碧春

風まかせ三十郎

文字の大きさ
1 / 11

Ⅰ リーマン×女子高生=今日も電車は痴漢で一杯だ!

しおりを挟む
 窓ガラスに映る顔、顔、顔……。
 目を伏せると、闇に佇む他者の視線をやり過ごす。
 電車がトンネルに入ると、乗客は嫌でも対他存在としての自分を意識せざる負えない。その影は鏡に映らない自己同一性の欠如を見つめる者の胸裏に生起させる。目を閉じている乗客が多いのは、なにも睡眠不足のせいだけではない。
 
 毎朝を満員電車の中で過ごすようになって既に半年が経つ。
 通学する高校は県内でも有名な進学校。朝から晩まで勉強に追われる身にとって、電車内で過ごす三十分は貴重な睡眠時間となる。吊革につかまったまま惰眠を貪る術は、いつしか自然と身に付けていた。
 座席に座ろうなんて努々ゆめゆめ思ってはならない。そこは田舎にマイホームを抱えた、哀れな長距離通勤者の指定席なのだから。
 気分が悪いふうを装い、他人の善意に付け込んで、まんまと座席をせしめた中年サラリーマンがいた。
 席を譲ってもらったとたん、まるで何事もなかったかのように平然と新聞を広げて読み始めたその男を、周囲の乗客はただ呆れたように眺めていた。でもその男の蛮行を咎めだてする者は誰一人としていなかった。
 企業収益が社会倫理に優先するのは時の常。この傲慢な態度こそ、優秀なサラリーマンの証かもしれない。
 そういえばあのオヤジ、ブランド物の背広を着ていたな。

「日本の社会規範というやつは、すべての未成年者をサラリーマンに鋳造するために偏在するのさ。つまりそのオヤジはどのような処世術を身に付ければ出世できるか、未熟な若者に範を垂れたというわけさ。まったく、いいオヤジじゃないか? 学校の授業より余程実践的だぜ」

 相変わらず辛辣な意見だ。八神という男は世間に対して斜に構える癖がある。
 
「満員電車という日常に埋没した光景が、図らずも現代社会の競争原理を具象化したというわけだ。そもそもあの地獄とも形容される超過密現象を当然のごとく受容する精神構造にこそ問題があると思わないか? だってそうだろ? 生活を維持するためなら、どのような慣習でも容認する。大衆が支持すれば総ては正論というわけだ。だがその中にモラルハザードがないなんて、誰が言い切れる? その慣習がすべての個人にとって善だと誰が言い切れる? この社会に偏見や差別が瀰漫びまんしているのは、案外その常識という仕切り屋のせいじゃないかと俺は睨んでるんだ。世の中、それほど利口が多いとは思えないのに、多数決の原理を優先するのは考えもんだな。社会を単一色に糊塗してなにが面白い? 多数決が法なら、そいつはむしろ唾棄すべき法なのさ」

 常識や概念なくして人は動かない、動けない……。
 それはあんたのような怠惰で無責任な人間を増やせってこと?

「おまえも一度、満員電車を拒否してみるんだな。そうすりゃ社会が正と負の因子で相補っていることに気付くはずだ。一方の因子だけで構成された社会は、たとえそれが善の因子であっても均衡を保つことはできないんだ。要は適材適所、個性という断片を社会という枠組みに、パズルのごとくきっちりと嵌め込んでゆくバランス感覚が大切なんだ。まっ、中道の精神ってやつかな。俺のような反体制的な人間ルサンチマンだって、実はちゃんと社会の維持に手を貸しているんだ。俺は皆が嫌う側の因子を請け負っているのさ。言うなれば実入りの少ないブラック企業に就職したようなもんだ。教師や級友はそのところを少しも理解しちゃいない。まったく、ヤレヤレだぜ」

 ふーん、それが遅刻常習犯であるあんたの矜持というわけか。誰の哲学かはしらないが、教理の受け売りは人をアホにするよ。気を付けな。
 
 この場合、慈悲と寛容の精神は友情を紐帯ちゅうたいする上で重要な役割を果たす。皮肉っぽく嗤う八神を、わたしは微笑を以て眺めるだけのゆとりがあった。でもわたしにだって無視できないことがある。悲しいことに、それは思想ではなく行為なのだ。
 
 運の悪いことに、今日に限ってわたしはドアの傍に立っていた。この場所が痴漢の溜まり場であることは若い女性にとって常識だけど、ゆとりのない社会の表象たる空間において、個人の自由意思など顧みられることはない。つまり押し合い圧し合いしているうちに、この場に押し込められてしまったのだ。

「えっ、あんた、まだ経験ないの?」
「うん、ま~ねぇ」

 不純なことを想像してはいけない。むろん痴漢体験のことだ。

「ふーん、あんた、けっこう可愛いのに……。なんか意外よね」
「空手やってるからかしら? あんたって、どことなく構えた雰囲気あるから」
「そうそう、痴漢が寄ってこないのはいいけれど、いい男が寄って来ないのは問題よ」

 かくのごとくわたしの周囲には痴漢の被害に遭った友人で一杯だ。
 未経験者の幸運を誇るのも何となく抵抗があったが、これでわたしも経験者の仲間入り。あの羞恥心よりはむしろ優越感に染まった級友たちの眼差しを意識せずにすむ。と、まあ、くだらない話は抜きにして、取り敢えずこの窮地を切り抜けなければならない。太股に張り付く汗ばんだ掌を、いったいどうあしらえばいいのか……。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

