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第44話 牝牛ちゃんの涙 俺の涙
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月明かりを頼りに、俺は森に中に足を踏み入れた。
この森を抜ければサキュバスの洞窟へ辿り着く。
木の根に何度も躓きながら、雑草に何度も足を取られながら、それでも俺は牝牛ちゃんたちの無事を祈って走り続けた。
不意に樹林が途絶えて、道一つ挟んだ向こうに、サキュバスの洞窟が現れた。
月影の淡い光の中に、その暗く落ち窪んだ穴は、天国に通じる門のごとく、世の汚れを浄化した清浄な佇まいを見せていた。
一瞬、俺はその佇まいを美しいと思った。
そうだ、一瞬だけ。
それが清浄なる魂の昇華した空間であることに気付いたのは、だいぶ経った後だった。
目端に映った白馬の姿は、俺に悪魔の招来をはっきりと理解させた。
入口付近に、倒れた二頭の牝牛の姿があった。
身体の模様から、それが佳子と阿子であることがわかる。
背中に一文字に走る裂傷があった。
その鮮やかな切り口。勇者がやったのだ。
仲間を守ろうとして斬られたのか。
恐怖に見開かれた二頭の瞳孔は完全に開いており、誰の目にも息絶えているのは明らかだった。
俺は茫然自失の体で洞窟の奥へと進んでいった。
夏子、桃子、良子、希子、信子……。
遺体の数が増えてゆく。
その間を縫うように、サキュバスさんの遺体が点在している。
みんな、勇者に殺されたのだ。
間に合わなかった。
俺の浅慮のせいで、サキュバスさんまで巻き添えにしてしまった。
野郎は……、勇者は俺のバカさ加減まで計算に入れて、魔生物のほぼ完全なる撲滅を達成したのだ。
この先に勇者はいるのだろうか?
既に帰った後なのか?
もし居たら、俺はなにをすればいいのか?
牝牛ちゃんを殺したことを詰るのか? それとも殴りかかるのか?
S級勇者を相手に、そんなことが出来るのか?
俺は無力だ。
歩みが止まった。
その場に屈み込むと、両手で顔を覆ってしまった。
涙を流す気力もなかった。
もう牝牛ちゃんの遺体も、サキュバスさんの遺体も見たくはなかった。
でも……、パトラがそれを許さなかった。
「お願い、牝牛ちゃんを助けてあげて」
そうだ、まだ全頭の遺体を確認したわけじゃねえ。
まだ数頭が生き延びているはずだ。
俺は希望に縋って立ち上がった。
突然、闇の彼方からモォ~という鳴き声が聞こえてきた。
牝牛ちゃん、まだ生きてやがる!
俺は希望を抱いて走り出した。
やがて闇の中から光が射した。
光?
俺は立ち止まった。
光は希望なんかじゃなかった。
光は破滅の象徴だった。
なぜなら、それは勇者の存在を知らしめるものだから。
そこは洞窟の最奥だった。
金の香炉が眩いばかりの輝きを放っている。
その光の帳の中に、勇者がアロンダイトを握り締めて佇んでいた。
その剣尖は怯える牝牛ちゃんの胸に突き付けられていた。
あっ、あれは京子ちゃん!
勇者が楽し気に唇を歪ませた。
「ようやく来たか。だが、もう手遅れだ。目の前の牝牛でニ十四頭目。全滅まで、あと二頭だ」
言いざま、勇者は京子の胸を剣尖で貫いた。
悲鳴はなかった。
鮮血が飛び散り、剣尖が京子の背中から突き抜けた。
見開かれた京子の瞳から生気が消え失せた。
勇者は京子の胸に足をかけると、アロンダイトを引き抜いた。
京子がパタリと横倒しに倒れた。
最後の痙攣と共に、血反吐を吐いて絶命した。
血糊の付いた聖剣を、俺に向けて血振りする。
跳ね飛んだ血が、俺の顔に付着した。
勇者が辺りに視線を流した。
「フン、一頭見当たらないが、まあ、いい。〆て二十五頭。八百万は堅いな。なかなかいい収益だ」
勇者は傍らで震える最後の一頭に剣尖を突き付けた。
あっ、あれは桜子ちゃん!
