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一章
エピローグ
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工房の窓から差し込む陽光には、もう冬の刺すような冷たさはなかった。
天秤の皿が小さく鳴る。イチロウはいつものように、黙々と目の前の「数字」と向き合っていた。
「最近は、通りも少しは歩きやすくなったな」
カウンターに腰掛けたケインが、革袋を置きながら言った。
かつて街を覆っていた鉄錆の臭いと、焦燥感に満ちた喧騒は、凪いだ海のように静まりつつあった。
「ええ。鉄の価格が安定したのが大きいでしょうね。イザベラさんが供給ラインを一本化したことで、闇業者による貨幣の鋳つぶしも止まった。物価という『数字』が落ち着けば、人はそれほど殺気立ちません」
イチロウは鑑定用のレンズを拭きながら、淡々と答える。
戦争の影響が消えたわけではない。だが、少なくともこの街においては、数字が理不尽な跳ね上がりを見せることはなくなっていた。
その時、工房の扉が必要以上に勢いよく開いた。
「……ふん、相変わらず騒々しい街だ、平民の活気というやつは……。高貴な私の振る舞いを見習って欲しいものだ」
現れたのは、白銀の鎧を纏ったエドワードだった。
かつての豪華な装飾剣は健在だが、よく見れば鎧の隙間のシャツはほつれ、磨き上げられたブーツの底は、歩くたびにパカパカと心もとない音を立てている。
「おや、エドワード様。騎士団への推薦は?」
「断ったのだ! ……いや、厳密には、真の実力で勝ち取るまで『あえて』推薦状を辞退した。私は実家を出て、独り立ちしたのだよ。真の英雄は、親の威光など借りぬものだからな!」
「……要するに、勘当されたってことか?」
ケインの指摘にエドワードの頬が痙攣したが、彼は無視していくつかの小さな魔石をカウンターに叩きつけた。土汚れがこびりつき、あちこちに手荒な打痕がある。
「ついに自力で獲ったぞ、イチロウ殿! さあ、正当な『数字』を提示したまえ!」
イチロウは手際よく寸法を測り、比重を計算して、静かに宣告した。
「……銅貨三枚、といったところですね」
「なっ……!? バカな、一桁間違えているのではないか!」
「取り出す際、力任せに抉り出しましたね? 内部に微細な亀裂が入っています。僕の統計によれば、この状態の魔石は変質が早く、素材として『ただの石ころ』と大差ありません」
エドワードはがっくりと膝をついた。今の彼にとって、銅貨三枚は今夜のスープすら危うい屈辱的な数字だ。
「……ぐぬぬ。やはり私には、才能がないというのか……」
「いえ、単に技術の問題ですよ。ケインさんに解体のコツを教わってはいかがですか? 彼は素材の扱い方を熟知しています」
「平民に!? この私が教えを乞うなど、ロンドベルクの血が許さん!」
「へえ、そりゃ重畳」
ケインが鼻を鳴らし、突き放すように言った。
「俺も貴族のお坊ちゃんに教えてやるほど暇じゃねえ。第一、そのボロボロの石じゃ、教え賃にもならねえだろ」
絶句するエドワードに、イチロウが淡々と言葉を重ねた。
「エドワード様。これは教えを乞うという行為ではありません。未来の騎士伯が、領主として資源管理を現場の専門家から聞き取っている……という、高度な行政事務の予行演習です。数値で見れば明らかですよ。技術を習得すれば、あなたの収益率は300パーセント以上に跳ね上がる。……それともエドワード様は、非効率なまま野垂れ死ぬことを『誇り』と呼ぶのですか?」
「ぎょ、行政事務の……予行演習だと? ……む、むう。あくまで将来のための『聞き取り調査』だぞ! 決して教えを乞うわけではないからな!」
エドワードが必死に自分を納得させようと吠えると、ケインは意地悪く笑った。
「そうかい。ならその調査の第一弾だ。まずはグレーハウンドを五匹、傷をつけずに喉元を一突きで仕留めてこい。……もっともお貴族様に出来ればの話だけどな」
