌を絡め、上顎を舌先で撫でる。
「ン、ふっ……ぁ」
守の感じている声を聞いて、身体は熱くなるのに、心の奥がなぜかすぅーっと冷たくなっていくのを感じる。
どういうことだ?
なんで……恋人に触れているはずなのに、どうしてこんなに心が騒ぐんだ?
「……守、飯……行こっか……」
唇を離し、まだポヤポヤした状態の守の頭を撫でながら提案する。
守はコクンと頷いたあと、俺に甘えるように抱き着いてきた。
俺には、こんなに可愛い恋人がいるのに、何を悔やんでいるんだろうな……
なにか、とんでもない間違いを犯している気がしてしかたない。
◇ ◇ ◇
彼と共に近くのファミレスにて夕食を済ませ、ひとりで部屋に戻ってきた。
さっきまで、守とふたりきりで夕食を食べていた。
ファミレスの照明が守の顔を照らし、ハンバーグの皿から立ち上る湯気が鼻をくすぐる。
美味しそうにハンバーグを頬張る彼の様子に、頬がニヤけてしまった。
「琥太郎?どうかした?」
不意に、守が不安げな表情で問うてくる。
なんでもないはずなのに、さっきから胸の奥に生じた違和感を拭い去ることができずにいた。
「……なんでもない。守、ソースついてるぞ」
守の口の端に付いたソースを指で拭ってやり、ペロリと舐めようとするも、なぜか嫌悪感が募ってしまい、手元にあったおしぼりで汚れを拭った。
そんなことが、いくつもあった。
大切な恋人と食事をしているだけなのに、いくつもの違和感と嫌悪感を拭い去ることができない。
守は俺の家に泊まりたいと駄々をこねていたが、今夜は諦めてもらった。
「はぁ……もう少し何かを思い出せば、この違和感は消えてくれるのか?」
深い溜息が自然と出てきてしまう。
新しいスマホは、夕食の前に買いに行くことができた。
クラウドに残してあったデータを戻すことができたから、アドレスやメモなどはなんとか復旧した。
ただ、画像などのバックアップは取っていなかったらしく、なんの手がかりを得ることもできなかった。
新しいスマホの画面が光り、アドレス帳の名前が並ぶ。
その中に、あのストーカー野郎の名前も当然のように登録してあった。
「チッ……こんな奴の連絡先、さっさと消しておけばいいのに……」
苦々しい想いがつい表情に出てしまう。
【竹内 朝陽】と書かれたデータをブロックリストに登録し、今後コイツの名前を一切見なくて済むように設定する。
「あぁ~……明日から会社に行かなきゃな……。今後のことも相談しときたいし……。でも、守と会えない時間が増えるのは不満なんだよなぁ~」
ここ数日、付きっきりでそばに居てくれた恋人の顔が浮かぶ。
だが、急に長期で休んでしまったせいで迷惑をかけてしまったことに変わりはない。
これから俺が仕事に戻ったとして、今まで通り働けるのか不安はある。
今までの自分がどうだったのか……今の俺と何が違うのか……
『コタ、疲れてんだろ?オレの前では、甘えていいよ』
また、あの声が聞こえる。
守は俺のことを【琥太郎】と呼ぶから、この【コタ】と呼ぶ声は、違うやつだと断定できる。
なら、誰だ……?
