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第3章
光妃アンナ
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肩で切り揃えられた茶色の髪。
ちょっと生意気そうな、勝気な顔立ちの美少女の黒い瞳が、こちらをきっとにらんでいる。
マックはつかつかとイーゼルに歩み寄り、ひざまずいた。
実に堂の入った、育ちのよさがわかる礼だった
「初めまして、光妃アンナ」
光妃アンナと呼ばれた少女は、マックをちらりと一瞥しただけで何も言わない。
ダーティは、正直いい気持ちがしなかった。
少女のとった態度は、人見知りのそれではなく、マックを下に見た態度の表れだと感じたからだ。
が、当のマックは少女の失礼な態度もどこ吹く風、勝手に話を進めていく。
「光妃アンナ、率直にお伺いいたします」
少女はそっぽを向いたままだ。
「あなたの旦那様、つまり、建国王バルバザンは、どこにいらっしゃいますか?」
「知りませんわ」
少女の答えはそっけない。
が、マックは慇懃な態度を崩さない。
「ご存じないはずがないでしょう」
「知らないと言ったら、知りません」
「むだですよ」
口を挟んだのはリジーだった。肩をすくめて、彼は言う。
「むだですよ。ヨーマさんでもダムクルさんでも、しゃべってくれないんです」
「――なあ」
こっそり、ダーティが耳打ちする。
「うん?」
「さっきから思ってたんだけどさ」
「何だよ」
「この女ってさ、一体誰?」
ぎょっとしたように、マックがダーティを見た。
他の二人も、呆気にとられた表情で、ダーティを見る。
尋ねたのは、カールだった。
「誰って……光妃アンナのこと、知らないのかい?」
悪びれもせず、ダーティは答える。
「うん」
「うん、て! 常識じゃないか!」
大げさなカールの様子に多少気分を害したダーティは、不満げに言った。
「だって本土の歴史なんか、おれの村じゃほとんど習わねえよ」
唇の端をあげ、リジーが嗤う。
「あいかわらず何も知らないんだね。ダーティは」
明らかな侮蔑の入り混じったその言葉に、ダーティではなく、マックの方がかちんときた。
「いや、何も知ろうとしないだけかな?」
やや棘のある声で、マックは言った。
「仕方ないだろう。知らないものは知らないんだから」
リジーは挑発するように言う。
「どうせ今回起こった事件のことだって、何も知らないんでしょう?」
マックは多少、むきになった。
「おれが事件のことを話さなかったんだ」
「……へえ」
話を長引かせる気はない。マックは次の質問に入る。
「おたくに確かめておきたいんだが、彼に逃げられたと気づいたのは、いつだ?」
「復元して三日目だったかな。多分、夜だと思います」
「多分? ずいぶん曖昧な表現だな」
さり気ない嫌みを、リジーはさらりと流す。
「ずっと地下に籠りきりなもので」
今度はカールが部下を擁護した。
「他にも復元を待っている美術品はたくさんあるからね。いまうちで抱えている職人は、リジーの他には、ダムクルだけだし」
「なるほどな」
「な、なあ、マック」
申し訳なさそうに、ダーティがマックの袖を引く。
「何だ?」
多少きつい口調になったかもしれない。情けない顔で、ダーティは尋ねてくる。
「結局、何がどういうこと?」
「――それは」
「この絵ね」
カールが割って入ってくれた。マックは内心胸をなで下ろし、カールに後を譲る。
「この絵のタイトルは、『アンナとバルバザン』。ローリで最近見つかった絵でね。で、こちらの方は光妃アンナ。異世界より降臨し、精霊先史時代を終わらせ、人間の、人間による世を築いた奇跡の少女。言わば英雄よ」
「英雄?」
リジーがふっと笑って、言葉を紡ぐ。
「――むかしむかし」
“名もなき聖霊王”が、神の去ったこの世界に降り立ったとき、この世界で最も力があったのは、動物たちでした。
七色怪鳥コッカトリカス
六頭狼ブルウォング
五首蛇ニョ・ルング
四ツ目馬アイズホーズ
三頭獅子サザンガリオン
二体巨象キン=エレフォン
そして、一角牛バン・ウォーン
力のない人間は、大陸のわずかな土地と、小さな島で暮らすしかなかった。
“名もなき聖霊王”は、彼らを、憐れんだ。
“名もなき聖霊王”は、力なき人間たちに、精霊を与えた。それは生まれながらの契約。死でしか分かたれない、魂の絆。
人間たちは、精霊がもたらした魔術と魔法によって、七体の巨大魔獣を滅ぼし、そして、恩を忘れた。
愚かな人間たちは、“名もなき聖霊王”を、責めた。
なぜ、もっと早く来てくれなかったのか。