【完結】イケメンが邪魔して本命に告白できません

竹柏凪紗
青春
高校の入学式、芸能コースに通うアイドルでイケメンの如月風磨が普通科で目立たない最上碧衣の教室にやってきた。女子たちがキャーキャー騒ぐなか、風磨は碧衣の肩を抱き寄せ「お前、今日から俺の女な」と宣言する。その真意とウソつきたちによって複雑になっていく2人の結末とは──

初恋♡リベンジャーズ

遊馬友仁
青春
【第五部開始】  高校一年生の春休み直前、クラスメートの紅野アザミに告白し、華々しい玉砕を遂げた黒田竜司は、憂鬱な気持ちのまま、新学期を迎えていた。そんな竜司のクラスに、SNSなどでカリスマ的人気を誇る白草四葉が転入してきた。  眉目秀麗、容姿端麗、美の化身を具現化したような四葉は、性格も明るく、休み時間のたびに、竜司と親友の壮馬に気さくに話しかけてくるのだが――――――。  転入早々、竜司に絡みだす、彼女の真の目的とは!?  ◯ンスタグラム、ユ◯チューブ、◯イッターなどを駆使して繰り広げられる、SNS世代の新感覚復讐系ラブコメディ、ここに開幕!  第二部からは、さらに登場人物たちも増え、コメディ要素が多めとなります(予定)

黒に染まった華を摘む

馬場 蓮実
青春
夏の終わりに転校してきたのは、忘れられない初恋の相手だった——。 高須明希は、人生で“二番目”に好きになった相手——河西栞に密かに想いを寄せている。 「夏休み明けの初日。この席替えで、彼女との距離を縮めたい。話すきっかけがほしい——」 そんな願いを胸に登校したその朝、クラスに一人の転校生がやってくる。 彼女の名は、立石麻美。 昔の面影を残しながらも、まるで別人のような気配をまとう彼女は——明希にとって、忘れられない“初恋の人”だった。 この再会が、静かだった日常に波紋を広げていく。 その日の放課後。 明希は、"性の衝動"に溺れる自身の姿を、麻美に見られてしまう——。 塞がっていた何かが、ゆっくりと崩れはじめる。 そして鬱屈した青春は、想像もしていなかった熱と痛みを帯びて動き出す。 すべてに触れたとき、 明希は何を守り、何を選ぶのか。 光と影が交錯する、“遅れてきた”ひと夏の物語。

不思議な夏休み

廣瀬純七
青春
夏休みの初日に体が入れ替わった四人の高校生の男女が経験した不思議な話

普段高校生ゲーム実況者として活動している俺だが、最近仲良くなりつつあるVTuberが3人とも幼馴染だった件について。

水鳥川倫理
青春
主人公、目黒碧(めぐろあお)は、学校では始業時間になっても現れない遅刻常習犯でありながら、テストでは常に学年トップの高得点を叩き出す「何とも言えないクズ」として教師たちから扱いにくい存在とされている。しかし、彼には誰にも明かせない二つの大きな秘密があった。 一つ目の秘密は、碧が顔を隠し、声を変えて活動する登録者数158万人を誇るカリスマゲーム実況者「椎崎(しいざき)」であること。配信中の彼は、圧倒的なゲームスキルと軽妙なトークでファンを熱狂させ、学校での「クズ」な自分とは真逆の「カリスマ」として存在していた。 二つ目の秘密は、彼が三人の超絶可愛い幼馴染に囲まれて育ったこと。彼らは全員が同じ誕生日で、血の繋がりにも似た特別な絆で結ばれている。 習志野七瀬(ならしのななせ): 陽光のような明るい笑顔が魅力のツンデレ少女。碧には強い独占欲を見せる。 幕張椎名(まくはりしいな): 誰もが息をのむ美貌を持つ生徒会副会長で、完璧な優等生。碧への愛情は深く、重いメンヘラ気質を秘めている。 検見川浜美波(けみがわはまみなみ): クールな外見ながら、碧の前では甘えん坊になるヤンデレ気質の少女。 だが、碧が知らない三重目の秘密として、この三人の幼馴染たちもまた、それぞれが人気VTuberとして活動していたのだ。 七瀬は元気いっぱいのVTuber「神志名鈴香」。 椎名は知的な毒舌VTuber「神楽坂遥」。 美波はクールで真摯なVTuber「雲雀川美桜」。 学校では周囲の視線を気にしながらも、家では遠慮なく甘え、碧の作った料理を囲む四人。彼らは、互いがカリスマ実況者、あるいは人気VTuberという四重の秘密を知らないまま、最も親密で甘い日常を謳歌している。 幼馴染たちは碧の「椎崎」としての姿を尊敬し、美波に至っては碧の声が「椎崎」の声に似ていると感づき始める。この甘くも危険な関係は、一つの些細なきっかけで秘密が交錯した時、一体どのような結末を迎えるのだろうか。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

フラレたばかりのダメヒロインを応援したら修羅場が発生してしまった件

遊馬友仁
青春
校内ぼっちの立花宗重は、クラス委員の上坂部葉月が幼馴染にフラれる場面を目撃してしまう。さらに、葉月の恋敵である転校生・名和リッカの思惑を知った宗重は、葉月に想いを諦めるな、と助言し、叔母のワカ姉やクラスメートの大島睦月たちの協力を得ながら、葉月と幼馴染との仲を取りもつべく行動しはじめる。 一方、宗重と葉月の行動に気付いたリッカは、「私から彼を奪えるもの奪ってみれば?」と、挑発してきた! 宗重の前では、態度を豹変させる転校生の真意は、はたして―――!? ※本作は、2024年に投稿した『負けヒロインに花束を』を大幅にリニューアルした作品です。

処理中です...