「……言ったな! 見ていろ、夕刻までにはその五匹をここに並べてやる!」
エドワードは踵を返すと、パカパカと鳴るブーツで工房を飛び出していった。その足取りだけは、来た時よりもずっと力強い。
嵐のような男が去った後、入れ替わるように再び扉が開いた。
「こんにちは! イザベラ商会です!」
飛び込んできたのは、狼族の少年、ルカだった。清潔なシャツを着こなし、商会の紋章が入ったカバンを背負っている。
「ルカ。用意はできているよ」
イチロウがカウンターの下から一通の封筒と、小さな紙袋を差し出した。
「最近はどうだい」
「はい! お母さんの病気、お薬のおかげですっかり良くなったんです。今は近所の食堂で元気に働いています。僕は午前中は学校に通わせてもらっているんです。勉強は大変だけど……でも、オーナーに『無知は最大の損失よ』って言われましたから!」
かつて彼を「商品価値がない」と切り捨てた世界は、今、彼にとって「学び、価値を創る場所」へと姿を変えていた。
「あ、いけない。戻らないとオーナーに怒られちゃう。イチロウさん、ありがとうございました!」
走り去っていく背中を見送りながら、ケインがふっと口角を上げた。
「……あいつを拾ったのがあの女狐で、幸いだったのかもな。情けじゃなく、『投資』としてあいつを救った。だから、あいつに負い目を感じさせずに『居場所』を与えることができたんだ」
「彼女らしいやり方ですよ。数字にならない感情も、彼女の手にかかれば確かな利益に変わる」
イチロウは帳簿にペンを走らせる。
死が身近なこの世界で、狂った相場を正し、泥の中の少年に教育という名の武器を与えたのは、神の祈りでも剣の輝きでもなかった。
それは、イチロウが積み上げてきた、冷徹なまでに正確な数字。
そして、それを利用して世界を回す、欲深くも強かな商人の意志だった。
「さて、鑑定を続けましょう。ケインさん、次の魔石は……」
イチロウは再び天秤に向き合う。
明日もまた、新しい数字が生まれる。
天秤の皿が小さく鳴る。イチロウはいつものように、黙々と目の前の「数字」と向き合っていた。
「最近は、通りも少しは歩きやすくなったな」
カウンターに腰掛けたケインが、革袋を置きながら言った。
かつて街を覆っていた鉄錆の臭いと、焦燥感に満ちた喧騒は、凪いだ海のように静まりつつあった。
「ええ。鉄の価格が安定したのが大きいでしょうね。イザベラさんが供給ラインを一本化したことで、闇業者による貨幣の鋳つぶしも止まった。物価という『数字』が落ち着けば、人はそれほど殺気立ちません」
イチロウは鑑定用のレンズを拭きながら、淡々と答える。
戦争の影響が消えたわけではない。だが、少なくともこの街においては、数字が理不尽な跳ね上がりを見せることはなくなっていた。
その時、工房の扉が必要以上に勢いよく開いた。
「……ふん、相変わらず騒々しい街だ、平民の活気というやつは……。高貴な私の振る舞いを見習って欲しいものだ」
現れたのは、白銀の鎧を纏ったエドワードだった。
かつての豪華な装飾剣は健在だが、よく見れば鎧の隙間のシャツはほつれ、磨き上げられたブーツの底は、歩くたびにパカパカと心もとない音を立てている。
「おや、エドワード様。騎士団への推薦は?」
「断ったのだ! ……いや、厳密には、真の実力で勝ち取るまで『あえて』推薦状を辞退した。私は実家を出て、独り立ちしたのだよ。真の英雄は、親の威光など借りぬものだからな!」
「……要するに、勘当されたってことか?」
ケインの指摘にエドワードの頬が痙攣したが、彼は無視していくつかの小さな魔石をカウンターに叩きつけた。土汚れがこびりつき、あちこちに手荒な打痕がある。
「ついに自力で獲ったぞ、イチロウ殿! さあ、正当な『数字』を提示したまえ!」
イチロウは手際よく寸法を測り、比重を計算して、静かに宣告した。