なぜ、もっと力を与えてくれないのかと。
“名もなき聖霊王”は、絶望のあまり、消えた。
以来、人は。
神も、精霊も失ってしまったのです……。
「精霊先史時代。またの名を、失われた年表時代」
おとぎ話の不思議な余韻を、カールの声が切った。
「失われた年表時代?」
いまだ夢見心地にいる声で、ダーティは哀愁漂うその言葉を繰り返す。
「その頃のことは、どういうわけか文献にあまり残っていなくてね。スキターニエを建国したアーダベルト一世は最後の精霊憑きだったとも言われてるけど、実際のところ、よくわかってない。まあ、いまのところ、精霊に従属していた人間たちは、その時代を屈辱の時代とみなしたため、意図的に消し去ったのだと言われているけど」
「違います」
光妃アンナが、初めて口を挟んだ。厳しい声と表情で、彼女は言う。
「あの時代、精霊たちはよく人間を助けていました。人間たちも、精霊たちとともにあることに喜びを感じていた。ただ、精霊たちにとっても、人間にとっても、“名も無き聖霊王”が課した契約は、双方にとって不満のあるものでした。わたくしとバルバザンは、それを正すために戦ったのです」
「不満?」
この質問には、マックが答えた。
「精霊たちは、自分たちより遥かに力が劣る人間に従属しなければならないという不満。人間は欲しい能力・属性が得られないと言う不満さ。“名も無き聖霊王”が消えた後も、彼らを縛る鎖は切れなかった。人間が産まれるたびに、精霊たちは人間につき、彼らはともに歩むよりほかなかった」
「そこのあなた」
光妃アンナの目と指が、ダーティに向けられる。思わずダーティも自分を指した。
「へ? おれ?」
「そう、あなたです」
厳しい口調で、アンナは言った。
「あなた。あなただったら、嫌だと思いませんか? 生まれつき結びつく相手が決まっていて、その人に尽くすだけの人生だなんて」
「え? えーっと……」
突然、そんなことを言われても。
なかなか答えないダーティに、なおもアンナは言い募る。
「逆でも嫌じゃありませんか? 自分に一生つきまとう相手を、自分で選べないなんて」
「ま、まあ、それは嫌かも……」
深いことは考えずに、何となくそう答える。
鬼の首をとったように、アンナは叫んだ。
「そうでしょう! わたくしとバルバザンは、人間と、そして精霊の自由のために戦ったのです!」
場が一瞬、しんとした。
「――まあ、それがいいことかどうかは置いといて」
沈黙を破ったのは、マックだった。
「とにかく、この方は五百年以上前、突如として降臨した精霊解放の聖女なのさ」
「そして、精霊先史時代が確かに存在したという証人でもあるわ」
マックの後を引き継いだカールは、次に困った顔になる。
「ところが、この方と一緒に描かれていたこの方の旦那様――建国王バルバザンって言うんだけどね。その人がこの通り、絵から逃げ出しちまって」
「なんで逃げたの?」
うろたえたように、カールは言った。
「それは、ちょっと、身内のヘマでね。うちの工芸員に、ヨーマ・ファインスキィってのがいるんだけど、こいつがうっかり二百年王国のことを口滑らしちゃってね」
「二百年王国?」
この質問には、マックが答えてくれた。
「建国王バルバザンと光妃アンナが作った国で、別名“夜明けの国”。いまのローリ辺りに作られてたって話だ」
「へえ。なんで二百年王国?」
「建国二百年ごろに、常冬の女王の”断絶の冬”で、滅びたとされてるからさ」
「常冬の女王?」
意外なところで、意外な名前が出てきた。
「そう。お前さんの故郷、ジマーに住んでいるとされている精霊の女王様だな」
「……それがなんで、王国を滅ぼしたの?」
「さあ」
困ったように苦笑して、マックは続ける。
「その辺も含めて、やっぱりバルバザンが必要なんだよな。実際、常冬の女王が起こしたとされる“断絶の冬”は大規模な飢饉をそう例えたという見方もあるし」
「へ? そうなの?」
「うん」
二百年王国成立以後は、『正史』を編纂しようという動きがあり、その飢饉ついてもかなり詳しい資料が残っている。推定十万人とされている人口が、一挙に三割減るほどの、ひどい飢饉だったらしい。
「だから、光妃アンナと建国王バルバザンにぜひ、その辺のくだりを教えていただきたいと考えてたんだけどね」
困り顔のカールがアンナを見る。
彼女はそっぽを向いたまま言った。
「存じません。あの女のことなど」
続いて、小さな呟きが聞こえた。
“あの女には、どうしても消えてもらわなきゃ”
(……へ?)
ダーティは思わず光妃アンナを見た。彼女はあいかわらず、すました表情をしている。
(気のせい、かな?)
