8 / 8
一章
エピローグ
しおりを挟む
工房の窓から差し込む陽光には、もう冬の刺すような冷たさはなかった。
天秤の皿が小さく鳴る。イチロウはいつものように、黙々と目の前の「数字」と向き合っていた。
「最近は、通りも少しは歩きやすくなったな」
カウンターに腰掛けたケインが、革袋を置きながら言った。
かつて街を覆っていた鉄錆の臭いと、焦燥感に満ちた喧騒は、凪いだ海のように静まりつつあった。
「ええ。鉄の価格が安定したのが大きいでしょうね。イザベラさんが供給ラインを一本化したことで、闇業者による貨幣の鋳つぶしも止まった。物価という『数字』が落ち着けば、人はそれほど殺気立ちません」
イチロウは鑑定用のレンズを拭きながら、淡々と答える。
戦争の影響が消えたわけではない。だが、少なくともこの街においては、数字が理不尽な跳ね上がりを見せることはなくなっていた。
その時、工房の扉が必要以上に勢いよく開いた。
「……ふん、相変わらず騒々しい街だ、平民の活気というやつは……。高貴な私の振る舞いを見習って欲しいものだ」
現れたのは、白銀の鎧を纏ったエドワードだった。
かつての豪華な装飾剣は健在だが、よく見れば鎧の隙間のシャツはほつれ、磨き上げられたブーツの底は、歩くたびにパカパカと心もとない音を立てている。
「おや、エドワード様。騎士団への推薦は?」
「断ったのだ! ……いや、厳密には、真の実力で勝ち取るまで『あえて』推薦状を辞退した。私は実家を出て、独り立ちしたのだよ。真の英雄は、親の威光など借りぬものだからな!」
「……要するに、勘当されたってことか?」
ケインの指摘にエドワードの頬が痙攣したが、彼は無視していくつかの小さな魔石をカウンターに叩きつけた。土汚れがこびりつき、あちこちに手荒な打痕がある。
「ついに自力で獲ったぞ、イチロウ殿! さあ、正当な『数字』を提示したまえ!」
イチロウは手際よく寸法を測り、比重を計算して、静かに宣告した。
「……銅貨三枚、といったところですね」
「なっ……!? バカな、一桁間違えているのではないか!」
「取り出す際、力任せに抉り出しましたね? 内部に微細な亀裂が入っています。僕の統計によれば、この状態の魔石は変質が早く、素材として『ただの石ころ』と大差ありません」
エドワードはがっくりと膝をついた。今の彼にとって、銅貨三枚は今夜のスープすら危うい屈辱的な数字だ。
「……ぐぬぬ。やはり私には、才能がないというのか……」
「いえ、単に技術の問題ですよ。ケインさんに解体のコツを教わってはいかがですか? 彼は素材の扱い方を熟知しています」
「平民に!? この私が教えを乞うなど、ロンドベルクの血が許さん!」
「へえ、そりゃ重畳」
ケインが鼻を鳴らし、突き放すように言った。
「俺も貴族のお坊ちゃんに教えてやるほど暇じゃねえ。第一、そのボロボロの石じゃ、教え賃にもならねえだろ」
絶句するエドワードに、イチロウが淡々と言葉を重ねた。
「エドワード様。これは教えを乞うという行為ではありません。未来の騎士伯が、領主として資源管理を現場の専門家から聞き取っている……という、高度な行政事務の予行演習です。数値で見れば明らかですよ。技術を習得すれば、あなたの収益率は300パーセント以上に跳ね上がる。……それともエドワード様は、非効率なまま野垂れ死ぬことを『誇り』と呼ぶのですか?」
「ぎょ、行政事務の……予行演習だと? ……む、むう。あくまで将来のための『聞き取り調査』だぞ! 決して教えを乞うわけではないからな!」
エドワードが必死に自分を納得させようと吠えると、ケインは意地悪く笑った。
「そうかい。ならその調査の第一弾だ。まずはグレーハウンドを五匹、傷をつけずに喉元を一突きで仕留めてこい。……もっともお貴族様に出来ればの話だけどな」
「……言ったな! 見ていろ、夕刻までにはその五匹をここに並べてやる!」
エドワードは踵を返すと、パカパカと鳴るブーツで工房を飛び出していった。その足取りだけは、来た時よりもずっと力強い。
嵐のような男が去った後、入れ替わるように再び扉が開いた。
「こんにちは! イザベラ商会です!」
飛び込んできたのは、狼族の少年、ルカだった。清潔なシャツを着こなし、商会の紋章が入ったカバンを背負っている。
「ルカ。用意はできているよ」
イチロウがカウンターの下から一通の封筒と、小さな紙袋を差し出した。
「最近はどうだい」
「はい! お母さんの病気、お薬のおかげですっかり良くなったんです。今は近所の食堂で元気に働いています。僕は午前中は学校に通わせてもらっているんです。勉強は大変だけど……でも、オーナーに『無知は最大の損失よ』って言われましたから!」