「あぁ~……せめて写真かLINEのデータが復活してくれていれば、このモヤモヤが解消できたんだけどなぁ……」
ガシガシと頭を掻き、戻らなかったデータに落胆する。
どれだけスマホを眺めていても、戻すことのできなかったデータを復旧することはできない。
壊れてしまったデータの欠片が、俺の記憶の空白を象徴しているようだった。
もう、今日は早く寝てしまおう。
明日から仕事が始まる。
職場に行けば、少しはこの記憶を取り戻す手がかりが見つかるだろう。
冷たいシーツが広がるベッドに身体を預け、枕に顔を埋めると、守のシャンプーの残り香がした。
やっぱり、守には今夜も一緒に居てもらえばよかった……
「琥太郎、欲しいものはない?退院したらデートにいっぱい行こうね」
「琥太郎が早く退院しないかなぁ~。えっちなこともいっぱいしようね♡ここじゃ、できないもんね」
「琥太郎の部屋にまた行きたいなぁ~。この際、退院したら一緒に住んじゃう?そしたら、毎日琥太郎のお世話を僕ができるからさ♡」
献身的な彼の姿に愛しさが募っていく。
守が病室に入るたび、甘いシャンプーの香りが漂い、細い腕が俺の肩を抱く。
守の小さな手が俺の手を握り、温かい感触が胸を温める。
なのに、彼の視線を感じるたび、なぜか胸の奥がチクリと痛む。
何か小さなトゲが刺さっているような、不愉快な痛み。
『コタ、疲れてんの?しかたないなぁ~。今日は甘えてもいいよ』
誰かの声を思い出すたび、空虚な思いに駆られる。
「琥太郎!先生がね、明後日には退院してもいいよ。って!やったね!これでまた一緒にいられるね!」
嬉しそうにベッドの周りをピョンピョンと跳ねる守の姿に、誰の声かもわからない曖昧な記憶を振り払う。
「そっか、やっとかぁ~」
ピョンッと抱き付いてきた守を受け止め、擦り寄ってきた猫っ毛に顔を埋める。
チクリと胸の奥に鋭い痛みが走り、頭の奥で誰かの笑顔がちらつく。
「琥太郎?」
守が心配そうな顔で俺の顔を覗き込んできたのがわかり、慌ててなんでもないという笑みを浮かべた。
「記憶、まだ戻らないよね?……大丈夫だよ。過去のことは忘れちゃっても、新しい思い出を今からいっぱい作ればいいんだから」
守の細い腕が俺の腕に絡みつき、柔らかい頬が俺の腕に押し付けられる。
ふわっと香る甘い匂いが鼻腔をくすぐり、白魚のような指が俺の指に絡みつく。
「過去のことなんて、全部忘れちゃえばいいんだ……」
ポツリと呟いた守の言葉に疑問を感じるも、俺の記憶が曖昧なことが不安なんだと思う。
守は猫のように擦り寄ってきては、可愛らしく甘える。
不安を拭い去るように、頬をすり寄せ、キスをねだってくる。
守の華奢な身体が俺に寄りかかるたび、温かな感触が胸を熱くする。
『コタ、大好き』
ただ、守にキスをしようとすると、あの声が聞こえてきて、守に触れるのを躊躇してしまう。
誰の声かわからない。
でも、守に触れようとするたびに聞こえてきて、邪魔をしてくる。
「ありがとな、守。守がそばに居てくれたから、記憶がないって状態でも取り乱さずに済んだよ。でも、守との大切な思い出は、ひとつも失くしたくないから、必ず思い出す。それまで、待っててくれるか?」
守の額に俺の額をコツンと合わせて誓う。
必ず思い出す。
大切な人との思い出は、何ひとつ失くしたくないから……
「思い出さなくていいっ!!」
守が叫ぶように大きな声を上げて否定してきたせいで、驚いて目を見開く。
「ぁ……えっと、あの……ごめっ、違うの。無理に思い出さなくてもいいよ。琥太郎がしんどくなるのは、僕、嫌だから……僕は、今のままでも十分しあわせだから……」
今にも泣き出しそうな顔で縋りつきながら言ってくる守の姿に、胸が痛い。
こんなに追い詰めるくらい、あの事故は怖かったんだと思う。
倒れた……足を踏み外した?飛びついて……きた?
