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第38話 マリエンバードの肖像

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 あの時、数名の兵士が大尉を押さえ込まなければ、わたしは確実に殺されていた。
 
 モーリス・マリエンバードの唇から苦い笑いが零れた。
 両手で顔を覆っているため、その表情を窺い知ることはできない。
 室内に響く虚ろな笑い声を聴けば、人は愉悦に歪んだ表情を思い浮かべるはずだ。
 顎先から滴り落ちる涙を見れば、人は何と思うのだろう。
 
 そうだ、わたしは悲しいのだ。

 久しく忘れていた感情だ。狂気と憎悪を友とする人間には相応しくない。
 涙に濡れた瞳で、湯気に煙る天井を睨み付けた。
 高ぶる感情を押さえ切れない。
 血の巡礼団ブラッドピルグリムのメンバーとなって三年。それ以前の記憶は努めて忘れるようにしていた。
 少女のテロ行為ですら、反帝国主義を象徴する一つの事件としてのみ記憶した。それは新聞記事を確認する程度の、なんら感傷を伴わぬ記憶だった。
 懐かしく、そして痛ましく蘇ったミンという名前……。
 とうの昔に葬った思い出なのに、今頃になってなぜ?
 そのとき戸口に人影が立った。
 
「ボス、もうすぐ時間だぜ」

 同志アハマド・ヤンシだ。
 五年前のロムル戦争では、ゲリラ組織の英雄として名を馳せた。
 経歴を問えば、立ち所に両手に余るゲリラ組織の名を上げることが出来る。
 愛用のサングラスを片時も外さない。グラサンの聖戦士ムシャビデンと言われる所以ゆえんだ。

「わかりました。すぐに行きます」

 ローマ式風呂で疲れを癒すつもりが、とんだ悪夢を見る羽目になった。
 二千年の昔、ローマ軍の要塞だったパメラ遺跡。
 そこに残された古代のサウナで、かつて大勢の兵士が血臭を洗い落とした。その残滓が浴槽内を漂っているのだ。
 戦死した亡者共は、いつの時代にも血を求め続ける。
 二千年の時を超えて、たぶんこれからも……。

 シャワーを浴びて、祭服キャソックに着替えると、ヤンシを伴って、犠牲祭壇と呼ばれる場所へと急いだ。
 間もなく導師ムッラーハシムの乗ったヘリが到着する。
 頂上のヘリポートまで徒歩で十五分ほど。
 通路が迷路のように入り組んでおり、一人で歩いていると迷子になりかねない。それにエレベーターなどの移動設備もなく、階段を昇降するのも一苦労だ。
 世界遺産に指定された遺跡であり、貧困国の数少ない観光名所でもある。
 なるべく原型を止めておきたいというクルシア政府の意向は尊重しよう。
 犠牲祭壇に人影は疎らだった。
 武装した警備兵が数名いるのみ。
 むろんヘリもまだ到着していない。そして導師を出迎えるはずの我が同志たちの姿も見えなかった。

「ボルボとヒューは?」

 やや苛ついた口調で、不在者の行方をヤンシに問うと、

「イザベラを迎えに行ったぜ」

 イザベラは人質である御曹司を護送するため、ハトバラ中央病院へ向かったはず。それを迎えに行ったということは……。

「そうですか、ヒューはお姉さんの身が心配になりましたか」

 昨日の夕刻、同志アブドラ・シャハが射殺された。
 相手は旅行者ふうの若い女性二人組。アムリアの特殊部隊と判断して間違いなかろう。
 人質一人を奪還されたが、幸い切り札ともいうべき人質は、まだ手元に残されている。
 警戒厳重な施設に人質を移転すべく、さっそくイザベラをやったのだが、どうやらヒューは道中に危険を感じたようだ。
 確かに特殊部隊の襲撃ともなれば、イザベラと数名の部下だけでは心許ない。
 ヒューの直感は的確だ。だが気に入らないことがある。
 
「なぜわたしに無断で出かけました? なぜわたしの指示を仰がなかったのです?」

 ヤンシは噛んでいたアカネ科の葉カートを地面に吐き捨てると、

「ヒューの気紛れは、今に始まったことじゃねえから」

 それっきり口を噤んだ。
 いつも無口でぞんざいな男だが、今日は特にその傾向が強い。
 いったい何が気に入らないのか。
 行動を共にして二年。わたしの前では一度としてサングラスを外したことがなかった。
 白内障を患っているという話だが、果たして事実かどうか。それを知っているのは弟分のハシャだけだ。

 そうか、ハシャか……。

 見ると、ヤンシの頭にはバンダナが巻かれていた。
 生前、ハシャが愛用した遺品だった。
 
 俺と兄貴は本当の兄弟じゃねえんだ。
 
 以前、ハシャから聞いた話だ。
 二人が誘拐されたのは八歳の時、現地のゲリラ組織に引き渡されて、徹底的にゲリラ教育を叩き込まれた。最初の戦闘体験は九才の時、それ以来、お互いを支え合いながら、各地の紛争地帯を渡り歩いた。
 