かつて彼を「商品価値がない」と切り捨てた世界は、今、彼にとって「学び、価値を創る場所」へと姿を変えていた。
「あ、いけない。戻らないとオーナーに怒られちゃう。イチロウさん、ありがとうございました!」
走り去っていく背中を見送りながら、ケインがふっと口角を上げた。
「……あいつを拾ったのがあの女狐で、幸いだったのかもな。情けじゃなく、『投資』としてあいつを救った。だから、あいつに負い目を感じさせずに『居場所』を与えることができたんだ」
「彼女らしいやり方ですよ。数字にならない感情も、彼女の手にかかれば確かな利益に変わる」
イチロウは帳簿にペンを走らせる。
死が身近なこの世界で、狂った相場を正し、泥の中の少年に教育という名の武器を与えたのは、神の祈りでも剣の輝きでもなかった。
それは、イチロウが積み上げてきた、冷徹なまでに正確な数字。
そして、それを利用して世界を回す、欲深くも強かな商人の意志だった。
「さて、鑑定を続けましょう。ケインさん、次の魔石は……」
イチロウは再び天秤に向き合う。
明日もまた、新しい数字が生まれる。
天秤の皿が小さく鳴る。イチロウはいつものように、黙々と目の前の「数字」と向き合っていた。
「最近は、通りも少しは歩きやすくなったな」
カウンターに腰掛けたケインが、革袋を置きながら言った。
かつて街を覆っていた鉄錆の臭いと、焦燥感に満ちた喧騒は、凪いだ海のように静まりつつあった。
「ええ。鉄の価格が安定したのが大きいでしょうね。イザベラさんが供給ラインを一本化したことで、闇業者による貨幣の鋳つぶしも止まった。物価という『数字』が落ち着けば、人はそれほど殺気立ちません」
イチロウは鑑定用のレンズを拭きながら、淡々と答える。
戦争の影響が消えたわけではない。だが、少なくともこの街においては、数字が理不尽な跳ね上がりを見せることはなくなっていた。
その時、工房の扉が必要以上に勢いよく開いた。
「……ふん、相変わらず騒々しい街だ、平民の活気というやつは……。高貴な私の振る舞いを見習って欲しいものだ」
現れたのは、白銀の鎧を纏ったエドワードだった。
かつての豪華な装飾剣は健在だが、よく見れば鎧の隙間のシャツはほつれ、磨き上げられたブーツの底は、歩くたびにパカパカと心もとない音を立てている。
「おや、エドワード様。騎士団への推薦は?」
「断ったのだ! ……いや、厳密には、真の実力で勝ち取るまで『あえて』推薦状を辞退した。私は実家を出て、独り立ちしたのだよ。真の英雄は、親の威光など借りぬものだからな!」
「……要するに、勘当されたってことか?」
ケインの指摘にエドワードの頬が痙攣したが、彼は無視していくつかの小さな魔石をカウンターに叩きつけた。土汚れがこびりつき、あちこちに手荒な打痕がある。
「ついに自力で獲ったぞ、イチロウ殿! さあ、正当な『数字』を提示したまえ!」
イチロウは手際よく寸法を測り、比重を計算して、静かに宣告した。
「……銅貨三枚、といったところですね」
「なっ……!? バカな、一桁間違えているのではないか!」
「取り出す際、力任せに抉り出しましたね? 内部に微細な亀裂が入っています。僕の統計によれば、この状態の魔石は変質が早く、素材として『ただの石ころ』と大差ありません」
エドワードはがっくりと膝をついた。今の彼にとって、銅貨三枚は今夜のスープすら危うい屈辱的な数字だ。
「……ぐぬぬ。やはり私には、才能がないというのか……」
「いえ、単に技術の問題ですよ。ケインさんに解体のコツを教わってはいかがですか? 彼は素材の扱い方を熟知しています」
「平民に!? この私が教えを乞うなど、ロンドベルクの血が許さん!」
「へえ、そりゃ重畳」
ケインが鼻を鳴らし、突き放すように言った。
「俺も貴族のお坊ちゃんに教えてやるほど暇じゃねえ。第一、そのボロボロの石じゃ、教え賃にもならねえだろ」
絶句するエドワードに、イチロウが淡々と言葉を重ねた。
「エドワード様。これは教えを乞うという行為ではありません。未来の騎士伯が、領主として資源管理を現場の専門家から聞き取っている……という、高度な行政事務の予行演習です。数値で見れば明らかですよ。技術を習得すれば、あなたの収益率は300パーセント以上に跳ね上がる。……それともエドワード様は、非効率なまま野垂れ死ぬことを『誇り』と呼ぶのですか?」
「ぎょ、行政事務の……予行演習だと? ……む、むう。あくまで将来のための『聞き取り調査』だぞ! 決して教えを乞うわけではないからな!」
エドワードが必死に自分を納得させようと吠えると、ケインは意地悪く笑った。
「そうかい。ならその調査の第一弾だ。まずはグレーハウンドを五匹、傷をつけずに喉元を一突きで仕留めてこい。……もっともお貴族様に出来ればの話だけどな」