……何かの拍子に、階段から落ちたら、そりゃ怖いよな。
しかも、自分を庇ってくれた恋人の頭からは大量の血が流れていたんだから……
「ごめん。ありがとう、守」
グズグズと泣く守の華奢な身体を強く抱き寄せ、何度も指で涙を拭ってやる。
「俺も、守と一緒にいれて幸せだよ。俺は、守のこと……」
【愛している】ただ一言、言いたいだけなのに、言葉がなぜか出てこなかった。
守に【愛している】と伝えようとすると、なぜか苦いものが上がってくるようで、言葉にすることができない。
喉が詰まり、言葉が胸に引っかかる。
『コタ……』
誰の声かわからないヤツが俺の名前を何度も呼ぶ。
「……琥太郎?どうしたの?」
守が不安げな表情を浮かべながら、俺の頬を優しく撫でてくる。
「……いや、なんでもない」
俺は守の冷たい手に頬をすり寄せ、そっと目を閉じた。
◇ ◇ ◇
退院の日、当然のように守が迎えに来てくれて、ふたりで病院を後にする。
病院のロータリーには、守が手配してくれたタクシーが待っていた。
ふたりで腕を組んだままタクシーに乗り込み、俺の家の近くまで送ってもらう。
タクシーの窓から流れるように見える景色を眺める。
「家に着いたら、なにか思い出せたらいいんだが……」
守が俺の肩に頭を乗せてきたのを感じ、ポツリと呟く。
「……無理に、思い出さなくても、いいよ。琥太郎は……琥太郎だから……」
どこか寂し気な守の声に、俺は罪悪感だけが募っていった。
見覚えのあるマンションの前でタクシーが停まり、トランクから荷物を取り出す。
ギュッと俺の手を握ったままの守が可愛くて、さっきまでの不安が消え去っていくのを感じる。
「うん。ここは覚えてる」
マンションの前は人通りは少ないが、ゼロというわけじゃない。
家までずっと手を繋いでいたいのに、「誰かに見られたら……ダメだろ?」って言って、いつも慌てて手を離していた。
人に見られるのを恥ずかしがって、人目がないのを確認してからじゃないと手を繋いで歩いてくれなかった恋人の事を思い出し、クスッと笑みがこぼれる。
「ここ、誰かに見られるんじゃないかっていつもビクビクしながら手を繋いでいたよな」
守に向かって、今思い出したことを口にすると、ビクッと肩を震わせ、慌てて周りをキョロキョロと見渡す。
「そ、そうだね。で、でも……今は誰もいないから大丈夫」
俺の手を握る守の手が、なぜか汗でじっとりと濡れている気がした。
「ほ、ホントは心臓バクバクなんだよ?でも、今は琥太郎とちょっとでも離れたくないからであって……えっと、今はいいの!これからは、人目があっても、いっぱい手を繋ぎたいの!」
どこか必死に言い訳してくる守に、なぜか違和感を感じる。
『コタ、ダメだって……見られたら、コタまで変な目で見られる……だろ?』
上目遣いに困った顔で見上げてきた誰か……
守の手を握っているはずなのに、その今はいない別の誰かの手の感触を思い出し、胸の奥がざわつく。
「そ、そうだな。守がいいなら、デートのときはずっと手を繋いでいたい。いいだろ?」
違和感を振り払うように首を振り、無理矢理誰かの声を消し去る。
これ以上、守を不安がらせるなんて間違っている。
俺の恋人は【守】だ。
他の誰でもない。
「ね、ねぇ……早く部屋に行こう?ここに居たら、誰かに見られちゃう」
俺の腕を引っ張り、周りに誰もいないのを確認している様子に、俺の違和感が間違いだったのだと納得する。
守に連れていかれるままに、エレベーターに乗って部屋へと向かった。
守の細い腕が俺の腕を引き、華奢な背中がエレベーターの光に映える。
エレベーターの扉が閉まる音を聞いて、胸の違和感を押し潰した。
801号室。
10階建てのマンションの8階にある角部屋。
ここが、俺の住んでいた部屋らしい。
1階のポストには大量のチラシなどが入っているのが見えたので、守が帰ってから必要なものが入っていないか確認しなければいけない。
持っていた鍵を差し込み、扉をゆっくりと開ける。
1週間以上留守にしていたせいか、ひんやりとした空気が扉を開けた瞬間流れ込んできた。