 でもよ、本当の兄弟より仲がいいんだぜ。なんたって相手を庇って死ねるんだから。
 十四歳の時、ヤンシは敵の銃弾からハシャを庇って重症を負ったという。
 
 今度は俺が兄貴の盾になるんだ。それで死ねりゃ本望さ。
 
 自然に口が弛むのを感じた。
 わたしは傍らのヤンシに慈悲の眼差しを投げかけた。
 
「ハシャのことは気の毒でした。ですが彼も満足でしょう。聖戦士として殉教できたのですから」

 ハシャの人懐こい笑顔を思い浮かべたら、不意に慰藉の言葉が口をついて出た。
 だがヤンシは気に入らなかったようだ。
 
「慰めは結構だ、似非えせ神父さん。人間、いずれは死ぬんだ。戦場にいようといまいと」

 やや語気を荒げて安っぽい死生観を披歴した。するときつく噛み締めた唇から一筋の血が滴り落ちた。
 
「それより頼みがある。義弟をったやつを調べてくれ。そいつは俺の手で殺してやる」
「わかりました。調べましょう」

 異教徒め、わたしを差し置いて勝手な真似はするなよ。
 そのときローターの風を切る音と共に、地平線の彼方からヘリが姿を現した。
 ヘイブ・ローⅣタイプのヘリ。思わず口端が弛んだ。
 アムリア軍の供与品を使用するとは、なんて節操のない。自身はアムリア軍を毛嫌いし、同国の製品を排斥するよう訴えているのだから尚更だ。
 ヘリは強烈な砂塵を舞い上げながら地面に着陸した。
 
「お待ちしておりました」

 ヘリのドアが開いて、白い法衣に身を包んだ男が昇降ステップに足をかけた。
 我らが尊師ハシム師の御登場だ。
 不快な表情を隠しもしない。わたしを一瞥するなり、警護の者を伴って足早に階下へ消えた。

 やはり、あれか……。

 内心舌打ちしつつ、わたしは尊師の後を追いかけた。
 行き先は宝物殿。
 外見は古代の遺跡そのままだが、内部に近代的設備を施し、指揮センターとして使用している。

「お待ちください、尊師」

 宝物殿に続く回廊の中途で、やっと尊師と肩を並べることが出来た。
 やけに歩くのが早い。七十過ぎの御老体のくせに。
 長年、武装派組織の議長を務めてきたバイタリティーは未だ健在のようだ。
 尊師は指揮センターのソファに落ち着くと、ようやく重い口を開いた。
 
「大切な人質に逃げられるとは。まったくドジ踏みおって」
「……」
「それも女の方に逃げられるとは。いったい、おまえたちは何をしていた?」
尊師ムッラー、お言葉ですが、我々にはシンドウJRが残されています。彼さえいれば、秘書がいなくとも、さして交渉に支障があるとは」
「それが大問題なのだ」

 尊師はソファーに深く沈み込むと、太いため息をついた。

「新藤源一郎め、あやつ、自分の孫を見捨ておった」
「……」
「核技術は国家を脅かす軍事機密ゆえ、テロ組織に引き渡すわけにはいかぬと。まあ、当然じゃな」

 予測された返答ではある。ならば人質と身代金を交換するしかないのだが。
 
「尊師、妥協は許されません。我々は当初の目的を完遂すべきです。小型核は絶対に入手すべきです」

 上部組織を統括する導師としては、身代金、もしくは通常兵器との交換もまた良しと考えているようだ。
 だが終末を希求する者に、金など何の意味があろう。
 当然、導師は反発するものと思っていた。交渉が長引けば、アムリア軍との全面戦争も考えられる。国民には徹底抗戦を訴えておきながら、それだけでは避けたいというのが、尊師やクルシア政府首脳の本音なのだ。
 弱腰外交でアムリア連邦と事を構えるとは。呆れて物も言えない。
 尊師が口を歪めて笑った。

「夢を見るのはやめろ。おまえも知っておろうが。天国など、もうどこにもないことを。現実的な選択肢を選ぶことが最上の道であろうが。それを見誤れば、最悪アムリアとの戦争になりかねん。諦めろ」
「……」
「ところであの娘はどうした?」
「あの娘?」
「そうだ、おまえのミスでまんまと逃げられた、あの娘だ」

 名前は確かコニー・エッフェル。
 尊師が満足げに頷いた。

「裏取引じゃ。あの国がテロに屈しないというのは表向きのこと。為政者の身内ともなれば、どんな手を使っても取り戻そうとする」
「信じられませんね。あの娘が新藤JRに勝る人質になるとは。ましてや新型兵器を交換の対象とするとは」
「あるいは人質を救出するための時間稼ぎやもしれぬ。じゃが、この提案を受け入れたのは、新藤源一郎自身なのじゃ」
「ほう、それは意外ですな」

 理解しがたい感覚だ。
 自身の孫より、他人の娘を気遣うとは。

 尊師も軽く頷くと、

「あやつ、他人の娘を事件に巻き込んだことに責任を感じているらしい。フン、奇特な性格じゃて」
「それで新藤JRの方は?」
「軍事機密との交換は出来ぬそうだ。立場上、孫の安全を優先せよとは言えんらしい」

 ハハッ、なるほど、噂通りの厳格な経営者だ。
 自身の社会的な影響を考慮して、本音を封殺したわけだ。

「ならば核ミサイルに匹敵する身代金でも取ってやりますか」

 尊師は意外にもその提案を拒絶した。

「気を付けるがよい。欲に眼が眩むと、両方とも失う羽目になるやもしれん。身代金にせよ、新型兵器にせよ、あの娘が必要なのだ。必ず国境を超える前に確保するのだ。よいな?」

 尊師の傍らに控えたお付きの者が、鞄から数枚の書類を引き出した。
 脱走した女秘書に関する報告書だった。
 ヘリで脱出した形跡はないし、国境沿いに敷いた警戒網に引っかかった形跡もない。
 あるいはまだ国内をうろついているのかもしれない。
 ならば機会は十分にある。
 
「わかりました。必ず捕えましょう」

 わたしは尊師の両肩を抱くと、その干乾びた頬に接吻した。
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