他の人間には聴こえなかったようだ。
ダーティも気を取り直して、カールの説明に集中する。
「普通、魔法がかかった絵は、本体からは離れられない。さっき、サー・ナイジャルに襲われたとき、彼の肖像画は絵の中に残ってただろ?」
「……確かに」
「逃げるとしたら、本体ごとってのがパターンだから、ヨーマも聞かれるままに、王国がどうなったか話しちまったんだけどね。どうも、リジーの話によるとそうじゃなかったらしい」
「そうじゃなかった?」
リジーが回転椅子ごと振り向いた。
「この絵なんですけど、じつは、描かれていたのは光妃アンナだけだったようなんです」
「? どういうことだ?」
「この絵は光妃アンナの死後、三年をかけて描かれたものです。ですから、この方は正確には光妃アンナその人ではなく、建国王バルバザンの記憶にあるアンナを再現したものです。いわば、精巧なレプリカ」
「……レプリカ」
マックはあらためて、光妃アンナを見る。柔らかな髪、翻るドレス。うっすらピンクに色づいたほほ。どこからどう見ても、生きている人間だ。とても、模造品だとは思えない。
「光妃アンナ、ちょっと失礼」
「! 何をするの?」
マックの手が、彼女の手をとろうとする。彼女が驚いて手を引いてしまったため、その指先を掠めた程度だったが、驚いた。ちゃんと温もりがある。
完璧な存在再現法だ。もともとがこういう絵なのか。
それとも。
「……」
涼しい顔のリジーを見つめる。彼は、完璧な人好きする笑顔で言った。
「何か?」
「いや」
マックは次にカールを見つめ、思った。
(確かに、絵の腕は、同じ年の頃のカールより上かもな)
至宝美術館の美術復元師は世界で最もなるのが困難な職業と言われている。
絵画、彫刻の才能もさることながら、美術品を蘇らせるために必要な魔法論式の体得、そして、復活した魔術・魔法美術品を制圧できる強さ。
館長になる前のカルチェロッタ・リズヴールは、世界一の美術復元師と謳われたものだが、この若者には、それ以上の才能が備わっているということだろうか。
(こんなの、どこで見つけてきたんだか)
何となく胸をざわめかせる不吉さを振り払って、マックは言った。
「光妃アンナのことはわかった。で、建国王バルバザンは? 結局、絵じゃなかったんだろ?」
「ええ。どうやら、彼はこの絵を描かせたあとに、この絵に入り込んだらしいんです」
「絵の中に?」
そいつは珍しい、マックは素直に驚きを露にした。
つれあいを亡くした人間が、二人の肖像画を描かせて眺めることはよくあることだが、実際に絵に入ったという話は聞いたことがない。――というより、物理的にそんなことは不可能だ。
「精霊はもともと精神的な存在。触れられる体があっても、我々とは違う存在ですから」
「――まあな」
精霊の成り立ちは、はっきりと解明されてはいない。おそらく、魔術・魔法の行使ができることを鑑みて、大気中の魔力が何らかの経緯で人格と肉体を携えるようになったという見方が一般的だ。
(精霊の謎を解明する意味でも、やはり、バルバザンの保護は必須か)
あらためて、光妃アンナに尋ねる。
「光妃アンナ。いま一度、伺います。あなたの旦那様は、いま、どこにいらっしゃるのですか?」
青ざめた顔で、光妃アンナは言った。
「存じません」
「光妃アンナ」
「存じませんと言ったら、存じません! ――みんな、出て行って!」
ヒステリックに叫んだ彼女に追い立てられるようにして、ダーティとマックは部屋の外に出た。
二人に続いて部屋を出たカールが、早口で詫びる。
「二人ともすまなかったね」
「いや」
「あー、びっくりした」
ダーティはまだどきどきと高鳴っている心臓を抑えた。
「ずっとあんな調子でね。ほとほと困ってるんだよ」
「バルバザンの行き先について、心当たりは?」
困ったように、カールは言った。
「それがさっぱり」
マックはあごに手をやり、考える。カールは心底すまなさそうな口調で言った。
「あんまり手がかりがなくて申し訳ないけど――。どうにか、建国王バルバザンを探してもらえないかい?」
「えー」
言いながら、ダーティはマックを見る。
(正直、かなり難しいんじゃ……)
マックが顔を上げた。きっぱりと、彼は言った。
「わかった」
「え? ええ!」
マックは断言した。
「心当たりなら、ある」
「え?」
「本当かい?」
ダーティの顔には驚き。カールの顔には喜びが現れる。
マックははっきり言った。
「ジマーだよ」
「ジマー?」
マックはダーティに顔を向ける。
「二百年王国を滅ぼしたのが、本当に常冬の女王だとしたら、お前、会って落とし前つけたいって思わないか?」
「ま、まあ」
「――というわけで、行くぞ」
マックは素早く踵を返す。
「い、行くってどこへ?」
マックはせっかちに言った。
「だから、ジマーだよ」
「へ?」
「へ、じゃねえよ。お前、故郷だろうが。だから、わざわざ今回お前を指名して来てもらったんだよ。道案内頼もうと思って」