室内は……俺が思っていた状態とかなり異なっていた。
家具などはまだあるものの、大半の物が段ボールに梱包してある状態だった。
段ボールに詰められた荷物が、薄暗い部屋の片隅に積み重なっており、どうやら引っ越しの準備をしているようだった。
「え、えっと……もうすぐ僕の部屋で同棲予定だったから、色々片付けてたんじゃないかな?」
視線を泳がせながらも、どうしてこうなっているのかを説明してくれる。
「……そっかぁ、同棲直前なのにこんなことになって悪かったな」
ポンポンと守の頭を撫でてやると、甘い香りが鼻をくすぐった。
ただ、守は何かを隠しているのか、落ち着きがないようにキョロキョロと視線がさまよっている。
「……なぁ、守。聞きたいんだけど、どっちが同棲しようって言ってきたんだ?」
かすかな違和感を確認するように聞く。
「ぇ?……そ、それは琥太郎からだったでしょ?琥太郎が僕とずっと一緒に居たいから、そろそろ同棲しよう。って、言ってくれたんだよ」
なぜか焦っている様子の守に違和感を感じる。
俺から……そっか、俺から……
どうしてかわからないけれど、俺から言ったのは間違いな気がする。
『コタ、もうオレんとこに住む?最近、自分家に帰る方が少ないだろ?』
はにかんだ表情を浮かべながらも、笑って言ってくれた誰か……
「そっか……。ごめんな。今すぐ守と一緒に暮らしたいけど、もう少し落ち着いてからでもいいか?こんな記憶が曖昧だと、守に迷惑をかけちまうから……」
頭に浮かんだ誰かの声を振り払い、守を抱きしめて謝罪する。
俺の恋人は、【守】だ。
誰なのかもわからない、アイツじゃない。
守は不満気に頬を膨らませ、ブツブツとなにか文句を言っていたが、触れるだけの口付けを繰り返しているうちに大人しくなった。
守の柔らかな頬に唇を押し当て、滑らかな肌の触感を楽しむ。
守の吐息が耳に触れ、胸が熱くなる。
このまま押し倒してしまいたい。
頭ではそう思っているのに、なぜか身体が拒絶する。
キス以上のことをしようとすると、胸の奥がモヤモヤとし、これ以上守に触れることを戸惑ってしまう。
「琥太郎?」
熱で潤んだ守の目を見て、俺は再度深い口付けをする。
舌を絡め、上顎を舌先で撫でる。
「ン、ふっ……ぁ」
守の感じている声を聞いて、身体は熱くなるのに、心の奥がなぜかすぅーっと冷たくなっていくのを感じる。
どういうことだ?
なんで……恋人に触れているはずなのに、どうしてこんなに心が騒ぐんだ?
「……守、飯……行こっか……」
唇を離し、まだポヤポヤした状態の守の頭を撫でながら提案する。
守はコクンと頷いたあと、俺に甘えるように抱き着いてきた。
俺には、こんなに可愛い恋人がいるのに、何を悔やんでいるんだろうな……
なにか、とんでもない間違いを犯している気がしてしかたない。
◇ ◇ ◇
彼と共に近くのファミレスにて夕食を済ませ、ひとりで部屋に戻ってきた。
さっきまで、守とふたりきりで夕食を食べていた。
ファミレスの照明が守の顔を照らし、ハンバーグの皿から立ち上る湯気が鼻をくすぐる。
美味しそうにハンバーグを頬張る彼の様子に、頬がニヤけてしまった。
「琥太郎?どうかした?」
不意に、守が不安げな表情で問うてくる。
なんでもないはずなのに、さっきから胸の奥に生じた違和感を拭い去ることができずにいた。
「……なんでもない。守、ソースついてるぞ」
守の口の端に付いたソースを指で拭ってやり、ペロリと舐めようとするも、なぜか嫌悪感が募ってしまい、手元にあったおしぼりで汚れを拭った。
そんなことが、いくつもあった。
大切な恋人と食事をしているだけなのに、いくつもの違和感と嫌悪感を拭い去ることができない。
守は俺の家に泊まりたいと駄々をこねていたが、今夜は諦めてもらった。
「はぁ……もう少し何かを思い出せば、この違和感は消えてくれるのか?」
深い溜息が自然と出てきてしまう。
新しいスマホは、夕食の前に買いに行くことができた。
クラウドに残してあったデータを戻すことができたから、アドレスやメモなどはなんとか復旧した。