勇者が勝ち誇った笑みを俺に向けた。
「さあ、救ってみろ。おまえの大切な牝牛を。早くしないと死ぬぞ」
剣尖が桜子の頬をチクリと刺した。
桜子が恐怖に顔を背ける。その頬から一筋の血が滴った。
「フン、臆病者めが。自分の大切なものを守ることもできないのか? 目の前で殺されて、おまえは明日を生きてゆけるのか? おまえに残されるものは後悔だけだ。立ち直ろうなんて思うなよ。その影は一生、おまえにまとわり付く。おまえはステーキハウスの牛の看板を見ただけで、さめざめと涙を流すことになる。確実にな」
勇者が桜子の胸に剣尖を突き付けた。
桜子が救いを求めるように、俺を見た。
その瞳に一杯の涙が溢れ出た。
勇者が白い歯を見せた。
「さあ、よく見ておけ。おまえの大切な牝牛の最期を!」
剣尖が桜子の胸に触れた。
なにを叫んだのかはわからない。
俺は夢中で走った。
目の前の光景が弾けて、視界が淡い光で満たされた。
涙だ。
瞬間、俺の拳が、勇者の頬にのめり込んだ。
あっ、入った。
信じられない光景だった。
勇者の顔が横を向いた。
そのまま長い時間が過ぎたように、俺には感じられた。
勇者の口端から一筋の血が流れた。
白い歯が覗く。
やつは笑っていた。
「とうとうやったな。わたしはこれを待っていたのだ」
野郎が、俺の腕を掴んで捻り上げた。
手首に激痛が走る。
やつの冷酷な眼差しが、俺の目を覗き込む。
「底辺市民がS級勇者に暴力を振るった。--正当防衛成立だ!」
そう叫ぶや、やつの拳が俺の腹にのめり込んだ。
ゲホッ!
口から吐瀉物が溢れ出た。
俺は腹を抱えてうずくまった。
全身が痺れて動けねえ。
「なんだ、もうお終いか? 少し腹を撫でただけなのに」
やつの手が、俺の髪を掴んで持ち上げた。
「底辺の分際で、よくもこのわたしに恥を掻かせてくれたな。償いはしてもらうぞ」
勇者の拳が俺の頬を打った。
口の中が切れて、鉄錆の苦い味がした。
勇者の足が、倒れた俺の頭を容赦なく踏みしだいた。
「おまえにわかるか? わたしの悲しみが、悔しさが。現世でも、異世界でも、底辺でしかなかったおまえに」
「そ、そんなもん、知る訳ねえだろ!」
「ならば知ってもらおうか。わたしが死んだのは十八の時だ。それまでわたしは開難高校でトップの成績を収め、生徒会長も務めていた」
開難高校?
ああ、あそこか。東大進学率NO1の。
ふん、ご苦労なこった。
「文武両道を目指したわたしは、己を鍛えるために、北山流、神崎流、吉山流の剣術道場で鍛錬を積み、いずれの流派でも免許皆伝の資格を得た。剣道でインハイ、国体で優勝した経験もある。因みに段位は最高位の八段だ」
「それがどうした、このクソ野郎が!」
「ふん、わかるまいなぁ、なんの努力もしないクソニートには……。問題はだな、そんなわたしがなぜ死なねばならなかったのか、ということなのだ! なんら見返りを受けずに苦労だけして死んでしまった、ということなのだ! わたしは、わたしは……、母親に恩返しが出来なかった」
やつは静かに足を下すと天を仰いだ。
そして再び俺を見た。
「覚えているか、あの母子家庭の園児を? おまえが声をかけてあげた……。名を美咲ちゃんというのだが」
なに言ってんだ、こいつは……。
俺は無言で睨み返した。
やつの目がふと和んだ。
「同じ母子家庭で育った者として一言礼を述べておく。わたしも声をかけてあげたかったが、性格でね。生憎それが出来なかった。わたしが出来ないことを、おまえが出来ることもあるのだな。いや、感心したよ」
不意に、やつが俺の鳩尾へ拳を打ち下ろした。
ゲホッ!
反射的に、俺の身体がくの字に折れ曲がった。
やつがアロンダイト片手に立ち上がった。
「恩情だ。これ以上、牝牛が死ぬのを見たくはなかろう」
意識が薄れゆく中、怯える桜子に接近するやつの姿が目に映った。
さ、桜子、逃げろ、逃げるんだ!