「ってことは、あんたは建国王バルバザンの行き先にあらかじめ見当をつけてたってこと?」
尊敬入り混じったカールの言葉に、マックは思いっきり格好つけて言った。
「相手の背景をあらかじめ知っておくのは、戦略と戦術の第一歩だぜ」
(ああ、そういうこと)
つまり、一年前のことなど、何の関係もなかったわけだ。
安堵と納得した上で、ダーティは言った。
「いや、無理」
マックが勢いよくダーティの方を向いた。
「は? 無理?」
「だって、そもそも常冬の女王って、おれ、会ったことないし」
「会ったことなくても、氷宮殿はあるだろ?」
「だから、それが無理なんだって。そもそも雪が溶けてもないのに、魔の三十ダリュコーラインに近づくやつなんかいないよ」
「魔の三十ダリュコーライン?」
首を傾げたマックに、ダーティは説明する。
「冬の間は、事実上通行不能になる、ジマーの縦横両方のラインのことだよ。横が雪の四姉妹山脈(ウラガーン・シチエーリ)に、縦のラインが、常冬の女王が住む氷宮殿に接してるんだ」
「は? でも王立天文台はその向こう、ジマーの最東端だよな」
「うん。けど、春か秋しか兵隊の異動はないから。それに氷宮殿の横通り過ぎてくし」
マックが何とも言えない顔になる。彼は足掻くように言った。
「……でも、あの辺りに村あるって聞いたことあるぜ」
「魔の三十ダリュコーラインを越えるやつって、死にたいやつか、逃げてきたやつなんだよ。そういうやつらが身を寄せ合って暮らしていける場所を、そいつらが勝手に作ってるだけ」
「……お前、意外と危険なところに住んでるんだな」
ダーティが口を尖らせる。
「ほっとけよ」
マックは考えた。
バルバザンが向かった可能性がある以上、行かないという選択肢はない。
「……なあ、ほんとに無理か?」
「うーん」
ダーティはしばらく考える。で、言った。
「まず、絶対に雪が降ってない日で」
「うん」
「次に氷宮殿で暖がとれて、日没までに帰ってこれるなら」
「お前の村から氷宮殿まで、どれくらい?」
「ええっと、大体五ダリュコーくらい。何もなければ二時間もあれば着ける」
「余裕じゃねえか」
憮然としたマックに、「だから」、うんざりしたようにダーティが言った。
「絶対雪が降ってない日って、あの辺りは春過ぎるまでないの。しかも氷宮殿の半径一ダリュコーは、どういうわけか年がら年中、ものすごい吹雪なんだよ。だから常冬の女王が住んでるって言われてるんだけど。夏だって近づけるかどうか微妙なとこだし、運よく氷宮殿に辿り着けたとしても、そこで暖がとれなかったら、絶対凍死する。それ以前に冬から春のジマーって太陽が出てる時間が、一日四、五時間くらいしかないんだよ」
「……まじ?」
「まじ」
マックは腕を組んで、うーんと考え込んでしまった。
ダーティがおずおずと口を開く。
「でも、バルバザンはそこに向かうはずなんだよな?」
「ああ」
「じゃあ、行くしかないよな」
「行くしかない」
ダーティはがっくり肩を落とす。
あの深い雪に分け入る苦労を考えると、行く前から気力が萎えそうだ。
「とにかく、行くぞ!」
半ばやけになって叫んだマックの前を、
「待ちな」
とカールが遮る。
「何だよ」
二人の間に一瞬、険悪な空気が漂った――かに、思えたが。
「せっかくだからさ、二人とも一晩泊まっていきなよ」
「……」
妙に浮き浮きした口調で、カールはちょっと怖いセリフを吐く。
「うちに若い男が泊まるなんて、ひっさしぶっりい」
マックとダーティの顔に、さっと警戒の色が走った。
「……カール」
「いやさ、そのう、何かあることを期待してるわけじゃないけどお。なんて言うかさあ、若い男がいると、家の中の匂いがさあ、違うじゃない?」
ダーティの足が、思わず一歩下がる。
マックの顔に、避けられない戦いに身を投じるかのような緊張が走る。
「……カール」
「なに?」
「おれは反対だ。お前の家に泊まるなんて」
カールが何かを期待する目で言った。
「え? やだ、ひょっとして、あたし、危険?」
そんなたくましい体でしなを作られても。
思わず口元を抑えるダーティ。そして、マックの表情は固いままだ。
「違う」
カールは不満げに口を尖らせる。
「えー。じゃあ、なによう」
とうとう、マックは叫んだ。
「こいつの初めての相手がお前だなんて、悲惨すぎる! 青少年の健全な育成の観点から、おれは断固として反対する!」
「……」
「……えっと」
嬉しいような、嬉しくないような。
部下を守るというその気概は嬉しいが、こんな守られ方は正直嬉しくない。ついでに言うと、時間のロスという観点で反対をすべきじゃないだろうか。
うんざりしたように、カールが言った。
「だからさあ。いくらなんでも、この時間から戻ったら、下手したら魔霊の森で夜を明かさなきゃならないじゃない? そのぼうやがいくらドゥシャーだって、夜の力を得て活発になった魔霊のすべてを避けることは無理よ。命の危機よりは貞操の危機のほうが、まだましじゃない?」
(貞操の危機って何だ!)
ダーティの心の叫びに、答える者はない。二人は、さらに言い争いを続ける。
「いいや、ダメだ。おれは上官として、こいつを五体満足でエルに返す義務がある!」
「大丈夫でしょ。減るもんじゃなし」
「ダメだ。相手がお前だと、何か減る気がする!」
「何かって、何よ」
「目に見えない、大事な何かがだ!」
むすっとした顔で腕組みしたカールだったが、ふと、何かを思いついたような顔になる。
猫なで声で彼女は言った。
「ねえ」
「しつこいな。ダメなものはダメ――」
「三十年ものの、ワインがあるんだけど」
「……なに?」
空気が、変わった。
「な、なあ、マック!」
急いで、ダーティは言う。
「時間がもったいないしさ、今ならギリギリ、魔霊の森、通過できるかも!」
マックが振り向く。彼の顔が、満面の笑みで輝いている。
(うわ)
ダーティの予想が、確信に変わった瞬間だった。
「ダーティ」
「……はい」
マックが、両手をダーティの肩にぽんと置く。
「何も心配はいらない。こう見えてもな、カールは百戦錬磨だ」
何の百戦錬磨なのかは、聞かないことにする。
「大丈夫。きっと痛いことはないから」
ダーティの肩を抱いて、マックは歩き出す。意外と力が強い。振り払えない。
「ちょ、ちょっと!」
「男がいつかは通る道だ! 思いきって行け!」
「行けるかあああ!」
ダーティの悲鳴がこだました。
ちょっと生意気そうな、勝気な顔立ちの美少女の黒い瞳が、こちらをきっとにらんでいる。
マックはつかつかとイーゼルに歩み寄り、ひざまずいた。
実に堂の入った、育ちのよさがわかる礼だった
「初めまして、光妃アンナ」
光妃アンナと呼ばれた少女は、マックをちらりと一瞥しただけで何も言わない。
ダーティは、正直いい気持ちがしなかった。
少女のとった態度は、人見知りのそれではなく、マックを下に見た態度の表れだと感じたからだ。
が、当のマックは少女の失礼な態度もどこ吹く風、勝手に話を進めていく。
「光妃アンナ、率直にお伺いいたします」
少女はそっぽを向いたままだ。
「あなたの旦那様、つまり、建国王バルバザンは、どこにいらっしゃいますか?」
「知りませんわ」
少女の答えはそっけない。
が、マックは慇懃な態度を崩さない。
「ご存じないはずがないでしょう」
「知らないと言ったら、知りません」
「むだですよ」
口を挟んだのはリジーだった。肩をすくめて、彼は言う。
「むだですよ。ヨーマさんでもダムクルさんでも、しゃべってくれないんです」
「――なあ」
こっそり、ダーティが耳打ちする。
「うん?」
「さっきから思ってたんだけどさ」
「何だよ」
「この女ってさ、一体誰?」
ぎょっとしたように、マックがダーティを見た。
他の二人も、呆気にとられた表情で、ダーティを見る。
尋ねたのは、カールだった。
「誰って……光妃アンナのこと、知らないのかい?」
悪びれもせず、ダーティは答える。
「うん」
「うん、て! 常識じゃないか!」
大げさなカールの様子に多少気分を害したダーティは、不満げに言った。
「だって本土の歴史なんか、おれの村じゃほとんど習わねえよ」
唇の端をあげ、リジーが嗤う。
「あいかわらず何も知らないんだね。ダーティは」
明らかな侮蔑の入り混じったその言葉に、ダーティではなく、マックの方がかちんときた。
「いや、何も知ろうとしないだけかな?」
やや棘のある声で、マックは言った。
「仕方ないだろう。知らないものは知らないんだから」
リジーは挑発するように言う。
「どうせ今回起こった事件のことだって、何も知らないんでしょう?」
マックは多少、むきになった。
「おれが事件のことを話さなかったんだ」
「……へえ」
話を長引かせる気はない。マックは次の質問に入る。
「おたくに確かめておきたいんだが、彼に逃げられたと気づいたのは、いつだ?」
「復元して三日目だったかな。多分、夜だと思います」
「多分? ずいぶん曖昧な表現だな」
さり気ない嫌みを、リジーはさらりと流す。
「ずっと地下に籠りきりなもので」
今度はカールが部下を擁護した。
「他にも復元を待っている美術品はたくさんあるからね。いまうちで抱えている職人は、リジーの他には、ダムクルだけだし」
「なるほどな」
「な、なあ、マック」
申し訳なさそうに、ダーティがマックの袖を引く。
「何だ?」
多少きつい口調になったかもしれない。情けない顔で、ダーティは尋ねてくる。
「結局、何がどういうこと?」
「――それは」
「この絵ね」
カールが割って入ってくれた。マックは内心胸をなで下ろし、カールに後を譲る。
「この絵のタイトルは、『アンナとバルバザン』。ローリで最近見つかった絵でね。で、こちらの方は光妃アンナ。異世界より降臨し、精霊先史時代を終わらせ、人間の、人間による世を築いた奇跡の少女。言わば英雄よ」
「英雄?」
リジーがふっと笑って、言葉を紡ぐ。
「――むかしむかし」
“名もなき聖霊王”が、神の去ったこの世界に降り立ったとき、この世界で最も力があったのは、動物たちでした。
七色怪鳥コッカトリカス
六頭狼ブルウォング
五首蛇ニョ・ルング
四ツ目馬アイズホーズ
三頭獅子サザンガリオン
二体巨象キン=エレフォン