「……銅貨三枚、といったところですね」
「なっ……!? バカな、一桁間違えているのではないか!」
「取り出す際、力任せに抉り出しましたね? 内部に微細な亀裂が入っています。僕の統計によれば、この状態の魔石は変質が早く、素材として『ただの石ころ』と大差ありません」
エドワードはがっくりと膝をついた。今の彼にとって、銅貨三枚は今夜のスープすら危うい屈辱的な数字だ。
「……ぐぬぬ。やはり私には、才能がないというのか……」
「いえ、単に技術の問題ですよ。ケインさんに解体のコツを教わってはいかがですか? 彼は素材の扱い方を熟知しています」
「平民に!? この私が教えを乞うなど、ロンドベルクの血が許さん!」
「へえ、そりゃ重畳」
ケインが鼻を鳴らし、突き放すように言った。
「俺も貴族のお坊ちゃんに教えてやるほど暇じゃねえ。第一、そのボロボロの石じゃ、教え賃にもならねえだろ」
絶句するエドワードに、イチロウが淡々と言葉を重ねた。
「エドワード様。これは教えを乞うという行為ではありません。未来の騎士伯が、領主として資源管理を現場の専門家から聞き取っている……という、高度な行政事務の予行演習です。数値で見れば明らかですよ。技術を習得すれば、あなたの収益率は300パーセント以上に跳ね上がる。……それともエドワード様は、非効率なまま野垂れ死ぬことを『誇り』と呼ぶのですか?」
「ぎょ、行政事務の……予行演習だと? ……む、むう。あくまで将来のための『聞き取り調査』だぞ! 決して教えを乞うわけではないからな!」
エドワードが必死に自分を納得させようと吠えると、ケインは意地悪く笑った。
「そうかい。ならその調査の第一弾だ。まずはグレーハウンドを五匹、傷をつけずに喉元を一突きで仕留めてこい。……もっともお貴族様に出来ればの話だけどな」
「……言ったな! 見ていろ、夕刻までにはその五匹をここに並べてやる!」
エドワードは踵を返すと、パカパカと鳴るブーツで工房を飛び出していった。その足取りだけは、来た時よりもずっと力強い。
嵐のような男が去った後、入れ替わるように再び扉が開いた。
「こんにちは! イザベラ商会です!」
飛び込んできたのは、狼族の少年、ルカだった。清潔なシャツを着こなし、商会の紋章が入ったカバンを背負っている。
「ルカ。用意はできているよ」
イチロウがカウンターの下から一通の封筒と、小さな紙袋を差し出した。
「最近はどうだい」
「はい! お母さんの病気、お薬のおかげですっかり良くなったんです。今は近所の食堂で元気に働いています。僕は午前中は学校に通わせてもらっているんです。勉強は大変だけど……でも、オーナーに『無知は最大の損失よ』って言われましたから!」
かつて彼を「商品価値がない」と切り捨てた世界は、今、彼にとって「学び、価値を創る場所」へと姿を変えていた。
「あ、いけない。戻らないとオーナーに怒られちゃう。イチロウさん、ありがとうございました!」
走り去っていく背中を見送りながら、ケインがふっと口角を上げた。
「……あいつを拾ったのがあの女狐で、幸いだったのかもな。情けじゃなく、『投資』としてあいつを救った。だから、あいつに負い目を感じさせずに『居場所』を与えることができたんだ」
「彼女らしいやり方ですよ。数字にならない感情も、彼女の手にかかれば確かな利益に変わる」
イチロウは帳簿にペンを走らせる。
死が身近なこの世界で、狂った相場を正し、泥の中の少年に教育という名の武器を与えたのは、神の祈りでも剣の輝きでもなかった。
それは、イチロウが積み上げてきた、冷徹なまでに正確な数字。
そして、それを利用して世界を回す、欲深くも強かな商人の意志だった。
「さて、鑑定を続けましょう。ケインさん、次の魔石は……」
イチロウは再び天秤に向き合う。
明日もまた、新しい数字が生まれる。
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