「……言ったな! 見ていろ、夕刻までにはその五匹をここに並べてやる!」
エドワードは踵を返すと、パカパカと鳴るブーツで工房を飛び出していった。その足取りだけは、来た時よりもずっと力強い。
嵐のような男が去った後、入れ替わるように再び扉が開いた。
「こんにちは! イザベラ商会です!」
飛び込んできたのは、狼族の少年、ルカだった。清潔なシャツを着こなし、商会の紋章が入ったカバンを背負っている。
「ルカ。用意はできているよ」
イチロウがカウンターの下から一通の封筒と、小さな紙袋を差し出した。
「最近はどうだい」
「はい! お母さんの病気、お薬のおかげですっかり良くなったんです。今は近所の食堂で元気に働いています。僕は午前中は学校に通わせてもらっているんです。勉強は大変だけど……でも、オーナーに『無知は最大の損失よ』って言われましたから!」
かつて彼を「商品価値がない」と切り捨てた世界は、今、彼にとって「学び、価値を創る場所」へと姿を変えていた。
「あ、いけない。戻らないとオーナーに怒られちゃう。イチロウさん、ありがとうございました!」
走り去っていく背中を見送りながら、ケインがふっと口角を上げた。
「……あいつを拾ったのがあの女狐で、幸いだったのかもな。情けじゃなく、『投資』としてあいつを救った。だから、あいつに負い目を感じさせずに『居場所』を与えることができたんだ」
「彼女らしいやり方ですよ。数字にならない感情も、彼女の手にかかれば確かな利益に変わる」
イチロウは帳簿にペンを走らせる。
死が身近なこの世界で、狂った相場を正し、泥の中の少年に教育という名の武器を与えたのは、神の祈りでも剣の輝きでもなかった。
それは、イチロウが積み上げてきた、冷徹なまでに正確な数字。
そして、それを利用して世界を回す、欲深くも強かな商人の意志だった。
「さて、鑑定を続けましょう。ケインさん、次の魔石は……」
イチロウは再び天秤に向き合う。
明日もまた、新しい数字が生まれる。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
無能なので辞めさせていただきます!
サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。
マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。
えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって?
残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、
無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって?
はいはいわかりました。
辞めますよ。
退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。
自分無能なんで、なんにもわかりませんから。
カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)
かのん
恋愛
気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。
わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・
これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。
あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ!
本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。
完結しておりますので、安心してお読みください。
男女比がおかしい世界の貴族に転生してしまった件
美鈴
ファンタジー
転生したのは男性が少ない世界!?貴族に生まれたのはいいけど、どういう風に生きていこう…?
最新章の第五章も夕方18時に更新予定です!
☆の話は苦手な人は飛ばしても問題無い様に物語を紡いでおります。
※ホットランキング1位、ファンタジーランキング3位ありがとうございます!
※カクヨム様にも投稿しております。内容が大幅に異なり改稿しております。
※各種ランキング1位を頂いた事がある作品です!
セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる