死霊術師アンナ・ベルと幸福の庭

雨色銀水

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2.望んでも、月はこの手に落ちてこない

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 アンナ・ベルが『幸福の庭』と呼ぶこの場所は、苔むした邸宅と周囲に存在する庭園で成り立っている。

 庭園の数は四つ。北から時計回りに『歓喜の花園』、『悲嘆の湖畔』、『憤怒の草原』、『哀惜の帳』が存在している、らしい。

 ちなみに僕が目覚めた東屋は『歓喜の花園』の中央にあり、アンナ・ベルのお気に入りの場所だそうだ。それを最初に聞いた時、お気に入りの場所で死者を呼び出す彼女の感性をちょっと疑ってしまったのは、まあ、今は蛇足だろう。

 薄雲が広がる空は、どんよりとした灰色をしている。雨でも降るのかな。ぼんやりと考えながら、僕は視線をゆっくりと前に戻す。

「どうしたのですか、ドゥセル。ぼんやりとしていますね」

 正面には、椅子に腰かけたアンナ・ベルの姿があった。以前と変わらぬ黒いフリルが目立つドレス姿で手には分厚い本を持っている。そして、傍らにはでかくて黒いずんぐりとした鳥――アンナ・ベルはペン・ギンと呼んでいた――を従えていた。

 このでかい鳥、いや、ペン・ギンも死者なのだろうか。骸骨紳士ヴェインもなかなかに愉快な姿をしていたから、こんな変な姿の死者がいてもおかしくはない。

 アンナ・ベルの傍らで日傘を差しているペン・ギンは、僕の視線にも反応を示さない。ただ、つぶらな瞳は確かにこちらを見ているから、認識はされているはずだ。

「ドゥセル?」
「ああ、いや。低い雲が出てきているから、雨が降るかもしれないな、と思ってさ」

 適当な答えを返して、僕はまたペン・ギンを見た。

 古びた邸宅のテラスで、木偶人形の僕と謎のでかい鳥を従え、読書を楽しむ死霊術師の少女。シュールすぎる。僕の姿も大概だが、何なんだこのペン・ギンは。

 ここに来てまだ数日だが、ヴェイン以外の死者を初めて見たせいで余計に気になる。他にも下僕は数人存在しているものの、気配はすれども姿は見えず。ヴェイン曰く、それぞれの仕事をこなしているだけだというが――。

「……」

 気になる。ペン・ギン。何なんだ君は。とはいえ、あまりちらちら見るのも失礼かもしれない。

 視線を無理やりそらし、周囲を何となく眺める。テラスの小さな階段を下りれば、他の庭に続く金属製の門にたどり着く。こちらは南側だから、その先は『憤怒の草原』か。

 しかし門扉はしっかりと閉ざされており、それ以上の光景は見えてこない。邸宅の敷地から外に出るためには、必ずどこかの庭を通ることになるが、どの門も固く閉ざされているようだった。

 そうなると必然的に、僕が行動できる場所は邸宅内に限られてくる。アンナ・ベルが言うには、基本的に命じない限りは何をしていてもいい、そうだが。

「退屈そうですね、ドゥセル?」
「いや、その。……僕にはここでの仕事の割り振りとかないのか」
「仕事が欲しいのですか? 困りましたね。私がしてほしいことは特にないんですよ」
「そうは言うけど、他の人は何かしているみたいじゃないか。ほら、そこの人だって」

 佇むペン・ギンに話を振ると、つぶらな瞳がこちらを見た。だが、どこか冷たいものを含んだまなざしで、丸っこいフォルムに似合わぬ雰囲気を醸し出している。

「ペン・ギンですか? 彼は勝手に自分で仕事を探してきているだけですよ」
「え。じゃ、じゃあ、まさか、仕事が欲しければ自分で探せ、と……?」
「はい、そうです。前も言いましたよね? 私が命じない限り、あなたたちに何か強制することはありません。遊ぶもよし、何もしないのもよし。幸福の庭は、死者にとって満たされたものであってほしいのですよ」

 アンナ・ベルは当然のことのように言い放つ。僕はといえば、本当に困り果ててしまった。

 参った。まさか下僕が何もしなくてもいいなんて。もっとキリキリと働かされるものかと思っていたのに、これでは時間を持て余してしまう。

「本当に仕事はないのか」
「ありません。これまではドゥセルに慣れてもらうため、私のそばについてもらいましたが、これからは自由にしてもらって構いません」
「あ、いや……」