深手を負っているせいか、その心の叫びが声になることはなかった。
意識が闇の中へ落ちてゆく。
この森を抜ければサキュバスの洞窟へ辿り着く。
木の根に何度も躓きながら、雑草に何度も足を取られながら、それでも俺は牝牛ちゃんたちの無事を祈って走り続けた。
不意に樹林が途絶えて、道一つ挟んだ向こうに、サキュバスの洞窟が現れた。
月影の淡い光の中に、その暗く落ち窪んだ穴は、天国に通じる門のごとく、世の汚れを浄化した清浄な佇まいを見せていた。
一瞬、俺はその佇まいを美しいと思った。
そうだ、一瞬だけ。
それが清浄なる魂の昇華した空間であることに気付いたのは、だいぶ経った後だった。
目端に映った白馬の姿は、俺に悪魔の招来をはっきりと理解させた。
入口付近に、倒れた二頭の牝牛の姿があった。
身体の模様から、それが佳子と阿子であることがわかる。
背中に一文字に走る裂傷があった。
その鮮やかな切り口。勇者がやったのだ。
仲間を守ろうとして斬られたのか。
恐怖に見開かれた二頭の瞳孔は完全に開いており、誰の目にも息絶えているのは明らかだった。
俺は茫然自失の体で洞窟の奥へと進んでいった。
夏子、桃子、良子、希子、信子……。
遺体の数が増えてゆく。
その間を縫うように、サキュバスさんの遺体が点在している。
みんな、勇者に殺されたのだ。
間に合わなかった。
俺の浅慮のせいで、サキュバスさんまで巻き添えにしてしまった。
野郎は……、勇者は俺のバカさ加減まで計算に入れて、魔生物のほぼ完全なる撲滅を達成したのだ。
この先に勇者はいるのだろうか?
既に帰った後なのか?
もし居たら、俺はなにをすればいいのか?
牝牛ちゃんを殺したことを詰るのか? それとも殴りかかるのか?
S級勇者を相手に、そんなことが出来るのか?
俺は無力だ。
歩みが止まった。
その場に屈み込むと、両手で顔を覆ってしまった。
涙を流す気力もなかった。
もう牝牛ちゃんの遺体も、サキュバスさんの遺体も見たくはなかった。
でも……、パトラがそれを許さなかった。
「お願い、牝牛ちゃんを助けてあげて」
そうだ、まだ全頭の遺体を確認したわけじゃねえ。
まだ数頭が生き延びているはずだ。
俺は希望に縋って立ち上がった。
突然、闇の彼方からモォ~という鳴き声が聞こえてきた。
牝牛ちゃん、まだ生きてやがる!
俺は希望を抱いて走り出した。
やがて闇の中から光が射した。
光?
俺は立ち止まった。
光は希望なんかじゃなかった。
光は破滅の象徴だった。
なぜなら、それは勇者の存在を知らしめるものだから。
そこは洞窟の最奥だった。
金の香炉が眩いばかりの輝きを放っている。
その光の帳の中に、勇者がアロンダイトを握り締めて佇んでいた。
その剣尖は怯える牝牛ちゃんの胸に突き付けられていた。
あっ、あれは京子ちゃん!
勇者が楽し気に唇を歪ませた。
「ようやく来たか。だが、もう手遅れだ。目の前の牝牛でニ十四頭目。全滅まで、あと二頭だ」
言いざま、勇者は京子の胸を剣尖で貫いた。
悲鳴はなかった。
鮮血が飛び散り、剣尖が京子の背中から突き抜けた。
見開かれた京子の瞳から生気が消え失せた。
勇者は京子の胸に足をかけると、アロンダイトを引き抜いた。
京子がパタリと横倒しに倒れた。
最後の痙攣と共に、血反吐を吐いて絶命した。
血糊の付いた聖剣を、俺に向けて血振りする。
跳ね飛んだ血が、俺の顔に付着した。
勇者が辺りに視線を流した。
「フン、一頭見当たらないが、まあ、いい。〆て二十五頭。八百万は堅いな。なかなかいい収益だ」
勇者は傍らで震える最後の一頭に剣尖を突き付けた。
あっ、あれは桜子ちゃん!