そして、一角牛バン・ウォーン
力のない人間は、大陸のわずかな土地と、小さな島で暮らすしかなかった。
“名もなき聖霊王”は、彼らを、憐れんだ。
“名もなき聖霊王”は、力なき人間たちに、精霊を与えた。それは生まれながらの契約。死でしか分かたれない、魂の絆。
人間たちは、精霊がもたらした魔術と魔法によって、七体の巨大魔獣を滅ぼし、そして、恩を忘れた。
愚かな人間たちは、“名もなき聖霊王”を、責めた。
なぜ、もっと早く来てくれなかったのか。
なぜ、もっと力を与えてくれないのかと。
“名もなき聖霊王”は、絶望のあまり、消えた。
以来、人は。
神も、精霊も失ってしまったのです……。
「精霊先史時代。またの名を、失われた年表時代」
おとぎ話の不思議な余韻を、カールの声が切った。
「失われた年表時代?」
いまだ夢見心地にいる声で、ダーティは哀愁漂うその言葉を繰り返す。
「その頃のことは、どういうわけか文献にあまり残っていなくてね。スキターニエを建国したアーダベルト一世は最後の精霊憑きだったとも言われてるけど、実際のところ、よくわかってない。まあ、いまのところ、精霊に従属していた人間たちは、その時代を屈辱の時代とみなしたため、意図的に消し去ったのだと言われているけど」
「違います」
光妃アンナが、初めて口を挟んだ。厳しい声と表情で、彼女は言う。
「あの時代、精霊たちはよく人間を助けていました。人間たちも、精霊たちとともにあることに喜びを感じていた。ただ、精霊たちにとっても、人間にとっても、“名も無き聖霊王”が課した契約は、双方にとって不満のあるものでした。わたくしとバルバザンは、それを正すために戦ったのです」
「不満?」
この質問には、マックが答えた。
「精霊たちは、自分たちより遥かに力が劣る人間に従属しなければならないという不満。人間は欲しい能力・属性が得られないと言う不満さ。“名も無き聖霊王”が消えた後も、彼らを縛る鎖は切れなかった。人間が産まれるたびに、精霊たちは人間につき、彼らはともに歩むよりほかなかった」
「そこのあなた」
光妃アンナの目と指が、ダーティに向けられる。思わずダーティも自分を指した。
「へ? おれ?」
「そう、あなたです」
厳しい口調で、アンナは言った。
「あなた。あなただったら、嫌だと思いませんか? 生まれつき結びつく相手が決まっていて、その人に尽くすだけの人生だなんて」
「え? えーっと……」
突然、そんなことを言われても。
なかなか答えないダーティに、なおもアンナは言い募る。
「逆でも嫌じゃありませんか? 自分に一生つきまとう相手を、自分で選べないなんて」
「ま、まあ、それは嫌かも……」
深いことは考えずに、何となくそう答える。
鬼の首をとったように、アンナは叫んだ。
「そうでしょう! わたくしとバルバザンは、人間と、そして精霊の自由のために戦ったのです!」
場が一瞬、しんとした。
「――まあ、それがいいことかどうかは置いといて」
沈黙を破ったのは、マックだった。
「とにかく、この方は五百年以上前、突如として降臨した精霊解放の聖女なのさ」
「そして、精霊先史時代が確かに存在したという証人でもあるわ」
マックの後を引き継いだカールは、次に困った顔になる。
「ところが、この方と一緒に描かれていたこの方の旦那様――建国王バルバザンって言うんだけどね。その人がこの通り、絵から逃げ出しちまって」
「なんで逃げたの?」
うろたえたように、カールは言った。
「それは、ちょっと、身内のヘマでね。うちの工芸員に、ヨーマ・ファインスキィってのがいるんだけど、こいつがうっかり二百年王国のことを口滑らしちゃってね」
「二百年王国?」
この質問には、マックが答えてくれた。
「建国王バルバザンと光妃アンナが作った国で、別名“夜明けの国”。いまのローリ辺りに作られてたって話だ」
「へえ。なんで二百年王国?」
「建国二百年ごろに、常冬の女王の”断絶の冬”で、滅びたとされてるからさ」
「常冬の女王?」
意外なところで、意外な名前が出てきた。
「そう。お前さんの故郷、ジマーに住んでいるとされている精霊の女王様だな」
「……それがなんで、王国を滅ぼしたの?」
「さあ」
困ったように苦笑して、マックは続ける。
「その辺も含めて、やっぱりバルバザンが必要なんだよな。実際、常冬の女王が起こしたとされる“断絶の冬”は大規模な飢饉をそう例えたという見方もあるし」
「へ? そうなの?」
「うん」
二百年王国成立以後は、『正史』を編纂しようという動きがあり、その飢饉ついてもかなり詳しい資料が残っている。推定十万人とされている人口が、一挙に三割減るほどの、ひどい飢饉だったらしい。
「だから、光妃アンナと建国王バルバザンにぜひ、その辺のくだりを教えていただきたいと考えてたんだけどね」
困り顔のカールがアンナを見る。
彼女はそっぽを向いたまま言った。
「存じません。あの女のことなど」
続いて、小さな呟きが聞こえた。
“あの女には、どうしても消えてもらわなきゃ”
(……へ?)
ダーティは思わず光妃アンナを見た。彼女はあいかわらず、すました表情をしている。
(気のせい、かな?)