 話は終わり、とでもいうように、アンナ・ベルは手にしていた本を閉じた。そしてゆっくりと立ち上がると、邸宅内へと戻ろうとする。

「お嬢様、お食事はどうなさいますか」

 渋くて低い声が、少女の背中に向けられる。誰の声? 困惑する僕をよそに、でかい鳥がさらに言葉を重ねる。

「たまには温かいものを召し上がってください」
「いらないわ。おいしくないもの」

 無感情に言い捨てて、アンナ・ベルは扉の奥に姿を消す。取り残された僕はぽかんとしてしまった。本当にどうしろというのだろう?

 そんな僕をよそに、渋い声のペン・ギンは後片付けを始める。反射的に手を貸そうとすれば、低い声で遮られた。

「いい。手を出すな。これは俺の仕事だ」
「いや……だけど、僕も何かしたい」
「仕事がしたいなら、食堂にいるマリナ夫人に声をかけてみるんだな。彼女なら何かしら割り振ってくれるだろう」

 短く告げ、ペン・ギンは椅子をたたんで元の場所へと戻す。それきり僕の方を見ることはなかった。

「……、働かざる者、食うべからずではなく。働かなくても食うに困らず、とは」

 僕は思わず呻きを漏らす。死んでもなお、いろいろ悩みがあるというのはどんな皮肉だろう。

 困った。だが、無為に時間を過ごすのは性に合わない。
 僕はペン・ギンの背中に軽く頭を下げる。助言はありがたく受け取らせてもらおう。

 空は薄暗いが、夜まではまだ時間がある。
 僕は食堂へ向かうため、邸宅内への扉をくぐった。

――――
――

 さて。
 ペン・ギンが教えてくれた食堂は、邸宅内の東側に存在している。

 昼間でも薄暗い廊下を抜け、やたらに立派な扉を開けば、すぐに広々とした空間が現れる。

 頭上には煌びやかなクリスタルガラスのシャンデリア。その下には長々とした食卓が置かれ、丁寧に磨かれた銀の燭台が飾られている。

 真っ白なテーブルクロスには染みひとつない。床に敷かれた真紅の絨毯もきれいに整えられ、この場所を管理する何者かのこだわりを感じさせた。

「……誰も、いないのかな」

 扉を閉め、食堂内を見回す。お世辞でも何でもなく、きれいな空間だった。空気がよどんでいたりもしないし、変なにおいもしない。ただ、一つ気になることがあるとすれば。

「ここで誰か食事をするのか? 僕たちはそもそも何も食べなくても困らないんだけど」
「そうなのよねぇ、困ったわぁ!」
「わっ!?」

 唐突に誰かが肩に手を置いた。冷たい手――びくり、と身を震わせ振り返る。するとそこにはお祭りで配られる人型クッキーみたいな姿の、メイド服を着た誰かが立っていた。

「じ、ジンジャーマン……?」
「あらま、失礼な子ね! あたしはマリナよ。ま・り・な! マリナお姉さんって呼んでね?」
「ま、マリナおね……いや、あなたがマリナさんなのか」

 まじまじと見てしまう。ジンジャーマン、ではなく。マリナは、落書きっぽい眉をあげて僕を見返してくる。

「そうよぉ、あら、新入りさんね! 名前を教えてくれるかしら?」
「え、あ。ドゥセルです」
「ドゥセル! 変わったお名前ね! じゃあ、ドゥちゃんね!」
「は、はあ」

 やたらパワフルな感じのジンジャーマン……ではなく、マリナ夫人。

 ペン・ギンが言っていたのはこの人のことだろう。どう探そうか悩んでたところだから、出てきてくれたのはありがたい。

「あの、すみません。マリナさん。実はお願いがあってきたんです」
「あらま! なにかしら? あたしにできることかしら?」

 首をかしげて、マリナは僕を見上げてくる。骸骨とかでかい鳥のあとで見ると、ジンジャーマン姿は愛嬌があって親しみやすい、気がした。

 すんなり聞いてくれそうな雰囲気に、僕は一つうなずくと『お願い』を口にした。

「僕に、何でもいいので仕事をくれませんか?」
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