異世界転移の日常生活風−−戦乱を添えて

おたべ ひとり

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一章

第三話

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 雨は、すべてを腐らせるために降っているようだった。

 石畳の隙間に溜まった泥水が、僕のぼろぼろの靴の中に染み込んでくる。
 頭の上の、狼族の証である尖った耳は、冷たい雨粒を弾くことすらできず、力なく伏せられていた。
 八歳の僕の小さな体は、とっくに芯まで冷え切っていた。

 けれど、胸の奥だけは焼けるように熱くて、僕は祈るような思いで薬屋の重い木の扉を叩いた。


「……お願い、おじさん。これ、昨日のぶんのお金なんだ。足りないのは、わかってる。でも、母さんの咳がひどくて……一回分だけでいいから、お薬を……」

 ガチリと鍵が外れる音がして、扉が細く開かれた。
 店主は高い椅子にふんぞり返ったまま、汚れた指先で帳簿をなぞっていた。
 僕が差し出した掌には、昨日、農家の納屋で自分よりも大きな麦の袋を何度も運び、泥にまみれて手に入れた「命」そのものである五枚の銅貨があった。

 店主は僕の手にある銅貨を一瞥し、鼻で笑った。

「ルカ。そんなはした金じゃ、今は薬草の茎すら買えないよ。いいか、戦争が始まってから、銅貨なんてのは道端の石ころと同じなんだ。パン一つ買うのに銅貨が十枚必要だ。さっさと帰れ!」

 店主は立ち上がり、思い切り僕の手を振り払った。
 僕は仰向けに転倒し、そのまま開いた扉から店の外の泥の中へと叩き出された。冷たい水飛沫が顔にかかり、バタンと閉ざされた扉の重い音が、僕の胸に突き刺さった。


「……まだだ。まだ、あきらめちゃだめだ」

 僕は泥の中に這いつくばったまま、震える手で掌を確かめた。そこにはまだ、泥にまみれた五枚の銅貨があった。
 この裏通りの小さな店がダメなら、もっと大きな通りへ行こう。そこには立派なお店がたくさんある。きっと、誰か一人は話を聞いてくれるはずだ。

 僕は自分を励ますように何度もうなずき、重い足取りで大通りへと向かった。
 大通りは、雨の中でも活気に溢れていた。立派な外套を着た商人、馬車、武装した兵士たち。

 僕は必死に声を張り上げた。

「あの、すみません! このお金で買えるお薬はありませんか? 母さんが、母さんが病気なんです!」

 けれど、誰も僕を見ようとはしなかった。差し出した僕の手は、彼らの高級な衣服を汚すゴミのように避けられた。

「どけ、小僧。商売の邪魔だ」

「獣人のガキが、汚らしい」

 投げかけられる言葉は、雨よりも冷たく僕を刺した。
 それでも僕は歩き続けた。誰かに、この五枚の銅貨を受け取ってほしかった。これが僕にできる、たった一つの、お母さんを救うための「価値」だったから。


 けれど、行く手を安物の軍靴が乱暴に塞いだ。
 街に溢れかえる、食い詰め者の傭兵たちだ。酒と鉄の匂いをさせた男たちが、ニヤニヤと僕を囲み込む。

「おっと、いいもん持ってんじゃねえか。小僧、その銅貨をこっちに寄こせ」

「やめて! これは……お薬を買う大切なお金なんだ!」

 僕は掌を強く握りしめ、胸元に隠そうとした。けれど、男は僕の細い腕を強引に捻り上げた。

「ぐっ……ああ!」

「へっ、必死だな。だが無駄だ」

 男は僕の指を一本ずつ力任せに剥がし、掌から五枚の銅貨をむしり取った。

「返して! 返してよ!」

「薬代? 笑わせんな。死にかけのババアに使うより、俺たちの酒代にする方が世界のためだ。ほら、失せな!」

 男は僕のお腹を、面白半分に蹴り飛ばした。
 泥水の中に顔から突っ込み、僕は激しくむせた。口の中に鉄の味が広がる。
 五枚の銅貨があった掌は、今はもう冷たい泥の感触しか残っていない。

 絶望のせいで視界が歪んで、立ち上がることができなかった。


 その時。

 水飛沫を上げて、銀色の馬車が通りかかった。イザベラ商会の紋章。
 僕は理性を失ったまま這い出し、馬車の前に飛び出した。

「止まって! お願い、助けてください! 薬を、母さんを……!」

 悲鳴のような急ブレーキ。
 開かれた扉から現れたイザベラは、雨に濡れるも気にせず、馬車から降りると僕を見下ろした。その瞳は、ゴミを見るような嫌悪ですらなく、道端に転がる石の硬さを確かめるような、冷たくて透き通った目だった。

「……お金を貸してください。一生かけて、何でもします。だから……!」

「私と取引するのなら、それに見合う『商品』を提示してみせなさい。死にかけている母親、飢えている子供。かわいそうだからと帳簿を汚すのは、私の商売が許さないわ」

 イザベラの声は、雨よりも冷たく鋭く僕を切り裂いた。

「そんな……、お願い、お願いします……!」

 イザベラは、僕の振られている尻尾に合わせて視線を左右に動かしていた女剣士を見ると、一瞬困ったような表情をしたが、すぐに無表情に戻ると言い放った。

「スミレ。行きなさい。時間がもったいないわ」

 スミレと呼ばれた女剣士は、小さく頷くと僕から視線を外し、冷酷に扉を閉めた。
 銀色の車輪が僕のすぐ横の泥を跳ね上げて走り去る。僕は立ち上がることすらできず、冷たい石畳に額を押し付けた。


 そこへ、追い打ちをかけるように聞き覚えのある声が降ってきた。
 同じ長屋に住む女が、空っぽに近い買い物袋を下げて僕を見下ろしていた。

「なんだいアンタこんな場所で大声なんか出して。それにしても、あんたの母親のせいで、うちの壁まで病気が移りそうだよ。家賃も払えてないんだろ? さっさと長屋を出て、どこか外の野原で静かになりな. その方が、アンタのためにも、妹のミーナのためにもいいんだよ」

 言い返す元気も、怒る気力も、すべてあの銀色の馬車が持っていってしまった。
 僕はただ、耳を塞ぐように、その場を振り切って走り出した。どこへ行くのかもわからない。泥に足を取られながら、ただこの世界から消えてしまいたくて、僕は雨の煙る森へと逃げ込んだ。


 樹の根に縋りついて、獣のような声を上げて泣いた。

「……みんな、死んじゃえ」

 誰も助けてくれない。誰も僕を見てくれない。
 そんな僕の頭上に、不意に、影が差した。雨が当たらなくなった。

「……酷いもんだな。こんな小さな子が、ここまで虐げられるなんて」

 温かい、太陽のような声だった。
 見上げると、そこには豪奢な装備に身を包んだ、眩しいほどの笑みを浮かべた男が、傘を差して立っていた。

「俺の名前はガストン。こいつらは仲間たちだ。……大丈夫か坊主、立てるか?」

 男は膝を突き、泥だらけの僕を迷うことなく大きな腕で抱き上げた。その手の温かさに、僕は初めて、自分にも価値があると言ってもらえたような気がした。

 この人たちは、ヒーローだ。
 ようやく見つけた、本物の光。
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