他の人間には聴こえなかったようだ。
ダーティも気を取り直して、カールの説明に集中する。
「普通、魔法がかかった絵は、本体からは離れられない。さっき、サー・ナイジャルに襲われたとき、彼の肖像画は絵の中に残ってただろ?」
「……確かに」
「逃げるとしたら、本体ごとってのがパターンだから、ヨーマも聞かれるままに、王国がどうなったか話しちまったんだけどね。どうも、リジーの話によるとそうじゃなかったらしい」
「そうじゃなかった?」
リジーが回転椅子ごと振り向いた。
「この絵なんですけど、じつは、描かれていたのは光妃アンナだけだったようなんです」
「? どういうことだ?」
「この絵は光妃アンナの死後、三年をかけて描かれたものです。ですから、この方は正確には光妃アンナその人ではなく、建国王バルバザンの記憶にあるアンナを再現したものです。いわば、精巧なレプリカ」
「……レプリカ」
マックはあらためて、光妃アンナを見る。柔らかな髪、翻るドレス。うっすらピンクに色づいたほほ。どこからどう見ても、生きている人間だ。とても、模造品だとは思えない。
「光妃アンナ、ちょっと失礼」
「! 何をするの?」
マックの手が、彼女の手をとろうとする。彼女が驚いて手を引いてしまったため、その指先を掠めた程度だったが、驚いた。ちゃんと温もりがある。
完璧な存在再現法だ。もともとがこういう絵なのか。
それとも。
「……」
涼しい顔のリジーを見つめる。彼は、完璧な人好きする笑顔で言った。
「何か?」
「いや」
マックは次にカールを見つめ、思った。
(確かに、絵の腕は、同じ年の頃のカールより上かもな)
至宝美術館の美術復元師は世界で最もなるのが困難な職業と言われている。
絵画、彫刻の才能もさることながら、美術品を蘇らせるために必要な魔法論式の体得、そして、復活した魔術・魔法美術品を制圧できる強さ。
館長になる前のカルチェロッタ・リズヴールは、世界一の美術復元師と謳われたものだが、この若者には、それ以上の才能が備わっているということだろうか。
(こんなの、どこで見つけてきたんだか)
何となく胸をざわめかせる不吉さを振り払って、マックは言った。
「光妃アンナのことはわかった。で、建国王バルバザンは? 結局、絵じゃなかったんだろ?」
「ええ。どうやら、彼はこの絵を描かせたあとに、この絵に入り込んだらしいんです」
「絵の中に?」
そいつは珍しい、マックは素直に驚きを露にした。
つれあいを亡くした人間が、二人の肖像画を描かせて眺めることはよくあることだが、実際に絵に入ったという話は聞いたことがない。――というより、物理的にそんなことは不可能だ。
「精霊はもともと精神的な存在。触れられる体があっても、我々とは違う存在ですから」
「――まあな」
精霊の成り立ちは、はっきりと解明されてはいない。おそらく、魔術・魔法の行使ができることを鑑みて、大気中の魔力が何らかの経緯で人格と肉体を携えるようになったという見方が一般的だ。
(精霊の謎を解明する意味でも、やはり、バルバザンの保護は必須か)
あらためて、光妃アンナに尋ねる。
「光妃アンナ。いま一度、伺います。あなたの旦那様は、いま、どこにいらっしゃるのですか?」
青ざめた顔で、光妃アンナは言った。
「存じません」
「光妃アンナ」
「存じませんと言ったら、存じません! ――みんな、出て行って!」
ヒステリックに叫んだ彼女に追い立てられるようにして、ダーティとマックは部屋の外に出た。
二人に続いて部屋を出たカールが、早口で詫びる。
「二人ともすまなかったね」
「いや」
「あー、びっくりした」
ダーティはまだどきどきと高鳴っている心臓を抑えた。
「ずっとあんな調子でね。ほとほと困ってるんだよ」
「バルバザンの行き先について、心当たりは?」
困ったように、カールは言った。
「それがさっぱり」
マックはあごに手をやり、考える。カールは心底すまなさそうな口調で言った。
「あんまり手がかりがなくて申し訳ないけど――。どうにか、建国王バルバザンを探してもらえないかい?」
「えー」
言いながら、ダーティはマックを見る。
(正直、かなり難しいんじゃ……)
マックが顔を上げた。きっぱりと、彼は言った。
「わかった」
「え? ええ!」
マックは断言した。
「心当たりなら、ある」
「え?」
「本当かい?」
ダーティの顔には驚き。カールの顔には喜びが現れる。
マックははっきり言った。
「ジマーだよ」
「ジマー?」
マックはダーティに顔を向ける。
「二百年王国を滅ぼしたのが、本当に常冬の女王だとしたら、お前、会って落とし前つけたいって思わないか?」
「ま、まあ」
「――というわけで、行くぞ」
マックは素早く踵を返す。
「い、行くってどこへ?」
マックはせっかちに言った。
「だから、ジマーだよ」
「へ?」
「へ、じゃねえよ。お前、故郷だろうが。だから、わざわざ今回お前を指名して来てもらったんだよ。道案内頼もうと思って」
「ってことは、あんたは建国王バルバザンの行き先にあらかじめ見当をつけてたってこと?」
尊敬入り混じったカールの言葉に、マックは思いっきり格好つけて言った。
「相手の背景をあらかじめ知っておくのは、戦略と戦術の第一歩だぜ」
(ああ、そういうこと)
つまり、一年前のことなど、何の関係もなかったわけだ。
安堵と納得した上で、ダーティは言った。
「いや、無理」
マックが勢いよくダーティの方を向いた。
「は? 無理?」
「だって、そもそも常冬の女王って、おれ、会ったことないし」
「会ったことなくても、氷宮殿はあるだろ?」
「だから、それが無理なんだって。そもそも雪が溶けてもないのに、魔の三十ダリュコーラインに近づくやつなんかいないよ」
「魔の三十ダリュコーライン?」
首を傾げたマックに、ダーティは説明する。
「冬の間は、事実上通行不能になる、ジマーの縦横両方のラインのことだよ。横が雪の四姉妹山脈(ウラガーン・シチエーリ)に、縦のラインが、常冬の女王が住む氷宮殿に接してるんだ」
「は? でも王立天文台はその向こう、ジマーの最東端だよな」
「うん。けど、春か秋しか兵隊の異動はないから。それに氷宮殿の横通り過ぎてくし」
マックが何とも言えない顔になる。彼は足掻くように言った。
「……でも、あの辺りに村あるって聞いたことあるぜ」
「魔の三十ダリュコーラインを越えるやつって、死にたいやつか、逃げてきたやつなんだよ。そういうやつらが身を寄せ合って暮らしていける場所を、そいつらが勝手に作ってるだけ」
「……お前、意外と危険なところに住んでるんだな」
ダーティが口を尖らせる。
「ほっとけよ」
マックは考えた。
バルバザンが向かった可能性がある以上、行かないという選択肢はない。
「……なあ、ほんとに無理か?」
「うーん」
ダーティはしばらく考える。で、言った。
「まず、絶対に雪が降ってない日で」
「うん」
「次に氷宮殿で暖がとれて、日没までに帰ってこれるなら」
「お前の村から氷宮殿まで、どれくらい?」
「ええっと、大体五ダリュコーくらい。何もなければ二時間もあれば着ける」
「余裕じゃねえか」
憮然としたマックに、「だから」、うんざりしたようにダーティが言った。
「絶対雪が降ってない日って、あの辺りは春過ぎるまでないの。しかも氷宮殿の半径一ダリュコーは、どういうわけか年がら年中、ものすごい吹雪なんだよ。だから常冬の女王が住んでるって言われてるんだけど。夏だって近づけるかどうか微妙なとこだし、運よく氷宮殿に辿り着けたとしても、そこで暖がとれなかったら、絶対凍死する。それ以前に冬から春のジマーって太陽が出てる時間が、一日四、五時間くらいしかないんだよ」
「……まじ?」
「まじ」
マックは腕を組んで、うーんと考え込んでしまった。
ダーティがおずおずと口を開く。
「でも、バルバザンはそこに向かうはずなんだよな?」
「ああ」
「じゃあ、行くしかないよな」
「行くしかない」
ダーティはがっくり肩を落とす。
あの深い雪に分け入る苦労を考えると、行く前から気力が萎えそうだ。
「とにかく、行くぞ!」
半ばやけになって叫んだマックの前を、
「待ちな」
とカールが遮る。
「何だよ」
二人の間に一瞬、険悪な空気が漂った――かに、思えたが。
「せっかくだからさ、二人とも一晩泊まっていきなよ」
「……」
妙に浮き浮きした口調で、カールはちょっと怖いセリフを吐く。
「うちに若い男が泊まるなんて、ひっさしぶっりい」
マックとダーティの顔に、さっと警戒の色が走った。
「……カール」
「いやさ、そのう、何かあることを期待してるわけじゃないけどお。なんて言うかさあ、若い男がいると、家の中の匂いがさあ、違うじゃない?」
ダーティの足が、思わず一歩下がる。
マックの顔に、避けられない戦いに身を投じるかのような緊張が走る。
「……カール」
「なに?」
「おれは反対だ。お前の家に泊まるなんて」
カールが何かを期待する目で言った。
「え? やだ、ひょっとして、あたし、危険?」
そんなたくましい体でしなを作られても。
思わず口元を抑えるダーティ。そして、マックの表情は固いままだ。
「違う」
カールは不満げに口を尖らせる。
「えー。じゃあ、なによう」
とうとう、マックは叫んだ。
「こいつの初めての相手がお前だなんて、悲惨すぎる! 青少年の健全な育成の観点から、おれは断固として反対する!」
「……」
「……えっと」
嬉しいような、嬉しくないような。
部下を守るというその気概は嬉しいが、こんな守られ方は正直嬉しくない。ついでに言うと、時間のロスという観点で反対をすべきじゃないだろうか。
うんざりしたように、カールが言った。
「だからさあ。いくらなんでも、この時間から戻ったら、下手したら魔霊の森で夜を明かさなきゃならないじゃない? そのぼうやがいくらドゥシャーだって、夜の力を得て活発になった魔霊のすべてを避けることは無理よ。命の危機よりは貞操の危機のほうが、まだましじゃない?」
(貞操の危機って何だ!)
ダーティの心の叫びに、答える者はない。二人は、さらに言い争いを続ける。
「いいや、ダメだ。おれは上官として、こいつを五体満足でエルに返す義務がある!」
「大丈夫でしょ。減るもんじゃなし」
「ダメだ。相手がお前だと、何か減る気がする!」
「何かって、何よ」
「目に見えない、大事な何かがだ!」
むすっとした顔で腕組みしたカールだったが、ふと、何かを思いついたような顔になる。
猫なで声で彼女は言った。
「ねえ」
「しつこいな。ダメなものはダメ――」
「三十年ものの、ワインがあるんだけど」
「……なに?」
空気が、変わった。
「な、なあ、マック!」
急いで、ダーティは言う。
「時間がもったいないしさ、今ならギリギリ、魔霊の森、通過できるかも!」
マックが振り向く。彼の顔が、満面の笑みで輝いている。
(うわ)
ダーティの予想が、確信に変わった瞬間だった。
「ダーティ」
「……はい」
マックが、両手をダーティの肩にぽんと置く。
「何も心配はいらない。こう見えてもな、カールは百戦錬磨だ」
何の百戦錬磨なのかは、聞かないことにする。
「大丈夫。きっと痛いことはないから」
ダーティの肩を抱いて、マックは歩き出す。意外と力が強い。振り払えない。
「ちょ、ちょっと!」
「男がいつかは通る道だ! 思いきって行け!」
「行けるかあああ!」
ダーティの悲鳴がこだました。
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