ただ、画像などのバックアップは取っていなかったらしく、なんの手がかりを得ることもできなかった。
新しいスマホの画面が光り、アドレス帳の名前が並ぶ。
その中に、あのストーカー野郎の名前も当然のように登録してあった。
「チッ……こんな奴の連絡先、さっさと消しておけばいいのに……」
苦々しい想いがつい表情に出てしまう。
【竹内 朝陽】と書かれたデータをブロックリストに登録し、今後コイツの名前を一切見なくて済むように設定する。
「あぁ~……明日から会社に行かなきゃな……。今後のことも相談しときたいし……。でも、守と会えない時間が増えるのは不満なんだよなぁ~」
ここ数日、付きっきりでそばに居てくれた恋人の顔が浮かぶ。
だが、急に長期で休んでしまったせいで迷惑をかけてしまったことに変わりはない。
これから俺が仕事に戻ったとして、今まで通り働けるのか不安はある。
今までの自分がどうだったのか……今の俺と何が違うのか……
『コタ、疲れてんだろ?オレの前では、甘えていいよ』
また、あの声が聞こえる。
守は俺のことを【琥太郎】と呼ぶから、この【コタ】と呼ぶ声は、違うやつだと断定できる。
なら、誰だ……?
「あぁ~……せめて写真かLINEのデータが復活してくれていれば、このモヤモヤが解消できたんだけどなぁ……」
ガシガシと頭を掻き、戻らなかったデータに落胆する。
どれだけスマホを眺めていても、戻すことのできなかったデータを復旧することはできない。
壊れてしまったデータの欠片が、俺の記憶の空白を象徴しているようだった。
もう、今日は早く寝てしまおう。
明日から仕事が始まる。
職場に行けば、少しはこの記憶を取り戻す手がかりが見つかるだろう。
冷たいシーツが広がるベッドに身体を預け、枕に顔を埋めると、守のシャンプーの残り香がした。
やっぱり、守には今夜も一緒に居てもらえばよかった……
178
あなたにおすすめの小説
六年目の恋、もう一度手をつなぐ
高穂もか
BL
幼なじみで恋人のつむぎと渉は互いにオメガ・アルファの親公認のカップルだ。
順調な交際も六年目――最近の渉はデートもしないし、手もつながなくなった。
「もう、おればっかりが好きなんやろか?」
馴ればっかりの関係に、寂しさを覚えるつむぎ。
そのうえ、渉は二人の通う高校にやってきた美貌の転校生・沙也にかまってばかりで。他のオメガには、優しく甘く接する恋人にもやもやしてしまう。
嫉妬をしても、「友達なんやから面倒なこというなって」と笑われ、遂にはお泊りまでしたと聞き……
「そっちがその気なら、もういい!」
堪忍袋の緒が切れたつむぎは、別れを切り出す。すると、渉は意外な反応を……?
倦怠期を乗り越えて、もう一度恋をする。幼なじみオメガバースBLです♡
βでいるから、そばにいさせて
こうらい ゆあ
BL
幼馴染でαの蓮也が、10年ぶりに帰国。βの執事・陽彩は彼に仕えながら、自身の秘密を隠す。蓮也の番候補として集められたΩたちと、陽彩の複雑な想いが交錯する中、夜の部屋での再会が二人の関係を揺さぶる。過去の約束と秘めた想いが絡み合い、陽彩は蓮也のそばにいるため決意を新たにするが…。心揺れる再会と禁断の秘密が、切なくも惹きつけ合うふたりのお話です。
キミと2回目の恋をしよう
なの
BL
ある日、誤解から恋人とすれ違ってしまった。
彼は俺がいない間に荷物をまとめて出てってしまっていたが、俺はそれに気づかずにいつも通り家に帰ると彼はもうすでにいなかった。どこに行ったのか連絡をしたが連絡が取れなかった。
彼のお母さんから彼が病院に運ばれたと連絡があった。
「どこかに旅行だったの?」
傷だらけのスーツケースが彼の寝ている病室の隅に置いてあって俺はお母さんにその場しのぎの嘘をついた。
彼との誤解を解こうと思っていたのに目が覚めたら彼は今までの全ての記憶を失っていた。これは神さまがくれたチャンスだと思った。
彼の荷物を元通りにして共同生活を再開させたが…
彼の記憶は戻るのか?2人の共同生活の行方は?
