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不完全な世界の中で
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午前十一時過ぎ。
雨上がりの空は灰色を帯び、湿気が街路を這っている。
舗道にはまだ水滴が残り、木の葉が静かに雫を落としていた。
古びた工務店の引き戸が開くたびに、濡れた空気が緩慢に流れ込む。
「マジかよ。今時ありえねぇだろ。」
苛立った声が店内に響いた。
作業着姿の若い客が財布を探る手を止め、眉をひそめる。
「あっ、すいません。電子マネーには対応してなくて。」
黒川正義はレジ越しに深く頭を下げた。
「もういいや。現金持ってねぇから。」
短い舌打ちとともに、男は背を向ける。
閉まる扉の音が乾いて響き、湿った空気の中でひどく異質な余韻を残した。
その余韻を断ち切るように、鈴が静かに鳴った。
「結束バンドとダクトテープとロープとヤッケと溶剤を。」
声は落ち着き払っていた。
低く滑らかで、どこか響きに芯がある。黒川は顔を上げる。
仕立ての良いスーツを纏った男が、銀の傘を傘立てに差し込んでいる。
長い指が雨粒を払い、無駄のない動作でカウンターへと進んだ。
「あっ、いつもありがとうございます。」
「ええ。」
白崎は柔らかく微笑む。
黒川の目をまっすぐ見ているが、その視線には押し付けがましさはない。
あくまで自然体の礼儀。
どこまでも洗練された振る舞い。
「僕は、こういう店好きですよ。」
「えっ?」
「昔ながらの店って感じで。」
「あっ、あは……。祖父の代からの馴染みのお客様が多くて、すっかり時代に取り残されてしまって。ダメですよね。あっ、お釣り……。」
「いや、結構です。こういう場所は、ちゃんと残っていてくれないと。」
優雅な笑みとともに、白崎の指がレジの釣り銭トレイに軽く触れる。
その仕草は穏やかで、品があった。
だが……。
黒川の胸に、言葉にならないざらついた感覚がかすかに残った。
「……?」
白崎は深く一礼し、扉を押し開く。
雨は止んでいた。
濡れたアスファルトが光を鈍く反射し、靴音だけが密やかに吸い込まれていく。
黒川はしばらく、手元の袋を見下ろしたまま動けずにいた。
結束バンド、ダクトテープ、ロープ、ヤッケ、溶剤。
どれも店では日常的に出る品物だった。
それ自体は、何もおかしくない。
だが、組み合わせとなると話は違う。
以前にも、この男は似たようなものを買っていった気がする。
いや、確かに、何度か。
「白崎、さん……だったか。」
記録を確かめるでもなく、自然と名前が浮かぶのは、奇妙だった。
名刺をもらった記憶もない。
注文の詳細すら伝票には残っていない。
それでも、顔と名前と声だけが、不思議と明確な輪郭をもって脳裏に定着している。
なぜだろう、と黒川は思った。
ほかの客のことは、こうして覚えていない。
何を買ったか、どんな声だったか、支払いは現金かカードか、それすら意識の表層からすぐに消えていく。
だが、白崎だけは違った。
彼の買うものも、所作も、言葉のひとつひとつも。
まるで染みのように記憶にこびりついている。
あの微笑も、釣り銭を断った手の動きも、棚を見回す視線の軌道までもが、忘れようとしても消えてくれない。
違和感。
それは言葉にできないほど微細で、同時に無視できないほど明確だった。
黒川は指先をこすった。
伝票の感触が、妙にざらついて感じられた。
帳簿を締める手が、知らず止まっていた。
雨上がりの空は灰色を帯び、湿気が街路を這っている。
舗道にはまだ水滴が残り、木の葉が静かに雫を落としていた。
古びた工務店の引き戸が開くたびに、濡れた空気が緩慢に流れ込む。
「マジかよ。今時ありえねぇだろ。」
苛立った声が店内に響いた。
作業着姿の若い客が財布を探る手を止め、眉をひそめる。
「あっ、すいません。電子マネーには対応してなくて。」
黒川正義はレジ越しに深く頭を下げた。
「もういいや。現金持ってねぇから。」
短い舌打ちとともに、男は背を向ける。
閉まる扉の音が乾いて響き、湿った空気の中でひどく異質な余韻を残した。
その余韻を断ち切るように、鈴が静かに鳴った。
「結束バンドとダクトテープとロープとヤッケと溶剤を。」
声は落ち着き払っていた。
低く滑らかで、どこか響きに芯がある。黒川は顔を上げる。
仕立ての良いスーツを纏った男が、銀の傘を傘立てに差し込んでいる。
長い指が雨粒を払い、無駄のない動作でカウンターへと進んだ。
「あっ、いつもありがとうございます。」
「ええ。」
白崎は柔らかく微笑む。
黒川の目をまっすぐ見ているが、その視線には押し付けがましさはない。
あくまで自然体の礼儀。
どこまでも洗練された振る舞い。
「僕は、こういう店好きですよ。」
「えっ?」
「昔ながらの店って感じで。」
「あっ、あは……。祖父の代からの馴染みのお客様が多くて、すっかり時代に取り残されてしまって。ダメですよね。あっ、お釣り……。」
「いや、結構です。こういう場所は、ちゃんと残っていてくれないと。」
優雅な笑みとともに、白崎の指がレジの釣り銭トレイに軽く触れる。
その仕草は穏やかで、品があった。
だが……。
黒川の胸に、言葉にならないざらついた感覚がかすかに残った。
「……?」
白崎は深く一礼し、扉を押し開く。
雨は止んでいた。
濡れたアスファルトが光を鈍く反射し、靴音だけが密やかに吸い込まれていく。
黒川はしばらく、手元の袋を見下ろしたまま動けずにいた。
結束バンド、ダクトテープ、ロープ、ヤッケ、溶剤。
どれも店では日常的に出る品物だった。
それ自体は、何もおかしくない。
だが、組み合わせとなると話は違う。
以前にも、この男は似たようなものを買っていった気がする。
いや、確かに、何度か。
「白崎、さん……だったか。」
記録を確かめるでもなく、自然と名前が浮かぶのは、奇妙だった。
名刺をもらった記憶もない。
注文の詳細すら伝票には残っていない。
それでも、顔と名前と声だけが、不思議と明確な輪郭をもって脳裏に定着している。
なぜだろう、と黒川は思った。
ほかの客のことは、こうして覚えていない。
何を買ったか、どんな声だったか、支払いは現金かカードか、それすら意識の表層からすぐに消えていく。
だが、白崎だけは違った。
彼の買うものも、所作も、言葉のひとつひとつも。
まるで染みのように記憶にこびりついている。
あの微笑も、釣り銭を断った手の動きも、棚を見回す視線の軌道までもが、忘れようとしても消えてくれない。
違和感。
それは言葉にできないほど微細で、同時に無視できないほど明確だった。
黒川は指先をこすった。
伝票の感触が、妙にざらついて感じられた。
帳簿を締める手が、知らず止まっていた。
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