勇者が勝ち誇った笑みを俺に向けた。
「さあ、救ってみろ。おまえの大切な牝牛を。早くしないと死ぬぞ」
剣尖が桜子の頬をチクリと刺した。
桜子が恐怖に顔を背ける。その頬から一筋の血が滴った。
「フン、臆病者めが。自分の大切なものを守ることもできないのか? 目の前で殺されて、おまえは明日を生きてゆけるのか? おまえに残されるものは後悔だけだ。立ち直ろうなんて思うなよ。その影は一生、おまえにまとわり付く。おまえはステーキハウスの牛の看板を見ただけで、さめざめと涙を流すことになる。確実にな」
勇者が桜子の胸に剣尖を突き付けた。
桜子が救いを求めるように、俺を見た。
その瞳に一杯の涙が溢れ出た。
勇者が白い歯を見せた。
「さあ、よく見ておけ。おまえの大切な牝牛の最期を!」
剣尖が桜子の胸に触れた。
なにを叫んだのかはわからない。
俺は夢中で走った。
目の前の光景が弾けて、視界が淡い光で満たされた。
涙だ。
瞬間、俺の拳が、勇者の頬にのめり込んだ。
あっ、入った。
信じられない光景だった。
勇者の顔が横を向いた。
そのまま長い時間が過ぎたように、俺には感じられた。
勇者の口端から一筋の血が流れた。
白い歯が覗く。
やつは笑っていた。
「とうとうやったな。わたしはこれを待っていたのだ」
野郎が、俺の腕を掴んで捻り上げた。
手首に激痛が走る。
やつの冷酷な眼差しが、俺の目を覗き込む。
「底辺市民がS級勇者に暴力を振るった。--正当防衛成立だ!」
そう叫ぶや、やつの拳が俺の腹にのめり込んだ。
ゲホッ!
口から吐瀉物が溢れ出た。
俺は腹を抱えてうずくまった。
全身が痺れて動けねえ。
「なんだ、もうお終いか? 少し腹を撫でただけなのに」
やつの手が、俺の髪を掴んで持ち上げた。
「底辺の分際で、よくもこのわたしに恥を掻かせてくれたな。償いはしてもらうぞ」
勇者の拳が俺の頬を打った。
口の中が切れて、鉄錆の苦い味がした。
勇者の足が、倒れた俺の頭を容赦なく踏みしだいた。
「おまえにわかるか? わたしの悲しみが、悔しさが。現世でも、異世界でも、底辺でしかなかったおまえに」
「そ、そんなもん、知る訳ねえだろ!」
「ならば知ってもらおうか。わたしが死んだのは十八の時だ。それまでわたしは開難高校でトップの成績を収め、生徒会長も務めていた」
開難高校?
ああ、あそこか。東大進学率NO1の。
ふん、ご苦労なこった。
「文武両道を目指したわたしは、己を鍛えるために、北山流、神崎流、吉山流の剣術道場で鍛錬を積み、いずれの流派でも免許皆伝の資格を得た。剣道でインハイ、国体で優勝した経験もある。因みに段位は最高位の八段だ」
「それがどうした、このクソ野郎が!」
「ふん、わかるまいなぁ、なんの努力もしないクソニートには……。問題はだな、そんなわたしがなぜ死なねばならなかったのか、ということなのだ! なんら見返りを受けずに苦労だけして死んでしまった、ということなのだ! わたしは、わたしは……、母親に恩返しが出来なかった」
やつは静かに足を下すと天を仰いだ。
そして再び俺を見た。
「覚えているか、あの母子家庭の園児を? おまえが声をかけてあげた……。名を美咲ちゃんというのだが」
なに言ってんだ、こいつは……。
俺は無言で睨み返した。
やつの目がふと和んだ。
「同じ母子家庭で育った者として一言礼を述べておく。わたしも声をかけてあげたかったが、性格でね。生憎それが出来なかった。わたしが出来ないことを、おまえが出来ることもあるのだな。いや、感心したよ」
不意に、やつが俺の鳩尾へ拳を打ち下ろした。
ゲホッ!
反射的に、俺の身体がくの字に折れ曲がった。
やつがアロンダイト片手に立ち上がった。
「恩情だ。これ以上、牝牛が死ぬのを見たくはなかろう」
意識が薄れゆく中、怯える桜子に接近するやつの姿が目に映った。
さ、桜子、逃げろ、逃げるんだ!
深手を負っているせいか、その心の叫びが声になることはなかった。
意識が闇の中へ落ちてゆく。
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