平凡な僕が優しい彼氏と別れる方法
あと
BL
「よし!別れよう!」
元遊び人の現爽やか風受けには激重執着男×ちょっとネガティブな鈍感天然アホの子
昔チャラかった癖に手を出してくれない攻めに憤った受けが、もしかしたら他に好きな人がいる!?と思い込み、別れようとする……?みたいな話です。
攻めの女性関係匂わせや攻めフェラがあり、苦手な人はブラウザバックで。
……これはメンヘラなのではないか?という説もあります。
pixivでも投稿しています。
攻め:九條隼人
受け:田辺光希
友人:石川優希
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグ整理します。ご了承ください。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
「君と番になるつもりはない」と言われたのに記憶喪失の夫から愛情フェロモンが溢れてきます
grotta
BL
【フェロモン過多の記憶喪失アルファ×自己肯定感低め深窓の令息オメガ】
オスカー・ブラントは皇太子との縁談が立ち消えになり別の相手――帝国陸軍近衛騎兵隊長ヘルムート・クラッセン侯爵へ嫁ぐことになる。
以前一度助けてもらった彼にオスカーは好感を持っており、新婚生活に期待を抱く。
しかし結婚早々夫から「つがいにはならない」と宣言されてしまった。
予想外の冷遇に落ち込むオスカーだったが、ある日夫が頭に怪我をして記憶喪失に。
すると今まで抑えられていたαのフェロモンが溢れ、夫に触れると「愛しい」という感情まで漏れ聞こえるように…。
彼の突然の変化に戸惑うが、徐々にヘルムートに惹かれて心を開いていくオスカー。しかし彼の記憶が戻ってまた冷たくされるのが怖くなる。
ある日寝ぼけた夫の口から知らぬ女性の名前が出る。彼には心に秘めた相手がいるのだと悟り、記憶喪失の彼から与えられていたのが偽りの愛だと悟る。
夫とすれ違う中、皇太子がオスカーに強引に復縁を迫ってきて…?
夫ヘルムートが隠している秘密とはなんなのか。傷ついたオスカーは皇太子と夫どちらを選ぶのか?
※以前ショートで書いた話を改変しオメガバースにして公募に出したものになります。(結末や設定は全然違います)
※3万8千字程度の短編です
【完結】1億あげるから俺とキスして
SKYTRICK
BL
校内で有名な金持ち美形記憶喪失先輩×取り柄のない平凡鈍感後輩
——真紀人先輩、全て忘れてしまったんですね
司の恋は高校時代の一度だけ。二学年上の真紀人とは一年にも満たない交流だったけれど、それでも司は真紀人への恋を忘れられずにいた。
名門私立校に生活を切り詰めながら通っていた一般家庭の司とは違って、真紀人は上流階級の人間だった。二人の交流は傍目から見ても異様で、最後に別れた日は、司にとっても悲しい記憶になっている。
先に卒業した真紀人と会うこともないまま司も高校を卒業し九年が経った。
真紀人は会社を立ち上げ、若手社長として見事に成功している。司は恋を忘れられないまま、彼とは無縁の人生を歩むが、突如として勤めていた会社が倒産し無職になってしまう。
途方に暮れた司だが、偶然にも真紀人の会社から声をかけられる。自分が真紀人と知り合いだと知らない社員は話を進め、とうとう真紀人との面接に至ってしまう。
このままだとダメだ。なぜなら自分たちの別れは最悪すぎる。追い返されるに決まっている。顔面蒼白する司だが、真紀人の反応は違った。
「俺とお前がただの知り合いなのか?」
事故で記憶に障害を受けた真紀人は、司を忘れていたのだ。
彼は言った。
「そんなわけがない」「もしそうなら俺は頭がおかしいな——……」
⭐︎一言でも感想嬉しいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる